些細すぎて申し訳ありませんが、 私にとっては些細じゃないことなので教えて下さい。 もし檀家さんのお宅に訪問されたとして、 コロナ禍前のようにお茶出されたらどうされますか? 私がお坊さんなら我慢して飲むけど怖いです。 お盆にお坊さんにお参りに来て頂く予定があります。 話は横道逸れますが、コロナの第3波の頃、義母が調子を 崩し、最悪(葬儀)のことまで想定したため、常にペットボトル (500ml)のお茶をまとめて買うようにしました。 コミュニケーションがうまくいっているお坊さんなら 「こんなご時世ですけど、どうしましょう。1本持っていかれますか?」 ぐらい言うところですが、ちょっと言えるタイプではありません。 あまりコロナに対して過敏なご住職でもなさそうですが… 主人はペットボトルを差し出したら、絶対に失礼だと言うと思います。 本人的には頑張ってくれていますが、かなり残念な感染対策なので 私が段ボールでお茶を買ったのも理解が出来ていないみたいです。 正直どうされるのが最適解だと思われますか? 忌憚ないご意見、どうぞよろしくお願いいたします。
私の地元に全国的に有名なお寺があるのですが、そこのお坊さんが超高級車であるフェラーリやマクラーレンを長年所有していると知りました。最近は中古価格が1億円を超えることもあるマクラーレンを所有しているそうです。親に聞いて見たところ、昔から地元では有名だったそうです。 私の中でお坊さんと言えば質素な生活をするのが当たり前?だと思っていたので大変驚きました。超高級車を乗り回すなんて煩悩の塊ではないかと思うのですが、お坊さんが超高級車を所有することは仏教の教えやお坊さん達にとって問題のない事なのでしょうか?
私は現在、30代後半です。 40才からの生き方を模索しています。 私の人生は10代は学力不振、20代はうつ病、30代は仕事を転々と紆余曲折、迷走してまいりました。 そういった中でも20代からのスポーツへの取り組み、30代からの神道仏教の学びと経験は分かりやすい成功ではないものの心身の健康、人格の向上と心の平穏を得る事ができまして、ある一定の価値を感じています。 しかしながらもうすぐ40才にして実家暮らし独身の派遣社員ではなんとも心許なく、これからの生き方に一抹の不安を感じます。 仏教に感銘を受けているので40才から出家、修業してお坊さんになる道を考えています。 出家して修業するとなれば、一般社会よりも厳しいであろうと覚悟はしています。 40才からお坊さんになれますか?お坊さんになる方法を教えて下さい。 よろしくお願い致します。
昨年に義父(主人の父)が亡くなり、今年が初盆になります。 菩提寺の住職さんと義父は、個人的にも親しい間柄だったそうです。 5~6年前から御住職の体調が悪いとの理由から、お寺の本堂以外での法要はすべてお断りしているとの事で、義父の通夜葬式も別のお寺の連絡先を言われてこちらから連絡し、急遽、来ていただき葬儀をすませました。 初盆となる今年だけでも、仏壇の前で拝んで頂きたいとお願いに行ったのですが断られ、代理の方をよこしてもらうことはできないか訊ねると「そちらでお好きなお寺さんに連絡してみてください。」との事。 義母は、事を荒立てたくないので自分たちで集まればいいと言うのですが、主人は亡き父の為に初盆はきっちりしたいと言います。 義母の気持ちも主人の気持ちもわかるので、何か良い方法はないかと悩んでおります。このような場合、どうしたらいいのでしょうか?
私の知人が浄土真宗のお寺に嫁ぎました。 実家はサラリーマン家庭で、真言宗の檀家さんだそうです。 彼女自身は特に宗教に興味も抵抗もなく、実家にいた時はお仏壇にも神棚にも手を合わせることが特に宗教行為という認識を持たずに「祖父母がそのようにしているから自分もしていた。」程度だと言っていました。 彼女は嫁ぎ先のお坊さんの勧めで僧侶の資格も一応取ったと言っていましたが、 未だに信仰心も湧かないし、苦労していると言っています。 特に苦労するのが年中行事だそうで、初詣やクリスマス、七五三、地域のお祭りで神輿を担ぐこと、など自分が子供の頃楽しみにしていたイベントは殆ど全てが仏教的に(もしくは浄土真宗的に)NGだったり、必要ないとご主人が言っておられるそうです。 彼女にはお子さんもいますが上記の理由で自分の子にそのようなイベントをしてあげられないということに対しても、とても落ち込んでいます。 そこでお坊さんにいくつか質問です。 1、お坊さんの奥さんは嫁ぎ先のお寺の宗教を信仰してますか?(するべきですか?) 2、お坊さんの家族は嫁ぎ先のお寺の宗教以外の宗教行事を控えてますか?(控えるべきですか?) 3、宗教に対して興味を持っていない奥さんや家族に対して、お坊さんはどのようにご自身の宗教を伝えてますか?(伝えない、伝えているけど受け入れてもらえない、伝えたくない等、色々あるかと思います。) ぜひ教えてください!
以前、私の悩みに答えていただきありがとうございます。 事後報告のようになってしまいますが、どうしてもお坊さん達にお礼を言いたくて、ここに来ました。 私は同居している姑からの嫁いびりに悩まされていました。 悪口を超えた暴言も現在進行形で姑から言われていますが、そんな暴言が気にならなくなるぐらいの因果応報を目に見える形で実感する出来事が起こりました。 私は姑と同居をしてから直接暴言を言われたり、近所にも私のことを言いふらされていました。 とても苦しくて、でも私の祖母から言われた『人の悪口は絶対に言ってはいけない』という言葉が忘れられず、ただただ黙って姑からの暴言に耐えていました。 どうしても苦しくなった時はここに来て、過去に私が相談したことに対するお坊さん達の優しい回答を読みに来て、心を落ち着かせていました。 しかし先日、私は外で倒れてしまいました。 家の前で倒れたのですが、たまたま外にいた近所の方が見つけてくれて救急車で運ばれました。 検査をしても何一つ問題が見つからず、医師からは精神的ストレスが原因だと言われました。 数日間入院をし、自宅に帰ろうとすると助けてくれた近所の方にお会いする事ができました。 その近所の方に感謝を伝えると、 「あのお義母さんと一緒だから疲れちゃったんだね。大変だったね。あなたがいない間、お義母さんあなたの事を酷く言うから怒っといたよ。ここの近所の人達はみんなわかってるから大丈夫だから。」 と近所の方から言われました。 正直驚きました。 絶対に私は近所の人達からも、姑の言いふらされたとおりの人間だと思われていると思っていたからです。 しかし現実はお坊さんの言うとおり、義母から出た悪口はそのまま義母に返っていたのです。 この事があって以来、義母から悪口を言われても全く気にならなくなり、毎日笑って過ごせるようになりました。 お坊さん達のおかげで、今、私は毎日が楽しいです。 娘にも、お腹にいる子にも笑顔で接することができています。 もう少し子ども達が大きくなったら、ママはお坊さんに助けてもらって今こんなに笑えるよ(姑との内容は伏せておきますが…笑)と必ず教えてあげたいです。 また祖母のように「人の悪口は絶対に言ってはいけない」と教えていきたいです。 本当にありがとうございました。
学習性無力感に陥っているベテラン(若手も?)僧侶をよくお見かけします。そして、それは無理もないと感じています。現場の本音を、差支えない範囲でお聞きしたく思います。 法話で何を話しても響かないし、葬儀や法事の際も、飾りとしてしか求められてない本音を感じるし、一見したところ支持してくれている方も、実は事なかれ主義の惰性だったりで、、。傍から見ていても気づくので、いたたまれない時がややあります。そんな現実の中、気力を振り絞って活動しているお坊さんをよくお見かけします。私にはそう見えますし、時折ボヤくお坊さんが実際におります。責めるつもりは微塵もありません。 ここで本音を語るのは難しいとは存じますが、虚しくなることはないのでしょうか?また、なぜこんな状況が長年続いてしまったのか?今後はどうする方針か? 考えをお聞かせください。 宗教家の宿命なのかもしれませんし、開き直って腐敗していく方も多いようなので、、そんなマジメなお坊さんにこそ、もっと暴れまわってもらいたいです。
家は、禅宗で、今お付き合いしてる方は、浄土真宗なのですが、たびたびお世話になってるお寺は、真言宗です。 真言宗のお寺で、護摩たき(字が間違ってたらごめんなさい)していただいたり、真言を教えて頂いたり、御守りを頂いたりしてます。 この様な事は、本来よくない事でしょうか? 実家とは、疎遠で、今後の付き合いもありません。が、それでも、禅宗の方法で色々と進めるべきでしょうか? と、言っても仏壇などありません。ので、特にいま何か出来る訳でもありませんが、私の様な檀家にもなってない人は、今後どうしたらいいのでしょう? 何か1つの事でも、アドバイスいただければ、ありがだいです。 よろしくお願いいたします m(__)m
昨年11月に夫が他界しました。原因不明の病で3週間の入院生活、回復の兆しが見えてきたと思った矢先に突然亡くなりました。 火葬の後、お坊さんがお経を唱えている際に目を開けてみると、お骨の横にとても明るく光る金色ともオレンジ色とも見えるグリッターのような光りがキラキラと見えました。 あまりにもはっきり見えたので、周りの人たちにも見えているのかと思いキョロキョロと見回したのですが、私にしか見えていないようでした。 とてもキレイな、グリッターのような、温かみのある光が、骨壷の周りで光っていました。 お経が終わったのと同時に光はさっとなくなりました。 今日は49日でした。お別れはとても寂しいですが、あの光に今でも見守られているのような気がし、心が落ち着く感覚になります。あの光は何だったのでしょうか?
いつもお世話になっています。「金剛経5章」の勝手な考察です。お坊さんからのヒントをお願いいたします。 我々凡夫は、如来であるとの確証を得た(=如来は凡夫にとって価値があるということを知った)後に、如来を探し出せるような特徴を必死に見つけ出します。如来(=価値がある存在)と確証する前は如来でも何でも無いので特徴など詮索しません。探す目で見ていないので特徴はあっても特徴は認識できないので特徴はありません。特徴があるとは、気づいた後に作り出すものであり前には特徴はありません。 誰かが発見する前から重力や浮力は存在していて誰もが目にしています。特徴などないので気づきません。発見した人が「万有引力」やら「浮力」などの名前をつけて特徴としています。 そもそも、あらゆるものに特徴などなかったのです。人間だけに利用価値や意味があるので特徴を見つけ出します。人間以外の動物に「偽札」の特徴など知る必要はなく、特徴などありません。 動物には「言葉」がないので、臭いとかまずいとかの概念はなく本能的な反応だと思われます。我々人間も味を「言葉」にして分けていますが、親に教えられて「にがい」という味覚と経験を記憶しているだけです。 特徴があると断じても、諸法は無我であるので縁によって以前の特徴がいつまでもあるわけではありません。宇宙空間での「音」の特徴は、空気という縁がないので音は振動として伝わらないので音の特徴などありません。人相の特徴ですら、三十年も経てば全く変わってしまい以前の特徴はなくなっているでしょう。 特徴がないと断じたとしても、人間が価値を認めれば特徴を必死に見つけて特徴を定義します。 「ぶどう」は房に実が鈴なりについていて、甘酸っぱくて黒や緑色をしているという特徴によって「ぶどう」と名付けられます。この共通認識によって、市場で果物として流通しています。「ぶどう」は「ぶどう」と名付けられる前から存在していました。「ぶどう」は「ぶどう」と呼ばれなくても「ぶどう」ですから、明日から「ぶどろ」と呼ばれてもいいのではないでしょうか。 特徴によって存在しているのではなく、存在に特徴をつけて勝手に思いつくままに適当な「名前」をつけているだけではないでしょうか。 結局、あらゆるものは概念と名前によって個別の存在として有るだけで本来は区別差別のない一体であると認識しました。
今や自分はともかく親が何を信仰しているかも分からない場合が多いと思います。そして特定の菩提寺を持たない場合において、祖父母の墓参りなどで直面する、お墓の前で唱える言葉の意味についてどう考えたらよいのか悩んでいます。 基本的には自分が信仰する宗派において、自分自身のために唱えるのは理解できるのですが、故人のために唱える場合は、どういう意味があるのでしょうか。 そもそも故人は自身の信仰によって成仏されていると思うのですが、それに対し後世に他人(親族です)が言葉を唱えることの仏教的な意味を知りたいです。 また、〇〇宗を信仰された祖父のお墓の前で、▲▲宗を信仰している(もしくは何も信仰していない)孫が唱える言葉は何が良いのでしょうか? 一般的には〇〇宗のお墓の前では、〇〇宗の言葉(例えば南無阿弥陀仏など)と教えられたのですが、よくよく考えていくと自分の信仰していない宗派の言葉を「形式的」にだけ唱えるという事になってしまい意味があるのかな、と思い始めました。 浄土宗などは念仏を唱えることに意義があるという点では、形式上であったとしてもある程度は理解できるのですが、浄土真宗やその他禅宗などにおいては意味があるようには思えないのです。 今まで深く考えず、親に教えられた通りに唱えていたのですが、勉強すればするほど分からなくなってきてしまいました。 迷える子羊をお救いください。
ハスノハには大変お世話になっています。いつもありがとうございます。いつかおきもちを少額ではありますが、寄付したいと思っています。 気づいたことがあるのですが、真言宗のお寺でお坊さんが本堂でお経を唱える際、いつもサブ席に座っています。そのお坊さんのお父さんは生前、仏様の目の前の本席に座っていたのですが、亡くなった今でもお坊さんはサブ席に座っていて、本席が空いている状態なんです。 どうして空けているのでしょうか。お父さんを尊敬しているから空けているのでしょうか、、
今までのお坊さんのイメージでは、 私生活がどうであれ 故人を送り出す為お経を読み 遺族と寄り添うと言う感じで 尊敬していたのですが,,, 仮通夜で眠そうにお経を読み 遺族に対して偉そうな物言いいをし あげくのはて包容の日を忘れ遅刻してきたり こんな人でもなれてしまうんだと 物凄くがっかりしました。 お坊さんになるのはそんなに簡単なんですか?
先日祖母が亡くなりました。 理由をつけてはなかなか施設に会いに行けず、後悔しかありません。 祖母はよくお経をあげていました。 私も横で手を合わせて一緒に読んだりしていましたので、おばあちゃん孝行が出来なかった分、せめて次の法要ではお坊さんに合わせて心の中で読経したいのですが、どの章(例えが分からないのですが、沢山お経の種類があったので…)を読み上げるのか知りたく質問させて頂きました。 お忙しいとは存じますが、何卒宜しくお願い致します。
こんにちは、ここ3ヶ月くらい本を買うようになりました。 そのなかで今でも読まれている論語という本があるのですが、こういう難しい本はどう読んだらいいのかわかりませんし頭に入ってきません。一応解説はありますが(宇野哲人による) ふと思ったのですがお坊さんたちはあの長いお経を理解して覚えているのですよね? 難しい本の読み方の参考になりそうなので お経をどうやって頭に入れたのか教えていただけると嬉しいです。
先日、母の一周忌を行いました。 お寺へ行きお坊さんにお経をあげてもらいました。 お坊さんがお経をあげている時「お母様の事を思い出しながら聴いて下さいね。」と言われたのですが、お経を上げる時にお経の本?を貸してくれました。 お経が始まるとその本を無心で目で追っていました。お経が終わり、気付くと母の事を思い出ていませんでした。 亡くなった母はきっと気にしてはいないと思うのですが、少しモヤモヤしています。
先日大好きな母を亡くしました。 葬儀の前に母の一部をと思い、 母の髪の毛を少し切りました。 その髪の毛をお守りにして持ち歩こうかと思うんですが、 母の髪の毛をこの世でお守りにするに辺り母が成仏できなくなるなど何か他によくない事はありますか? お坊さんに三十五日までお経を勤めていただくのですが、 これから月命日などがありますが、 仕事などで忙しくなるため毎月お坊さんを呼べそうにありません。 一周忌などにはお坊さんにお経を唱えてもらう予定です。 月命日には必ずお坊さんにお経を唱えていただいだ方がよいのでしょうか? お坊さんは呼ばず、お経を録音しておいて流すだけでもよいのでしょうか? ほかに母のために何かしてあげると良い事などありますか?
四月半ばに父の一周忌と納骨の予定でしたが、コロナの影響で納骨は延期で家族だけで一周忌を自宅で行うことにしていました。 一度お断りしているので、まだお坊さんには頼んでいません。 先日弟が80代の高齢の母の感染を心配して取りやめたほうがいいと連絡がありました。 今は一人暮らしなので、私たちも濃厚接触にならないように気をつけて過ごしています。 無宗教だったので、葬儀の際は親戚に宗派を確認し、真言宗のお寺を葬儀屋さんに手配していただきました。一周忌には購入した霊園で、そこの施設で紹介のお寺に変更予定でした。 弟の言葉もあり、一周忌をやってあげたいけれど感染リスクもあり心配だと、母も悩んでいます。 自分たちでお経をあげてもいいのか、ただお経などあげたこともなくわかりません。 母には命日に母と私で手を合わせてあげれば、父もそれで許してくれるはず、三回忌をきちんとやってあげようと話しましたが、本当にそれでいいのだろうかと私自身もわかりません。 この先感染も拡大しそうな中、どのようにしてあげればいいのでしょうか。
結婚して実家に住むことになり、それまでの家と他人の家を含む土地に新築しました 霊に関して臆病なのですが、息子の部屋で寝てたら金縛りにあったり、寝室のドアが開いてると安眠できません。今まで霊をみたことはありませんが気配は感じます 何か良い方法はないでしょうか?
先日、 主人のお母さんが亡くなり 葬儀を行いました。 その時に、 お経をあげてくれた お坊さんは、葬儀の間ずっとマスク。 お経の途中で お茶を飲む時だけ、 マスクをずらし それ以外は マスクをしたまま。 お坊さんも人間だから、 マスクをしなきゃいけない事もあるだろうと思います。 でも、 檀家さんの葬儀でお経をあげる時くらい 外せばいいのに… と、思ってしまいました。 なんだか、 有難いはずのお経も そう思う気持ちが半減してしまいました。 そう思う私がおかしいのでしょうか?
躁と鬱と私と共に生きる西條るじん僧侶
和歌山の駆け込み寺・中田三恵住職
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教えと名言・逸話
仏教の根幹となる教え
仏教が説く8つの苦とは