こんばんは。最近仏教の勉強を始めて、初めての仏教本を読んでいます。お暇な時に、よかったら教えてください。 ハスノハのお坊様のお話から学ばせていただくうちに仏教は実践重視なのだと何となくわかってきましたが、それでも苦しい時お釈迦様や観音様にお祈りすることもあるだろうと曖昧に考えていました。それが、仏教は神のない宗教と本に書かれていて、私動揺しています。 どうにもならないこともあるけれど、私は何があってもいつも神を拠り所としてきました。その神がいないとどうしても不安になってしまいます。仏教ではブッダの教えを実践して苦しみを減らすから、神に救いを求める考えがもともとないということなのでしょうか。でも、人間は完璧ではないと思うし…苦しい時、お坊様はどうされていますか?
おはようございます。 (*^^*) 私の先生の好きな言葉は 慈眼視衆生です 観音経の一説 観音様はいつも我々を見守ってくださっています。誰も見ていなくても 悪い行いは改めて良い行いを 心掛ける 私くしの 師僧様は 度々 仏心如満月 が好きみたいで よく色々な時にお言葉として 書かれています。 私くしも 色紙に 頂いた言葉です。 皆様が 大切にしている言葉を教えてください 私くしも苦しい時が度々あります。 その際に 色々自身で 学びたいので 、、、
私の祖父が仏教のある宗派を信仰していて、私は小さい頃からたまにお寺に行っています。 しかし、私は昔から神仏や霊など目に見えないものを信じることができず(存在の否定はしませんが)、宗教も文化や芸術として素晴らしいとは思いますがそれ以上のものとしてみることができません。 お寺に通う意味が全く見出せず、正直ただ座ってお経を読むことが苦痛でしかありません。お寺通いをやめたいです。 無理して信徒を続ける必要は無いと思うのですが家族、いつも優しくしてくださる住職をはじめお寺の知り合いとどのように折り合いをつければいいのでしょうか? 仏教を信じる方々を導くお坊さん方にこのような質問は不躾かもしれませんが回答よろしくお願いします。 ちなみに大学生です
パーリ語を勉強し、 パーリ語の仏典で学習した僧侶をご存知でしたらお教え願います。 ※私は中村元氏、増谷文雄氏の本は拝読しております。
こんにちは! 突然ですが、仏教では「子作り」はどういう捉え方をされているのでしょうか? 仏教には「生物の幸せを願おう」「傷つけることはやめよう」という考え方がありますよね。それならば、僕は「子作りは産まれてくる子供を傷つけるということなのではないか?」と思いました。 なぜならば、人生は楽しいこともあるけど嫌なこともあるからです。また、赤ちゃんは泣いて産まれてきますよね。産まれた瞬間から「快」ではないのは確かです。 「明るい家庭を作りたい」と夢見たこともありましたが、「人(子供)が傷つくのか...」と思う自分がいます。考えすぎでしょうか。 そもそも彼女ができたことがないし童貞の自分がこんなことを考えても仕方がないのかもしれませんが(^_^;)、皆さまのご意見をお聞かせ頂けましたら幸いです!
こんにちは。仏教の慈悲について考えていたのですが、迷いました。お暇な時に、教えてくださると助かります。 私は最初、慈悲は愛と同じかな?と思いました。愛とは誰か困っている人を見つけたら自分がしてほしいと思うように相手を扱い助けることだ、と助祭から昔教わったんです。それと似た気持ちかなと思って。でも慈悲について過去の記事を読んでいるうちに、慈悲と愛は違うかもしれないと思うようになりました。仏教では周りの人や生き物と自分が皆繋がっている考えがあると感じたんです。それで、まず慈悲とは共感することなのかなと思いました。でも、共感だけではなくて広い心で人の為に祈るような意味もあるのでしょうか。うまく言えないけれど、憐みみたいな....例えば、自分に敵意を持っている人に対して慈悲の心で接するような表現をどこかで見たのですが、それは相手が自分のやっている悪い事に気がついて正しい道に進めるように祈ることかな、と思ったり。あれこれ考えているうちにわからなくなってきました....。 題とは直接関係ないけれど、今月父の一周忌でお坊様のお祈りと共に納骨されていくのを見届けることができました。普段は全然泣かないのに涙が出てきました。悲しいからではなくて、安心したからだと思います。僧侶とはすばらしいお仕事ですね。とても感謝しています。
いつもお世話になっております。 忍辱行とはどんなお行なのでしょうか?辞書や仏典によると、 「つらいことがあっても耐え忍ぶこと」とあります。 これは危険な目にあっても、たとえばいわゆるイレギュラー な事態、突然の誹謗中傷やその他の犯罪に繋がりうる行為を 受けた場合であろうとその行為を笑って受け入れろ、 ということでしょうか? それとも、その行為を受けることによって高ぶってしまう 自分の感情を落ち着け、落ち着いて距離を取りなさい。 という教えでしょうか? 後者が当てはまるとすれば、 例のお嬢様の件。最近は私が時間をずらし、彼女はしばらく 堂内にいるので接触しないよう待機、 立ち去ったら私は私のお参りに入ります。 ほかには、レストランの入れ込みで不快な会話をしている 一団が隣になってしまい、我慢してそれを聞きづけるのではなく 席を変えていただき、食べ終わって下げてくれたら店員さんに 「お手数をおかけしてしまってすみません。 おいしくいただきました。ごちそうさまです(^^)」 と言ってお支払いをしてお店を出た…とか… いまだにこの点が理解できておりません。お知恵をお貸し いただきたく存じます。よろしくお願いいたします。
つい先程、ペットの金魚が亡くなりました。今日のお祭りで金魚すくいで出逢った子で、 本当に可愛い金魚でした。雑種でオレンジに黒のまだら模様で片方の顔が黒くて眼帯をはめてるような見たことのない金魚でした。 琉金の特徴が一番強く、少し丸くて三尾の可愛い金魚。一週間看病しましたがお昼前に亡くなってしまいました。 昨日まで、元気だったのに。絶対に病気を治すと決めたのに。最初は片方のヒレが動くなり、別のバケツに移し、塩浴させてました。ヒレが白いのと尻尾が切れているのに気がつき、薬を飼いましたが改善しませんでした。結局、水カビ病と尾ぐされ病という病気でした。薬浴中に無くなってしまうことは、あるそうです。早く治してあげたくて、病気の治りが悪いから、私は今回、薬の種類を切り替えでしまいました。小さな金魚にとって薬を切り替えることは死ぬリスクも伴うことは知っていましたが、最初の薬でなかなか治らないのと早く治してあげたくて、薬で治療しているのに後から後から、病気が出てくるので、やもうえず薬を変えました。まさか死ぬなんて。昨日まで元気でした。今日のお昼前に電池が切れるみたいに、ブルッと動いて無くなってしまいました。まさか、死ぬなんて。最初はヒレが動かないだけだったのに。すぐに塩浴したのに。いつもこれで元気になるのに何でって思いました。たったの7ヶ月でしたけど、友達でした。植木の根元に埋めてお線香を上げました。いつまでも泣いてちゃ浮かばれないですよね。ありがとう!って言わないとダメですよね?本当にかわいくて支えで、私がボロボロだったとき、支えになってくれました。ありがとう!っていったあとどうしても、涙が溢れてくるのですが。。。
人間以外の生き物(特に虫など)の命も大切にする考えを教えてください。 私は虫が目につくと大抵すぐ殺してしまいます。今まではそれで何とも思わなかったけど、ハスノハでちょこちょこ過去の相談を参考に勉強させてもらううちに害虫駆除にも気が咎める人もいて、自分の感覚を考え直そうと思いました。 でも、かわいそうだと思う気持ちがわからないっていうか….人間以外の虫とか小さな生き物の命も大切に思う気持ちがわからないんです。動物をいじめたりはしないし犬とかは好きだけど、それでも人間と同じには思えない感じです。 昔お坊様は肉を召し上がらなかったと聞いたことがあるので、基本的に生き物を殺さない考えがあるんだと思います。どうやったらそう考えられるのか教えてください。 精進料理について思い出したこと(こっちの質問はメインでないので気にしないでください) 私の親戚が仏教系の中学校に通っていた頃、修学旅行で自分達はまずい精進料理(失礼)を食べたのにお坊さん達はカツカレーを食べていたとぶうぶう言っていました。責める気がしなくて笑ってしまったけど、本当のとこ今は肉料理大丈夫なのかなってちょっとだけ知りたくなりました。
ハスノハのお坊さんこんばんは!私は去年このサイトと出会って空いている時間があればスマートフォンを開き、様々な質問を眺めているうちに仏教の教えに感銘を受けました。仏教は学ぶことが生きがいになることを知ってから岩波書庫の真理のことば 感興のことばやブッタのことば スッパーニタなどを購入して読み漁っていました。お釈迦様の教えの一つ一つから自分のこれからの人生について考えさせられ、今を生きている命の喜びを実感しました。 私は、大学に入学してから教職の道へ進み将来は教員を目指していましたが途中で人間関係や金銭トラブルで自分を追い込んでしまい、4年の春に自殺未遂を起こしました。精神的にも不安定な状態が続いていましたが、何とか無事に卒業して免許を取得しました。しかし、自殺未遂をした自分の心の傷が癒えることはなく就職活動を全くしていなかったため無内定のまま卒業しましたが、しばらくしてから恩師の方との御縁があって実家に戻り地元で契約社員として就職することができました。 両親には地元の市役所や団体職員などを勧められて試験を受けるも自堕落な生活が続き一次試験落ち。毎日寝る前にはあの自殺未遂をする以前に戻って大学生活をやり直したい。教職の道には進まずに首都圏で就職すればよかったと現実逃避して苦悶しながら同級生から遅れを取っている今の自分を変えたいと葛藤しているうちにこのハスノハと巡り合い、仏教と出会うことができました。とても有り難い御縁です。何を人生の目標にしたらいいのか分からず、そのために何を学べばいいのか分からず何となく過ごしていた私に一歩を踏み出す勇気をいただきました。 お坊さん、私は上京して冠婚葬祭の仕事に就きたいと考えています。かつては将来に希望が持てませんでしたが、今は仏教の教えのおかげで強く前向きに物事を考えられるようになりました。この先の人生で辛いことや苦しいことがあっても自分のありのままをさらけ出して生きていこうと思います。 どうか、挫折から立ち上がって道を切り開こうとしている私に何かアドバイスをいただけないでしょうか。お願いします。
おはようございます。先日、父の仏壇の部屋と居間での供養について教えていただいた者です。あれから、亡くなった人が成仏することについて考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。お暇な時に教えてくださると助かります。 私は今まで、亡くなった父は天国に行ったと思っていました。時々仏壇やお墓のような祈りの場に降りて来るのかな....とも思っていました。 ハスノハに入ったのがきっかけで、成仏という字の意味を考えてそれは仏に成ることだと考えるようになりました。そうか、父は仏さまになるんだ....と思ったけれど、いざ祈ると自分の心の中に生前の人柄のままの父がいて仏さまになった父は想像がつかなくて、今まで仏壇の前で「ねえお父さん」と普通に呼んでいました。もしかしてとても失礼なことをしていたかもしれないですが、仏壇には仏像の絵があり、神様が祀られているんだろうと思いながらもよくわからなくて父にだけお祈りしていました。 本当は、深く考えないで父が安らかでいてくれれば仏でも何でもなっていていいのですが(不謹慎だったらごめんなさい)、亡くなった人の成仏とはどういうことか考え始めたからには知りたいです。でも私にとってはとても難しい部分なので、仏教初心者向けに教えてください。お願いします。
私は、神仏の存在が信じられません。 遺伝性の疾患も抱えており、仕事をすることもままならず、結婚・出産と言ったこともすっかり諦めています。 人生のターニングポイントでの決断はことごとく失敗。 ついてないとしか考えられません。 ですので、人生に対して幸せや感謝と言った感情も抱くことができません。 先祖に対しても、素直に受け入れることができないばかりか、ある種の憎しみに近い感情を抱いてしまっています。 親子の仲も良好とは言えない状況です。 本当に神仏が存在しているのであれば、もっと他人と平等な生活を送れるようにしてくれても良いのではないかと思ってしまい、 どうしても受け入れることができません。 他人からは、神仏を信じない、先祖を大切にしないから、不運が続くのだと言われます。 どのように神仏と向き合うべきなのでしょうか。 ご教授いただけましたら、幸いです。 よろしくお願いいたします。
こんにちは。 これは自分とその周囲だけでなく、世の中全体についての質問です。 私はたくさんの善い人を見てきました。暑い(寒い)中で道のゴミを拾い、掃除しながらも笑顔で挨拶を返してくれる方。突然の雨で服屋の店先で雨宿りをしていた時に傘を貸そうとしてくれた服屋の店員の方。外出先でトラブルにあったときカタコトの日本語で懸命に助けてくれて笑顔で手を振って去っていった外国人の方。彼らには思い出すたびに心から感謝できます。どのような縁かは分かりませんが彼らのような善人に度々会ってきました。 一方で、他人を平気で騙し、脅し、傷つけ、奪い、それでいて自身が傷つけば善良な被害者のようにふるまう人間が多くなっているように思えます。思い込みであるかもしれませんが、善い人よりもこのような悪人(と思える人)が金を得、地位を得ているように感じます。例えば、詐欺師は人を騙して金を得、のうのうと暮らしています。横暴な人は気の弱い人を力で脅して無理やり従わせようとします。自身の我が侭を言いたいだけ言って周囲の人のことを考えない人といます。あげく、騙されるのが弱いのが文句を言われる方が悪いとまで言われることもあります。 仏様はいつも黙して見ていらっしゃるように思えますが、私は善い人よりも悪人が得をするようなことが納得できません。これは善人の試練とでもいうのでしょうか…。仏様やお坊さまはどのように考えますか?日々どのような視点で人を見ていらっしゃるのですか?
毎朝、自宅の神棚に手を合わせ、インドネシアのガムランボールでお払いをし、キリストキリスト教会で聖書を学び、仏教も学ぼうとしている、多神教のような中途半端なのですが、神様に頼るから手を合わせるのですが、神様はいるのだろうか、全員の祈りが聞き届けられたら、矛盾が生じるとも考えてしまうことがあります。 仏教から見たキリスト教の率直な考えをお聞かせください。
いつもお世話になっております。 自分は業というものについては、何か元々持って生まれてきた運命とか前世の行いからとか漠然と考えておりました。 最近は仏教に関しまして少しずつ知識を深めている中、少し違うのかなと思い始めました。 業というものは、自分のしてきた罪深い行いが苦しみとなり、気付けば体に芯のように刺さり背負っているのかな、と思いました。 ここ数年、一年一年、毎日毎日、それが深くなっていっています。 過去には戻れない。 したことは変えることができない。 業というものはこの先も永遠に抱えていくものなのでしょうか。 業については、このような解釈でよろしいのでしょうか。 お教えいただければ幸いです、 どうぞよろしくお願いいたします。
浄土宗○○派というのが沢山あってどう違うのかわかりません。何を基準に選ぶものなんでしょうか?
こんにちは、いつも楽しく拝見しております。 お釈迦様の話について一つ質問です。 お釈迦様は、お釈迦様の前で悪態をついて罵られた言葉を、一つとして受け取らなかった、というお話がありますよね。 罵りや悪口、批判の言葉は、受け取らなければ、その言葉を言った人のものになる。 この考え方はとても良いなと思っておりまして、実践したいなと常々思っています。 ところが、つい先日、親族から、要約すると「あなたのやり方では駄目よ!」と嫌な批判を言われてしまいました。 そのやり方は、その時の親族には心配させまいと言っていない事情があったことや…私がその方法をする上で、過去親族本人から了承を得ていたことを、おそらく忘れていることがあるのも気づいていながら… 心から「受け取りたくない批判だ」と思い、でもあまり口には出さず、その時はそうかーそうなのー、とだけふんわりと抑えて堪えました。 そしてさっさと忘れて過去より現在のことを考えようとしても、つい心にモヤモヤと、その言葉が刺さったままになってしまいます。 お釈迦様のように、「相手の言葉を受け取らない」とするには実際にはどうしたらよかったのでしょうか。 いざ実践としたときの、「嫌な言葉を受け取らない方法」は、私のやり方は無意識に受け取ってしまったのでは、と後程ふと思い、方法がどうもわからなくなってしまいました。 経験豊かな皆さんが具体的に実施されていることなど、ありますでしょうか。
私は数年前から仏教や仏像に興味を持ち始め、今では神社やお寺を巡り歩くことが趣味になりました。暇さえあればお釈迦様の話や仏教の神様について調べています。 しかしまだまだ知識が浅く理解しきれないことも沢山あります。 そこで仏教の教えやお話、名言や格言などなんでもいいので教えて頂けませんでしょうか。 自分は情けないことにとても打たれ弱く、すぐに落ち込んだり小さなことにくよくよしていつまでも引きずってしまうのです。 そんな時に勇気ややる気が出る言葉や、自分に喝を入れられるような教えなどを少しでも知っていればつらいことがあっても乗り越えられる気がするのです。 本当に無知で軟弱な私ですが、どうかよろしくお願いいたします。
仏教に帰依するとは、いったいどーゆー意味ですか?
広島在住で、いわゆる安芸門徒と呼ばれている地域の者です。 葬儀と言えば導師による読経の後、定番となっている《白骨の御文章》の拝読があります。 拝聴している遺族、縁者にはこの御文章の言葉ひとつひとつが重く胸に突き刺さり 感極まって涙する姿は参列者の心をも締め付けるものがあります。 そこで以前から私には一つの疑問がありました。 法話を聴聞する為にお寺参りをした折、読経後に住職あるいは講師としてお招きした僧侶による御文章拝読がありますが この御文章は数ある章の中から日替わりで読まれている様です。 しかし なぜか私の地域では《白骨の章》にだけは巡り合う事が殆どありません。 普段のお勤めの祭には意識的に避けて、葬式の時に用いる切り札として温存している様にさえ思えるのです。 (もし、他の地域あるいは他宗派では違うのであればごめんなさい) その理由として お寺参りと言えばどちらかと言えば余生短し老人が多いので 死を意識させる話題には触れないでおこう。 そして葬式に限り《白骨の章》で締めれば無難であろうといった僧侶の方々の思惑が働いているのでしょうか? “人の死 ” というものは日常においては誰だって考えたくはないし、忌み嫌われる事はわかりますが 死 という事ほど絶対的に決まっていることはありません。 なので 子供のうちから葬式以外の日常の中で《白骨の章》を耳にするチャンスをたくさん頂くとか 御文章に綴られた深い意味に気付かせて頂く機会が多い生活を送ることは決して悪いことではないと考えるのです。 いつか必ず自分の番が回ってくる死に対しては 若くて元気な時から真剣に考えておかなければならない大切な事だと思うのです。 そうすることが 今の人生を真面目に正しく生き抜く力になるのではないでしょうか。 とは申しましても 現実問題として 住職様の立場から言えば「お寺参りの度に《白骨の御文章》を聞かされたのではたまったものじゃない!」と門徒の方から批判を受け、お困りになるかも知れませんが 私の様な考を理解して頂ける方はおられないものでしょうか? また《白骨の章》を敬遠しないで日々の暮らしの中に活かせる良い工夫があれば お聞かせ頂きたいと思います。