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智慧

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おはようございます。質問に戻ってきてしまいました。余裕のある時に、よかったら教えてください。

智慧の意味を人に訊かれてとっさに自分なりに理解している範囲で説明してしまったのですが、あれでよかったのか気になって、ここで確認させていただきたいと思いました。

「智慧とは、自分の主観を介さずに物事をありのままに見ること。事実をそのまま捉える心の目を持つことであって、頭が良いという意味で知恵があると呼ばれるのとは違う」。

これでいいでしょうか。違っていたら人にごめんねと言って直せばいいだけのことなのですが、本を読んだりしてきてもう全くの「初心者」という程ではないので間違えていたら私は少し恥ずかしいです。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無我によって生ずる無限のチカラ

坐禅します。
我や能動意識が静まります。
考えの盛んな動きが休まります。
非思量・不思量・ノンシンキングなマインドになります。
そこで、その時、自分を見つめるように工夫します。
考えを持ちずして自身を見れば、自分と外部との隔てがないことが分かります。
あえて言えば、全部自身のはたらき。
全部自己というディスプレイ上に映し出される上映会。
無我という名の上映会。
私という主体の無い事の表れ。
すると、般若や智慧とは呼ばれる働きが説明なしで明らかになります。
あなたは文字で説明しようとしている。
その前に、まず自分がなってみませんか?
当山は禅寺です。
そういうことの実証をする場です。
関心を持っていただいた方はぜひお越しください。
すると、おのずからあらゆる迷いを離れたる様子が自身で明らかになります。
相手の苦しみもわがことのように無条件で助けてあげることもできます。
わたくし意識が起動していないままの自己の本来の様子なので生老病死・四苦八苦・貪瞋痴から救われた様子を明らかに悟ることができます。
法相・法という事・仏法という事が明らかになります。
その様子でお経を読めば、ああなるほどとなります。
これは知識で読んでも力になりませんから、やって頂く必要があるのです。
導師というのは唱導の師。
こちらは心の周波数のチューニングをするようなものです。
参加される方は、各自が「ああ、ここか。」とご自身の中でハッキリされればご本人による決定です。
人生はきちんと決着つけるべきことは決着をつける必要があります。
大いに疑問を持つべきです。
大いに疑いを持つべきです。
私をも疑っていただいて構いません。
本当の智慧というものは文字文言・情報ではありません。
辞書や仏教辞典で意味を引けば分かるというものではないという事はお分かりであられると思います。何のためにこの世には仏道修行があるのでしょうか。
それは智慧・般若・空・慈悲・無我・非思量など、法を明らかにすることです。
禅語もお経もみな、この自身の無我性質を明らめることによって真意を読み取れます。
わかれば(明らかになれば)「ああ、本当にそうだったんだな。」と決着がつくのです。
自己を明らめる道。それが仏道です。ぜひ、志のある方は文字を超えて実参されますように。
衆生の成仏得道に回向する。
自ら明らめ法を説く。それが仏道の大事です。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

智慧と慈悲

おはようございます。質問ウェルカムですが、L.Mさんは既によく学びをされていますので是非手元に一冊仏教語辞書を。それで辞書的な意味をおさえつつ、ここhasunohaなどで、生きる現実を通した味わいを問答していくのがいいのかもしれません。

なお、私はL.Mさんの説明が間違いだとは思いません。一応辞書では

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・智:(梵)ジュニャーナjñānaの訳で、若那(にゃくな)、闍那(じゃな)と音写する。一切の事象道理に対して、きっぱりと是非正邪を決定し断定し、よく弁別了知して、ひいては煩悩を断つ主因となる精神作用のこと。厳密に区別すれば、智は慧((梵)プラジュニャーprajñā)の作用の中に含まれるが、智と慧は同義にも用いられ、或いは合わせて智慧ともいう。
・慧:(梵)プラジュニャーprajñāの訳。心所(こころのはたらき)の一。事物や道理を識知・弁別・判断する精神作用。
--------------------------------------------------------

となっています。

大事な事はL.Mさんの説明も「智慧」という言葉自体も「智慧そのもの」ではなく「智慧の説明」であるということですね。
だからもし聞かれたのなら「説明」の範囲内に納まるものではないということは伝えたいところではあるかもしれません。

一応こういうことになるだろうけれども、それは仏のお悟りの世界なので私たちの「知恵」とは違うし、私の頭でイメージするようなものとは違うのだろう。
でも、それでは智慧が私たちと全く関係のないものかというとそんなことはなくて、智慧が智慧のままに停滞せず、具体的に私たちに触れるものとして智慧は「慈悲」として展開し私たちにはたらくのです。言葉や形を超えた智慧が何らかの具体性をもって私たちにはたらくのを「慈悲」といいます。

と、智慧と慈悲はセットで考えるとわかりやすいのかなと思ったりします。

もちろんこれも私の「説明」であって「智慧そのもの」「慈悲そのもの」ではありません。私が掴もうとするものを破ってくれるのが「智慧」であり「慈悲」なのでしょうね。深いですねえ。

南無阿弥陀仏

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個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

「空」を悟る力

L.M様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「智慧」は、真理を悟る力のことになりますが、ではその真理は何かと申しましたら、「空」(と縁起)ということになります。

ですから、「智慧とは何でしょうか」と聞かれましたら、簡単には、「空を悟る力」と説明されるのが良いかと存じます。

更に詳しく申せば、仏教における「世俗諦」と「勝義諦」の二諦の差異を完璧に理解できる力ということにもなります。

私たち凡夫においては、どうしても主客を二分して、また、モノゴトの主客の現れ、それぞれが、あたかも実体があるかのように現れてしまい、それに囚われを起こすことで、色々と問題が生じてしまっているのでありますが、智慧は、そのような実体は、何ら微塵もないことを真に理解していくための力となります。

やがて、その智慧の力が、仏陀の御身体の「法身」へと続いてゆくものとなります。

一方の仏陀の御身体の「色身」に続いていくのが、福徳(慈悲・功徳・方便)の力となります。

智慧と福徳を円満に積むことを成就することで、悟りへと向かうことになるのであります。

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

無明につける薬

「仏道をならうというは、自己をならうなり」という言葉があります。
智慧とは、本来の自己です。

「見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる」って、私がやっているようで実はワタシじゃないんです。だって、それってヒトが生物として進化した結果としてやっていることでしょう?この眼球の中には生物の進化の結果が現れている。もっと言えば生物を生んだ地球の歴史、そして宇宙の歴史までもが現れている。生命や世界の繋がりが眼となって現れ、見ているわけです。

あるいは考えだって怪しいモンです。あなたはhasunohaにいらっしゃったばかりの頃は「規模が大きくなって途中からついていかれなくなってしまいました。」とおっしゃっていました。でも半年後の「子孫に因果応報?」のご質問の時には「みんな一つ一つが要素になって世界が成り立っているなら、私という存在を区切るのはちょっと無理かもしれないな....と思うことができました。」とおっしゃっています。

その差は「仏教とどれだけ繋がったか」なわけですが、じゃあ果たして「仏教を元にワタシが考えた」のでしょうか?それとも「あなたの中に仏教が集まって、あなたの中で仏教が原因と結果のドミノ倒しのようになってその考えに至った」のでしょうか?
「機縁」という言葉がありますが、どちらも矛盾なく同時に成立していると私は思っています。身体が口にした食品の栄養分で作られるように、心も様々な教えや感性、経験に触れることで形作られるんです。

そうした時に、自分って、何でしょうか?ここらで↓の回答を読み直してみて頂ければ幸いです。
https://hasunoha.jp/questions/26445
https://hasunoha.jp/questions/26499

もっとも、仏教は八万四千の法門と言われます。つまり智慧や慈悲を伝えるためにそのくらいの表現があるということです。だから相手の目線と文脈によって答えようは様々です。
ご質問文のその説明のも1つの答え方でしょう。文脈は存じませんが差し迫ったシーンでもないでしょうし、それでいいと思いますよ。今回の回答はちょっと書きたくなったことを書かせていただきました。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

質問者からのお礼

文法先生ありがとうございます、質問歓迎で安心しました。
本を紹介してほしいと言ってしてもらったのに文句を言うわけではないのだけど、以前先生がお薦めしてくださった本、あれは3冊の中で一番難しかったんです。仏教用語や歴史的な背景などを知ることができるのでやっぱり教科書があったほうがいいと思いますが、本に載っていることをこれはどういうことなんだろう?と頭で難しく考えていました。智慧の説明も、訊かれてそう言ってしまったけれども今の時点で私自身よくわかっているわけではないんです。浅くてもまだわからなかったかもしれないけれど、本当に深いですね。
ただ、日常生活の中で前の私だったらこうは考えなかったな...と気がつくことがちょこちょこ出てくるので、ここ半年位で読み聞きした仏教が少しずつ浸透しているのかもしれません。

英俊先生、詳しいご説明ありがとうございます。
「智慧って空を悟る力のことなんだよ」と言い直したら今度はその「空」を説明しなければならなくなって大変なので、智慧の説明で全然違うことを言ってしまったのでなければあとはもうそっとしておきたいです…世俗諦と勝義諦も自分でよくわかっていなくて、人に説明できるような感じではないんですよ。実体がないということ自体、まだよくわかっていないんだと思います。

覚元先生、ありがとうございます。
子供の頃、しーんとしたお寺で何人か並んで座っていてそのうちの一人がお坊さんにクリケットのバットみたいな物で肩をひっぱたかれるのをテレビで見たのですが、先生のお寺はそんな厳格な感じではなさそうなのでお邪魔するかもしれません。初めて読んだ仏教本の禅の章がいまだに理解できなくて、そのままになっています。頭で色々考えるより実践だというのは今までのことでつくづく思っていました。座って静かに目を閉じても私は常に何か考えているというか、次に何をやろうとか考えが頭に浮かんできてしまって、無心になることはとてもできなさそうですが…それでもまず坐禅を組んでみれば何か変わるかな?人間の考えが「仏っ飛ぶ」かも。

大慈先生こんばんは!ありがとうございます。
私も仏教と繋がって少しずつ影響を受けてきたのですね。過去に自分が考えていたことが段々変わってきているのを見て、自分って何なんだろう?思っていたほど確かな存在ではないみたい、と思いました。以前は自分が無くなるなんて信じられなかったけれど、それは私が実際に消えて無くなるというわけではなくて、周りから独立して存在している確かな私ではないということだったのですね。
最近友達の友達が亡くなったという知らせを受けて、遠い国の会ったこともない人だったのに少し悲しい気持ちになりました。関わりのなかった人にそんな感情が湧いたことは今までなかったので、前に比べて他人と自分は全く別物という感覚が少し薄れてきたのかもしれません。

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