阿弥陀如来様は実在しないのですか?
私は阿弥陀如来様が大好きです。
毎日救っていただくことへの感謝として念仏を唱えています。ハスノハでもたくさんの問答を見るのが楽しみです。
ところが、先日、ハスノハで真宗のお坊様が「極楽浄土があると信じていない」人への解答で、「阿弥陀如来様や浄土というのは働きのことで、実際亡くなった人が浄土という場所で生まれ変わるということではないのだろう。だから浄土とはこの世での働きのことで、死後の世界としてあるわけではないと思う」「仏様というおとぎ話を使って今生での安寧を得るのだ。だから阿弥陀如来様が実在するか否かはどうでもよい」「自分も科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」
という旨のことを仰っているのを拝見しました。一人ではなく何人かのお坊様がそういったことを仰っているのを見ました。
誤解していただきたくないのですが私はハスノハのお坊様方のことを尊敬しております。ですが少なからずショックでした。私は今生で死んだら、阿弥陀さまに迎えに来ていただいて極楽浄土に生まれ、そこで仏となる修行をできることを嬉しく思っていたからです。
また、何があっても阿弥陀如来さまがいつも一緒にいてくださることが喜びであり、心の支えです。
法話を聞いたりしていると、「阿弥陀如来様という素晴らしい仏様がいらっしゃる(=阿弥陀如来は実在する)」「死んだら極楽浄土にいき仏になる(=極楽浄土は実在する)」とお経も親鸞様もハッキリ仰っているように思います。
阿弥陀如来様や極楽浄土の存在を確信するのが、浄土真宗ではないのですか?
私が、元はキリスト教を学んでいたこともあって、阿弥陀如来様や極楽浄土への解釈が違うのではないかと不安です。
(極楽浄土と天国は、極楽浄土は阿弥陀如来様の国(他の仏様もそれぞれ浄土をもっていらっしゃる)。という違いだと理解しています)
私はこれからも阿弥陀様といつも一緒だと思っていても良いですか?
悩み、迷ってばかりです
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「科学的」でもなければ、「確信」でもない
こんにちは。
「何があっても阿弥陀如来さまがいつも一緒にいてくださることが喜びであり、心の支え」、その表現にあなたの「阿弥陀如来様が大好き」という気持ちが凝縮されています。拝見して、私も非常に喜ばしく思います。
まず、回答の前提として「ハスノハで真宗のお坊様」が過去に回答しておられた具体的な該当の問答が分かりません。よって、あなたが受け止めた限りでの「真宗のお坊様」の回答について述べたいと思います。
まず、「真宗」と言っても必ずしも同一の教えではありません。西本願寺、東本願寺、興正派、高田派、木辺派、出雲路派・・またはいずれの派にも属さない単立寺院、それぞれ立場は違います。その回答僧の立場を確認してください。
あなたが受け止めたところで最も気になったのは、「自分も科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」というところです。仏教と「科学」では方法論が違います。私達は、仏様の存在を前提として一対一で主観的に向き合うということを前提としてますが、後者はエビデンスつまり実験や統計などの客観的証拠を元にして判断するという全く違うアプローチをしています。平たく言えば、ルールが違うのです。
「科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」とは、例えるならサッカーの審判が野球の選手に、君は手を使ったねハイ反則ですと言っているようなものです。少なからざる錯誤です。
一方、あなたの「阿弥陀如来様や極楽浄土の存在を確信するのが、浄土真宗」というのも誤りです。浄土真宗のご信心は、元は仏様のお心だからご信心といいます。人間の努力の心に、ご、をつけたりしません。阿弥陀様が必ずあなたを極楽に往生させ、成仏させんとする仏心が耳を通して聞かされ(←重要!)信じせしむるが故にご信心なのです。信じる人間の方からの「確信」の完成度で往生浄土の結果が左右されることはありえません。
むしろ、そのような人間の「確信」を往生のタネとするならば、人間の「確信」具合(強く信じる、弱く信じる)にグラデーションが生じます。では、その「確信」の強度云々で往く極楽に差が出るのでしょうか。これは明らかに違います。
あなたは、「これからも阿弥陀様といつも一緒だと思っていても良い」のです。ただ、これまで通り聴聞を欠かさないようにして、極楽往きの要であるご信心について聞いて、聞いて、聞きぬいていただくことを切に願います(字数制限)
信じるしかない
経典には、阿弥陀仏や極楽浄土が在ると書かれています。
ですから、経典に基づく浄土宗の教義においては、阿弥陀仏は実在します。
だから問題は、その経典を信じるか信じないか、それは個人個人の問題だと思います。
私も疑ってしまうときはあります。
ですが、夢に阿弥陀様が現れて感激した日もありました。
徒然草という書物によると、法然上人は「疑いながらも念仏すれば往生できる」と言われたそうです。
そりゃそうだ。
本当に阿弥陀仏様がいらっしゃるなら、疑いを抱いてしまう私をも見捨てないはず。
また、江戸時代に人気者だった徳本上人は、「口先で南無阿弥陀仏と言えばよい。心なくして申せるものか」と詠まれたとか。
なるほど、口先から念仏が出るということは、心のどこかに信心がある証拠なのかもしれません。
信心ゼロなら念仏は出ないはずだから。
とにかく、口に念仏という物理的にわかりやすい修行を大切になさってはどうでしょうか。
百億人に百億通りの処方 百億人に百億通りの救い
同じ体の痛みでもあの人は足が痛い、あの人はお腹が痛い、あの人は頭が痛い。
それぞれその人に遭った処方箋、それぞれその人にあったお薬がある。
他の人に当てられたお薬は貴女に向けられたものではありません。
また、あなたが思っておられる救いのありかたで良い人と、
それでは私は救われないという人がおられます。
文系の人もいれば理系の人もいる。
一般的なものの考え方をされる人もいれば、独特で個性的な考え方をする人もいる。
子供にサンタさんはいないといえば子供はかなしい。
ですが、サンタさんはちゃんと働きとして世界中に存在する。
大事なことは誰もが救われること。
だれもがプレゼントやさしさや救いや授かり、恩恵に気づけること。
だから、あなたはあなたが「これだ!」という確信、あなた独自の救われたいありかたで救われればいいとおもいます。
そして「あれ?あの子は?」どうして私と同じ救われ方じゃなければならないのかしら?ということは要らないのです。あなたと同じ薬では効果がない人もこの世には実際におられるのですから。
阿弥陀様も、観音様も、薬師如来さまも様々なお姿となっていたるところにあらわれます。極楽浄土という所にだけいるわけではありません。
簡単に申し上げれば、ツイッターのツイートですら、発した方はある分野の方に向けて発したという気持ちがあるわけです。それをまったくその人とは無関係な方が、その言葉一つを拾い上げて「何でこんなことを言っているのかしら?」と、我がことに引き寄せて我がことのように関わらせる必要はありません。
救いには様々な形があるのだということだけ知っておいてください。
キリスト教にはキリスト教なりの。
仏教も、宗派によって、それぞれ、その人に合わせた形で、その人が「この道、この方法、この道理ならこの私にふさわしい。」と思われるものを選択して、自らを救いに導けばよいのです。
この現世で今すぐ救われたい人にはその人に適した形で救いの働き、救いの手を差し伸べておられるのです。あなたにはあなたに合った形で。
たとえば、性格の違う兄弟姉妹にお母さんがそれぞれの子に合わせて、それぞれの子が心地よい気持ちになれるように言葉をかけてあげるように。不思議なことに人によってどのありかたを求めておられるかは異なるので、あなたにはあなた用の救い。当然、万人に応じた方便や対機説法があるのです。
ヒトの言に惑わされず
以下,少しややこしいことを書くかもしれませんので,先に結論から申します。阿弥陀仏は西方浄土(ゴータマ仏のいた我々の世界とは異なる異世界です)にいらっしゃって,「私はこれからも阿弥陀様といつも一緒」と考えて頂いて間違いないですよ。
まず,「科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」「阿弥陀如来様が実在するか否かはどうでもよい」とのことですが,もう1歩考えを進める必要があります。阿弥陀仏や浄土が存在するか否かは,客観的に論じられる対象ではありません。科学的にいえば,阿弥陀仏も浄土も,存在する証拠は確かにありません。しかし,存在しない証拠もありませんね。従って,科学的には存在するか否かは分からない,というのが正解です。例えば新発見の生物は,これまで存在が知られなかったものです。しかしその生物の方は,これまでも存在していた訳です。我々の方が,発見するまで知らなかっただけです。
要するに,死後のことは誰にも分かりません。しかし,親鸞の考える阿弥陀仏による救済は素晴らしく考え抜かれたものです。つまり,自力を捨てて他力に帰する過程は,まさしく仏教の中核である非我の実践に重なります。また,我々が自力あるいは煩悩に気づかされ,悪人性が自覚される際,それを気づかせてくれる正体を阿弥陀仏とし,その存在の証とします。阿弥陀仏の存在論証は興味深く,我々の方から探したり論じても発見できず,内省を通じてその存在に触れられる,ということの様です。
死後のことは誰にも分かりません。しかし以上の様に,親鸞によれば,我々の煩悩に気づかせてくれる主体があり,その主体とは阿弥陀仏だそうです。阿弥陀仏は西方浄土にいらっしゃって,何故だか知りませんが,有り難いことに我々を救ってくれようとなさっているそうです。それなら,どうせ死後のことは分からないし,わざわざ煩悩に気づかせてくれる主体が悪さをするとも思えませんし,阿弥陀仏にお任せするが良かろうと思っています。
私は阿弥陀様といつも一緒だと思っています。
先日実父が亡くなりましたが
その実父も仏様としてそばに
いてくれている感覚があります。
実在している証明は
科学的には無理ですが
そういうことは気になりません。
不可思議なことを信じることで
自分がほんわか出来るなら
それで充分だと思っています。
阿弥陀如来様と極楽浄土、報身報土か化身化土か
審神者さま
阿弥陀如来様は、実体として存在はしていません(一切は縁起し空であることに例外は無い)が、報身仏として極楽浄土にて存在なさられていらっしゃいます。
しかし、そのありようについては、報身報土か、あるいは、化身化土かについては、非常に難しい議論があります。
中国・日本の仏教においても、天台宗系は化身化土説、真言宗系は報身報土説、浄土系は報身報土説と議論が色々となされています。
しかし、そもそも極楽浄土における阿弥陀如来様が仏の三身の内でいずれに当たるのかについて、なぜ議論となるのかと申しますと、極楽誓願、極楽往生において重大な意味合いがあるからとなります。
仏教における基本として、菩薩や報身仏と相見えることが可能となるのは、菩薩の十地の階梯の内、煩悩障を断じて、輪廻から解脱した第八地以上の者であり、それは相当な聖者、清らかなカルマの者でしか不可能であることを示しています。
普通の凡夫ではとても相見えることはできないのであります。
普通の凡夫でも相見えられる菩薩や如来は、現に娑婆世界に在世なさられた釈尊のように、その応身でなければ無理なのであります。(もちろん、応身は私たちと同様な肉体等、非常に脆く、儚く、そうは持ちこたえられない存在です。もちろん、持ちこたえようと思えば持ちこたえられなくはないですが、やはり限界があります)
つまり、報身報土であるならば、とても我々凡夫が往生して相見えることなどできない存在なのであります。もし、極楽に往生して阿弥陀如来様と相見えたいと思うのであれば、煩悩障を断じた聖者、つまり、阿羅漢並みとならなければ不可能なのであります。
日本の浄土系にあるように念仏、誓願、真言を唱えるだけで浄土往生できることも当然にありえないものとなります。煩悩障を断じるには、相当な智慧と福徳(功徳)の資糧がないと不可能ですから。(顕教では最低でも二阿僧祇劫ほど掛かる)
でも、化身化土であれば、釈尊の応身と同様に我々凡夫であっても相見えられる可能性はあり得るところとなります。
もし、日本の浄土系のように称名念仏極楽往生を説くのであれば、化身化土の方が実は正しいと言えるのです。
大乗起信論・釈摩訶衍論において称名念仏極楽往生は「未了義」(方便的教説)と位置づけられているため、それ以上真言系での議論展開はないのですが。
合掌
見方によって見えるものが異なる
目の見えない、しかもそれまで象を知らなかった人を集めて、これが象だと触らせてあげると、ある人は象は丸太のようなものだと思い(足を触ったのでしょう)、ある人は箒のようなものだと思い(尻尾を触ったのでしょう)……という寓話が、ほかならぬ仏教に伝わっています。
仏教の中に、現代科学よりも精密な心や物質(宇宙から原子以下の状態まで)の分析もあり、倫理学もあり、論理学もあり、在家で生きる政治経済学法学もあります。
大乗経典は、初期仏教以来ジャータカなどで知られた、仏教に題材を取った文学作品に分類されるでしょうね。
文学は、科学や、成果が要求される政治経済学などに比べ、受け手の主観的な受け取りがある程度許容されます。宗教的に見ることも可能です。その意味で、「阿弥陀如来は私には実在する」とも言えます。歴史学的に見ると、文学上のものなので、実在するわけではないと言わざるを得ません。
同じものを見ているつもりで、いろいろな見方が生じるのは、見る側の立場の違いだと思います。
仏教全体では何を言っているのかを、象さん全体はどういうものかという風に、見てから、「私は特にあの鼻が好きです」などと自分が惹かれるものに注力しても良いですよね。それなら、他の人が「象とは箒なり」と言っても、「ああ、あの人は象のあの部分を見ているのだ」と分かって、落ち着いていられるでしょう。
質問者からのお礼
願誉浄史様
ありがとうございます。
>浄土宗の教義においては、阿弥陀仏は実在します。
そのお言葉と、法然様、そして徳本上人(浅学で存じ上げませんでした)のお話に、とっても救われました。そうですね。信じるかどうか、どう解釈するかは人によりけりですよね。私は信じます。浄史和尚様が教義上はあるのだと断言してくださったことがどんなに救いか。ありがとうございました。
釋 悠水様
ありがとうございます。悠水様のおっしゃる通り、確信とは誤った使い方でした。聞きたかったこととしては、「浄土教のお坊様方は、阿弥陀如来様や極楽浄土は在る、と断言なさるお立場ではないのですか?」と言うことでした。そして、よくお釈迦様や仏教は科学的、合理的な教えであり宗教ではないという意見も巷ではよく目にしますので、畑違いだとハッキリ仰っていただきスッキリしました。
私がえっ!?と思ったご意見のお坊様は、記憶する限りプロフィールに所属寺や宗派を書いていらっしゃらなかった方、浄土宗(何派かは分かりませんでした)、真宗大谷派の方でした。でも今調べ直してもそもそもどこのページで見たか覚えておらず、私の受け止め方が誤っている可能性も高いです。検索までしていただき、申し訳ありませんでした。私に真摯に向き合い、あみださまと一緒だと思って良い、これからも聴聞を続けなさいと、そう仰っていただいたこと、大変ありがたく思います。
丹下 覚元様
ありがとうございます。ハッとしました。確かに、私宛の回答ではないものに振り回されておりました。お坊様方は、お釈迦様に倣って人によりお話を変えていらっしゃるのですね。ハスノハは人気サイトで、あまり私の疑問を投稿してお手を煩わせたくないからとなるべく検索して疑問を解決するようにしていましたが、自分宛てではなく、また文字のやり取りであり、その真意を汲むことは難しいことを念頭に置かなければなりませんでした。気づかせていただき、心から感謝します。
eishun様
ありがとうございます。存在しておられます、とおっしゃっていただき、嬉しく思いました。化身化土、報身報土、大乗起信論・釈摩訶衍論、未了義。。正直、わからない言葉ばかりで、頑張って調べて考えました。eishun様がどちらの宗派のお坊様か存じ上げませんが、未了義(お釈迦様の教えではないということですか)と言われて少しショックです。申し訳ありません。本当に悲しいだけで、決して怒ったり、責めたり、他に意味はないです…。調べたら、親鸞様は報土への往生を薦めておられるという文がありました。阿弥陀さまに直接お会いできるなら化身化土だとご助言いただきましたが、私は何が何でも阿弥陀さまに一目お会いするのが第一ではありません。私には難しいことは分かりませんが、例え阿弥陀様に相見えることがなかったとしても、親鸞様の仰った報土に行くものとして、念仏を唱えようと思いました。……合っているのか自信はありませんが……私が勝手に化身化土(?)を願っていたということに気づかせていただき、ありがとうございます。
なんだかショックで頭がぼんやりしています。
仏教は悟りに至るための哲学であり宗教。そして、阿弥陀如来は悟れない凡夫が悟りの世界に触れるための方便。。
私は悟りたいわけじゃありませんでした。
ただ死後の世界への安心や、辛い今を生きる上での支えが欲しかったんです。だから阿弥陀如来さまにお縋りするしかなかったのに。
昨日の私であれば名和和尚様の有り難いおことばを信じれたと思います。
でも、私は凡夫で、すぐ惑わされるのです。。お釈迦様について、仏教について、改めて調べるうち、よく分からなくなってしまいました。
仏教を離れるしかないのでしょうか。今はとにかく、とつぜんひとりぼっちになってしまったようで、悲しいです。