人の秘密を暴く職業の方は、どのような業をせおうのですか?
女性週刊誌のカメラマンや、パパラッチのように、人の秘密を暴いてそれをお金にする職業の方は、どのような業をせおっているのですか?
それがいいこと、悪いことというのではなく、週刊誌をみる私達がいるからこそ成り立つ、必要な職業なので、別に彼らを非難しているわけではありません。
しかし、彼らのせいで芸能界をおわれたり、社会的な信用を失って仕事をなくしたり、一つの記事が人の人生を破滅させることもあります。
もちろん、元々は隠れて悪いことをしていた人達が一番悪いのであって、彼らはその秘密を世間に暴いただけかもしれません。
だからといって、何をしてもいいというわけではないと私は思うのです。
日本の長い歴史の中でも、密告や告げ口をして金銭をもらっていた人はたくさんいたと思います。
仏教の世界では、そういう彼らはどんな立場にいるのでしょうか。
最近の過熱するワイドショーをみて、色々と考えてしまうのです。
お坊さんからの回答 8件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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皆、煩悩具足の凡夫
私ども浄土真宗の開祖、親鸞聖人晩年のお言葉に
「凡夫」というのは、わたしどもの身にはあるがままのありようを理解できないという、最も根本的な煩悩、迷いの根源が満ちみちており、欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起り、まさに命が終ろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもない(一念多念証文・現代語訳)
とあります。八百年前、既に人間の本性を深く見つめた言葉です。
「凡夫」とは、自己の利益のためなら、他を犠牲にすることも厭わない。あらゆる欲求が交錯する日暮らしで、それが命が終わる瞬間まで続く。何とも、恐ろしく悲しき性ではありますが、最近のワイドショー・週刊誌は、正にこの欲求のためにあります。そして私たちの本性も…。
隠れて悪いこと(倫理に反すること)をした人、それを暴く週刊誌、その週刊誌の読者、そして今質問の中で週刊誌カメラマン・パパラッチに怒りを向ける ぱんだ道雪さん。皆同様に、怒り・腹立ち・そねみ・ねたみの心が絶え間ない煩悩具足の「凡夫」なのです。
私たちの目や耳は外に向いていますから、人のことはよく分かります。しかし、自分が欲望煩悩の身であるとは全く見えていないのです。
二千五百年前、お釈迦さま(仏陀)はその事を見抜き、救う仏があることを明らかにされました。
八百年前、親鸞聖人は自分自身が肉食妻帯する事により、非僧非俗、煩悩にまみれた「凡夫」であることを示し、仏の慈悲に包まれている報恩感謝の意を生涯明らかにされました。
ぱんだ道雪さんの主張は、一般倫理では正論です。でも振り返って私も実は煩悩具足の「凡夫」だと自覚できた時に初めて、様々に腹も立て、愚痴をこぼしながらも、いろんな方々とつながり(縁)を持ち、生きるというより、生かされている生活を感じる事ができるのではないでしょうか。
他に怒りを向ける前に、何気ない日々の幸せ(仕合せ)を感じて下さい。
水道の水を飲める。布団で寝られる。そして今生きている。実はみな稀有な事なのですよ。
仕事に貴賎はありません
こんばんは
おっしゃる通りだと思います。ヤリスギだなぁ、って思う事もありますよね。またそれによって人生メチャメチャになってしまった方もいてお気の毒だな、ヒドい事をするなぁって思います。
さて、例えば私はお米を作る事ができません。農家の方に作ってもらいます。それと同じで、私は芸能人のゴシップを知ることができません。だから詳しい人に調べてもらって、知る事ができます。(私もゴシップには興味はありませんが、まあ知りたくなくても知ることができます)
彼らの行動と仏教の戒律を照らしますと、確かに破戒行為となる事(不説過戒(ふせっかかい=他人の過ちを言いふらしてはならない) 不自讃毀他戒(ふじさんきたかい=自分の自慢 他人の悪口を言ってはならない) 場合によっては不妄語戒(ふもうごかい=うそ偽りを言ってならない))もありますが、私達は彼らの調べた事を放送で見て視聴率を上げたり、雑誌を買って販売部数を増やす事で、彼らに破戒行為を唆(そそのか)している事にもなりますよね。またそれを煽ったり、対象の方を攻撃しているのは他でもない私達なんですよね。
彼らに破戒行為をさせないためには、私達が、芸能人のゴシップに興味を持たず、そのような放送や雑誌を見ないようにする事、過剰に反応しない事だと思います。そうすれば仕事自体が必要なくなりますからね。彼らはそのような行動をしなくてすみます。(上のお米の例を使えば、農家を批判するのではなくお米を食べなければ良いという事です)
最後に、仕事に貴賎はありません。それが「業の仕業」とか、「業を背負う」と考えるべきではありません。
自分はどう生きるか、そこが仏教
ニカ-ヤ(阿含経)という経典にお釈迦様のこんな言葉があります。
「息子を持つものは、息子のことで思い悩み
牛を持つものは、牛のことで思い悩む
人は自分が執着しているもののことで思い悩む
実に、執着のない人は思い悩むことがない」
あなたの執着しているものはなんでしょう。
人の不幸をメシの種にしている人?
ちなみにお釈迦様は出家してからはひたすら乞食行で、供物を食べて生活し、生産的な仕事は一切しなかったそうです。
私は芸能人のゴシップには興味が無いし、週刊誌も読まないのですが、まあ確かに褒められたものではないかもしれません。
けれど、あなたはその当事者ではありませんね。
あなたの中に思いがあるように、記者さんには記者さんの思いがあり、取材される側にも思いがあり、読者にもそれぞれの思いがあります。
皆の思いがあなたと共通だとは限りません。
ものの見方は人それぞれですから。
他人は変えられません、せめてあなたはしっかり学んで、善い行いでご自身を磨いて下さい。
人の短を言う事なかれ、己が長を説く事なかれ
「業(ごう)」と書いて「なりわい=職業」とも読みますよね。
人間は業を負わずしては生きられない生き物です。
狩猟、農耕、牧畜、ベジタリアンか否かを問わず、他の命を自らの命の糧にして生きています。
問題は、自分の負った業によって、自分(あるいは子孫?)がどれほど苦しまないといけないか。
「人の短を言う事は、良い事では無い」というのが、先人のお智慧の一つであることは間違いないと思います。
なぜ「良くない」のか?
言われた人が非難を浴びて苦しむから?
それよりも私は、「人の短を言った人自身が、自らの寛容性を欠落させ、言った相手が近くにいるだけでストレスを感じたり、寛容性が萎縮することで、更に多くのストレスを感じる人や環境を作ってしまったりして、苦しむのを予防する為のお智慧」だと思います。
但し、自らの健康のための予防法であっても、それを実践し続けるためのエネルギーとして、「言われた人が可愛そうだ」という慈悲の念が必要になると思います。
まずは「人の短を言う事は良くない事」と自覚する、それでもそれを業(なりわい)とする人は、食べ物を頂く際の感謝(上手く例えれてません、すみません)のような念を抱くことで、業(ごう)に因る苦しみを軽くする事が出来るはずです。
週刊誌の読者となる人も、同様かもしれません。言われた人、言った人、共にその業によって苦しまずに済みますようにと祈る。
自分が、その記事を読むことによって何らかの欲求を満たされるのであれば、「良くない事」と自覚した上で、「いただきます」をすれば良いのでは無いでしょうか。
他人がどれだけ業によって苦しんでいるかなど、知る由は無いのです。
「良くない事」をしまくっている人なのに、甘い蜜ばかり吸っている様に見えるのは、自分自身の妄想に過ぎません。
そんな人は必ず苦しんでいます。
「どうかこれ以上あの人が苦しまなくて済みますように」と祈るのが、一人の人間として健全な行動では無いでしょうか。
ゴシップから私どもが「学ぶ」品位・品格が問われる。
子供が子供のアニメを見るように大人は大人のアニメを見たがる心理があるのでしょう。
大人が「身体だけ大人に成長」したとしても「こころがいつまでも子供」であると、人の不幸を喜ぶようなアダルトチルドレンのままです。ゴシップや人のプライベートを公開して鬼の首を取ったかのような個人の尊厳を尊重しない行為を喜ぶ人は、大人に見せかけた子供なのでしょう。
さらには、それを受け取ってどう対処するかが私たち大人が「本当に大人であるか」問われているところではないでしょうか。
ゴシップは諸手を挙げてウェルカムな内容ではありません。
ですが、百歩譲って物事には側面があります。
カメラが捉えた画像はその様子をそのまま映します。
その映像、話題、ニュースを賢い人は、賢く自らに機能させます。
よって、一見ゴシップであるように見えても、それが人によっては学びになるものです。
ゴシップをゴシップとして自身に機能させる人は、ゴシップ記事が文字通り、実質的にもゴシップにしかならないのです。そういう人生をこそゴシップ人生と恥じるべきです。
人には誰にでもそういうゴシップな一面がある。
ゴシップをネタにする人は、そういう人間のゴシップ面を引き出し、欲をあおるのです。
電車の中づり広告などはそういうキャッチフレーズにあふれているではないでしょうか。
そこを自ら自らの心の中のパパラッチに追跡させて、明るみに出して、自分の人間性の低さを恥じて、人の情報ばかり追う人生ではなく、自らが自らの人生を胸を張って生きられるようになることこそが、本当は必要なのではないでしょうか。
そういうことが、コンビニや本屋さんに並ぶゴシップ記事が説教してくれている別の一面です。
煩悩は悩み苦しみの原因
どんな仕事でも、欲や怒りやプライドなどの煩悩によって実施している場合、悩み苦しみを増やす行い(罪業、悪のカルマ)を積むことになります。
ですから、近い将来、もしくは遠い将来や来世以降に、悩み苦しみが増える可能性があります。
煩悩を弱体化した方が悩み苦しみやストレスは減るのです。
お坊さんの場合、他人の罪を言いふらしてはいけないとか、相手が謝罪したら許さないといけない、という戒め(生活習慣の修行)があります。
お坊さんに限らず、このような修行を意識して生活した方が、自分自身の悩み苦しみを減らすのに役立つし、他人や社会の悩み苦しみを減らすのにも多少は貢献できるかもしれませんね。
でも、怒りは悩み苦しみの原因ですから、パパラッチなどに対して怒るのもまた、煩悩なのです。
パパラッチなどはダメな奴らで、自分はそれらの人より優れている、などというプライドもまた煩悩なので、それも自分の悩み苦しみを増やす感情と言えます。
業は複雑です。
業は複雑です。
まず、心が業を作り、心が業を感受するのだと理解しましょう。
体を通しても、心が体を使って業を作り、心が体から業を感受しているのです。
その心とは、一瞬ごとに変化生滅を繰り返す、目まぐるしいものです。
その一瞬ごとの心が、欲や怒りで汚れたものなら悪業を作り、慈悲や随喜で清らかなものなら善業を作ります。
欲や怒りが新たな欲や怒りを作ったら悪業が増えます。慈悲や随喜が新たな慈悲や随喜を作ると、善業が増えます。
しかも、悪い心も善い心も以前の善業や悪業を受けながら生まれます。
悪業が現れると心を暗くし、新たな欲や怒りを作ってしまいがちです。
善業が現れると心を明るくし、新たな慈悲や随喜を作りがちです。
以前の悪業には影響をなるべく受けないようにし、以前の善業には乗ってますます心を浄めるようにして、心を悪から善に、業を悪業から善業に向けることが大事です。
パパラッチを職業にしていても、家に帰れば良き父、親孝行の子供かもしれません。悪業や善業は、それぞれの一瞬ごとずつ増えます。
そして、パパラッチなどはけしからんなどと考える私たちの心も、一瞬ごとに善業か悪業を作り続けています。気を付けなければなりません。
そのような職業に対して怒りの気持ちではなく「大変な職業があるものだ。他人の不幸を喜ぶ私たちがそのような職業を成り立たせているのだ」などと智慧で洞察し、苦しむすべての生命の苦しみがなくなるようにと慈悲の心で観察すると、善業になります。
全ての衆生を救うために・・
ぱんだ道雪様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
人間も含めて欲界の衆生たちは、煩悩とその親玉である無明(根本的な無知)にて、いずれにしても過多を問わず悪業を知らず知らずのうちに積んでしまう世界におります・・
そして、また積んでしまった業に従って輪廻してゆくのであります・・
その負のループから逃れるための法をお釈迦様は、お説きになられました。
もちろん、できれば、悪業を積んでしまっている全ての衆生を救えるようになれる悟りを目的としますが、そのためには、何より自分が悟りを開く必要がございます。
悪業を積んでしまうこの世界・・全てのものたちに悪業を積ませないようにすることが、果たして今の拙生や貴方様にできるでしょうか・・とてもできません。なぜなら、所詮は皆と大して変わらない同じ凡俗な身柄なのですから・・
とにかく、他を救えるようになるためにも、何よりまず自分の心から一つ一つ悟りへと向けて調えていくことが求められるものになります。
是非、これを機縁に、全ての衆生をいずれ救うために、少しずつでも仏道の歩みを進めて頂けましたら、誠に有り難いことでございます。
共に頑張って参りましょう。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
お早い回答ありがとうございます。
一つひとつの考え、心にしみました。
そもそも芸能界自体が、華やかである分、欲がふかい世界なのかもしれませんね。