よく、自殺はダメだとか、死後に地獄に行くなどといったことを聞きますが、なぜですか?自分の人生は自分で決める必要があるのだから自殺しようがしまいが本人の勝手ではないのかと思います。 仏教では、人生は魂の修行で、神は越えられない試練を与えないという教えがあったような気がしましたが、何のための修行、試練なのか。 しかも、実際越えられそうにない試練を人に与えていますよね。ウクライナ戦争では、何の罪もない人々の命がプーチンの勝手な欲望の為に失われていく現実にどうしても神が存在するとは思えません。(実はこの状況を見て快楽を覚えるようなサイコパス神だったり) いくら努力しても理不尽な目に合うのであれば生きる意味等ないと思います。 生きていても理不尽な目に合う、そして老いて醜くなっていく容姿と動かなくなっていく体を無理して受け入れていく、というのが私にはとても耐えられそうにないです。ただ、こういった宗教関係の方はどのような回答をされるか気になったので質問しました。 長文失礼致しました。 よろしくお願い致します。
疑問なのですが何故人は何でも一緒くたにしてしまうのでしょうか? 何らかの集団で一部の人間が問題行動を起こすとその集団全体が悪く見られてしまうってことがありますよね。 勿論人間全員がそのような考えを持っているとは思いませんが割とこの様に考えてしまう人がいる気がします。 何故そう思ってしまうのでしょうか?心理的な問題なんでしょうか。
僕は、自閉症スペクトラム障害、難治性肺気胸、うつ病を持っています。16歳の頃に中退して、10年間引きこもっています。顔は正直不細工だし、太っています。障害年金と親の金だけで暮らしているので貧乏です。今は気胸が再発していて息苦しいのでそう思ってしまうのかもしれませんが、世の中は平等じゃないです。みんな違って、みんないい、とか言いながら、僕みたいな本当に終わっている人間のことは、誰も相手にしないし、軽蔑して当然と思っています。被害妄想ではなく、家族にもそういう態度をとられますし、ネットでも「税金泥棒」「自分がその立場なら自殺する」など数えきれないほど言われてきました。多様性というのは綺麗ごとだと思います。「みんな違ってみんないい」の中の「みんな」には僕は入っていません。LGBTのような人たちが差別を受けなくなるのは当然いいことなのですが、そういった記事を見るたびに「なんで僕は差別されるのだろう」と思ってしまいます。恐らく顔の良い女の子だったり、健常者だったりすれば「可哀想だ」と思ってもらえるんでしょうが、顔がキモくて金がないおじさんなので、誰も同情すらしてくれません。「死んだほうが世の中のためになる」と散々言われました。 僕は、誹謗中傷されるのは全然構わないです。ただ、「多様性」という言葉が大嫌いです。
ひろゆき氏や堀江貴文氏のお金の考え方について。 今更ながら彼等の考えは間違ってはいないと個人的には思うが、お坊さんの立場では彼等のような人達をどう捉えているものなのでしょうか? 例えば、ごく一部引用すれば ホリエモンは有り金なんて全て使え。そもそもお金なんて要らない。なんでお金が欲しいんですか?という考え。FIREなんてボケ真っしぐら。非常に同意。 仏教ではお金はこの世でだけのただのツールに過ぎない。という点でも合致している? みんな大好きひろゆき氏はネットライブでみんなの質問に片っ端から論破し、たしかに間違った事は言っていないし同意。だが。。 お金が沸くシステムはとっくに確立され、日常生活は節約とほぼお金を使わない生活だそうです。素晴らしい。 両者ともお金に振り回されない考えは素晴らしいとは思います。自分には到底マネーできませんが。 現世は先の短いご老人方の既得権益(政治家含む)が間違ったルールを作って貧困者から血を吸う仕組みになってる為か、どうも若い世代にお金が行き渡ってないし、今後も同じ黒歴史を繰り返す事でしょう。
個人情報を悪用する「ならず者(犯罪者)たちのせい」で、軽軽に自分のことすら、話せなくなってしまいましたね。 私のスマホにも、「カネ(個人情報)を盗む目的」の通知・メールが、何通も来ています。迷惑千万です。 意志疎通をはかるためには、お互いの個人情報を、把握する必要があるのですが・・・。それが、容易ではなくなりました。困ったものです。 悪影響は、このhasunohaにも及んでいますね。一見すると、話が噛み合っていないように感じる問答が、散見されます。これも、お互いに、個人情報を開示できないために生じる齟齬なのでしょうね。 回答僧を名指しで批判する人もいるようですが、私に言わせれば「筋違い」です。 短い時間、限られた文字数、ごくわずかな手掛かりだけでは、限界がありますよね。回答僧の皆様は、知恵をしぼっておられると、私は思っていますが・・・。 冒頭に書いた理由から、(私も含めて)多くの人が、疑心暗鬼に陥っていると感じます。それに、コロナが追い討ちをかけてしまいましたね。 回答僧の皆様は、このような難しい状況下、意志疎通をはかるために、どのように対処されていますか?
今日、不思議な夢を見ました。 母と2人でゲームセンターに行く夢です。 (子どもの頃よくゲーセンに行っていました) 母に小銭を貰います。そして、「いいな」と思う可愛い女の子のフィギュアがあるのですが、「今ここでお金は使えない」「もっとよく店内を見てからにしよう」とします。 母には欲しい景品がたくさんあり、私はそれに着いていきます。また、「ほら、ここ!お母さんの好きなグッズがあるよ!」と声をかけます。 そうしている内に、いつの間にか、自分がやりたかったことを後回しにしていて、もうやるには遅すぎることに気づきます。 私が「あのゲームで遊びたいな!」と思っていたものには、人だかりができていて、母の元に戻ってきては、母が欲しいものを得るためにサポートをしていました。 私は、自分のためにお金を使うのが怖いです。 昔、家族がみんな母のお金でゲームやパチンコなどギャンブルをしていたので、私自身、母に申し訳ないし、母にそんなことをさせたくないという思いがあります。 一年あたり学費が百万円もする私立中学に通っていましたが、一年で不登校になってしまい、学校で勉強や技術の習得をしていないのに、その後も大金を払い続けてくれた親に申し訳ないという気持ちもあります。 故に、これ以上、人に自分のことでお金を使わせたくない。自分の好きなことでさえも、お金を使うことがいやです。誰かを、母を、親を、犠牲にしているのではないかと感じます。 そして、「お金」とは、夢を叶えるための「切符」であり、「リスクを払う」ことであると思います。そのリスクに向かう意思決定ができません。 私が人生へのリスクを払って生きる(お金を使って楽しむ)ことは、誰かを、母を、踏みしめていることだと思ってしまいます。 生きることは、誰かを犠牲にしている。 そのことについて、仏教という観点から、皆様方のご意見、アドバイスいただけますと幸いです。 よろしくお願い申し上げます。
私は、母親は日本人で父親は韓国人という、所謂「日韓ハーフ」です。 現代での韓国ブームのおかげもあり、日常的には差別されることはなく、快適に生活できています。 しかし、私の悩みのタネは、SNS上での韓国への評価です。 今まで、韓国は日本に悪意のある行動をたくさんしてきました。そのことは理解していて、それによって韓国が嫌いな方が一定数いるのも理解しています。 しかし、韓国有名人の犯罪のニュースなどは日本でもよく流れており、その動画には必ず「韓国なんだから当たり前だ」「韓国人はみんなこうだ」「韓国好きは目を覚ませ」というふうなコメントがあります。 そしてそれに対して「それは偏見だ」「国は関係ない」と反論してくださっている方は極稀で、大体は放置されています。 そして更には悪口として使われることがあります。「韓国人のようだ」「韓国人みたいな性格だ」などの言葉を使ったコメントを当然のようにしており、高評価もついています。 「韓国はろくでもない」「韓国人とは縁を切るべき」「韓国と日本の関係を切ろう」そう言いたくなるほど日本人が傷つけられたというのは事実で、否定できません。ですが、私はそれを見てどう思えば良いのかわかりません。 韓国と日本にはこれから徐々に時間をかけて仲良くなっていって欲しいという気持ちもあり、でも韓国の日本への態度が嫌だという気持ちもあり、どちらの立場に立てばよいのかわからないんです。 韓国を庇えば「反日」扱いされ、見たくもない嫌韓コメントに悩まされています。 現実でも誰かにこういう思いをさせているのだろうか、そんなふうに考えてしまいます。 私はどういう心構えで生きてゆけば良いのでしょうか。
今月子どもが産まれ、実家族・義家族・主人に温かく迎えられ、大変ですが幸せな日々を過ごしています。 ただ、最近テレビやネットのニュースを見て、学校での殺人行為や高齢運転の事故死など自分では防ぎきれない事故に過剰に反応してしまいます。 今は里帰りをしているのですが、「自宅に住んでいる主人が今日事故にあったらどうしよう」とか「買い物に出ている母が突然他人に刺されたらどうしよう」とか、時間があると考えてしまいます。 この考えと向き合うにはどうしたら良いのでしょうか。向き合った方が良いのでしょうか。 人間いつかは死ぬものだと思いつつ、当たり前ですが、他者から殺されるのは本当に避けたいです。 これからの人生まだ長いのに、こんなことを考えて、起こってもいない未来に恐怖を感じているのに少し疲れました。 どう気持ちの整理をつけたら良いのでしょうか。
まだうつ病になる前は世の中の嫌な部分はそこまで見えていなかったし、見えていても、気にしていませんでした。 でも今は人間の邪悪な部分とか世の中の残酷な現実がみえて、とてもつらいです。 例えば動物虐待、差別、いじめ、戦争などなどです。一つ一つ蓋を開けてしっかり見てみるとえげつなくて、1日寝込んでしまったりします。 でも、テレビで嫌なニュースは流れるし、ネットでもたくさん目にします。 こんな世界で生きていかなきゃいけない絶望でいっぱいで、本当にまいっています。 私がどうしたところで世界は変わらないので、自分の考え方をうまく持っていくしかないと思います。 アバウトですが何かアドバイスいただけないでしょうか…?
お初にお目にかかります。私は最近、「過去の栄光に囚われている」と感じるのです。 そう思うようになったきっかけとして、インターネットを始めとするメディアで「地方の衰退」についてや、様々な催しごと(私はアニメやゲームが好きなのでその手のイベントと捉えて下されば幸いです)が東京に一極集中している事実をまじまじと触れる機会がありました。 (私の地元が沖縄という地方にあったり、好きなアニメの聖地巡礼として地方を訪ねる趣味があります) 触れれば触れるほどに、「東京(最先端を行く中心地、とも読み替えられます)と光を失っていく周辺」との対比に嘆きを覚え、同時に 「どうしてこうも容易く地方(地元)を捨てて東京に逃げるのだろう」という怒りも覚えるようになりました。 廃れてしまった地元にも「光り輝いていた時代」は間違いなくあったのに。そこで私は「あの頃の光を取り戻したい」という願望を強く持つようになり、その為に建てるべき道筋、先人達が通っている軌跡を調べ始めました。 ですが突きつけられたのは東京との埋まらない格差。具体例を挙げると交通インフラなどはもう、とても同じ時代の同じ国にあるとは思えないほどの開きがあります。 地方でコミックマーケット(日本最大の同人イベントです)を開催すれば良いのではと主張をしてみたものの、上述した理由から手痛い指摘を受けました。地方はもう壊滅している、と。東京にしか人は集まらない、と。 頭ではそういう現実なのだろうな、と薄いながら覚悟はしていたつもりでした。 ただ、この出来事の末に私に湧き上がってきたものは「たったそれだけの理由で東京に逃げるのか」「血も涙もない奴だ」というものでした。 「多少強引な手段を用いてでも金や人や機会といった先立つものを得られればあの頃の光が返ってくる」と思っていたのですが、どうもそれで上手くいく訳ではない上に、そういったことを望む人はあまり多くないようでした。 どうしてだろう。私はただ「あの頃の光」をもう一度見たいだけなのに。 もう一度自問した結果、「衰退することを自分でも引くくらいに嫌悪している」という自分がいることが分かり、そうさせているのは「過去の栄光に囚われている」からではと答えを得ました。 しかし答えを出したところで私は「過去の光」から逃れられない。前に進む術が見つからない。どうしたら良いでしょうか。
コロナ禍の中、さまざまな意見も飛び交っていますが、私は少数の富裕層が、その他の人間の生き方や社会をコントロールできる今の世の中に疑問を感じています。 例として、ブラック企業で働く人々は、ブラック企業で働きたいと思っていないにも関わらず、そこで働かなければ生きていけないと思い込まされ、被雇用者は経営者に利用され、結局ブラック企業は淘汰されず残り、富は資本家に集まります。どこかで救ってほしいと思っていても、立ち上がることができないのです。 世の中で、また個人の人生のなかでも、全く似たようなことが起こっているのを、友人や知人を見ていてわかってしまいます。しかし、それを言葉にして本人に伝えるのは難しいことも知っております。 ですから、私は少しでも良い社会のために、と署名活動への参加や、できるだけ納得したものだけを購入するといったことを、完璧は不可能ですが実践するように心がけていますが、そういった生き方に対し、ある友人は「私はそこまでして生きたくない、世界はどうなってもいいし、責任を取りたくない」と言い、そういう方こそ生き方に難しさを感じていたりしていてよく相談されたりします。しかし「あなたの行いがあなたの人生を作っている」と正論をぶつけることもできず、難しいものだと思います。どこかで頼られていたり、羨ましがられていると思うこともあります。あなたは頑張っている尊敬する、と言われることが多いですが、その裏には彼らが何かを抱えているのが見えます。 仏教では、こうした社会的な搾取や過ちも肯定し、受け入れるのでしょうか。 最終的には、人類全ての行いとして、その集大成として私たちが絶滅する運命をたどるのだとしたら、それに違和感を感じている私も運命共同体として何もしないべきなのでしょうか。 私は社会に対して、行動をし、考えている人たちを、「やりすぎだ」などということは決してできません。きっとお釈迦様も悟りを得るまでに沢山の思考を重ねたものだと思います。 ワクチン等も強制に対し、「でもそうしないと生きていけないから」と言うのは、あらゆる強制を受け入れた先の、超支配社会を肯定することにつながりかねません。そうしたことに反対し続けるのは、無駄で、現在の人間の行いを無感情のまま受け流すのが、正しいことなのでしょうか? そこに違和感を感じてしまう私は、人として未熟なのでしょうか。
今でも昔でも、暗いニュースってよくありますよね。 例えば、強盗や殺人事件など。 犯人は当然捕まるのですが、たまにあるのが「死刑」という制度です。 この制度でふと思ったのですが、「どんな大罪人でも生きなきゃダメではないか?」と思いました。よく犯罪者に対して「しね」「生きる価値ない」などと誹謗中傷的なコメントがあったと思います。 僕は親やいろんな人から、「しんでいい人間なんていない」とよく言われてきましたがそれを思い出すと死刑制度ってかなり矛盾してる風に感じました。 もし死刑制度を無くすべきだという理由を述べるとしたら、「どんな人間でも必ず変えられる。やり直せる。」という単純な事しか思いつかないんですが、もう一つの理由ですが、もし他の人を間違って死刑にしたら取り返しがつかないというのも考えられます。昔は僕も、「犯罪者なんかこの世にいなくてもいいんじゃね?」と間違った考え方をしていましたが冷静に考えると、もしかしたらその犯罪者も「またやり直したい。必ず償う」と思っているだろうし、そりゃあしにたくないと思うのが大半だと思うので死刑制度よりも、例えば「しっかり罪償いのために、キツい訓練や労働、それに人の為になる仕事や勉強」などをし、その方が世の中的には良い方向に向かうと考えています。 あまり政治や社会に詳しくないのに書き込んですみませんでした。後これを他のサイトに書くと「こいつ偽善者だ」みたいな事を言われて叩かれそうで怖いのでここに書き込みました。
旭川市の虐め事件の記事を読んで。衝撃的でした。内容はあまりにも酷すぎて詳しくは読んでいませんが結果未成年の少女が亡くなりました。虐めた相手は10人いるそうですが学校の教頭が「虐めた10人には未来がある。」と加害者を養護するような発言をした事。 その発言にさらに驚き体が震えました。 教育に携わる人間が「人が一人亡くなっている」にも関わらず加害者の未来を語って良いのか?第三者委員会もまったく機能していない様子ですね。 私が恐れているのはこの教頭のような人間が世の中に増えているのではないかという事。身近な所で言えば偶然タクシードライバーさんから聞いたのですが「大人しそうで真面目そうなサラリーマンが会社でのストレス解消目的かタクシードライバーに難癖を付ける。」そうです。そのドライバーさんは相手に必ず言い返しすぐに「警察に行きます」と誘導するそうです。 最初の加害者の未来を優先する教頭の学校の生徒は虐め加害者が今後も増えるでしょうね。だって憂さ晴らしに人を虐めても養護してくれらるのですから。こんなまともな教育を受けていない人間が世の中に解き放たれると考えただけで私は不安でしかたがありません。 私はあと数年で高齢者の仲間入りです。歩くのが遅くなった老人を邪魔にして暴力をふるったりする人間が出てきたらもう日本も終わりですね。自分ご老人になった時のことを考えると本当に恐ろしいです。 お坊様はどう思われますか?老後になった時全く価値観の違う人間から暴力を受けたらと想像した事はありますか?
再び相談させていただきます。 プロフィールの方を参照していただけると嬉しいです。 ネットには普段口にするのも憚られるような誹謗中傷や悪口で溢れています。私自身、現実でいままで人を傷つけたことがありますし、その後悔に囚われることも多く、悪口や虐めの愚かさは理解しているつもりです。(開き直るつもりは全くございません) 最近、世の中でいじめやハラスメントが大きく問題になり、色々な人が声を上げている中、そのように声をあげている人でさえも、アスリートの方々や自分とは異なる意見の方に対し、誹謗中傷や人格否定のような言葉を投げかけていることに恐怖を感じます。みんな、誰もが傷つかない世界を望んでいるはずです。なのに、どうしてこんな事が起こってしまうのでしょうか。そのような誹謗中傷を見かけると、あたかも自分が言われているような心地がして、受け取った人はどのように思うのだろうかと考えてしまい、悲しくなります。どういう気持ちで書き込んでいるのか、それを後悔したりすることはないのかと思います。 悪口の愚かさは体感しましたし、悪意のない世界への実現に貢献したいとも考えています。ですが、このままだといじめやハラスメントは無くなることはないと思います。 人を傷つけたこともある私が、このようなことを考えるなんて烏滸がましいとは思います。ですが、恐怖と疑問が絶えません。よかったらご回答よろしくお願いします。
冤罪が怖いです。 先日ニュースで冤罪で逮捕起訴されて服役していた人が釈放されていました。僕はそれをみてものすごい恐怖に襲われました。 痴漢などの冤罪ならなんとでもなる(前科がつくだけで済む)と思うのですが、冤罪で服役するのが怖いです。どのように考えれば恐怖は薄らぐのでしょうか。
楽をするという事に罪悪感を感じるのは何か病んでるのでしょうか? 何でも簡単に便利にというのも頭を使わなくなってしまうので、それはそれでどうなの?と思ってしまうのです。 この先まだまだ色んな事が進化するでしょうから楽になる反面、自分で考えることをしなくなる恐れもあると思います。
昨年から続くコロナ禍の中で一年以上 マスク、自粛と続けてまいりました。 それが当たり前だと思い行動しました。 しかし今年に入り何も変わらぬどころかむしろ悪化している中、早く普段の生活に戻りたい… 早く遊びにも行きたいという抑えてたものが我慢できずにいる自分の弱さに落ち込んでおります。 そして、このコロナ禍の中でもオリンピックを開催するという無茶という夢物語を総理大臣本人の口から聞き呆れております。 嗚呼、国はオリンピックが開催できたら 国民が死んでも良いのか…と思い始めて 国に対する怒りと我慢している自分が情けなくなってきております。 我慢は美徳という言葉があります この一年色んなことを我慢しましたが 何も得たという実感がありません。 人と出会う機会が無くなり自身の精神もギリギリの中で我慢するという事が愚かに見えてきております。 花を見ても美しいと思えず 食事をしても美味しいと感じられず これ以上我慢していつかパンッとはち切れ何をするかわからない自身の邪神がとても怖くご相談致しました。よろしくお願いします
『末法灯明記』と言うの本読みました。末法の予言が現実の社会情勢と一致したため、私の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想に傾倒していった。 もちろん、とてもいい僧侶はいっぱいいます。でも、仏教の問題より社会の問題です。社会は退廃的だと思います。日本だけではない、お金持ちのG7欧米国もおちめになります。昔いの道徳はどこですか?末法思想は多分本当に今日の世界ピッタリフィット、だんだん。。。 南無阿弥陀仏。
初投稿です。よろしくお願いします。 質問といいますか、愚痴に近い内容になりますが、少々お付き合い下さい。 最近、人々に絶望することが多くなりました。世間に対し、あなた方は過去から、歴史から何を学んだんだ、同じことを繰り返してばかりじゃないか、はやる気持ちを一旦落ち着かせて思慮の深いよりよい選択をなぜ取らないんだ、と訴えたくなることがよくあります。 例えば、ネットでの誹謗中傷です。誹謗中傷の内容は感情的・感覚的に発言するものが多く、思慮に欠けますし、そもそも自分の不平不満を述べるのであれば、わざわざ人を傷つけるような言葉を使う必要はないでしょう。人を傷つけてストレスを発散しているのでしょうが、私にはそのような方法でストレス解消することに理解できません。 もちろん、誹謗中傷を行う人はごく少数の者であり、その他大勢の人間は誹謗中傷などしない、とも考えられます。しかし、誹謗中傷を行う者に目を向けると、その多くはどこにでもいるようなごく普通の一般人で、必ずしも社会になじめない人格破綻者が行うとは限らないと思いますし、そのようなことが書かれた記事も目にしたことがあります。 思えば、周囲の人間を見渡すと、親切な方(だと私が思う人)でも、ネットで暴言を吐かないにしても、それは社会的に見て正しい言動なのかと疑問に感じることがあります。例えば、偏見を生む発言を繰り返す人、多角的な視点は皆無で、自己やその周囲の人間のことしか考えていない人、目先の快楽のことばかり情熱を燃やす人などなど。そのくせ犯罪者など、反社会的行動を行った者に対しては烈火のごとく怒り狂い、執拗なまでに石を投げ続けますが、しかし、刑罰法規に触れないものの、結構悪質なことをたくさんやっている方があなた方の中でもずいぶん多いじゃないか、過去に人にはあまり言えない悪行をした人も多いのではないか、と思うことがままあります。 私は、国のため、国民のためになるよう、長い時間をかけて勉学に努めて参りましたが、最近、世間に対してそのように考えることが多くなり、勉強に身が入りません。25mプールに墨汁を一滴垂らすがごとく、私の行いで世間はそれほど変わらないでしょうし、私自身の無力さに失望しているためです。考えを改める必要があると思いますが、お坊様から見て、何かお言葉を頂けないでしょうか。
世の中が憎い 自分が捻くれたのは周りの奴らのせいだ 周りの奴らは俺を攻撃する 抵抗する手段がなかった 抗えなかった 周りのご機嫌伺いをすることでしか 自分を守れなかった 他人の視線を気にして生きてきた 他人からの評価を気にして生きてきた だがいざとなったら 本当の自分を見せろという 他人にとって都合のいい人を演じる以外 自分というものがない 物事の判断は他人軸 自分の決断に自信がないから 自分の決断を批判されるのが怖いから 子供のように駄々をこねてることはわかってる。 前を向いて自分の足で立って進まなくちゃいけない。 でも自分のこの性格や気質は簡単に変えることはできなくて、そのせいで今の自分が苦労している。 そうなってしまったことがどうにも納得できない、許せない。 就活で自己分析したところ周りに嫌われないように生きていたことが分かって、それ以外に自分に何があるのか分からなくなりました。 救われたくても救えるのは自分だけだと考えてます。けどなかなかうまく自分を救えなくて、ツライと愚痴を吐きたかった。