仏教でいう幸せとは何ですか?
仏教における幸せとはなんでしょうか?
修行を積んで悟りを得ること?
煩悩を滅し苦しみから解放されること?
私にはよく分かりません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【等正覚】
模範解答をするならば【無苦】の状態になる事といえるでしょう。
でも、少なくとも私の場合は、今生においてはおそらくそれは限りなく不可能に近い夢のまた夢だと思います。しかしながら、いつか必ず悟りを得て、あらゆる苦悩から開放される日が必ず来る事を約束されるとしたら…?
それはもう救われたに等しい。これを【等正覚】といいます。
今、苦悩の煩悶の真っ只中にありながらも希望を持って生きていける。
安心して不安がっていられる。
おめでたいと思いますか?
でも、私は苦悩の中にいながらも幸せ者です。
感謝
回答が2つ出ているので、じゃあ少し見方を変えて。
よくあるこんな質問。
「コップの中に水が半分あります。どう思いますか?」
Aさんは「もう半分しかない」
Bさんは「まだ半分もある」
同様に、親から命を受け、この世にいる事実を
Aさんは「なんでこんな世に産んだんだ!」
Bさんは「産んでくれてありがとう」
同じ事実・事柄においても、見方や感じ方は違います。
あるものに目をやるか、ないものに目をやるか。
満足か不満か。肯定か否定か。感謝か妬みか。
祖師の言葉に「浄土(天国)といい穢土(地獄)というのも、実は2つは別々のものではなくって、ただ私たちの中に存在している」とあります。
仏さまが示して下さった方法に沿って、
四苦八苦、試行錯誤しながら、なるべく浄土よりのモノの見方を身につけていく。
いつか自分が亡くなる時、自分の人生とご縁に感謝して、安心して仏さまに身を任せることができれば幸せだろうなぁと思います。
本当に❝黙せる❞人になる
心の静けさの究極中の究極は実に安らかで温かいものです。
心の静まりの最上中の最上は実に暖かで明らかで優しいものです。
これを理屈で知ってもペケっすからそこに導ける指導者の元で学ぶのです。
たとえば人間って幸せを論ずるにも斜め目線やハスに構えて論じている。
そういう人って結構幸せの首都があるとしたら、そこからかなり辺境の地に居座っているものです。それは考えの世界、評論の世界、眺めの世界、評価の世界、いちゃもんやケチをつけたりする世界、心騒がしい世界というものです。
幸せってなるモンであって論ずる人って幸せから遠い人もいる。
今、質問者様は幸せを求めています。
幸せを論ずる人にならんようにしましょう。
幸せになればいいのです。
では、幸せになるにはどうすればよいか。
仏教的にといいましょうか、仏教はそもそも人間の根本的なことを説いている教えですから、人間の損得、かちまけ、優劣、好き嫌い、ポジティブ・ネガティブなどの思いのワールドに心が染まる前になればよいのです。
坐禅などはその最短ショートカットです。
いかつくない、厳しくない指導者の下で学ばれると良いでしょう。
仏教って本当の仏教には人が手を付けていないのです。人の介入がない。
日本のお寺の仏教ってぶっちゃけ大体坊さんの個人思想が介入しちゃってるものがあると思いませんか?アジア諸国の仏教だって同じです。裸に袈裟一枚で過ごしているから日本からみるとまともそうに見えますが、中には超ローカル非理知的な仏教副産物のド・思想に染まったものもあるのです。
そういうのにカブレないことって大事ですよ。
色々おありだったようですが、時にはパンクな精神でうそくさ仏教をぶち破る姿勢って持っていた方がイイですよ。
たとえば医者行けば薬はくれましょうが、必ずしも個人に適したものではなかったりします。その前後の人も同じような薬をもらっていたとします。その先生に診察を受けた人はみんな同じ薬をもらっていたとします。そういう事務的なものもあるのです。
血の通った仏教に出会えるまでは私は救われませんでした。
もし仏教に関わっていこうとするのであれば、宗派問わずやり抜いた人から習う方がイイと思いますよ。
有名な人=真実の教えを説いてくれているかというと微妙だったりするもんです。
ちゃんと自分が救われる内容のあることを説いてくれる人に出会えますように。
一般的に、人間が「幸福感」を感じるのは、例えば、”美味しいものを食べた”、”彼女彼氏ができた”、”昇進して家が買えた”、”宝くじに当たった”などなどだと思います。
これらは全て、その逆の状態であってこそ感じるものです。飢餓の状態から”美味しいものを食べれた”、孤独だったけど、”彼女彼氏ができた”、ヒラでアパート暮らしだったけど、”昇進して家が買えた”、貯金なかったけど、”宝くじに当たった”などなどだと思います。
これらは、自分に幸福感を与えている、それら外的な材料がマイナスになった時は、「不幸」になるものです。
それに、幸福というのは言ってみれば幸福感のことで、人間は幸福をもたらした外的刺激にはすぐに慣れてしまいます。お腹いっぱいの時は、それ以上食べても幸せを感じません。
美味しいものを食べるのが日常であれば、飢餓の時に食べたラーメンほどに美味しさや幸福は感じません。
せっかく彼氏彼女ができても、やがて他に目移りするし、それに遅かれ早かれ肉体は時間とともに劣化します。昇進も家も時間が経てば、大なり小なり不満を感じるようになるし、定年もあれば家には耐用年数もあります。
1兆円持っている億万長者が一億の宝くじに当たって、天にも登るような気持ちになるでしょうか?
外的なものがもたらす幸福は、それらを持っていない不幸をよりどころとして感じるものです。
また、死とともに失われるものです。
さて、前置きが長くなりましたが、仏教修行によって得られる幸福というのは、一般で言う外的な幸福ではなく、肉体を超えた圧倒的「幸福の霊的体感」なのです。(肉体を超えて、と言いながら体感というのも矛盾しているのですが、他に表現がないので、、、)
それは、肉体を感じない「空性」から湧き上がるように感じる歓喜で、外的なものがどのような状態であろうと関係なくもたらされるものです。
また、心身が日常的にその状態になる幸福感であり、しかも時間と共に増えていくもので、時間と共に劣化する肉体や物質とは真逆ですね。
仏教であまりそのようなことが語られていないですね。無とは苦とかの表現は多いけど(^ ^)
まあ仏教が、馬の前に人参ぶら下げるような「利益誘導的」な修行へのお誘いをしないからですかね。
満足することでは
幸せとは、満足することではないでしょうか?
悩み苦しみや不満がなくなること。
そのためには、悟る(煩悩が消える)方がよいのです。
煩悩がなくなれば、不満がなくなるから。
煩悩をなくすには、真理に気づく(悟る)必要があります。
煩悩は、私達生きものが先天的に持っている「勘違い」。
その勘違いに「あ、勘違いだったんだ」と気づくことが悟りであり、悟ると勘違い(煩悩)がなくなる。
しあわせは いつも じぶんの こころが きめる
こんにちは。
書家の相田みつをさんの詩に
「しあわせは いつも じぶんの こころが きめる」
という言葉があります。
仏教には「小欲知足」という言葉があります。欲を少なくして、常に足りている事に気づくということです。
しあわせは、どこからかやってくるものではなく、実はあなた自身の中にあることに気がつくことだと思います。
私の思うそれとは違う
仏教徒であろうが凡夫(煩悩の身に生きるただの人)である私が私の心で思う幸せとは
お金がいっぱい
健康
好きな人とはずっと一緒
嫌いな人は関わらない
物事は思う通りに運ぶ
楽で苦しみがない
といったようなものですが、仏教では仏様の教えによって私が思う様なそれらは本当の幸せではないと知らされます。
では、仏教でいう幸せとは何か、ということになるのですが、それは仏教用語で言えば
涅槃や正覚、妙覚、法性、実相…
と、まあつまり「お覚り」のことになるのですが、それはどういうことかと近づこうとするとその用語の解釈になってしまいます。
用語ですらもお釈迦様のお覚りを言語表現したものであるのにそこからさらに解釈を加えるとこれは人の数だけの味わいが生まれてくるものとなります。
だからこそ、ブレを少なくするために用語の意味をきちんと押さえるということは大事ではあるのですけどね。
言語や解釈という「覚り(真理)を私たちに分かるように表現したもの」ではなく「覚り(真理)そのもの」と私たちはどこで触れるかと言うと、「私は覚り(真理)に背いていると気づく」ところです。
覚り(真理)に背く私が明らかになるところに覚り(真理)との接点があるのです。
ですから、「仏教でいう幸せとは何か」をあえて表現するならば「私の思うそれ(幸せ)とは違う(それなのに私はそれらに執着している)」ということになります。
それをより具体的に表現していただいた諸師の回答は有り難しですね。私もこの問いから大変に学ばせていただきました。
私にとっては
菩提薩埵四摂法の実践
悟りを得て成仏することが仏教者の目標だと思います。
残念ながら成仏に到ることが不可能な者にとって、ひたすら菩薩道を歩んでいくことが仏教者としての生き方であり、仏教者としての幸せだと思います。
その生き方の具体的な具体的な指針として、菩提薩埵四摂法があります。
布施 他者に喜びや安らぎを分け与える
愛語 他者を労り和ませる言葉を、かける
利行 他者を利益(りやく)する
同事 他者の苦悩も喜びも分かち合う
と書いていて、「仏様のお姿そのものが、仏教者の幸せを象徴してます。」と思い出しました。仏像の手の形を印相(いんぞう)と言いますが、最も一般的な印相として与願印と施無畏印があります。
施無畏印とは「恐れなくてもいいんだよ」という安らぎを与えるという意味です。与願印とは「よろこびを与える」と言う意味です。奈良の大仏様の右手の印相が施無畏印であり、左手の印相が与願印です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E7%9B%A7%E8%88%8E%E9%82%A3%E4%BB%8F%E5%83%8F
蛇足ながら、以前自分のブログの中で「幸せ」についえ考察したことがあります。多少は参考になるかもしれません。
https://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/3879177.html
生きていることの不思議さを感じることかなー。
つぐみさん、こんにちは。
私は、仏教を学んだことで、今いる自分の不思議さを感ぜざるおえなくなりました。
世の中、生きるか死ぬか、理不尽で苦しみ多い、一切皆苦の世界。その中で生きていくことの大変さと共に、そこに一瞬の光、明かりが見えることがあります。それを感じて掴みとることができるか?それが生きる意味なのだと感じます。
アニメ・マンガ好きなので、宮崎駿さんのマンガの方の「風の谷のナウシカ」の名セリフ。
「いのちは闇の中のまたたく光だ!!」
苦しい中で一つの光が見える。そこを心で感じる時に、たとえ苦しくとも無常の喜びが起こります。
それに近い感情が、仏教の幸せに通じるものだと思っています。合掌
質問者からのお礼
みなさんありがたいご回答をありがとうございました。
どれも胸温まるご回答でとても幸せになりました。ありがたいご縁、巡り合わせ、無上の喜びです。それを繋いでくださった仏様に感謝いたします。
幸せとはこういうことなのかも…。