極楽について
以前テレビで島田紳助さんが以下のように述べていました。(ブログからの抜粋です)
「仏教っていうのはね、自分のための拝む人へのもの。
両手を合わせた瞬間に、自分の心の中が穏やかになる。
そこに極楽が生まれんねん。例えば、あーもうムカつくわ、競馬まけた博打負けたから墓参り行こうって思う人はいないのよ。心が乱れてるから墓参り行こうとは思わない。ある日、ふとあ、長いこと行ってないな。お墓参り行こうか。と思う。その、お墓参り行こうか、と思った時、自分の心が穏やかになる。その瞬間、心に極楽が生まれんねん。だから、お墓参りの行為自体よりも、行こうと思った時の穏やかな心、それが大事なの。仏壇だってね、仏様が中にいるけど、あれは職人さんか誰かが木かなんかを彫ったものだよ。所詮。もしあれがほんとに仏様なんだったら、供えてある花も、仏様の方を向けて供えなくちゃいけない。でも実際はそうなっていないでしょ。向こうからしたら、花の裏、葉っぱの裏しか見えないよ。拝む人に向かって、拝む人の心に向かって供えてあるから。だから仏教っていうのは、心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」
私はこのような考えに感銘を受けました。実際、極楽というにはこのようなものなのでしょうか?お坊さんたちの意見が聞きたいです。
過去に執着してしまう
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
腹が立ったら拝むが良い
紳助さん、良い事言いますね。私も同感です。
右仏 左は我と 拝む手の 中(うち)ぞゆかしき 南無の一声
永平寺74世佐藤泰舜禅師さまは礼拜の功徳として、次のように教えられております。
「手を合わせ無心に拝むとき、人は皆、
まず第一に無我謙遜の心になります。
第二に心が清らかに澄み切ってまいります。
第三には心が引き締まってまいります。
第四には心が広々としてまいります。
オレがオレがという我見我欲は真心を込めて拝む時には出てきません。腹が立ったら拝むが良い、恨みの心が起きたら拝むが良い。心が自然に落ち着いて我見我欲の角が取れるのでございます」と。
簡単に言うのは難しいですが…
そうですね。
仏教や極楽についてを死後の問題としていないことや、拝む人=今生きている私の問題としていることは大事な事であり、なかなか味わい深い譬えだなあと思います。
ただし、実際にお経ではどう説かれているかと言うと、死後に往生する他方世界として説かれているものが多いかと思いますし、いや実はこの世界と変わらないのだと解釈できる説かれ方をする場合はそれは私たちのような凡夫(煩悩に振り回されるような存在)ではなく仏の覚りからの視点であろうかと思います。
もちろん浄土系仏教においても死後の極楽浄土が「今のこの私の救い」となるのだという解釈は祖師以来の伝統として受け継いでいると思いますのでけして単なる死後の問題とだけにはしていません。
>「心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」
は専門的には仏性論として展開されていくものでしょうが、あくまでも仏の視点と凡夫の視点は分けて考えないと、「仏教って結局心の持ち様なんでしょ?」という安っぽい精神論に陥ってしまう危うさも抱えています。
我が心がどうにもならないような苦しさを抱えているのが私たちが凡夫です。その凡夫をこそ救おうというのが我が心を超えた極楽浄土の教えです。
私の心の外から、私の心にはたらいてきてくださるのであって、けしてこの心の中だけに押し込められる問題ではないかと思います。
人それぞれ
個人や宗派によって違うと思いますよ。
極楽浄土の見方は様々ですからね。
島田紳助さんの見方は禅宗や真言宗的な見方ですね。
浄土宗の私にとっては、極楽浄土は心の中では無く、別の世界に存在する場所と見ています。
この世界での命が終わったらみんなが行く所という感じですね。
誰が正しいとか間違いとかはありません。
人それぞれですからね。
あなたにはあなたに合う極楽浄土の姿を見たらいいですからね。
南無阿弥陀仏
解釈した極楽と、極楽に住することとは違う。
極楽というものを解釈や解説すると、実物じゃないものになるという事がある。
たとえば料理とレシピ、
音楽と楽譜、
実物と情報のように。
ウマいことを言うのと、本人や見た人読んだ人が極楽に住するのとでは近くてもチョイと住所がズレていると私は思います。
仏教の話を池上彰さんや話のうまい解説者、芸能人が説いたとしても、それは上手にそういうお話ができましたねぇということ。
伸介さんもそういう立派な話はできたでしょうが、何だったかの理由で芸能界から消えてしまいましたねぇ。天国や極楽を語れることはできたのにねぇ。なんででしょうねぇ。
私は、そういう説明の仏教を「解釈仏教」「思想仏教」と呼んでいます。
悪いものではありません。
そこでいい人にはそこに安住するのが良いと思います。
ところが、私のようなひねくれもんや懐疑心を持っている人は、甘く、耳当たりの良いトーンでの話が通用しないということがあるのが、この世の現実。
そういう人をも極楽・浄土・彼岸・涅槃にお導きしなきゃならんのが、われわれBOSEの勤め。
本当の極楽というのはどこにあるのか。
Aさんの言ったことが正しい。
BさんはAさんとまるで違うこと言ってるけど、Bさんの方が正しい。
CさんはAさんBさんともまるで違うがCさんの言ってることも正しいと感じる。
じゃぁ、一体どこに極楽はあるのか。
十人違えば十人違う答えがあるんなら、ぶっちゃけお釈迦さまでなくてもいいという話になってしまう。だから、本当はきちんとしたお釈迦さまが言わんとされた確かな導き先、導かれ先があるんじゃないでしょうかねぇ。
伸介さんとお釈迦さまが言ってること同じに感じますかのぅ…。
本当は違うんじゃないでしょうかねぇ。
伸介さんの言う極楽が心地よいという人には伸介さん極楽でもいいという事はあるでしょう。
でも、実際、そこにしばらく住んでみたらいいと思います。
それで、一生安楽ならば、その人にとってはそれでいいのかもしれません。
いや、そんなんではちと納得がいかないとおもわれるのでしたら、それがその人の仏道主教の本当のはじまりです。
人から言われたことを鵜呑みにするんでなしに、本当に仏心・悟り・浄土・極楽なる心はいかなることかを明らめるぞという志(菩提心)をおこすことで、人の言葉に騙されんようになる。確かな手ごたえのある浄土・極楽を見出せるようになるでしょう。
娑婆と極楽(浄土)
たくみ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
娑婆と極楽(浄土)、その違いについては、確かにあるのですが、その違いは、あくまでも世俗的にというもので、勝義的(悟り的)には、娑婆と極楽(浄土)に違いは微塵もありません。
まあ、悟った者から見れば、この娑婆世界も清浄なる浄土なのであります。
しかし、私たち凡夫から見れば、どうしても汚れた世界に映えてしまっているのであります。
なぜ汚れた世界に映えてしまうのか、それは無明(根本的な無知)と煩悩によるからであります。
特に、悟りの妨げとなっている煩悩障と所知障の二つの障りを、仏道修行による智慧と福徳という二つの力で断滅させることが求められるところとなってくるのであります。
その島田紳助さんのお話は、一時的な心の安楽、安心、安穏の状態におけることであって、私たち凡夫ではすぐに無明(根本的な無知)と煩悩が顔を出すため、継続して良い心の状態に保てることは難しくあるのであります。
最大の敵は、「倶生の諦執」という、モノゴトを実体視してしまう遠い過去世から引き続いての生まれながらにしての性向であります。
娑婆と極楽、その差異は、あえて申せば、現在の如来の在、不在だけのことであり(但し、法身はどうかとなれば、また話は別となりますが)、もちろん、娑婆には釈尊がお残しになられた仏法がございますし、極楽では、阿弥陀如来様から仏法を頂くことができます。
そのため、確かに、直接に如来(の応身・報身から)のご指導を頂けるメリットは、現在では極楽の方が上ではありますが、娑婆でも仏道を歩めないことはありません。
では、娑婆のメリットは何かと申せば、苦しむ衆生が無数にいるため、仏道を歩む上で、福徳を積むことのできる機会がたくさんにあるというところであります。
娑婆、極楽、いずれにせよ、悟りへと向けては、仏道における智慧と福徳の二つの力を養うことが大切なことになりますため、しっかりと娑婆でも取り組めるだけは取り組んで参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
アンニョンハセヨ
わたくしも川口師と同意見ですが、島田さんの言われる極楽とは一時的な安楽のことを言うのだと思います。韓国語のこんにちははアンニョンハせヨですが、アンニョンは漢字で安寧と書き、ハシムニカはですかでして、安寧ですか?落ち着いていますか?心が安定していますか?って
問いかけらしいです。法然上人は散心の念仏ということを言われ、念仏すれば、心穏やかになり
極楽往生できると説きましたから、この往生が三宅師の言われる通り、いろいろ異論がありまして、死後往生なのか現世往生なのか、また極楽は遠きにありて近きもの(『枕草子』第一六七段より)とは申しますが、内心なのか外心なのか。法然上人の『つきかげのいたらぬさとはなけれどもながむるひとのこころにぞすむ』にしても、すむは澄むと住むの両方の掛詞という説もありますし。三宅師の言われる通り人それぞれの極楽感を持ってよいんだと思いますよ。個人的には温泉に入って「あー極楽極楽」とかウゴウゴルーガの「おきらくごくらく」とか好きです。
質問者からのお礼
皆様方素晴らしいお返事ありがとうございます。
皆様のご意見を参考にし、極楽とは何かまた考えたいと思います。
お忙しい中ありがとうございました。