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hasunoha 問答検索結果 : 「私 お経 」
検索結果: 2747件

主人が他人から命を奪われた苦しみ

主人は他人から命を奪われました 身体も半分なくなりました 即死でした、ほんとにこれからの 人生を夫婦で楽しみにいたので どれ程の無念だったか…残った私も いつでも私を一番に思って愛情をくれてた唯一の主人が殺される形で突然逝ってしまったのです、結婚30年目でした、あの事故から2年が経ちますが、私自身は未だに何も受け入れられないし、人との関わりも何を話したらいいのか、病気ならそのままを伝える事は出来ると思うけど、こんな経験はあまり話せる物ではありません 上手くできないし、でもわかって欲しいと思ってしまって、でも無理だと知っての繰り返しで色々悲しいけど思い知りました、その度孤独感に襲われます、ゆっくり進めばいいよと言われて、それしか出来ないと それでもなんとかありったけのエネルギー使って頑張れーと奮い立たせて来ても経験してない人との距離は縮まりませんでした、それでも くよくよしてると主人が成仏出来ないよ、なんて言われて 経験してみなよ、好きでそうしてる訳じゃないんだ、心がもう無理なんだよ❗と怒りにも似た感情が出てきてまたそれが私を苦しめます 生きる事じたいを頑張らないといけない…殺されてなければほんとは 今も元気で普通にしてられたのに… と憎しみも増幅します ほんとに毎日何かと葛藤して それでも感情をコントロールしながらなんとか生きてます 何年こんな思いが続くのか 何も悪くない私達がどうして… でも主人にはちゃんと成仏して穏やかでいて欲しい、ちゃんと供養もしてますし、お花、ご飯、お水を供えて祈ってます、愛する人の命を他人から突然奪われる、この世でこれ以上の苦しみってあるのでしょうか? 私はちゃんと主人に届くようにいきて行けるのでしょうか? 正直疲れて何もかも捨てたくなります、経験して初めて知る苦悩と葛藤でこの先に光は見えません あるのでしょうか? ただただ真面目に生きてきたのに なぜ?どうして?、わからず 救って欲しいです

有り難し有り難し 81
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ひとり歩きしている「しっかり者」の評価に困っています

 学生をしているものです。最近、「しっかりしている」と思われることに少しうんざりしています。  もちろん、自分の仕事がきちんと評価されているのだと思えば有難くもあることなのですが、過剰に評価されたり、しっかり者というイメージが先行し、期待が重いと感じることがままあります。  自分のキャパシティがすでにいっぱいいっぱいであったり、苦手な分野での頼み事をされたりした場合も、「時雨さんはしっかりしてるし大丈夫でしょ?」との反応が多く困ります。  実際は努力やこつこつと積み上げることが苦手で、日々の作業を適当にこなしている面もあり、しっかり者とは程遠いと思うのですが、周りにそう言っても謙遜と受け取られてしまいます。  それゆえ、このことを周囲に相談することもかないません。  ぜいたくな悩みとは思いつつも、キャパオーバーしてしまうのが怖くもあり、「実はしっかりしていない適当なわたし」を誰かに理解してほしいという気持ちもあり……  つまるところ、等身大の評価を得たいのだと思います。自分の努力や能力以上の評価をしてもらうことは心身ともに苦しいです。  頼られることはうれしいのですが、不当にプラス評価をしてもらうことは、不誠実なことのようで……  実際、自分で抱えられる以上に頼みや相談を引き受けてしまい、にっちもさっちもいかなくなった思い出も一、二度あります。  わたし自身と周りのイメージの剥離を埋めることは可能でしょうか。 また、それが不可能であれば、ひとり歩きしているしっかり者のイメージとどのように付き合えばよいでしょうか。  

有り難し有り難し 19
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忘れたい

ごんばんは。 最近強く思う悩みについて相談させて下さい。 今は30歳で結婚もし、子供もいます。 小さい頃からと言うかずっと続いているなやみがあります。 小学生の頃から両親の仲の悪さに悩み、実の姉から性的虐待を受けていました。 私が大きくなるにつれて母の期待が重く、常に監視されている様に思えました。 実際友達との電話を聞かれたり、すぐ発狂する母が私は嫌いでした。 高校の頃、私は母に反抗をして家出をしてしばらくは親戚の家へお世話になる事になり、少し落ち着いた気持ちで過ごせていたのにある日、母か突然来て、人殺しー!!とか外で騒ぎ出しました。耐え切れず私は、もう二度と私の前に現れるな!と母に言いました。 母はそのまま何も言わず帰りました。 次の日、父から母と祖父(母の父親)が行方不明だとしらされ、家族、親戚で捜索しましたが見つからず。 3日後に近くの池で遺体が見つかりました。 警察によれば、母が入水自殺をしようと池にはいったのを祖父か助けようとして一緒に溺れてしまったのだと。 母と祖父は私のせいで死にました。 父はその頃から私と合わず、一昨年まで一緒に住んでいましたが私が家を出る形になりました。 私は2回目の結婚です。 今は凄く幸せです。ですが、私がいると、私が生きていると、周りの人がみんな不幸になる気がして毎日いたたまれません。 母や祖父、父の様に家族を不幸にするんじゃないかと。 忘れたいのに忘れられません。 どうか助けてください。

有り難し有り難し 35
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友人の悲報を伝えるべきか、伝えないべきか

長文失礼します。 先日、私の先輩が亡くなられました。 その先輩は、人付き合いが苦手な私を叱咤激励してくれて、いつも心配してくれる。 優しくて本当に明るい方でした。 亡くなられた日、先輩が危篤だと聞いて、先輩に会いに行きました。 いざ、死を目の前にすると言葉が出ないものですね。黙ったまま先輩のそばに立ってることしか出来ませんでしたが、先輩は、安らかに眠られました。 その時、先輩の旦那様からは、先輩の死を周りに知られたくないと言うことで、他には言わなくて良いと言われてました。 すいません、ここからが本題です。 先輩のお通夜の当日です。 偶然に、先輩と親交のある方で、私も面識がある方に道端でお会いしました。 その方をAさんと呼ばせてもらいます。 Aさんは、私と先輩が仲が良いことをよく知っていました。先輩が、Aさんに私の話を話したり、あの子をよろしくっと言われたことがあると、Aさんからと聞いたことがありました。 挨拶をしてすぐにAさんから先輩はどうしているか?と聞かれるだろうと、絶対心配してるから予想はしていました。 ご家族の意向もあるので、先輩のことは、黙っておこうと最初に決意していたのに、実際先輩のことを聞かれるとすごく戸惑いました。 この方に嘘はつきたくないし、最後のお別れをせず、後日に人の噂で先輩のことを聞くのは、どうなのだろうかと思ったのです。 その友人の方は、先輩の病気のことも体調がここ数日悪いことも知っていましたし、 あまり会いに行けば気を使うし、無理をさせると遠慮されていたのを、私はよく分かっていました。 私に会えば、まず最初に先輩の体調を聞いてくるような方です。 結局、私は先輩が亡くなられたと言う事と、 今日がお通夜があることを伝えてしまいました。 私のこの行いは、ただ自己満足の話で、先輩に対してもご友人の方に対しても果たして良かったのか。 寝る前や、1人になった時、とてつもなく後悔の気持ちが溢れてきて、ごめんなさいと何度も泣きたくなり、私の旦那からもいつまでもくよくよするなと怒られる始末です。 皆様なら私のような状況の時、どのような行為を取られますか?

有り難し有り難し 21
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寺嫁の品格とは

私は10代でできちゃった結婚でした。そのため、両親、お姑さんには大変迷惑をかけ、主人の夢も壊しました。 それから10年ですが、5年前主人は転職を兼ねた出家をしました。 お姑さんの再婚相手がお坊さんだったためです。 偶然にもそのとき、三人目の子供を授かりました。 主人が得度をしたあとでした。 すると、前住職から、「おろしなさい」「お寺の嫁として子供を抱えては無理だ」と言われました。 大きく揉め、とりあえず、私と子供たちはお寺とは関わらず、主人だけ修行のみちに入りました。 そして、3年前、突然前住職が亡くなりました。 それから、様々なことがありましたが、現在主人が住職をさせていただいてます。 お姑さんが内情については仕切ってくだせっています。 私も主人のため、お寺のために少しでもお役に立ちたいと思い、入りましたが、私は所作も知らず、常識もなく、取り柄もないため、「見て、気づいて覚えなさい」というお姑さんのやり方ではなかなか覚えられず、「お寺の嫁としてふさわしくない」「子供を優先に考えていては、絶対にできない」「子供のことでは一切協力しない」「でも、私の孫であり、お寺の子供なのだからもっとちゃんとしたしつけをしなさい」「あなたが一生懸命やっていることは見当違いでただの使用人」など、様々なことを言われてきました。 正直人格否定、今までをすべて捨て、お寺と住職だけ大事にしなさいと言われていると感じます。 確かに結果は残せていないからかもしれません。でも、ここまで来たら、どうにか頑張りたいですが、やはり、辛すぎて、耐えられない気がしてなりません。 お姑さんからの私はどんなに頑張っても認められないでしょう。 でも、お寺を守っている主人の将来を支えるのは私だけだと思って耐え、少しでも成長しようとしていたのですが…もう、力が尽きてしまいました。 どうしたら良いのでしょうか。 私という人格を捨て、何を言われても耐えていけばいいのでしょうか? 寺の嫁とはどうあるべきなのでしょうか。 私を捨てることは、私を育ててくれた両親の思いなどすべて捨てるということです。 言葉としてもそのようなことを言われました。 そう切り替えるのはどうしたらいいのでしょうか。 私は主人の夢を奪ったから、その報いでしょうか。 大変長文になってしまい、申し訳ありません。 どうか助けてください。

有り難し有り難し 37
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2024/03/26

どのようにご供養したらよいのでしょうか…

精神科の看護師をしています。 ずっと心に引っかかっていること、そう思いたくないですがそれが原因…?かとも思えてしまっているできごとも現在起きていて、でも身近でこのようなことを相談できる専門の方がいないので、悩んでいます。こちらのサイトをみつけ、相談してみようと決意しました。 担当していた患者さんが、治療を始めた矢先に亡くなってしまいました。(原因は医学的に説明できるもの) その患者さんが治療を選択したり、治療を受けられる手配を整えるのを、担当である私は看護師としてできることはしようとその時は全力であったのは、誓ってうそではありません。 ただ、亡くなったあとで、専門的な部分にもなってしまうのですが、私の行った言葉がけや行動でその治療に患者さんが望んだならば、結果的にこの患者さんの寿命を私が短くしてしまったのだと思えます。もっとしっかり日頃から勉強する姿勢を持ち、知識を持ち、情報を集められていたならば、別の選択肢を選ばせてあげられたのではないか、それをできてこその看護師だと思います。精神科であるならばなおさら、なのです。 だから、その患者さんは、そのようなことを思う方だとは思っていない反面、私のことを責めていてもおかしくないと思います。 そしてさらに私は、この仕事をしているにも関わらずご遺体を目の前にするのにはいつも怖さみたいなものがあり、上記の経緯もあり、この患者さんへ最後にあいさつができたであろう霊安室にも、足を運ばなかったのです。最後にごめんなさいと、ちゃんと伝えず、お見送りも避けたのです。 後悔しています。 この患者さんへ、今できるご供養があるならば、どのようにさせてもらえればよいのでしょうか。お墓参りやご自宅に行くことは、難しいです。 教えていただければありがたいです。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 13
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オススメの仏教のお話ってありますか?

こんばんは 私は特に信じている宗教はありませんが高校大学と、キリスト教系の学校にいました。学びたいものがその学校にあっただけなので、別にキリスト教を学びたくて行ったわけではありません。 しかし、高校の時、聖書の授業を担当していた先生がとても面白い人でした。 旧約聖書の創世記の初めの「天地創造」の話をしていた時のことです。神が7日かけて世界を創造した、というものなのですが、生徒に向かって「皆さんはこの話を信じますか?僕は、ぶっちゃけ嘘臭いと思っています」と発言なさったのです。 牧師でもある先生がそんなこと言うなんて…と本当に驚くと同時に、「あぁ、宗教そのものや宗教を信じている人は今まで避けてきたけど、意外と身近で面白いのかもしれない」と感じました。 その後もその先生は、カトリックの修道院を体験しに行った話や、絵画とキリスト教の繋がりなど、一般人でも分かりやすいよう教えてくださいました。そこから、私のキリスト教への興味が開かれたのだと思っています。 すみません、ここまでが長い前置きです。 私が質問したかったのは、仏教の分かりやすい(出来れば面白い)お話が何かないかなとふと思ったので、みなさまにお聞きしたかったのです。 物語調のでも嬉しいですし、お釈迦様のこういう話があってね、というものでも嬉しいです。教えていただければ何でも嬉しいです。 お恥ずかしながら、私の仏教の知識は「聖おにいさん」を読んで知ってるレベルですが…。 キリスト教は少し学べたので、次は多くの日本人にとってとても身近な仏教のことも知ってみたいと思うのです。 なにぶん、何もわかりません。この質問もどう聞いたらいいか悩みに悩んで迷走しながら書いています。私が住んでいるのが、お寺が近くにない田舎でして…気軽に聞けるのはここのサイトなのです。 最近hasunohaを見ていて、高校の時の先生っぽいお坊さんがいるなあ、やっぱ宗教者といえど同じ人間、凄く面白いな、もっと話聞いてみたいなあと思いながら色んな問答を読んでいます。 すみません、だいぶ迷走しました。 もしよければ、回答お願いします。

有り難し有り難し 41
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四十九日法要で導師を変えても良いですか

先日父が亡くなり、通夜と葬儀を葬儀社からの紹介である導師にお願いしました。 葬儀の直前、葬儀社の方からの連絡で導師の控え室に参りました時少しお話しさせて頂きました。導師からは供養の仕方やお寺の合同葬のパンフ等頂いたのですが、私がネガティブな言葉で導師の言葉を遮ったり話の腰を折ったとの事で導師から不愉快だと言われ、そのお言葉に総早々に退散致しました。 時間になり導師が控え室から出て来られ皆が着席し、導師は開口一番長女の方と言い合いになりましたと仰ったのです。私は耳を疑いました。導師と言い合いなんてする訳もないです。導師に不愉快と言われたので、それではと席を立ったのです。 家族や親戚には何も話していなかったので、誰も理解できず反応もなかったからでしょうか、導師はそれ以上は何も言わず読経をされました。 でも、終わってから家族にあの意味は何だと聞かれました。私は大切な父の葬儀の時に導師を不愉快にさせてしまったこと、読経の前に導師に言われてしまったことで葬儀を台無しにしてしまい亡き父にも本当に申し訳ない思いで一杯で悲しくて涙が止まりませんでした。 葬儀もせめてもの親孝行だと、金額は張りましたが大手の葬儀会社に手配を依頼して抜かりなく、気持ち良くと思っていたのに情けないです。 葬儀社とお寺の住職の奥様から、導師に何でもご相談下さいとのお言葉に甘えてしまい、結局は導師を不愉快にさせてしまった自分自身が情けなく、葬儀も気持ち良く満足にあげられなかったと後悔の日々です。 ご相談したいのは、戒名を頂いたお寺の導師だから当然四十九日も同じ導師にお願いするべきとの意見が家族にあります。一方、親族に非があっても、導師が葬儀の時に持ち出す言葉ではなかったのではないかとの意見もあります。 私にしても導師が何も仰らなければ水に流して四十九日もお願いするつもりでおりましたが、葬儀をぶち壊しにされたような思いは残りますし、不愉快と仰られたので四十九日に出席する勇気はないです。 今後は亡父の出身の地方のお寺に納骨する予定です。そのお寺に問い合わせましたら四十九日法要、開眼供養、納骨供養など引き受けてもらえるとのことです。 同じ導師にお願いして私は欠席するべきか、或いは納骨して頂く地方のお寺に四十九日法要をお願いするべきか、悩んでおります。よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 40
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病気の愛犬

愛犬の病気が治りません。以前も大きな手術をしていて何回も入院してきました。毎日不安で不安でたまりません。治療もあまり経過がよくなく今日も愛犬は具合が悪そうです。 以前は、突然、具合が悪くなり夜間の救急にも何回も通いました。そこの医者の中に信じられないかもしれませんが、私に対して馬鹿にしてくるようなスタッフがいました。担当の先生は、診察の時は親切にしてくれましたが、一番近い救急がそこしかなく二次診療機関もまた必要ならそこに行かなくてはならないかと思うと憂鬱で仕方ありません。 そういうストレスもあり、愛犬の具合が悪いと私まで体調が悪くなるようになってしまいました。毎日つらいです。つらいのは愛犬のほうなんだから、私がまいっていてはいけないとは思うけど、正直つらくなります。 家族には、こんな時にグズグズしてないで愛犬の食事を作るなら早く作れ、などどやされたりそれなら自分が作ればいいだろ、などと思いながら昨日も過ごしました。 また、別にいる同居の家族は非常に無責任で雪の降る寒い日に体調の悪い愛犬を留守番させる際暖房を危ないからといって消して行って、帰ってきたら愛犬が呼吸も荒くてひどいことになっていました。それなのに、そんなの大丈夫だとか平気で言い放ち腹が立ちます。 ここのところ、正月も深夜も関係なく病院通いの毎日で、それで良くなるのならば苦ではないけれど、今は治療の見通しも立たないのでそれが不安でたまりません。 以前、危篤的な時には延命のお唱えを心の中でしてみましたが、神様に病気を治してください、とお願いするお唱えみたいなものはありますか? また、こんな時はどういう心構えでいたら良いでしょう。何かアドバイスあればお願いします。

有り難し有り難し 40
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白骨の御文章に思う

広島在住で、いわゆる安芸門徒と呼ばれている地域の者です。 葬儀と言えば導師による読経の後、定番となっている《白骨の御文章》の拝読があります。 拝聴している遺族、縁者にはこの御文章の言葉ひとつひとつが重く胸に突き刺さり 感極まって涙する姿は参列者の心をも締め付けるものがあります。 そこで以前から私には一つの疑問がありました。 法話を聴聞する為にお寺参りをした折、読経後に住職あるいは講師としてお招きした僧侶による御文章拝読がありますが  この御文章は数ある章の中から日替わりで読まれている様です。 しかし なぜか私の地域では《白骨の章》にだけは巡り合う事が殆どありません。 普段のお勤めの祭には意識的に避けて、葬式の時に用いる切り札として温存している様にさえ思えるのです。 (もし、他の地域あるいは他宗派では違うのであればごめんなさい) その理由として お寺参りと言えばどちらかと言えば余生短し老人が多いので 死を意識させる話題には触れないでおこう。 そして葬式に限り《白骨の章》で締めれば無難であろうといった僧侶の方々の思惑が働いているのでしょうか? “人の死 ” というものは日常においては誰だって考えたくはないし、忌み嫌われる事はわかりますが 死 という事ほど絶対的に決まっていることはありません。 なので 子供のうちから葬式以外の日常の中で《白骨の章》を耳にするチャンスをたくさん頂くとか 御文章に綴られた深い意味に気付かせて頂く機会が多い生活を送ることは決して悪いことではないと考えるのです。 いつか必ず自分の番が回ってくる死に対しては 若くて元気な時から真剣に考えておかなければならない大切な事だと思うのです。 そうすることが 今の人生を真面目に正しく生き抜く力になるのではないでしょうか。 とは申しましても 現実問題として 住職様の立場から言えば「お寺参りの度に《白骨の御文章》を聞かされたのではたまったものじゃない!」と門徒の方から批判を受け、お困りになるかも知れませんが 私の様な考を理解して頂ける方はおられないものでしょうか? また《白骨の章》を敬遠しないで日々の暮らしの中に活かせる良い工夫があれば お聞かせ頂きたいと思います。

有り難し有り難し 37
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過去の罪とどう向き合うか

数年前に犯した罪について、どのような気持ちをもって向き合っていけばよいか悩み続けています。 私の犯した罪はともすれば刑事事件となってもおかしくなかったような事で、私はたまたま法的な裁きを受けることなく済みました。しかし、自分の罪責から逃れるために、卑怯な立ち回りをしたことも事実です。 私のしたことで、人に怪我を負わせたり、金品を奪ったというようなことはありません。しかし、相手方に大きな精神的苦痛を与えたことは間違いありません。 この数年間、私は、自分のせいで人を大いに傷つけたこと、その責から逃れるために卑怯な立ち回りをしたこと、自分がなんの代償も払っていないこと、苦痛を与えた相手に対してもはや具体的な償いができないこと、自分がまだ相手から恨まれ続けているのではないかということ、に悩み、苦しみ続けています。 先日読んだある本の中に、「許すか許さないかは、自分ではなく相手の責任である」と書かれているのを見つけました。当初は救われたような気持ちがしましたが、しかし、自分は自分のしたことについて責任を負っていない、だから罪は厳として自分の側にあり、そもそも許すか許さないかを相手に委ねる段階にさえ達していない、という思いが募るようになりました。 あれから、自分は脛に傷持つ人間なのだから、そのことを自覚して、謙虚に、親切に生きなければならない、と決心して生きてきましたが、罪の意識は消えません。また矛盾しているようですが、すっかり罪悪感が消え去ってしまうのも、自分が性根の悪い自己中心的な人間であることを突きつけられるようで、恐ろしく、逃げ場のない気持ちになります。そうなれば反省したことも忘れて、また同じようなことをするのではないかという怖れもあります。 そもそも、このような場で質問させていただくのですから、当時の私がしたことの具体的な経緯や状況を明らかにすべきなのですが、私にはどうしても書くことができませんでした。そのこともまた、自分の卑怯さを思い知らされるようで、耐え難い気持ちになります。 大変曖昧な文章になってしまいまして失礼なのですが、これから私は自分の罪についてどう向き合っていけばよいのか、どのような心持ちで生きていけばよいのか、ご助言をいただければと思います。

有り難し有り難し 501
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