お寺は地域のために開放するべきではないのですか。
近所のお寺の奥さんの言動に失望し、傷ついたのですが聞いて下さい。
私は特別支援学校の職員ですが、いつも生徒15名と他の職員3名と共に散歩をしているのですが、その散歩コースに近所のお寺が含まれており、境内で休憩し生徒達もはしゃいで走り回って楽しんでいます。
トイレも拝借しております。
ある日、帰校しようとお寺を出た所、お寺の奥様に呼び止められ「あなた方にはモラルがないのですか?」と、いきなり怒られました。
一方的に「あなたは、よそ様のお宅に勝手に上がり込んで勝手にトイレを使って庭を荒らしても何の挨拶もなく知らぬ顔で帰るのですか?
来る時は前もって、いつ、何時頃行ってもいいですか?と連絡するのが常識でしょ」と言われました。
納得できないのですが、お寺は地域の為に存在し、誰でも自由に出入りが出来てトイレも自由に使ってもいいのではないですか?
奥様が仰るには、「うちは観光寺院ではありませんし、トイレも公衆トイレではありません。」だそうです。
これでは生徒達が可哀想です。
お寺は皆そうなのですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お寺が求めているのは見学の精神 ではなく 参拝の精神
こんにちは、名探偵コナンじゃなかった、丹下と申します。
私の推理では、そのお寺の方は、それまでにいろんな方が来て、ハタハタ迷惑していたのでしょう。
実はわたしも中国のお寺に団体で見学に行った時、そこに修行僧たちがハタハタ迷惑そうにしていたのを覚えています。
みんな観光、物見、見学的な感覚でお寺にズカズカ入り込んできますが、場所によってはそういうスタンスで上がり込んでくる人というのは、ハタハタメーワクという事を私は初めて経験しました。
観光寺に来る人は見学の人と参拝の人がいます。
先日も、法事の合間にどかどか入り込んできて本尊様の前で、長ーくお経をあげていく「信仰という名の元に何でもやっていいと勘違いしている人」がきました。
お寺は、公共施設ではなく【半公共施設】です。
何故なら、住んでいる人がいます。
プライベートだってあります。
先日も、近所の小学校がお参りに来た時も、その方々は連絡をしてくださいました。
別になくてもいいと思いますが。
ですが、あった方が❝心が通っている❞ということをその奥様も言いたかったのではないでしょうか(そうであってもなくても、そう思うというのが、こちらの我や正義を引っ込める仏道修行というもの)
今から申し上げることは、別に悪く言う訳ではありません。よく聞いて、ああ、人間世界というものはそういうものかーと理解して頂きたい為に申し上げるのですが。
教育者的立場にある人は、およそ高い理念を皆持っています。それは我々僧侶も同じです。
自分たちが、教育者として常に人道的立場であろうとするため、時おり正義心が優先されます。それが為に、自分の正義、理念に相反する人を見ると何となく拒絶感にも似た反発感情が生まれてしまうという事があるそうです。
そういうのを捨てて普通に考えてみましょう。
「ああ、お寺といっても嫁いだ一女性の立場としてみれば、確かに観光寺ではないし、勝手に入り込んで、こっちは子供もいたから正義的立場だと思い込んでいたけど、それはよく考えてみれば、礼節を欠いていたと言えば欠いていたなぁ」と思ってみましょう。
それがお寺を❝見学❞ではなく、❝お参りする❞という敬いの精神なのです。
自分の正義を貫きたい気持ちに参拝してみてください。
その扉を開けたところには「何」がありますか?
私の感覚では
こんにちは。私は東京のお寺です。よく地域の「地元のお寺、見て回ろう」というグループ(区で主催しているようです)がお越しになりますが、いつの頃からか、予告をしてから来るようになりました。また、近所の子どもたちが野球だのサッカーだの自転車だの、練習に来ています。こちらは特に予告なくやって来ます。基本的に答えは「どうぞ」ですが、行事と重なったりする時はご遠慮いただきます。また、ゴミを散らかしている時は、しばらく閉鎖します。
子どもが15人…それは正直言って、あらかじめご連絡いただきたいです。公園に寄るのと同じ感覚ですか?せめてお参りであるなら、また違った受け止めになるかとは思いますが。あとは頻度ですね。
地域柄が分かりませんし、そもそもコッチは関東ですから、感覚が異なる事は大いにあり得ます。
しかし、予告やお断りがあったのならまだしも、そうでなく訪れて、対応に怒りを感じておられるのは、些かお門違いと感じます。「生徒たちが可哀想」という事であれば、おとずれる先の調査をしておくべき、と存じますが如何。
いろんな見方があるでしょうが、挨拶はすべきと思います
どれくらいの頻度で、散歩をし、お寺さんの境内で休憩してこられたのか質問だけではわかりませんが、或る程度の規模の団体で定期的に訪問し手洗いを使用しているなら、事前の承諾や使用後の挨拶があったって良いのではないかと思います。飽くまでも、私個人の考えです。
小学校で学校周辺の地域を探索するという授業の一環で寺を訪問する場合は、事前に学校からは電話がありますし、当日は教員の方が挨拶に来られます。地域の歴史探訪の中高年グループが寺町散策の中で当寺を訪問する場合、事前に案内役の方が説明に来られます。
特別支援学校の職員として生徒さんたちを引率されるのも大変かと思いますし、交通安全の面でもお寺の境内の散歩するほうが安全だと思います。生徒さんたちが生徒達もはしゃいで走り回って楽しんでいる光景はいいですね。それだけに、そこのお寺さんから言われた言葉は水を差されたような気分だったかもしれませんね。
生徒さんたちが走り回っている光景は教員にとって、嬉しいことでしょう。但し、お寺の境内は公園や校庭のように、子供さんたちが走りまわることを前提としておりません。もしかしたら、境内の草花が踏み荒らされたりしたことも有ったかもしれません。掃き清めた参道が靴跡がついてしまったり、砕石が蹴散らされたりということがあったのではないでしょうか?団体で利用すれば、お手洗いの汚れ方も違います。1回2回なら苦情は言わないと思います。定期的に休憩し、手洗いも使用したなら、事前連絡をしなくても、当日挨拶したり帰る時に御礼を言ったりするのが礼儀だと思います。そういう挨拶の仕方を生徒さんたちに身をもって示すことも教育ではないかと思います。
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お寺は地域の為に存在し、
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これは個々のお寺によって、違うと思います。我が寺は地域社会と共存し地域社会に協力してはおりますが、「地域の為に存在する」とは思っておりません。我が寺は基本的には檀信徒の為に存在し、同時に多くの方々に仏様との御縁を結んでいただけるよう努力し広く門戸を開くようにしているつもりです。「誰でも自由に出入りが出来てトイレも自由に使ってもいいのではないですか」と言われるのは、あなたの価値観の押しつけのように感じます。お寺の境内にあるトイレが公衆トイレとして使用される場合も有れば、飽くまでも参拝者のためのトイレの場合もあると思います。
連絡すれば済む話では?
いつも仕事として生徒を連れて散歩してて、そのお寺に寄ってトイレを利用するのであれば連絡するのは当たり前だと思います。
トイレは参拝者の為に設けてあるものであって、トイレを必要とした全ての人の為に作っているものではありません。
もちろん使ってはいけないとまではいいませんが、やはり節度の問題かと思います。
それだけの人数が定期的かつ頻繁に利用しているにも関わらず挨拶も連絡もなしというのは少し問題かと思います。
「利用してもいいですか?」と一言声をかける配慮をするのが、社会人としての常識だと思います。
その一言でお互い気持ちのいい関係が保てるように思いました。
※うちにもトイレはありますが、設置費用は決して安くはありませんし、維持費も案外かかっています。
全て檀家のお布施と寄付で成り立っていますので、参拝者以外の方の利用は基本的にはお断りの姿勢です。
だからといって鍵が付いているわけでもなく立て看板もありませんから、自由に使ってもらえる状態ですが…
まあ、宗教法人の敷地は一応私有地ですからねぇ。
一言声をかけていれば快く「どうぞ」と言われていたのかもしれません。
お寺は、宗教法人の施設です。
住職としては、宗教法人の構成員(檀信徒)から施設の管理を任されている責任もあるので、万が一の事故でもあって建物等の破損があったら、法人の役員会や檀家総会で報告しなければなりません。
現代社会では、昔ながらのたたずまいのお寺といえども、法人として組織運営によって成り立っていますから。
なお、上記のコメントは、そのお寺の奥さんを弁護するために申し上げているのではありません。
怒りはストレスの原因なので、相手(お寺)の立場を想像することで、怒りを冷まして平安な気持ちになっていただきたいのです。
そうではないお寺もありますよ。
同じ地域や宗派であっても、
住職の考え方次第で、
お寺の運営も雰囲気もガラッと変わります。
「お寺は檀家のため」という考えなら、
他の方が来られるのは嫌でしょうね。
そのお寺はそのような考えのところなのでしょう。
でも、それが善いとも悪いとも決められません。
「お寺は地域のため」と考えるお寺もありますから、
他のお寺を探されるのが良いかもしれませんね。
地域との関係性による
ホトトギスさんご質問の意図ご察しますが地域とお寺の関係性によります。
都市部のご寺院さんは、防犯上、仏事の多忙さや施設の広さなどから、比較的クローズなところも多いですが、地域に密着したお寺さんだとまた違ってきます。
いずれにせよ、お寺さんごとに事情が違い、地域やご住職によってお寺開放の考え方が違うので、トラブルにならないようにした方がよいと思います。
残念なことです
ホトトギスさん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺、觀音寺 中村太釈です。
私も子どもを支援学級に通わせているため、ホトトギスさんの「失望し、傷ついた」という言葉に含まれるニュアンスが痛いほど私に伝わってきました。
私は、寺は公共の場所であると考えています。トイレも宅配の業者さん、郵便配達の方、通りかかりの方に利用してもらっています。境内が生徒たちの声で賑わしいのはうれしいことだと私は思います。以前は近所の子どもたちの遊び場でしたから。
時には、呼ばれない人も来ることがありますので、寺院も管理面で気をつけていることはあります。お賽銭や仏像が消えることがありますので。
御縁がなかったのでしょう。せっかくの仏縁が生まれず、残念です。
質問者からのお礼
貴重なご意見ありがとうございました。
私の勉強不足であり、お恥ずかしい限りです。
何年もの間、何も言われなかったので、大丈夫だと思っておりましたが、ずっとお寺の方も我慢されていたのかも知れません。反省しております。