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正法眼蔵「現成公案」に関して質問です。

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「たき木はひとなる、……」からはじまる、道元禅師が「現成公案」において「仏教にいうところの不生・不滅の考え方を説」*いているところでわからない点があるので質問させてください。
①「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり」の「さきありのちあり」とは、どのようなことを言っているのでしょうか。
②その直後の文「前後ありといへども、前後際断せり」の「前後」は「さき」「のち」を言い換えたものであるとして、「前後際断せり」とはどのようなことを表しているのでしょうか。
③「前後ありといへども、前後際断せり」の文において、なぜ「前後あり」と「前後際断せり」とは「といへども」でつながっているのでしょうか。対象をその前後に分析した場合、その対象は前後で分かれていると考えるのが自然だと思うのですが、ここであえて両者を逆接の確定条件でつなげているのはどのような狙いからなのでしょうか。
*増谷文雄全訳注『正法眼蔵(1)』(2004)p.47


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お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

頭ではなく五感で体感している世界

Q①「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり」…とは?
A薪は元々、樹木として森林に生えていた。(さきあり)それがたった今「薪」であらば、った今は薪の様子(法位)を全うしている。その薪を人間の思考で眺めれば、切り倒される前の生木の状態な様子(さきあり)と焼かれて燃え尽きて灰になった(のちあり)という様子がある。ですが、それは人間の思考の上から眺めた姿。
現成公案とは、そういう思考の眺めを離れた現前の事実。
絶対にそれ以外ではない、たった今の肉眼、耳、鼻、舌、身が見聞覚知している事実に目を向けることを説いているのです。

Q②「前後ありといへども、…前後際断せり」とは?
A薪には1秒前から切り倒される前の樹木であった「さき(前)」の様子があり、やがて土に還るという「のち(後)」の様子が(想定として)ある。
人間の思考の上においては前後を考えられますが、たった今、肉眼が見ている事実は、前後(過去と未来)を断ち切った完全な今の姿。
たとえば12345…6…と数えて下さい。「5」の時には前後である4も6もない。
絶対的に5を全うしているのです。
今の自己の真実のありようは昨日やさっきのことがない。1秒前の様子すらどこにもない。いずれ死ぬ身でありながらも、明日のことも1秒先のことすらも何も起こっていない。
確実な「今」を全うしている常に❝前後裁断❞しっぱなしの自己であるということです。
思っていることと「実際」は異なっていはずです。

Q③「前後ありといへども、前後際断」とは?
A思考の上ではものごとは前後の流れ、ありようを「想定・推測」することができます。
現成公案で説いているのは人間の思考・想念を離れた事実。
非思量、不識、非想念を以てみるべし。
「さき」「のち」とは、どこまでいっても「今、目の前にないこと」。
想念を相手にしているはずです。
今、目の前にないことは1秒前でも1秒先でも、この自身の上には生じていないはずです。
回転寿司でタコを取り損ねたとします。
次に流れてきたエビやマグロはもうタコではありません。
前後裁断の別の魚です。仮に別のタコが来たとしても部位も鮮度も異なる。
思考の上で物事を眺めた時、もののありようには前後はあると❝思える❞。
たった今、自身が覚知している今の事実には前のことがない。
前後裁断した今の事実あるのみということです。

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正法眼蔵は入門書ではないので、一般目線では読めません

前回のご質問ではてっきり道元禅を専門に勉強なさっているのかと勘違いしてしまいました。失礼しました。今回は平たく書きます。しかしあんな専門用語だらけの回答で、9有り難しも頂けるのだから分からんもんですな。さて…

①木を伐って乾燥させると薪になります。んで、薪を燃やすと灰になります。薪の前が木で、薪の後が灰。そゆことです。漢字で書くと「前(先)あり後あり」。木には木なりの前あり後あり。薪には薪なりの前あり後あり。灰には灰なりの前あり後あり。炭素が自然界を延々と循環するように、ずーーーっとそれぞれに前あり後ありで繋がっている。

②際断は繋がりの逆です。断絶。独立。個々。そんな感じ。
「前後あり」は繋がっていること。「前後際断せり」は独立していること。だから「前後ありといへども、前後際断せり」で「みーんな繋がっているとは言っても、それぞれ独立している」の意。


1.「俺は俺。お前はお前。」→一般論

2.「いやいや、みーんな繋がっておるんじゃよ。その繋がりを大切にすることが本当に賢い生き方ですぞ。」→仏教論
参考↓
https://hasunoha.jp/questions/3160

3.「じゃあ俺って既に仏と繋がってるんだから修行しなくてイイじゃん!」→仏教論への反論

4.「仏と繋がっていても人間は人間なんだから、人間であることをまっとうしなさい。人間として繋がってるんだから、人間であることをまっとうしてこそ、仏との繋がりが活性化するんだ。今、人間であることをサボっても繋がりを無駄にしているに過ぎんのじゃ。」→反論の反論(今ココ)

これは道元禅師の一生を知らないとピンときません。道元禅師は比叡山で修行し、3.の問いで悩みました。そしてこの疑問に決着をつけたいと正師を求め、10年間あちこちを旅しました。最終的に中国留学し、さらにスッタモンダあってようやく如浄禅師という正師に出会い、その下で修行して決着をつけます。その回答が4.であり、現成公案です。

平たく総括すると、飯を食うときは飯だけです。飯を食いながら前後の勉強や仕事のことを考えているようなのは、真面目そうに見えて実は飯をサボっているだけです。飯の時は飯。勉強の時は勉強。それっきり。今、目の前のこれっきり。来世でもなく、過去世でもなく、今だけ。そんな生き方が仏道。苦が生じようのない生き方。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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正法眼蔵はすべて読まないと分かりません。

 「正法眼蔵はすべて読まないと分かりません。しかし、一部を読んだらすべてわかります。」などと偉そうに言いましたが、修行しないと恐らく感覚的に解らないときもあります。学問的に一慨にこれが正解というものはありません。説明しても分かり難いと思いますが、簡単に言えば、薪は薪。燃えだしたら燃えている薪。燃えているときはたき火。燃え終わったら灰。でもすべて薪。今あなたが解らないのは解ったということ。だからもう解っているのです。
 私はこの回答が導き出されるのについ最近までかかりましたが、実はこうなったらまだ解ってないのです。解ったということは解ってない事なのです。だから修行は続くのです。
 『正法眼蔵 生死の巻』、『正法眼蔵 無情説法の巻』にも同じようなことが示されております。否、すべてに示されておりますが、実は私が解ってないのです。
 最近、NHKで『維摩経』が取り上げられておりましたがそこで「仏教は上書き保存である。」と言われておりました。まさに仏教とは答えが後から後から積み重なるもので真の正解は無いに等しいと思います。方便と言えばそれまでですが、修行を終わらせない、探究心を終わらせないためになるべく正解を出さないようにしたと思います。私もつい人の意見を否定してしまうことがありますが、これは貪・瞋・癡に当たります。恥ずかしい限りです。
 先ずはどんな意見も傾聴できるような修行を積んでください。悪をつくらないような心がけを興せるような修行を積んでください。そうすれば自ずと正法眼蔵にお示しになっていることが理解できるかもしれません。でも、理解したら理解してないことですけどね。

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あなたの小さな悩み相談お答えします  私があなたの悩みを解決するのでは...
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あくまで字面の解釈としてですが

(1)「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり」の「さきありのちあり」とは、どのようなことを言っているのでしょうか。

薪は薪として存在するべくして諸々の因縁の中に存在しており、しかも因縁によるがゆえに(見かけは何も変化していないようであっても)時々刻々と変化している、というような語釈で良いと思います。

(2)その直後の文「前後ありといへども、前後際断せり」の「前後」は「さき」「のち」を言い換えたものであるとして、「前後際断せり」とはどのようなことを表しているのでしょうか。

時間軸の前後があり、一見連続しているように思える現象でもあっても、それは時々刻々変化する因縁によっているのであるから、それらは個々の成り立ちの条件は異なっている。だから、それぞれの現象は個別のものと見なければならないという意味ではないでしょうか。
後段の「たとへば冬と春のごとし 冬の春となるとおもはず春の夏となるといはぬなり」とあわせて考えれば、冬そのものが春になるわけではなく、春そのものが夏になるとはいわないのと同じだという事だと思います。

(3)「前後ありといへども、前後際断せり」の文において、なぜ「前後あり」と「前後際断せり」とは「といへども」でつながっているのでしょうか。対象をその前後に分析した場合、その対象は前後で分かれていると考えるのが自然だと思うのですが、ここであえて両者を逆接の確定条件でつなげているのはどのような狙いからなのでしょうか。

現象はそれぞれ個別であり連続しているように考えてはいけない、としても、因縁による生滅の中では前後の並びはある、ということではないでしょうか。冬は春になるわけではありませんが、冬につづいて春が現象するのは確かであり、冬から夏に、あるいはまた冬に、といったことにはならないという事だと思います。

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新潟県上越市、龍興山宗恩寺住職。
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「非連続の連続」

デクノボー様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙理解となりますが、簡単に申させて頂きますと、「非連続の連続」と申しましょうか。。

それは、西田幾多郎氏の哲学や、ダルマキールティ大師の瞬間的存在性(刹那滅)論証も想起されるところでございますが・・

端的には、瞬間瞬間の「今」という非連続があるだけながら、その瞬間瞬間の「今」という非連続が、連続して位相の個別具体的変化(効果的作用)があり得ているということになるでしょうかね。。

「空と縁起」に関しての道元禅師による解説表現の一つと拙生的に捉えさせて頂いております。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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たとえ教えることができたとしても..

こんにちは。

 以前他の方の質問に、「仏教の教えは毛穴から入る」という回答を書いた事があります。
 仏教って、耳で聞いたり目で読んだりしたものを、頭で理解するものじゃあないんです。

 ですから、ここでご質問に対してお答えしても、結局お答えしたものは文字であり頭で理解してもらうしかないものとなってしまうわけで、腹の底まで納得って事にはならないと思うんです。

 日常生活を送りながら、「前後ありといへども、前後際断せり」とは一体何なんだ?って、いろいろ考えをめぐらすと良いでしょう。ふとしたきっかけで「ああなるほど」という瞬間がくるかもしれません。

 道元禅師も、師の如浄禅師から、「身心脱落」という言葉を聞き、これについて参究し、この言葉が悟りの機縁となりました。

 前回の質問の言葉と共に、これらの言葉をあなたの大事な宝物として温めておくと良いと思います。

「たとえ教えることができたとしても、それは私の見解であって、汝の眼目を開くために役立つものではない」のです。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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質問者からのお礼

丹下覚元様
ご回答ありがとうございます。お礼が遅くなり大変申し訳ありません。
具体例を交えながらとても詳しく説明をしていただき、ありがとうございます。以前こちらで「家常」について質問させていただいたのですが、ご回答を拝読していて、そこで説かれている内容に通ずるところがあるなと感じました。これからもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

大慈様
ご回答ありがとうございます。お礼が遅くなり大変申し訳ありません。
現成公案成立当時の道元禅師の問題意識に遡って説明をしていただき、ありがとうございます。
前回の質問の際には自己紹介欄の記入が不十分で誤解を招いてしまい申し訳ありません。もう少し自己紹介を充実させようと思います。じつは、「親しみやすい解説をありがとうございます」とお礼の欄に書きつつ、知らない用語をネットで調べながら拝読させていただきました(^ω^)。専門用語が出てきても調べないでスラスラ読み進められるように精進します。
URLにある内容も拝読させていただきました。添付していただきありがとうございます。

百目鬼洋一
ご回答ありがとうございます。お礼が遅くなり大変申し訳ありません。
今回、字面の解釈を中心に尋ねる趣旨で質問させていただいておりました。その趣旨を汲み、後段との関係性も明らかにしながらご回答していただくことができてとてもありがたく感じております。百目鬼様のご回答を参照しながら、もう一度じっくりと読んでみます。

川口英俊様
ご回答ありがとうございます。お礼が遅くなり大変申し訳ありません。
川口様に提示していただいた「非連続の連続」というキーワードが今回質問させていただいた箇所について理解を深める上で大変助けとなりました。どうやら私は「前後(先後)」という言葉が持つ対象を区分する働きにのみ着目し、それが持つ連続性を無視して考えていたようです。

大鐡様
ご回答ありがとうございます。お礼が遅くなり大変申し訳ありません。
正法眼蔵を理解する上で行うべきことを示していただきありがとうございます。どんな意見に対しても耳を傾けることと悪を作らないような心がけを興せるように普段から注意していきたいと思います。
大鐡様において長年の修行の中で導き出された解答である「『解ったということは解っていない事』、『だからもう解っている』」とは一体どういうことなのか、それが理解できるように、少しずつではありますが勉強を進めていきたいと思います。

光禪様
ご回答ありがとうございます。前回のお礼の際、光禪様のお名前を間違えてしまいました。大変申し訳ありませんでした。また、お礼が遅くなってしまったことについても重ねてお詫び申し上げます。
仏教を理解するための注意点について教えていただきありがとうございます。勉強の際には「仏教の教えは毛穴から入る」というお言葉を念頭に置いて行うように気を付け、経典の中で説かれている内容について「ここではこのようなことが説かれているのだな」とすぐに最終的な結論を出してその後は放っておくようなことはせずに、日常の中からその真意を見出す努力をしたいと思います。
ただ、私が仏教を勉強していくにあたって、私自身が修行を積んだお坊さんというわけではなく師や僧侶の仲間もいないことから、経典に書かれている文章をそこで用いられている文言の意味・文と文との関係性・全体の構造等を踏まえて厳密に読み込んでいくとともに、長年修行をされているお坊さんからそこで説かれている内容について教えていただかなければ、独りよがりな誤った理解をしかねないのではないかと感じています。
ですから、たとえ教えていただいてもその内容を知見解会するにとどまりかねないことを承知の上ではありますが、誤解を避け、お釈迦様や道元禅師の真意を理解する前提としての一応の正しい理解を得るためにも、これからも質問させていただければと思います。どうかよろしくお願い致します。

百目鬼洋一様

敬称を付け忘れてしまい、本当に申し訳ありません。
今後このようなことがないように、お礼投稿時の最終確認の際にもっと注意を払うように気を付けます。

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良い人・優しい人が損する理由

YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ