どうすれば自信がつきますか?
こんにちは。
さっそくですが、本題です。
わたしは自分に自信がありません。
自信がないからこそ常に周りの人間と自分を比べて、
Aさんには〇〇で私のほうが秀でている
Bさんには△△で私のほうが勝っている
と無意識のうちに考えてしまっています。
自分が優っている点が無い相手に対しては
近づきたくない、と思ってしまいます。
(本当に何においても優ってないかどうかではなく、自らが自分の方が優っている点を認められるかどうかが問題です。)
自分に自信が無いことで気持ちが沈んでしまったり、
交友関係が狭まってしまっていると感じたり、ということに悩んでいます。
常に自信があるフリ、堂々としていて怖いものなど何もないフリをするのに疲れてしまう時があります。
自分にも弱さがあると認めること、それを他人にさらけ出すことが恐いのです。
「強いわたし」という仮面が剥がれたらみんなが離れていってしまうような、
離れていった何人かは自分の「敵」にさえなってしまうのではないか、
というような強迫観念、自信の無さから
自分は強い、自分は他人より優っている、と強く思わないとやっていけません。
(この辺は小学生の頃にイジメにあい、4~6年生の間に転入先の小学校でクラス替えがない学級の中、たった独りで耐えなければならなかったことの影響かと思います)
もっと肩の力を抜いて人を信用し、
自分を認め、本当の意味での自信をつけるにはどうしたらよいのでしょうか?
太る太ると思いつつ甘いものがやめられません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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・・・
「比較しない」というより「比較できない」ことを悟ることです。
そもそもお釈迦様の「天上天下唯我独尊」とは、そういう意味。
お釈迦様はどんな存在でも天地宇宙にたった一つだけの存在なのだから比較すること無く、そのままの自分を愛し、全うしなさい、という広大な人類愛を説いたのです。
反対に言えば、今後も比較をしていくうちはあなたは一生自分を愛せない。
何故ならある分野で世界一になり自分が優れていると思っていても、別の面では他者のほうが優れているわけですから、比較する毎に、小さな負け意識が幾度となく起きるからです。
何の取り柄のない人でも比較しない人、こころ豊かな人は、誰とも競争しないから勝敗はありません。
誰にも負けません。勝ちもしません。優劣、勝ち負け競争なんて仏教的にはお下品です。
「他人と自分とは比較できないのだ」という事を考えてみてください。
では、比較できない、とはどういうことかというと、
トマトにはトマトの良さ、唐辛子には唐辛子の良さ、
イチゴにはイチゴ、スイカはスイカ、パプリカにはパプリカの良さがあるのです。
みんな色は赤いですが、役割、機能、存在そのもの、みんな違うのです。
スイカは表面的には緑ですが、中は情熱に燃えたレッド。
それぞれが絶対に比較ができない絶対的存在なのです。
あなたのクローンでさえ、あなたではない。
どんなに小さいそっくりなクローン物質でさえも、空間的に同じところに存在することすらできない。だから同じものはこの世には存在しない。
SMAPやマッキー(←槇)の定番曲「世界で一つだけの花」でも歌われるように、どんな花も色も種、咲きかた、開き方、咲く時期も違う。椿なんか冬に咲きます。
だからこそシャバいですが天上天下YOUが独尊、それぞれが尊い絶対存在なのです。
続きは、有料会員様のみ閲覧可能です(笑)。
どんな命も尊く、不完全だから、寄り添い 支え合えるのです。
イジメに合い、自分が しっかり自分を認めてあげなきゃ、誰よりも強く思う気持ち、よく分かります。その時、誰かに相談したり、守ってくれる人はいましたか?
イジメは、卑劣な行為です。辛かったでしょう。
あのね。どんな人でも、完璧は難しく、最強になんてなれない。
自分のほうが 優れていると思いながら、周りを見たり、人を選んでいると、しんどくなっちゃうよ。どういう価値観で 優劣をつけているのかな〜 それも自分の物差しだものね。そういう風に、生きていくと、大切なものが見えなくなってしまいます。
どんな命も尊く、不完全だから、寄り添い 支え合えるのです。受け入れることが出来る、だから また、成長できるんだよ。
みんなちがって、みんないいんだよ(*^^*)
それは、いろんな事を経験し、たくさんの仲間と出会ったから、気付けること◎
強い力や、高い能力があるから、優れた人になれるのではなく、互いを尊重する 気持ちが持てた時に、自分は強く強くなっていけるのだと思いますよ◎
何でも 気持ちを言い合える友はいるかな〜 無条件に愛せる人はいるかな〜
そんな存在が、自分を変えてくれると思います。
(自分の気持ちをさらけ出した時、その事に対して バカにしたり笑うような人は、人を大切に思えない人です。お付き合いはやめたらいい)
B4とA4とB5
B4様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「比べる」ということに関しましては、これまでの、問い「周りの友人が羨ましくてたまりません。」( http://hasunoha.jp/questions/290 )や問い「人の成功を喜べません」( http://hasunoha.jp/questions/184 )、問い「友達の幸せを喜べない自分が嫌い」( http://hasunoha.jp/questions/124 )も参考になるのではないかと存じます。
さて、B4さんのお名前にちなんで、B4とA4とB5の紙を用意して下さい。
A4は、B4と比べると「小さい」。でも、B5と比べると「大きい」。
では、A4だけでは元々どうでしょうか?
「大きい、小さいもありませんね」
A4は、A4、B4はB4で、それでそれぞれ必要な役割を担うのであります。
あなたご自身も、元々優劣はありません。優劣は、ただ色々な関係性の中において一応は相対的に判断ができるものの、実体として、固定して捉えることができないものであります。あなたご自身はあくまでもあなたご自身として、現実に即してやれること、できることで頑張っていかなければならないのであります。
それぞれはそれぞれで特別です。ただ、全てが特別ならば、特別なものは何一つもないことになります。仏教で言うところの「無差別(むしゃべつ)」とはこのことです。
もう一つ、A4の白紙、どちらが「表」でどちらが「裏」ですか?
「・・・」
そうです。どららが表で裏か決めれません。
これが私たちのもともとの世界のありよう、仏教的には「無分別」と申します。
ところが、私たちは「分別」という作用力にて、モノ・コトを色々と分けて認識・理解していくこととなります。
もちろん、どちらが表で、どちらが裏かは、B4さんの自由にて決めることができますし、B4さんがそこに何を書き描こうとも自由です。
自分を信じて「決めた」こと、「書き描いたこと」が、認められていけば「自信」に繋がることになるでしょう。
ただ、本来は「無分別」だと言っても、何でもかんでもが許されるというものでもありません。世間の常識や慣習を無視しては成立しないこともありますので注意が必要となります。
字数制限の関係上、ここまでにて・・
川口英俊 合掌
「シンドラーのリスト」という映画を御存知ですか?
B4さん、既にこの映画をご覧になっていたらごめんなさい。
日本では1994年に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」という映画があります。この作品の中にまさしくB4さんがおっしゃる
"「強いわたし」という仮面が剥がれたらみんなが離れていってしまうような、 離れていった何人かは自分の「敵」にさえなってしまうのではないか、 というような強迫観念、自信の無さから 自分は強い、自分は他人より優っている、と強く思わないとやっていけません。”
という人物が出てきます。彼はその強迫観念から弱い立場の者をたくさん殺します。そんな彼に主人公のシンドラーが"本当の強さ”を説きます。
僕がこの映画を見たのは5年前です。5年前も今も、僕は弱い人間です。だけど僕はこのシンドラーの言葉を聞き、出来るだけ心がけ実践していく中で、弱いながらも自信がつきました。ただ、僕はスピルバーグ監督やシンドラーにはとても及ばないので、その”本当の強さ”を伝えることはこの映画に託します。
アカデミー賞を7部門も獲得したとても有名な映画なので、どこでも手に入ると思います。また、3時間を超える大作なのでじっくり腰を据えてご覧になってください。
心の片隅に
B4さま(紙のサイズみたいなお名前ですね)
なごみ庵の浦上と申します、よろしくお願いします。
ご質問を読んでいて、まるで自分のことを言われているような気がいたしました。
私も、人と自分とを比べて、自分が勝っている部分を見つけ、そして安心しているのです。
けれど同時に、根拠の無い自信も持っています。
これはきっと、親から愛情深く育てて頂いたことがその因となっているのだと思います。
そして僧侶となり、私がどんな劣悪な人間であっても、決して捨てずに救い取る仏がいるのだ、と知り、大きな安心感を頂いています。
B4さんは、小学校の時にイジメにあい、辛い思いをされたのですね。
多感な時期に3年間も辛い思いをされ、人を信用しにくくなったり、堂々としたフリをしてしまうのも、無理のないことかと思います。
でも、3年もの間イジメにあって孤独に耐えたのは、誰にでも出来る事ではないと思います。
その時に戻らないよう、自信に満ちた堂々とした態度を示し続けるのも、大変な努力だと思います。
すでに、人に誇れるものをお持ちなのではないでしょうか。
あとは、出逢いだと思います。
素のままのB4さんを、認めてくれる方との出逢いがあれば、肩の力も抜け、おおらかな自信も身に付くかと思います。
いつ出逢いがあるか、分かりません。
けれど仏さまは、常にあるがままのB4さんを受けとめて下さっている。
どうか心の片隅に、その考えを置いてみて頂けませんか。
比べることをちょっと休んでみませんか?
B4さん、ご質問ありがとうございます。
自信にあふれる姿は、頼もしくかっこいいですね。
でも、あなたは自信を持つために、自分より劣った人と比べて、自信を得ようとしているように感じます。
それがむなしいということに、あなたはもうお気づきになっているのですね。
人間は、比べるということでそのものの価値を決めたがります。
でも、そのものの価値というのは、他と比べてきまるものなのでしょうか?
わたしは浄土真宗のものですので、ご本尊は阿弥陀如来。この一仏によって救われると考えます。
その阿弥陀如来は「無量寿仏」「無量光仏」ともいわれます。
「無量」とは「はかることができない」そして「はかってはならない」ということです。
仏様は、人の価値を他と比べて計ることはされません。
私たちは、比べてはかることで、いろいろな苦しみを生み出しているのかもしれませんね。
仏様をお手本に、比べることをちょっと休んでみませんか?
そこから、あなたの本当の自信が、見つかるのかもしれません。
そもそも自信とは?
私も僧侶を35年させていただいて自信なんか、今でも持てませんよ。常に怖いこと つらいこと 苦しみの連続です。今回の震災でも、自分自身の限界も感じました。しかしながら自信も大事。最悪の事態を想定しておけば、そのとき乗り越えます。とかく人間は流されてしまう動物です。自分の一つ 思いを持つ それを持ち続けることが、積み重ねられ自信となっていくのでしょうでは。当然個人差はあります。人それぞれ、考えや環境がすべて違う。ですからまず、すくに達成できる目標を持って少しずつ、達成し進めば自信となっていくのでは。