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日本仏教とは何なのか?

回答数回答 12
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 初めてこちらで質問させていただきます。よろしくお願いします。

 私は現在、大学院で社会学を専攻しているのですが、同時に仏教に対しても強い関心を持っております。今後の人生は仏道を中心に据えて歩んでいきたいと思っております。

 現代の日本の政情を私なりに研究した結果、日本の将来には期待できるものがほとんどないという結論に至りました。日本の政治・経済・文化における凋落は民主主義・資本主義体制が崩壊するまで続くだろうと予測しております。

 この現状を踏まえて、私が歩むべき道は仏道以外に見出せないと思いました。しかし、日本仏教を信仰するにはいくつかの問題点があるとも感じております。

 まず、第一に宗派があまりにも多くどの宗派を信仰して良いか分かりません。様々な宗派の本を読んでは見ましたが、どの教えにも深く納得することができず、悩み続けている状況です。(最近では、禅とテーラワーダ仏教の教えに惹かれております。)

 第二に、日本仏教はもはやその求心力を失ってしまっているのではないかという問題です。鎌倉時代など、社会状況が大きく変化した時代には仏教は多大な求心力を持っていましたが、現代では賞味期限が切れた宗派もいくつか存在していると思うのです。(例えば、私の家の宗旨は浄土真宗ですが、個人的には信仰することに困難を覚えます。もちろん、歎異抄などの著作には深い感動を覚えます。)それが、さまざまな新興宗教を生み出す原因になっていると思うのです。

 これらの点を踏まえて、私は禅かテーラワーダの教えを学んでいきたいと考えているのですが、同時に躊躇もあります。その教えに賭けて救われなかった時のことが怖いのです。ここに非常な葛藤があります。

 結局、私がお尋ねしたいのは「私はどう生きるべきか?どの宗派を信仰すればよいか?」ということです。何かアドバイスがありましたら、どうかご回答下さい。よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 12件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教❝思想❞という思想としての仏教を捨てましょう。

現代の仏教思想、思想化された仏教は、仏教であるように見えても文字化、概念化されたものが多いです。
もちろん、それらは原点を指し示す為の月を差す指です。
ですが原点はお釈迦様。悟り果汁100%のお釈迦様が仏教エキスそのものですから、悟りと文字文言とでは、料理とレシピ、LIVE音楽と楽譜くらいの温度差があります。
さて、手を叩いてください。👏
それはテーラワーダの音か、日本仏教の音か、禅の音でしょうか。
そこに天台、真言、浄土、臨済、曹洞…の隔てなどないはずです。
宗派の枝葉に分けられる以前の響きを見抜いて下さい。👏
何のラベルも無き只の純粋音でしょう。
それが覚者=仏陀のまなざしです。(わかるまで叩く)
あなたは仏教を人間思想で隔てられた後のものとして観ている。
だから、思想化され物事が隔てられるのです。
今度はじゃんけんのチョキの手の形をしてみてください。
これ✌がチョキやピース、2、Vサインと隔てられる瞬間はいつどこで起こるのでしょうか?
よく、自分を見つめて明らめてください。
ただ、そこに、このようなさま✌があるばかりです。名前すらついていない。
言葉や概念、知識で隔てられた世界は、人間のアタマで後から、ラベルを付けたものなのです。
そのラベル以前に目覚めることが、仏教の入り口です。 
お釈迦様とて、自分を仏教なんて言っていません。
私も、かつて仏教の知識ばかり集めておりました。
ところが、知識・分別では❝救われ❞ない。
何年修行した、何万巻本を読んだ、誰それの元で学んだ、何万巻写経・読経した。
「で、今どうか?」という問いを自分に投げかけてみることです。
一本何十万円もするワインを沢山流し込んだとしても、今日家族、子供の笑顔を作りだせる一滴を産出できる生き方ができているかどうか。
その一滴水が身心から沸き出ることが仏教の醍醐、大悟エキスです。
自分や人を安楽に導くのにラベルは不要です。
悟りといっても、難解・深遠・誰にも伝わらん・誰も救えん、じゃ活きた悟り、生きた仏教エキスとは言えません。
だから、あなたはあなた自身を救い得る本当に薬効成分のある教えだけ学べばいい。
ラベルなんぞはどうでもよいではありませんか。
そこにラベルが無くとも、生老病死から救われれば真実のチカラ、仏法なのです。
ラベルにこだわりがなったら、すでにそこに真実があるでしょう。

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おきもち

偉そうに言うほど、民衆史をわかっているのか?

 結構挑発するようなことを言っておられますね。質問文を読む限りにおいて、あなたはよく社会学を勉強され、文献を読んで居られるようですね。敬意を表します。

 しかしながら、寺に生まれ寺を守り、あなたから見れば旧弊の中で生きている凡庸な住職ですが、敢えて言わせていただきます。所詮、あなたは「一知半解 」の世界の方です。もう少し自分の足で歩いて、宗教の現場を見てください。

 あなたの学識からみれば、批判の対象となる僧侶はたくさん居ります。しょうもない寺も多いかもしれません。でも、自分の凡庸さを自覚しつつも、現代日本社会における「日本仏教の在り方」を模索している僧侶もたくさんおりますよ。無論、我々もあなたの批判に答えるよう、しっかりととりくまなければなりません。あなたも「これだけの現場を踏み、これだけのフィールドワークを行い、これだけ従来の研究成果の上に自分なりの研究成果を積上げてきました。」と言える業績を示してくだi.

追記
仏教を選んでくださったことはありがたいと思います。でも、現時点で、あなたが仏教に求めているのは、自分の知識欲を満たしてくれるものとしての仏教であり、自分を飾りたててくれるものとしての仏教であるように感じます。テーラワーダも禅も、あなたを飾るアクセサリーとして関心を抱いているように、感じます。こんな文章であなたは納得しないんでしょうから、テーラワーダ協会なり禅道場なりの門を叩いてみましょう。
 それから、もう一つ。社会学を学んでいるなら、信仰に生きる人々の姿もきちんと知ってて欲しいですね。四諦八正道も六波羅蜜も知らないけど、「おかげさまです」と言って本尊様や御先祖様やお天道様に手を合せている方々はたくさん居られます。知識は無くても、仏教徒としての信仰に生きる方々が日本の仏教を支え、日本の社会を支えて来たのです。

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おきもち

 目の前の方の悩みや気持ちをしっかりと受け留め、心を開いてもらうように努め...
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人間の可能性を否定してはいけませんよ

今の日本に希望が持てないから仏道に生きる光を求める。
日本人はそんなに無力でしょうか。
近年に起こった二つの大震災を経験しましたがそれでも日本人はみごと復興を成し、また復興への底力を見せています。
今、私達日本人は熊本大分地震に遭いました。被災地のみなさんと国とすべての日本人が復興に向けて心と力をあわせています。日本人にはそれをやり遂げる底力があるのです。

法華経従地涌出品というお経に次のように説かれています。
『地より無量の菩薩が現れた』
釈尊亡きあとの末法娑婆世界に法華経を弘めることを他の世界の菩薩が釈尊に申し出ます。
しかし、釈尊はその申し出を断ります。
その理由は、この娑婆世界にははるか昔に教化した無量の菩薩がおり、この菩薩が法華経を弘めるからだというのです。
その言葉の後、地が割れ中から無量の菩薩が現れるのです。
この地涌の菩薩こそ我々日本人なのです。
阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本大分地震。地が揺れ地が裂けました。
しかし、どうですか。そこにはお互いに支え合い許し合い助け合う無量の日本人で溢れているではないですか。
まさしく地涌の菩薩が現れたのです。
我々は法華経に説かれた菩薩なのです。
釈尊からその底力を認められた大菩薩、それが私達日本人なのです。

世を捨てるには及ばないのです。

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おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れ...
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実は浄土真宗もいいですよ

おっしゃるように現代の日本仏教は窮地にたたされています。
檀家信者はもとより、真に信仰している僧侶も決して多くないと思っています。
お経典に何が説かれているかも知らずただ読経している僧侶が多いことに悲しくなります。

しかしながらそうではない僧侶もいます。
自身の信仰する宗教が大好きで一人でも多くの方に薦めたいと願って僧侶活動をしている僧侶もいます。

私は浄土真宗が大好きです。
お経の中で、お釈迦様のお言葉を知り、また親鸞聖人のお書物の中で親鸞聖人のお言葉を知り、お念仏はありがたいなぁと心から思っています。

すけのじさんに届くように布教していきたいと思いました。
ありがとうございます。

追記:
私もすけのじさんと全く同じでした。
でも何故か分かりませんがそんな私も今は阿弥陀如来の御法義を慶んでいます。
ほんと不思議なことです。
「信じれる」か「信じれない」かを問題にしていくとド壺にハマります。
浄土真宗は「聞即信」といい、聞くことがそのまま信心になります。
是非、浄土真宗の御法話も聴聞する機会を作って頂きたいと願っています(^^)

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おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...
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あなた自身が、あなたが憂う社会の問題と戦ってください。

すけのじさんへ。こんにちは。
あなたは現実に悲観し、仏教に見出そうとして悩んでいるのですね。素晴らしいことです。
ただ残念なのはあなたが問題を打破していこうという熱い志が見えないからです。

誰も未来が成功するなんてわかりません。しかし、みんな自分の選んだ道を信じ命をかけて現実の問題と戦い、少しでも良い方向に変革してきました。今の日本の民主主義・資本主義体制も多くの努力と命の犠牲の上での成果です。あなたがいうようにまだまだ不十分だからこそ次は私たちが命をかけて更に少しでも変えて次の未来に託さなければなりません。

私は、今の日本は鎌倉時代と同じだと思っています。鎌倉時代と同じように、地震が頻発したくさんの死者が出ています。この現実を見て鎌倉時代と同じように新たに立ち上がる僧侶・人々がこれからたくさん出てくると確信しています。今の鎌倉仏教宗派も当時の新興宗教です。

熊本地震でも多くの人々が立ち上がり救済に向かっています。すけのじさんは立ち上がっていますか?もし仏教に救いがあると見つけたなら、なぜ失敗を恐れず飛び込んでください。教えかけて救われなかったら怖いから学ぶ宗派を教えてくださいなんて、自分の人生の選択をなぜ批判している日本仏教の僧侶に預けるのですか?

私は高校時代に日蓮聖人の『立正安国論』を読んで感動し、就職を辞めて仏教を学ぶために大学に通いました。学費は新聞奨学生で全額稼いで大学を卒業しました。親に大学費用を出してもらいながらも遊びほうけて勉強もしない堕落した僧侶学生の現実に絶望し新宗教に入りました。そして天台宗の師僧に導かれて嫌いな僧侶になりました。

すると、この世界に入って自分の視野の狭さ、日本仏教の理解のなさを知りました。今でも比叡山では千日回峰行や十二年籠山行など、命がけの修行しているお坊さんがいます。人に知られるのを避け黙々と地道に修行している僧侶がたくさんいることも知りました。しかも答えが出るかどうかわかならい修行を、ただただ仏さまを信じて行じているのです。もし一生かけて道を間違ったとしてもこの道は間違いであるということを次の人々に教えることができます。

すけのじさん、見えない未来を恐れてはいけません。ただ自分の選択を信じ実行あるのみなのです。あなたはまだまだ若い。今の時間を大切にして自分を磨いてください。

合掌

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おきもち

★僧伽(お友達)になりましょう。一緒に仏教を楽しみましょう★ Email...
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歎異抄をもっと深く掘り下げてみましょう

 世の中は良いものが残り、悪いものはなくなります。日本の政治・経済・文化の行く末、民主主義・資本主義体制の今後については、本当に悪いものであれば、なくなっていきますので、どうなっていくか見ていきましょう。そのためにも、あなたはきちんと政治を見て、きちんと投票にいきましょう。

 「日本の仏教」というか「世界の仏教」というのか、私は仏教は、どれでも全部一緒の目的を目指していると考えます。
 ただ、山登りに例えると、同じ頂上を目指すに当たって、どのルートを通るのか、装備はどうするのか、そのような違いなだけだと思います。
 だから安心して選びましょう。ただ途中で浮気はしない方がいいですよ。これと決めたらそれ一本で行った方が近道です。山登りだってそうでしょ?途中でやっぱりこっちのルートに、やっぱりこの装備で、などととやっていたら、遠回りになります。
 あなたのご家庭の菩提のお寺が浄土真宗であれば、浄土真宗を参究していくのが一番だと思います。今のところ教えは馴染めないなぁと思っているようですが、「歎異抄」に興味があるのなら、ひとまず歎異抄をもっと深く掘り下げてみましょうよ。なぜ阿弥陀如来なのか?って。私は浄土真宗でないのでよくわかりませんが、浄土宗・浄土真宗の方は、阿弥陀如来を「信じる」のではなく「お任せする」という言葉を使いますね(浄土宗・浄土真宗の方、違っていたらすみませんm(__)m)。「お任せする」とは何なのか?いろいろ参究してみてください。きっと好きになりますよ。

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おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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真の仏道を歩みましょう

すけのじ様はじめまして。ご相談拝見しました。私は浄土真宗の僧侶です。ご期待に添えなかったこと申し訳なく思います。
さて、日本の政情に落胆し仏道に道を見出したとしても、それが自らの救いのみを目指す歩みであるならば真の仏道であるとはいえないでしょう。
どの宗派でも仏教の目指すところは成仏(仏に成る)であります。仏(真理に目覚めたもの)となるものの他との交わりの基本姿勢は自利利他円満の境地でしょう。
自利とは自分がさとりを開いて仏になることであり、利他とは他をさとりに到らしめる。つまり、救うということで、それらが別々のものではなく、自らのさとりが、そのまま他のいのちの救いであり、それが欠けるところなく満ちているということであります。
他との交わりとは人間関係に留まらず、社会との関係もまた然りでしょう。まだ若く研究熱心なすけのじ様です。これから真の仏道を歩み、そして社会とも交わっていく仏弟子となることを念じております。
私もすけのじ様のおっしゃる通り、現代の経済至上の資本主義体制のままでは社会に限界がせまっているのではないかと感じております。
「世界一貧しい大統領」として知られたムヒカ前大統領の言葉に
「私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです」
とあります。真の仏道は真の幸せを目指すものと言っても間違いではないと思います。私は浄土真宗がその道からはずれているとは思いません。
すけのじ様が信じようが信じまいが、この世界には真理があります。真理は常に私たちにはたらきかけています。その真理を南無阿弥陀仏というのです。

追記
本回答で「真理」とは仏陀釈尊のさとりを指します。真理は釈尊が作ったものではく、釈尊以前から存在したが故に釈尊はそれに目覚めたのではないでしょうか。それは「中道」「縁起」「四諦」等で表現されていますが私たち凡夫には思議することのできない、正に不可思議なものなのでしょう。
しかしだからといって私たちが「真理」に全く触れることができないのではなく、法に照らされることにより「真理に背いていると自覚される」という形でそれに触れることができるのではないでしょうか。
すいません、字数制限があり、回答しきれません。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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浄土真宗ですが何か?

いまは、自由に考え、自由に行動し、自由に表現することが許される時代になったんです。ますますよくなります。今世紀は、物資の時代ではなく心の時代だと考えています。個(魂)が解放される、救済される時代が到来すると私は考えています。次に、日本仏教が求心力を失ったとありますが、これからますます社会的な必要性を増すと私は考えています。葬式仏教的な意味では、凋落するかもしれませんが、家の宗派に属さなければならないという呪縛を離れて、心の在り方、魂の救済という意味では本来の役割をこんごますます大きく果たして行くであろうとういうのが私の考えです。いわば、仏教ルネッサンスです。こんな時代だから、新興宗教が勃興したので、あってすべての帰責を伝統仏教に求めるのはおかしい。お釈迦様の教えは対機説法です。選び取るんです。どれが正しいのか、ということではなく自分に合うものは何か?服を選ぶように選択したらいい話だ。情けないことに失敗を懼れ躊躇している。失敗したら取り替えたらいい。私は数々の修行、30余年を経て、法然聖人、親鸞聖人の教えに深く帰依するに至った。こんな愚かな自分を救ってくださるのは阿弥陀さましかましまさぬという強い信念のもとにある。それだけの話なのに、浄土真宗云々とは大きなお世話だ。あなたが、禅をとうろと、テーラワーダ仏教をとろうとあなたの勝手です。そこで、失敗して成道を得られなかったとしても、それはあなたの現世での因縁であって、こちらの問題ではない。とことん阿羅漢を目指したらいい。ここは、人生に悩み、苦しむ人が、助言を求める場です。私は、非力な愚者ですが、そんな自己と見つめあい、できる限りに足らない知恵をしぼって、おこがましくも助言させていただいている。信仰とは理論ではない、信じることです。この点をもう一度原点に帰っていただきたい。
追伸 詮ずるところ、愚身が信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御計らいなり、と云々。正邪を図る眼力などあろうはずもない。人との関わりの中で説いているようで説かれている我が身を顧みる。いたらね我が身なれば、弥陀にすがる。頭で考えても所詮は思慮の範囲。迷いの渦中。そんなものはスパっと切り捨てて、目の前の仏、経典を信じてみる。信じきる。そこに信仰が生まれると思います。

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浄光寺の三浦康昭です。 くよくよと考えてもしかたがありません。明るく前向...
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仏教を一通り概観しての感想※補足追記あり

すけのじ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙生も、一時、すけのじ様と同じような認識に至り、初期・根本仏教から、一から仏教を学び直して、今に至っています。現在の学びの中心は、チベット仏教となっております。

ある程度、仏教を一通り概観致しまして思いましたのは、仏教の根底に控えている釈尊の真意を理解することの必要性でございます。

それを理解せずにして、ある特定の宗派の教義や、ある一面の教義にとらわれてしまっては、それこそがセクト化による独善・排他性に繋がり、カルト化しての弊害があるのではないかと存じております。

とにかく、盲目的に信仰するのではなくて、批判的に、合理的に検証を繰り返しながら、納得できるものは納得して受け入れて、実践に役立てていければ良いのではないだろうかと存じます。

※お礼を読んでの補足・・下記問いの拙回答もご参照下さいませ。

問い「偽経と信心について」
http://goo.gl/O0iXly

・・

以下は、以前の拙回答の引用となりますが、ご参考にして下さいませ。

仏説は八万四千の法門と言われますように、多くの教えがございます。どうしてそんなに多くの教えが説かれたのかと申しますと、釈尊は、相手の機根(悟りへと向かうための能力・資質)に応じて、巧みに悟りへと導くために説かれた(善巧方便)からでございます。

簡単には、一人一人それぞれに対して説かれた、または八万四千の煩悩の一つ一つの対処法を説かれたと考えることもできるでしょう。まあ、それらの教えのある程度の公約数が、各宗派的なものとしてまとまっていると考えることもできますが、ではいったいどの教えが自分に合うのかと申しますと、やはり、ある程度それぞれあたりを付けていく必要があるのではないかと存じます。

かといって、全ての仏典や論書等を読むには膨大な時間と労力がかかってしまいますから、とにかく仏教思想の全体を概観できるような入門書、参考書からまずは学ばれていかれると良いのではないだろうかと存じます。

中略

仏道を歩む上で大切となるのが「菩提心」でございます。まずは、しっかりと「菩提心」を起こして、そして、悟りへと向けての「智慧(空の理解)と福徳(方便・功徳の実践)」の二資糧を確かに積んでいくことが必要となって参ります。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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一連の流れは長いのでつまみ読みしかしていませんが気付いた点を

まず、大学院にいるうちに哲学部のゼミや研究室で学びましょう。私も教授に内諾を得てゼミをモグリで掛け持ちしていました。なぜ哲学部か?理由は2つ。

第一に神話的文章の暗喩にアンテナを張る訓練ができるから。神話は聴いて3秒で「理屈っぽい」と感じたら耳を閉じてしまう人たちに如何に説くかという創意工夫と、論理に飽きたお貴族さまの感性をくすぐる劇的描写とを含むものです。
分かりやすい例がこれ。
http://nihonsinwa.com/page/233.html
生物の死体が分解されて養分となり、植物が育ち、植物を生物が摂取し…という炭素の循環のような『真理』が暗喩で説かれています。

第二に思想哲学を学ぶ上で鉄則である「自分の考えを差し挟まずに読む」訓練ができるから。これには十分な期間の訓練を要します。

ところで仏教学もいい加減ですよ。仏教学は文献学ですから、お葬式もするし現世利益・来世利益のご祈祷もする生活に根ざしたテーラワーダには驚くほど疎いです。そういうのは文化人類学などの領域ですので仏教学を叩くのも筋違いですが。それでもアッチの歎異抄レベルとコッチの地方寺院レベルの法話とを比較してアッチの方が真の仏教!みたいなよくある論法はちょっと乱暴ですよね。

次に、これが一番申し上げたい所ですが、仏教の宗派は大学の専攻のようなものくらいに捉えてください。実際、鎌倉仏教の宗祖の多くは比叡山出身であり、当時の比叡山は禅・密・浄土兼学の総合大学でした。
また、テーラワーダにせよ禅にせよ、結局はこういうこと↓を説いています。
http://hasunoha.jp/questions/2956
教養科目と専門科目のように併修してもオッケーです。肩の力を抜きましょう。私は禅宗ですが、タイ系上座部で出家修行も経験しています。
ただ、ご先祖さまの希望である家の宗派と、個人の宗派とを割り切るのがコツです。

最後に、キノコタケノコ戦争系の話題は荒れるに決まってるのですから言い回しに気を付けて下さい。智慧と慈悲の教えを100回読むより、トゲのある言葉を今控え、慈悲のある言葉を今発し、和合するのが仏道です。諸悪莫作・衆善奉行。『今、自分が実践する努力』がなければ、どんなに納得しようが哲学的お遊戯に過ぎません。

リンクも含め長文失礼しました。
追加のご質問は新しく立てて下さい

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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考え過ぎです!。行動しましょう!。

私も若い時に、どう生きればいいのか悩んだ時期がありました。サラリーマンも、介護の仕事も新聞配達等もしました。またバックパックを背負ってアメリカを横断したり、インド、ネパール、アフリカ、ヨーロッパも旅しました。これは今の私の財産です。頭で理想郷を描くのは良いですが現実はそうはいかない!。日本は素晴らしい国です。外国は日本よりもっともっと厳しい現実と向かい合って生活しますよ。また、私は色々な仕事、家庭、地域社会の生活を通して、どれだけこころ優しい人たちに助けて頂いたか。すけのじさん、頭では答えは得られません。「私はどう生きればよいか?。どの宗派を選んだら良いか?。」本の中にも人の言葉の中にもありません?。あなたが、自分に問うのです。わたしは誰ですか?。何が得意で、何が苦手で、何が好きで、何が嫌いですか?。沢山の人と真剣に触れ合って、泣いて笑って、傷つけて、傷く体験をしましょう。真剣に歩く道は、必ず仏道に通じます。色々の宗派を体験ください!。何が自分に合っているのか肌で感じてください!。信仰とは自分の心の道を歩く事ではないでしょうか.。あなたまだ若い、心のあり方をお釈迦様の教えを参考に沢山悩んで沢山の経験をして、世の中をもっともっと良くして生きましょう!。

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青年の自立支援(生活改善・病後の静養・引きこもり等)
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信仰は賭けるものではない。※追記3あり。

本願寺派の僧侶。

日本の将来に期待が出来ないことと自分の進む道が仏道以外にないこととをくっつけているのが不思議。文脈からは日本が凋落しようがしまいが関係なくすけのじさんは仏道を志すのではないかなと思った。

「宗派が多すぎてどれを信仰して良いかわからない」という疑問は仏教を「選んだ」のと同じ理由で解消される。つまり、その教えが事実であると「知る」。

信は賭けるものではない。パスカルのような見方もあるが、賭けたり思い込んだりするのではなく、それが事実であると知られるのが信。事実はただ「知る」だけ。確信の必要はない。

なお、誤解があるようなので一応言うが、いわゆる「大乗非仏説」は江戸時代から言われている。明治からではない。(真宗の中では超有名。)また、仏教の根幹部分にテーラワーダがあるわけではない。釈尊の直説に最も近い形態ではあるようだが、テーラワーダさえ釈尊の直説ではない。テーラワーダも仏教の一つのあらわれに過ぎない。

http://hasunoha.jp/questions/5014
この質問への回答にも少し書いたが、自分が確実に仏に成っていく営みが仏教だ。仏教は、釈尊の直説だけでできているわけではない。

自分が仏に成る教え以外はウソだ、と言いたくなる気持ちはわかるが、言うべきではない。わたしはキリスト教やテーラワーダがウソだとは言わない。わたしにはそれがウソでないとわからないだけだから。その教えの文脈で理解して尊重すべきだ。

自分の善悪・正邪の価値判断を調伏するのが仏教だ。

> 「私はどう生きるべきか?どの宗派を信仰すればよいか?」

そのまま生きていけば良い。ここで何をどう言われようとすけのじさんは自分が良いと思うように生きていくのかなと思う。そして、宗派、というか、教えは、自分が積極的に納得するものではなく、ごく単純に事実である教えを信仰していくのではないか。それで良いと思う。

追記:他者の話をその文脈で理解する努力をしてほしい。「つもり」は「つもり」に過ぎない。回答には千字の字数制限があるため文脈が変わらない範囲ですべての文末を単純化して再々回答した。

自分が納得したから信じるのでは自分が仏教より偉くなっている。それは仏教の信ではない。

字数超。丁度よい。理解できること以外は何を言われても納得いかないなら突き抜けるまで自分で考えて。

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石田 智秀 (ちしゅー)
お寄せくださった質問について考えさせていただくことで、必ず回答できる場合ば...
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質問者からのお礼

釈心誓様 ご回答ありがとうございます。私も親鸞聖人や蓮如上人の思想や言葉には深い感銘を覚えます。しかしながら、最後の「阿弥陀如来を信じる」ことがどうしてもできないのです。私は「何かを信じる能力に欠けた人間」であると思います。そのような人間には、テーラワーダや禅の教えを学ぶしか道がないのだと思っております。

常在様 ご回答ありがとうございます。もちろん、現場ではそのような助け合いの精神が息づいていると思います。ですが、社会学的に考えると、どうしても日本が今のままのシステムで国力を回復するとは思えないのです。資本主義は弱肉強食の論理であり、民主主義は衆愚政治へと堕してしまうのが世の常です。現に現代では数多くの方が自死されています。このような世の中で明るい将来を思い描くことは難しいのではないでしょうか?

吉武文法様 ご回答ありがとうございます。私からさらにいくつか申し上げさせていただきます。吉武様は「自利利他円満」の境地が、仏道を歩む上では重要であるとおっしゃっております。私もそれは否定いたしませんが、果たしてお釈迦様はそこまで利他行を重視していたのでしょうか?少なくともテーラワーダの経典を見る限りでは、個人の悟り(阿羅漢)を目指すことが出家者の第一の目標となっています。それを「小乗の教えだ」と蔑むことも出来ますが、少なくともテーラワーダの方がお釈迦様の教えを忠実に伝えていることは、今では学問上の常識です。これを踏まえて、浄土真宗かテーラワーダのどちらを仏説と呼ぶにふさわしいかは、火を見るより明らかではありませんか?(もちろん、浄土真宗を信仰することで救済される方も数多くいらっしゃると思います。)さらに付け加えさせていただきますと、私は「真理」や「幸せ」という言葉が嫌いです。それが何を指しているか、私には全く分からないからです。

吉田俊英様 ご回答ありがとうございます。当然、私は知識だけで経験に乏しいまだまだ未熟な若者です。しかしながら、未熟な私が「この教えに賭けよう」と思うことができない教えに、果たして意味はあるのでしょうか? 私も自分なりに真剣に学んできたつもりですし、修行の経験も多少あります。しかしながら、未だに日本の仏教に対しての疑問が払拭しきれないのです。若者が既存宗教ではなく新興宗教に惹かれるのも、既存の宗教が若者の葛藤や不安に答える力を失っているからではありませんか? 「それでも良い」と言われるのであれば、これ以上申し上げることは何もありません。

光禪様 ご回答ありがとうございます。「世の中は良いものが残り、悪いものはなくなる」その通りであると思いますが、問題は既存の政治経済システムに変わる新しいシステムを人類が未だに考え出せていないという点にあると思います。また、「仏教は、どれでも全部一緒の目的を目指している」と言われていますが、果たして本当にそうでしょうか? 各々の宗派が各々の境地を目指していてはいけないのでしょうか? もし同じ目的を目指しているのであれば、なぜ日蓮は他宗を批判したのでしょうか?

染川智勇様 ご回答ありがとうございます。さらにいくつかコメントさせて下さい。「熱い志」は無条件で素晴らしいものでしょうか? 私は、「熱い志」を持ちすぎた大人が世の中を悪くしてきたと思っています。むしろ「夢や希望など必要ない」と言った方が仏教的ではないでしょうか? また、「自分の人生の選択をなぜ批判している日本仏教の僧侶に預けるのですか?」という点に関しては、おっしゃる通りだと思います。最後は自分の責任で決断するしかないですよね。また、「もし一生かけて道を間違ったとしてもこの道は間違いであるということを次の人々に教えることができます。」という考え方は、私にはないものだったので非常に参考になりました。ありがとうございました。

三浦康昭様 ご回答ありがとうございます。お釈迦様の教えは対機説法だと言いますが、お釈迦様は浄土真宗のような教義を本当に説法していたのでしょうか? 私は、「信じるのであればお釈迦様の説いた正しい教えを信じたい」と思っているだけのですが、それではいけないということでしょうか?私も私なりに悩み苦しんでこちらで質問させていただいているのですが...。

萩原徳雲様 ご回答ありがとうございます。やはり、行動するしかないと思いました。

三浦康昭様 ご返信ありがとうございます。それでは、三浦様は人や法の正邪を見る目をお持ちだということですか? また、信仰とは服を選ぶように選択すれば良いものでしょうか? 私にはそうは思えません。さらに付け加えさせていただきますと、三浦様が「非力な愚者」であるならば、なぜ人々に対して助言をすることができるのでしょうか?

三浦康昭様 それでは、やはりマックス・ウェーバーの言うように、「信仰のためには『知性の犠牲』を捧げなければならない」ということですね。ご回答ありがとうございました。

川口英俊様 ご回答ありがとうございます。本当に現在の経典は全て釈尊の直説なのでしょうか? 仏教学の世界では「大乗非仏説論」、つまり大乗の経典は全て釈尊の死後に作られた偽経であるという見方が主流になっています。ですから私は、釈尊の教えを比較的忠実に伝えているであろうテーラワーダ仏教や原始仏教への回帰のように見える禅の思想に強い興味を覚えるのです。評論家の呉智英氏の「つぎはぎ仏教入門」という書籍には、「本物の純金が数パーセント入った金の喩え」が書かれていました。日本仏教はいわばイミテーションであると。しかしイミテーションでも良いという場合は幾らでもあります。大金持ちのパーティなどでは本物は金庫に預け、そのイミテーションを着ける。またイミテーションのおかげで広くみんなにゴールドの輝きを楽しんで貰えることができる。同様に仏教に色んな宗派があったとしても、それは一片の真実を含んでいるということであると氏はおっしゃっています。そもそも本来的な仏教は実社会と無関係のラディカルなものなのだから、イミテーション位が丁度いいともいえると。現在の仏教はそのようなものではないでしょうか。

石田智秀様 ご回答ありがとうございます。さらに、いくつかコメントさせていただきます。まず、「日本が凋落しようがしまいが関係なくすけのじさんは仏道を志すのではないかな」というご意見ですが、半分はそういった側面もございます。しかし、あとの半分はやはり「大きな物語」を失った閉塞感の漂う社会で、私が生きていくには仏道を生きるしかないという思いからです。私が仏教を選択したのは、四法印に深く納得させられたからです。はじめに「信」ありきの教えにはどうしても馴染めません。これからの仏道も、納得できるものを選びたいという思いがあります。「信は賭けるものではありません。」というご意見ですが、浄土真宗の教義は全て事実なのでしょうか? 少なくとも私には「悟り」や「阿弥陀如来」や「浄土」が何なのか全く分かりません。分からないからこそ信じるという意味で「賭ける」という言葉を使わせて頂いたのですが。テーラワーダ仏教が初期仏教そのままの形ではないことも承知しております。しかしながら、テーラワーダ仏教の長老の著作を読むと、頭で理解できる部分がより多いのも事実です。「仏教は心の科学」だという長老の意見は現代人にとって受け入れやすいものではないでしょうか? 私には、禅やテーラワーダ仏教の教えには深く納得できるものがありました。

石田智秀様 ご返信ありがとうございます。どの部分が理解できていないとお考えでしょうか。私は全て「その文脈で」理解しているつもりでいますが。

石田智秀様 何度もご返信いただき、誠にありがとうございます。しかし、やはりまだ分かりません。石田様はおそらく「浄土真宗の教義は全て事実なのでしょうか?」という部分が文脈に沿った理解がされていないと思っていらっしゃるのでしょうが、私にはこのような理解しかできないのです。それとも「事実」や「仏」の定義が私とは異なるのでしょうか?「仏」って一体何なのでしょうか?

石田智秀様 重ねてご返信いただき、誠にありがとうございまず。先ほど、ご著書を拝読いたしました。お寺のご子息で真宗の学校も卒業されている石田様でさえ、信心獲得するのには非常に長い時間がかかったのですね。これほどの内面的な実存の転換が起きるのは、禅の悟りに近いものなのではないでしょうか? 私にはまだまだ道のりは遠そうです。どうしても理屈で理解しようとするクセがついてしまっているので、もっと素直に他者の話を聞けるようになれたらと思います。

大慈様 ご回答ありがとうございます。今後、言葉遣いには気をつけます。失礼致しました。

丹下覚元様 ご回答ありがとうございます。非常に分かりやすいご回答で、今の自分の問題点がよく分かりました。やはり、自分の凝り固まった思考を一度捨ててみることが必要だと思いました。

吉田俊英 ご返信誠にありがとうございます。吉田様のおっしゃるように、自分を飾り立てたいという思いが私にはあったと思います。失礼なことを記載して、申し訳ございませんでした。やはり、信仰は理屈ではないのですよね。申し訳ございませんでした。

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