空についての理解
2回目のご質問になります。前回も真摯なご回答を
ありがとうございました。
尚、今回のご質問も優先ではありませんので、深刻な
ご相談を優先させて下さい。
仏教を学ぶ上で「空」の概念が定まりませんので、
ご教示頂ければ幸いです。
世俗諦としての表現でしか質問できませんので、
質問の意味も理解されるのか心配でもあります。
これまでの仏教の学習から、全ての物事は「現象」
であり、その瞬間の状態であり続ける「実体」は
なく、全て川のように流れていくものだと理解し
ました。=無常・無我
→この理解で正しいでしょうか?
物事が「ある」でもなければ「ない」でもない。=空?
この意味が正直、理解に苦しんでいます。
「空」(から)という世俗諦としての言葉のイメージ
だと、「からっぽ」のように感じます。
でも、何もないと定義すると六根センサが何も作動
しないと思います。
「見えた」「聞こえた」・・・は、実際にあります。
私の理解したことは、
全ての物は「地水火風」の構成のされ方で、現象
としての現れ方が異なる。
→物質、人、動物、植物・・等々
全ての物は、エネルギーと言えるのではと、感じました。
エネルギーという表現が適切かわかりませんが。
物質には、質量というエネルギーがある。
生命にも質量もありますが、心があり、生存欲求や色々
な欲求がある。これらをエネルギーと表現しました。
このエネルギーが他のエネルギーとぶつかりあって変化
を生み、因果法則によって、現象として常に変化し続ける。
物質も空気に触れ、物質と空気のエネルギーのぶつかり
合いで酸化し、そのもの自体も変化し続ける。
自分の心(本当は自分という実体はないのでしょうが)も
六境が六根センサにぶつかり、物事を認識し(エネルギー
がぶつかる瞬間)、六識で心が何らかの反応をする。
ぶつかるという表現より影響し合う方が適切かも
しれません。
ですから、「空」とは、ある/ない(虚無)ではなく、
あるエネルギーが他のエネルギーとぶつかり(影響)、
因果法則によって変化し続ける現象と理解するのは
誤りでしょうか?
空=無常=無我と感じられます。
以上、初歩的な質問で恐縮ですが、宜しくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ここがスッキリすると楽しくなってくるのです、が…
はい、空は「から」や「有る/無い」ではありません。それは六師外道の論点です。空にしても無にしても、「自分という境界線が無い=全」くらいに捉えましょう。より厳密には「全も個も自由自在」です。
グーグルマップを拡大縮小するイメージです。お寺を拡大すると本堂、山門、駐車場というように個々の建物です。これを縮小していくと、〇〇町になり、〇〇市になり、〇〇県になり、やがて日本列島、地球になります。この拡大縮小が自由自在なさまが「個であり全である」=「有るとも無いとも言える(本堂は無い、地球だ、とも言える)」=「色即是空、空即是色」です
さて、空の大流行前のトレンドは「分けることで理解した(分かった)」とする仏教(五位七十五法)でした。六根六境六識も全部分類し、ことごとく列挙することで世界全体を表現しました。そして「眼は眼であって自分では無い。耳は耳であって自分ではない。1つ1つ吟味してもどこにも自分は無い。自分が無いから苦が生まれるプロセスが無い。苦が生まれようがない。ほら救われた!」と説きました。
しかし、1つ1つ吟味するうちに9割以上の人は寝たり、自主休講します。そこで分類路線をまとめ路線に切り替えました。まとめてまとめて1つにまとめ切ったバリエーションの1つが空の一言です。「一切皆空。どこにも自分は無い。自分が無いから以下同文」だから私も空=(無常+無我)の方が正確だと思います。
ご質問最後のあたり、「ぶつかる」は共通言語としては「作用」という言葉が多いです。
七一九さまのエネルギーのイメージは業に当たるでしょうね……ただ、業はナイフリッジを登るような差別思想の谷に落ちやすい概念です。独学で踏み込まないで下さい。オウム真理教も業、輪廻、死の解釈を誤って地獄まで転げ落ちました
「あるエネルギーが他のエネルギーとぶつかる」感じというよりも川の流れ全体の作用の一端として、原子や分子がぶつかり合って(作用して)いるイメージで私は理解しています。分子Aと分子Bがぶつかっているのですが、AもBも川全体の流れに押されてぶつかっている感じです。
ただ、ここまで来ると論蔵や注釈によって色んな解釈が出てきますので、そもそも「定まった解釈」をすること自体が混乱に直結します。場合分けが不可欠です。右の業も絡みますのでこれ以上は大学編入学でもなさらない限り入山はご遠慮下さい
少し、ややこしいですが………、空に思うこと。
初めまして、浄土真宗の藤波と申します。
思うところの一端を書かせて頂きます………。
諸法不自性
亦不従他生
不共不無因
是故知無生
古代インドの仏教僧、龍樹菩薩(150A.D.頃)が著した『中論』の一節を挙げさせて頂きます。
龍樹菩薩は言う。
「諸々の存在・事象は、何処においても、どのようなものでも、自身から、あるいは他者から、この両者から、また無因から、決して生じたものとして存在することはない」。
何やら意味不明の言葉の羅列であるようですが、ある種の哲学的理論ともいえます。ごく簡単にいうならば、自身も含めてこの世に存在する者、あらゆる現象・事象は、全て原因と原因が縁となって結果となって現れたのであって、単独に存在することはない………、というのです。
物事には必ず因果関係がある、ということです。この考え方が『般若心経』に説かれる「色即是空、空即是色」の思想と繋がると思います。「無自性空(むじしょうくう)」たる所以です。
我々は、自身の身近な存在や事象に対して思いを寄せる。それを「執著」といいます。身辺に起こりうる、事象や心的作用に囚われるのです。しかしそれら全てのものがらは、「空」なのです。そして「空」なるが故に、無常でもある。無常とは、自身の思いとは裏腹に一切の存在・事象は変化して行くことをいいます。自身が老いるのも「空」であり、無常だからです。
もっとも「空」は「無」と同義ではありません。「空」とは、実体を欠如した状態をいい、縁起(原因~縁~結果)が成立するための基本的な状態をいいます。即ち、老いも若さという原因に始まり、経年という縁を経て老境という結果をもたらす所以です。老いが原因となり、衰弱が縁となり死という結果へと繋がる。衰弱もまた、死への原因たらしめます。
そして、こうした原因と結果を繰り返すのは、自身があらゆる原因が縁となって、この世に存在するからと考えます。自身が存在しなければ、自身を取り巻くあらゆる事象も生起しないといえましょう。「火の無い所に煙は立たず」の諺に同じです。
どうも私は、自身を追い詰めると、龍樹菩薩が論じたことが気になり出します(苦笑)。思えば、私が浄土真宗に帰依することもまた、
「空」に他ならないでしょう。浄土真宗へ至る原因があり、諸々のことが縁となり、この宗派に属しているに過ぎない訳です。
オッス!オラ悟空だ。そこにありつつない様子がオメェにある。
オッス!オラ悟空だ!
とりあえず、その辺のものを見たり👀聞いたり👂感知してみてくれ!
そして、それが「何」であるかアタマで判別される前を感じてみろ。そん時、モノがどう映っているか。
実はこれが空を悟る大事な修行だ。空は理解じゃねぇ。体感だ。
見ろ、聞けと言われる前からオメェの眼にはモノが映って耳には音が響いてたハズだ。
しかも、さっき見たばかりの事はなーんも残ってねぇ。サッパリだ。
さっきまで死んでたはずのクリリンやヤムチャが次のページで生き返っちまってるみてぇにな。💀
ものが見えで聞こえつつ、しかも有る無しにかかわらず、オメェの👀感受👂の上ではそれが何であるかも知らねぇままに滝みてえにジャーって流して過ごしてる。
昭和の便器みてえにずっと流れっぱなしだ。
分りやすく言えば全自動浄化機能ってこと。
前の事を完全リセットしたモンが今オメェの前にいつもある。ふんじゃー!
だから、オラたちはいつでも、空じて、空ぜられてリセットしてるんだ。
これから空になろうとか思っちゃダメだ。
「空を握れば空を失う」観念に陥っちまうぞ。
「空にしたがえば空に背く」実物をみてねぇ証拠だ。
みんな空とか聞くと「空」らしいことをイメージしちまう。
オメェが空を悟れねぇのは自分のあらかじめのイメージが強ぇだけ。
本読んで空を理解してもは空を悟れはしねぇ。空を悟るって事は「救われ」が起こることだからだ。
筋斗雲にのるのに、あらかじめの文字・知識は要らねぇ。
それがある奴は乗せてくれねぇんだ。☁そんなモンすてちっまて、目の前見てみろ。さっきの事は何処にもねぇ。今は今の筋斗雲がお迎えに来てんだぞ?見えっか?
料理を作る時レシピを読んでるだけじゃメシの時間は過ぎちまう。
ナマの材料に触れなきゃ机上の空論だ。
元々オラたちの身心の実相が空だって事を悟ればオメェはスーパーサイヤ人(仏)になれっぞ。
オラ先日あさり買って、ひと晩放置しちまった。
火ィ通せば大丈夫だと思って、味噌汁にして飲んだらすんげーウマかった。
悲劇はその1時間だ。
オラが履いてたブルマは大惨事だ。💩
でも味噌汁を飲んでた時は、本当にウメーと思って飲んでただ。
そん時のオラもブルマも今はもう、ねぇ。🚮ブルマかい
時間的にも空間的にも「そこ」を経て、もうそこにいなぇことが空だ。
今も今の事しかねぇながらに、それもねぇ。じゃな!
「空」の理解へと向けて
七一九様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「仏教を学ぶ上で「空」の概念が定まりません」・・
「空」の理解は、ある程度論理的(比量)に把捉していけるものと、(体験的)直観(現量)にて把捉していけるものとがありますので、慌てず、焦らずに、仏教の修習を進めながら努めていくことが大切となります。
「世俗諦としての表現でしか質問できませんので、 質問の意味も理解されるのか心配でもあります。」・・
勝義諦へ向けては世俗諦の扱いが重要となることは言うまでもありません。また、世俗諦の定義についても、色々と見解が分かれてしまっているところもあり、しっかりと考えていくことが大切となります。
「これまでの仏教の学習から、全ての物事は「現象」 であり、その瞬間の状態であり続ける「実体」はなく、全て川のように流れていくものだと理解しました。=無常・無我」・・
おおよそ、そのようなご理解で良いのではないかとは存じます。ただ、無常については、「縁起」の中における「因縁」(原因と条件)によっての変化と理解されておいて下さいませ。
「物事が「ある」でもなければ「ない」でもない。=空? 」・・
『物事が「実体として」あるでもなければ、ないでもない。』、「実体として」が重要なポイントとなります。
「「見えた」「聞こえた」・・・は、実際にあります。」・・
「縁起」によってあるものは、ありえています。ただ、「実体として」はありえていないということになります。
「「空」とは、ある/ない(虚無)ではなく、 あるエネルギーが他のエネルギーとぶつかり(影響)、 因果法則によって変化し続ける現象と理解するのは 誤りでしょうか? 空=無常=無我と感じられます。」・・
「縁起」には実は、大きく三つの依存関係について考える必要がございます。上記の場合は、一つ目の「縁起」としての理解となりますでしょうか。あとの二つについては、下記の拙論にも少しく書いてございますので、是非、ご参照下さいませ。
『般若心経における「空」について』
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/93cd51b49c2264eb00fcc00a904a3392
字数制限の関係上、ここまでにて失礼致します。
川口英俊 合掌
私としては
質問者からのお礼
聖章様、蓮鳳様
ご回答ありがとうございました。
とてもスッキリ致しました。
輪廻も死とその時の条件によって
あるものなのでしょつか?
この辺りを勉強してみます。
大慈様
ご回答ありがとうございます。
勿論、オウムのように仏道を考えているわけでは
ありません。
ただ、「空」(から)が、しっくり来なかった
為のご質問でした。
皆様のご回答から、スッキリ致しました。
仏教とは、宗教でないと感じます。
まさに、教えだと思います。
だって、押し付けもないし、自分で確認して
みなさい。
ただ、待機説法が故、教えが多すぎる感じが
します。
ですが、仏教の教えはありがたく思います。
丹下様
ご回答ありがとうございました。
「メニューばかり見ても、味は
わからんぞ」ですね。
実践ですね。
川口様
ご回答ありがとうございました。
いつも、ご丁寧な分かり易いご
指摘、ありがく思います。