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「世の中・社会のできごと・風潮」問答(Q&A)一覧

世の中の腹立たしい事についてどう考えますか?

みなさんの考え方を教えて欲しいです。 先日、「イライラして外出が嫌」という内容の質問をさせて頂きました。 その丁寧な回答により、自身の中に根幹となる、処理しきれない感情があり、それがあるためにイライラしてしまう、問題は心の乱れだと教えて頂きました。 それからは比較的平穏に過ごせていますが、やはり日々の些細な事にイライラしてしまい、少しの間不快な気持ちになってしまいます(以前よりもマシです)。 世の中の悲しい出来事に対して、すべて悲しくなってしまうと自身の身が持たないのと同じで、世の中の腹立たしい事に対して怒ってしまうと疲れてしまうことは分かってはいるのですが、どうもスッと受け流す事が下手なようです。 ニュースでも連日、腹立たしい出来事が起こっています。犯罪を犯す人、マナー違反者、行動せずに文句ばかり言う人等などです。 自身の根幹にある気持ちを処理しないことには根本的な解決は無理だということは重々承知していますが、気持ちの整理方法として知りたく、世の中の腹立たしい出来事に対して、みなさんはどのように考えているのか気になりましたので質問させて頂きました。 宜しくお願いします。

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現代人、みんな傷を抱えて今を生きているのではないかと思う

世代を問わず今を生きる現代人、いろいろなかった人っていないのでは。 私もいろいろありました。中学時代のいじめ、高校卒業後の就職難、人格否定、職場で突然一方的に暴力を振るわれ怪我したこともあります。 最近ではここ2年の間に相次いで大好きな祖父母を亡くしました。 二人とも看取る事も出来ず、祖母は数年前から認知が進んでいたためもう家族の誰の事も分からなくなり、それから私の名前を呼ぶ事はありませんでした。 二人が可愛がってくれた想い出が蘇り、祖父母に対し何もしてあげられなかった後悔の念もあります。 私も法には触れなくとも自分の知らぬうちに過ちを犯してきたかもしれないし、これからもないとはいえない。 10代、20代の頃は精神未熟のままただひたすらがむしゃらに生き抜いて気がしますが、30代に入り始めていろいろ考えるようなりました。今までどれだけ泣いただろうか。他にもたくさん嫌な事、辛い事はありました。 一部報道されている事件、事故、自殺 または若くして病気で亡くなる人もいます。 亡くなった人やその人の家族の傷の大きさは想像出来ません。 または罪を犯したことで心に十字架に背負って生きている人もいます。 今を生きる現代人、それぞれ違うけれどみんな何かしら傷を抱えて生きている、私にはそう思えるのです。 だから私もいずれ死が訪れるまでこれからどんな辛い事があろうと後悔しない人生にしたい。 時代も変わりつつあるストレスも多い現代社会、どんな気持ちを持って生き抜いていけば良いでしょうか。

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何でも金の世の中

土地も金、建てるのも金、トイレなども金。 なんでも世の中死ぬまで金がいる。 老後も搾り取られ、餓死するひともでてきている。世の中では大きく紹介もしないけれど、子育てすらも大変で子供を学校にやれない親、日本の土地は外国人に金で買われて禿げ山同然檜は全滅、そういうところもあるときく。 おとなりの韓国は日本に先んじて老人が80以上でも働くのが当たり前の世の中になってる。 日本も過疎化で田舎にひとがいなくなり外国人が住み始めている。 将来的には金のない日本人は老人ホームに入る金もなく外国人にお世話に(搾取されるように)なる世の中になるかもしれない。既に外資系の会社が日本の会社を乗っとり始めている。 なんでも金!生きるのに金! 依存するからこそ金がなければ生きられない、神社も仏閣も金儲けをせねば保てず、日本人が困窮するにつれてそれらも寂れていくんだろう… 自家発電されてはかなわんのでそれもすごく金がいるようになってる。 それでも生きていかなきゃならなくて、金がもの申す時代に金がなければ人ではないと扱われ、 もう国も終わっていると思うのですよ。 私自身も40すぎで、既に夢も希望も御座いません。若いころに夢見た職業はもう無理ですし、夢をみるひまがあれば金儲けをして明日支払う金を稼がなければならない。 これを地獄と呼ばずしてなんとよぶのでしょう? いま天国のひとは若いときに手をうったひとたちですし、何らかのラッキーと努力が実を結んだひとなのでしょうが、人間、とくがなければなにもならず。今からとくを積みましょうといわれたとて、期待は来世ですか?とといたくもなります。 いま調度、くさってるのもあり人生嫌になります。元々、私自身生きてる価値などない、頑張っても他人に迷惑をかけるような人間とは思ってましたけど、輪をかけて救いがないです。 己しか救ってやることができない、といわれているなかで己すら救ってやれないやつになにもできないは、道理ですね。 救われない、ほんとに救われない。プライドもズタズタですよ。人間プライドなくしたらおしまいっていうけどほんとそうですね。 答えていただけても金に困窮してるので金はだせません。 いま、どうしようもないほどほんきで心がくさってます。

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世の中全て決定されてる

この前カリフォルニア大学の実験で世の中自由意志はないという結論が出たようです。 世の中、遺伝子で殆どの事が決まります。 また環境。 遺伝子は、研究として沢山あり社会で応用されています。日本人は未だに"努力"というくだらないゴミカスみたいな概念が大好きでいつも何かあれば努力努力といって遺伝子から目を背けます。 環境に関しては社会学的なデータが豊富にあります。 そしてその遺伝子や環境というのは、私達がどうやっても得れません。 私がどう逆立ちしても白人にはなれません。 私がどう逆立ちしてもビルゲイツがお父さんになる事はないです。 恵まれたお寺の息子に生まれる事はなく、遺伝子も家庭環境もゴミカスに生まれてきました。 そしてそこで思うのがこのゴミカスのようなクソな世界での運命は、誰かこの世界を作った人が決めてるんじゃないか?と思いました。 例えば、此奴は苦しみながら家族を支えていかなくてはいけないのに乳がんで死ぬとか。 此奴は、超絶苦しみながら特攻して特攻された相手は何のダメージもなく特攻した人は無残に死ぬとか。 生まれてきて半身不随に生まれてきて、世の中を恨みながら死ぬとか。 そして宗教家達はそこに意味があったんだ!と言います。 私は全てに意味がないと思います。 ではなぜ、あの人達は最高級の遺伝子に生まれ 最高級の遺伝子から得られる地位や異性や家族やなんやらを享受できるような遺伝子になぜ生まれてきたのか? 私は大谷翔平と同じ歳の生まれです、しかし片方は身長も高く野球の才能に恵まれ両親は健在でみんなからは慕われ金は沢山。 片方は、ゴミのような生き方をして日々苦悩と闘い誰からも褒められずバカにされ世の中を恨み人を恨み、愛が返ってこないのに人に優しくして才能もなく遺伝子はゴミです。両親は健在ではなく奨学金や親の借金があり身長も低く、 詳細は書きませんが大半の人から運が悪いね!悲惨な人生と言われます。 これは運命なのでしょうか? だとしたら尚更、私はこの世界なんて滅びるべきだと思います。 人は何をしようにも自由意志がなく遺伝子と環境に支配されている。 苦しんだ人が苦しんで死んでいく運命ならそれはこの世界がクソな世界という証明でもある。 罪もなく拷問されて死んだ人も運命?間違えて殺された人も運命?笑えるよ。

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日本の未来に希望が持てません

日本の将来に希望が持てず、危機感を感じます。自分ではどうにもならないネガティブな感情を抱くと、3月に病気になった腹部の調子が悪くなります。 折り合いのつけ方だと思いますが、仕事の現場に復職すると、いろいろな家庭の状況が見えるので、この状態でやっていけるのかと感じます。 私自身の30年ぐらいの経験、親から聞いた先祖(親も含む)の話、親世代の親族間の人間関係、この一年で読んだ本の内容から、社会現象について予想がある程度できるようになってきました。今、ニュースでいろいろな事件が報道されますが、加害者の家庭環境をだいたい予想でき、後で続報で当たっていることが多いのです。直感とかではなく、根拠はあります。 「自分の病気を根本的に治したい」、「仕事で必要なことを本質から理解したい」とやったことが、逆に自分を苦しめることになっています。 おおまかに捉えたままの方が良かったのかと、たまに思うことがありました。しかし、今日、夕飯を食べているときに、「どんなに努力して解決したとしても、また新たな苦しみが現れる。何とかしたいと思わないことが、苦しみから逃れることだ。」と、思い浮かびました。しかし、それは、努力を放棄することではないかとも思います。 今生きている人とその子孫が幸せに、その土地で幸せに過ごしていける智恵が宗教にはあったのだと思います。欧米はキリスト教ですし、中東はイスラム教、アジアは仏教、日本は仏教と神道というように、それぞれの土地の自然環境に合った智恵があるのだと思います。 そう思うのには、三つあります。一つ目は、高校までの地理の知識。二つ目は、大学の教養科目の宗教学で履修したイスラム教の知識。三つ目は、この一年で勉強した仏教と神道の知識。 今の社会現象は、現代日本人が宗教の本質を理解せず、道徳性が崩壊したことに原因があると思います。 お正月は神道に、結婚式はキリスト教に、お葬式は仏教にというように、生きるための智恵を真面目に学ぶ機会が極端に減っていると思います。道徳教育や生活指導は、本来、家庭教育の領域だと思いますが、もう機能していないところが多いように感じます。 私の世代が子供の時から、家庭教育は学校が担うようになっていたと思います。しかし、学校もその余裕がなく、20年、30年経ったのではないかと思います。 もはや、どうにもならない状況になっていると思います。

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世の中の悪意について

こんばんは。 この世の中には、人の事を傷つけても何とも思わない人、むしろ傷付けようとしたり、それを快楽にしている人も多い様に思います。 例えば、仕事が遅い人は怒られてきつい言葉を言われて当たり前。犯罪を犯した人はきつい言葉を言われて辛い思いをして当たり前。 犯罪の被害者であればともかく、ワイドショー等、他人に対しての容赦ない批判が目に付きます。 なんだかあまりにそういった考えが世の中の常識になり過ぎていて、世の中が良く分からないです。怖いです。 そういった事を感じると傷付いてしまうので、いつもは付き合う人や場所をできる限り選んでいますが、不意にそういった価値観に出くわしてしまいます。。 そういった人も疲れていたり、何かのプレッシャーからその様な事をしてしまうのであれば、この世界は悪循環なのでしょうか。 私自身、自分の気持ちを常にオープンであり、クリアに保つ様に気をつけていますが、そういった価値観を感じると、心が少し荒みますし、悲しくなります。けれど、怒りとなって人に向かわない様に気をつけています。 誰も意図的に傷つけたくはないし、できれば傷付きたくもないです。 私は傷付きやすい様で、この世界を生き抜いていくのが辛い時があります。 どの様に心を保っていけば良いでしょうか?

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「バブル」が人や世の中を荒らした…?

 いつもお世話になっております。  時折、大人の方と話していると、バブル景気が世の中や人を 荒らした…というような話を聞くことがあります。  「バブル経済期」という言葉を字引で引いてみると、 「株価や土地建物の値段が適正水準を超えて以上に高騰 し、その後泡が弾けるがことぐ、一気に急落した時期。  この時期には、高額な貸付も横行した」 などといった説明が出てきます。               *  思い返せば私の祖母は、 「アパートを所有している」という事実でひどく 奢り高ぶっていました。木蓮尊者のお母様のようでした。  「アパートがあるんだから、あんたは働かなくていい」 「いいところから婿を取って、たくさん子供を産みなさい」 「黒留袖、いつ作る?」  このような発言は日常茶飯事でした。  彼女のといた邪教により私が今でも苦しめられているのは、 私からただでさえ未熟な社会性を剥ぎ取るためだったのでしょう。               *    最近の新聞記事に、「病院内ポリス」や「荒れる中高年」、 「冥土の土産ハラスメント」などの記事が増え、 また私もそれらを読んでみて考えました。  ついこの前までは、「今時の若者〜」という記事が多く、 これは?と思ったので質問です。  ご意見いただければと思います。  よろしくお願いいたします。

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仏様の道と異なる道(医療編)

「病気の仕組み」が解明されたとしたら、治るのか治らないのかも、はっきりと断言できるのかも知れません。しかし、時には現在の医学で証明出来ないような「奇跡の生還」というものが存在します。 科学的な根拠に基づいた治療では治せない大病を患った時、人は「民間療法」という選択をする場合があります。「藁をもすがる思い」でです。ほんの微かな望みを頼りに、科学的根拠のない「民間療法」に挑む時に、忘れてはならないことがあります。 「治った人がいる」≠「治る」ではなく、「治った人がいる」=「奇跡」「たまたま」ということです。 「STAP細胞」は、本当に存在したのかしなかったのか、それと同じ要領です。もしかしたら「奇跡的」に「STAP細胞」は完成していたのかも知れません。しかし、証明出来なかった。だからと言って「存在しない」とは言い切れない。何故なら、時に「奇跡」は起こるからです。私は、ある時本当に「STAP細胞」が出来たのではないかと思っています。ただ根拠と証明が出来なかっただけで。 治療でいう「民間療法」が「STAP細胞」。確かに、病気が治った患者様がいたのでしょう。しかし、科学的な根拠がなく、また、不確実な為に「保険適応外」となり、膨大な治療費を請求される… 私は、ある「民間療法」に不信感を抱いています。その「民間療法」は、普通の精神状態で見たら、明らかに「アウト」、なのにそれを信じ、命懸けで、命乞いをする、「藁をもすがる思い」の患者様が、いろんな地域から集まる病院があります。集まる患者様らは、皆「先生」をまるで「教祖様」のように信頼して心酔しています。 入院施設はなく、コンテナの中での共同生活。食事も出ません。その劣悪な環境に自分達が置かれていることにも気付かない、もう治す手立てのない弱った患者様たちが、先生の「気合い」を感じる治療、施術らしきものの為に、コンテナと病院を行ったり来たりの生活を送っているのです。結局、亡くなるケースが多いのですが、もし遺族がその先生に「何故、私の娘は亡くなったのですか?」と尋ねると「私を信じる力が足りなかったからです」と言われてしまいます。 「信仰の自由」は私たちの権利です。そして「奇跡」は不完全な社会でたまに起こります。しかし、「医師と患者様」は「教祖と信者」ではない!「仏教の救い」とは異なる危険な医療行為があることを、お坊さまはどう思われますか?

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