学生をしているものです。最近、「しっかりしている」と思われることに少しうんざりしています。 もちろん、自分の仕事がきちんと評価されているのだと思えば有難くもあることなのですが、過剰に評価されたり、しっかり者というイメージが先行し、期待が重いと感じることがままあります。 自分のキャパシティがすでにいっぱいいっぱいであったり、苦手な分野での頼み事をされたりした場合も、「時雨さんはしっかりしてるし大丈夫でしょ?」との反応が多く困ります。 実際は努力やこつこつと積み上げることが苦手で、日々の作業を適当にこなしている面もあり、しっかり者とは程遠いと思うのですが、周りにそう言っても謙遜と受け取られてしまいます。 それゆえ、このことを周囲に相談することもかないません。 ぜいたくな悩みとは思いつつも、キャパオーバーしてしまうのが怖くもあり、「実はしっかりしていない適当なわたし」を誰かに理解してほしいという気持ちもあり…… つまるところ、等身大の評価を得たいのだと思います。自分の努力や能力以上の評価をしてもらうことは心身ともに苦しいです。 頼られることはうれしいのですが、不当にプラス評価をしてもらうことは、不誠実なことのようで…… 実際、自分で抱えられる以上に頼みや相談を引き受けてしまい、にっちもさっちもいかなくなった思い出も一、二度あります。 わたし自身と周りのイメージの剥離を埋めることは可能でしょうか。 また、それが不可能であれば、ひとり歩きしているしっかり者のイメージとどのように付き合えばよいでしょうか。
精神科の看護師をしています。 ずっと心に引っかかっていること、そう思いたくないですがそれが原因…?かとも思えてしまっているできごとも現在起きていて、でも身近でこのようなことを相談できる専門の方がいないので、悩んでいます。こちらのサイトをみつけ、相談してみようと決意しました。 担当していた患者さんが、治療を始めた矢先に亡くなってしまいました。(原因は医学的に説明できるもの) その患者さんが治療を選択したり、治療を受けられる手配を整えるのを、担当である私は看護師としてできることはしようとその時は全力であったのは、誓ってうそではありません。 ただ、亡くなったあとで、専門的な部分にもなってしまうのですが、私の行った言葉がけや行動でその治療に患者さんが望んだならば、結果的にこの患者さんの寿命を私が短くしてしまったのだと思えます。もっとしっかり日頃から勉強する姿勢を持ち、知識を持ち、情報を集められていたならば、別の選択肢を選ばせてあげられたのではないか、それをできてこその看護師だと思います。精神科であるならばなおさら、なのです。 だから、その患者さんは、そのようなことを思う方だとは思っていない反面、私のことを責めていてもおかしくないと思います。 そしてさらに私は、この仕事をしているにも関わらずご遺体を目の前にするのにはいつも怖さみたいなものがあり、上記の経緯もあり、この患者さんへ最後にあいさつができたであろう霊安室にも、足を運ばなかったのです。最後にごめんなさいと、ちゃんと伝えず、お見送りも避けたのです。 後悔しています。 この患者さんへ、今できるご供養があるならば、どのようにさせてもらえればよいのでしょうか。お墓参りやご自宅に行くことは、難しいです。 教えていただければありがたいです。 よろしくお願いいたします。
こんばんは 私は特に信じている宗教はありませんが高校大学と、キリスト教系の学校にいました。学びたいものがその学校にあっただけなので、別にキリスト教を学びたくて行ったわけではありません。 しかし、高校の時、聖書の授業を担当していた先生がとても面白い人でした。 旧約聖書の創世記の初めの「天地創造」の話をしていた時のことです。神が7日かけて世界を創造した、というものなのですが、生徒に向かって「皆さんはこの話を信じますか?僕は、ぶっちゃけ嘘臭いと思っています」と発言なさったのです。 牧師でもある先生がそんなこと言うなんて…と本当に驚くと同時に、「あぁ、宗教そのものや宗教を信じている人は今まで避けてきたけど、意外と身近で面白いのかもしれない」と感じました。 その後もその先生は、カトリックの修道院を体験しに行った話や、絵画とキリスト教の繋がりなど、一般人でも分かりやすいよう教えてくださいました。そこから、私のキリスト教への興味が開かれたのだと思っています。 すみません、ここまでが長い前置きです。 私が質問したかったのは、仏教の分かりやすい(出来れば面白い)お話が何かないかなとふと思ったので、みなさまにお聞きしたかったのです。 物語調のでも嬉しいですし、お釈迦様のこういう話があってね、というものでも嬉しいです。教えていただければ何でも嬉しいです。 お恥ずかしながら、私の仏教の知識は「聖おにいさん」を読んで知ってるレベルですが…。 キリスト教は少し学べたので、次は多くの日本人にとってとても身近な仏教のことも知ってみたいと思うのです。 なにぶん、何もわかりません。この質問もどう聞いたらいいか悩みに悩んで迷走しながら書いています。私が住んでいるのが、お寺が近くにない田舎でして…気軽に聞けるのはここのサイトなのです。 最近hasunohaを見ていて、高校の時の先生っぽいお坊さんがいるなあ、やっぱ宗教者といえど同じ人間、凄く面白いな、もっと話聞いてみたいなあと思いながら色んな問答を読んでいます。 すみません、だいぶ迷走しました。 もしよければ、回答お願いします。
先日父が亡くなり、通夜と葬儀を葬儀社からの紹介である導師にお願いしました。 葬儀の直前、葬儀社の方からの連絡で導師の控え室に参りました時少しお話しさせて頂きました。導師からは供養の仕方やお寺の合同葬のパンフ等頂いたのですが、私がネガティブな言葉で導師の言葉を遮ったり話の腰を折ったとの事で導師から不愉快だと言われ、そのお言葉に総早々に退散致しました。 時間になり導師が控え室から出て来られ皆が着席し、導師は開口一番長女の方と言い合いになりましたと仰ったのです。私は耳を疑いました。導師と言い合いなんてする訳もないです。導師に不愉快と言われたので、それではと席を立ったのです。 家族や親戚には何も話していなかったので、誰も理解できず反応もなかったからでしょうか、導師はそれ以上は何も言わず読経をされました。 でも、終わってから家族にあの意味は何だと聞かれました。私は大切な父の葬儀の時に導師を不愉快にさせてしまったこと、読経の前に導師に言われてしまったことで葬儀を台無しにしてしまい亡き父にも本当に申し訳ない思いで一杯で悲しくて涙が止まりませんでした。 葬儀もせめてもの親孝行だと、金額は張りましたが大手の葬儀会社に手配を依頼して抜かりなく、気持ち良くと思っていたのに情けないです。 葬儀社とお寺の住職の奥様から、導師に何でもご相談下さいとのお言葉に甘えてしまい、結局は導師を不愉快にさせてしまった自分自身が情けなく、葬儀も気持ち良く満足にあげられなかったと後悔の日々です。 ご相談したいのは、戒名を頂いたお寺の導師だから当然四十九日も同じ導師にお願いするべきとの意見が家族にあります。一方、親族に非があっても、導師が葬儀の時に持ち出す言葉ではなかったのではないかとの意見もあります。 私にしても導師が何も仰らなければ水に流して四十九日もお願いするつもりでおりましたが、葬儀をぶち壊しにされたような思いは残りますし、不愉快と仰られたので四十九日に出席する勇気はないです。 今後は亡父の出身の地方のお寺に納骨する予定です。そのお寺に問い合わせましたら四十九日法要、開眼供養、納骨供養など引き受けてもらえるとのことです。 同じ導師にお願いして私は欠席するべきか、或いは納骨して頂く地方のお寺に四十九日法要をお願いするべきか、悩んでおります。よろしくお願い致します。
無職ですが、働く気になれません。 今の社会、命をかけてでも取り組むべきことが何も見出せません。 自死したいのですが誰も肯定する人はおらず、それだけならまだしも自死したらバチが当たるとまで言われます。 記憶はありませんが、仮に神様と約束して自ら望んでこの世界に生を受けた。 それを自ら学ぶ機会を放棄する自死を選ぶからバチが当たると言いたいのかもしれませんが、何に対しても価値を感じなくなると、もう学ぶというよりただただ辛いだけです。 やりたいことやなりたいものは無く、また世間や倫理的にこうでなければならない、神様と約束したから、などといった義務的な考えで生きるのも疲れました。 今の社会が変わるか、私が今の社会から消えたいです。 苦しみから解放される方法、または辛くても働きたい生きたいと思う方法を教えて欲しいです。
はじめまして、私は、高校生から難病を患ってます。最近では、この病気になってしまったのはどうしてなのかと考えるようになりました。何か使命があるのか?御先祖様の怒りを買ってしまったのか?年を重ねるにつれて、悪いところかでできてしまい、悩みになってしまってます。 私は、病気を受け入れてるつもりでしたが、段々弱気になってしまい。おもいっきりなにかをしてみようということをセーブするようになりました。何か分かりやすいアドバイスありましたら、よろしくお願いいたします。意味がわかれば何か変わるかもしれないと思い、メールさせていただきました。
私は今、すごく自分の性格が嫌で変えたいと思っています。 私の性格は、人前で話せなくて、静かで、本当に心を開いた人としか話しかけることができない、そんな性格です。 あの人と仲良くなりたいって思っても、話しかけてくれるまで話せれないし、自分から話そうと思っても、何を話していいかわからないし、話を続けることが苦手です。 人にどんどん話しかけている人をみて、すごくかっこいいと思います。 社会人になった今、余計にこのままでは駄目だと思ってきました。 自分が努力するのは当たり前だけど、何か良いアドバイスがあったら教えて下さい。
数年前に犯した罪について、どのような気持ちをもって向き合っていけばよいか悩み続けています。 私の犯した罪はともすれば刑事事件となってもおかしくなかったような事で、私はたまたま法的な裁きを受けることなく済みました。しかし、自分の罪責から逃れるために、卑怯な立ち回りをしたことも事実です。 私のしたことで、人に怪我を負わせたり、金品を奪ったというようなことはありません。しかし、相手方に大きな精神的苦痛を与えたことは間違いありません。 この数年間、私は、自分のせいで人を大いに傷つけたこと、その責から逃れるために卑怯な立ち回りをしたこと、自分がなんの代償も払っていないこと、苦痛を与えた相手に対してもはや具体的な償いができないこと、自分がまだ相手から恨まれ続けているのではないかということ、に悩み、苦しみ続けています。 先日読んだある本の中に、「許すか許さないかは、自分ではなく相手の責任である」と書かれているのを見つけました。当初は救われたような気持ちがしましたが、しかし、自分は自分のしたことについて責任を負っていない、だから罪は厳として自分の側にあり、そもそも許すか許さないかを相手に委ねる段階にさえ達していない、という思いが募るようになりました。 あれから、自分は脛に傷持つ人間なのだから、そのことを自覚して、謙虚に、親切に生きなければならない、と決心して生きてきましたが、罪の意識は消えません。また矛盾しているようですが、すっかり罪悪感が消え去ってしまうのも、自分が性根の悪い自己中心的な人間であることを突きつけられるようで、恐ろしく、逃げ場のない気持ちになります。そうなれば反省したことも忘れて、また同じようなことをするのではないかという怖れもあります。 そもそも、このような場で質問させていただくのですから、当時の私がしたことの具体的な経緯や状況を明らかにすべきなのですが、私にはどうしても書くことができませんでした。そのこともまた、自分の卑怯さを思い知らされるようで、耐え難い気持ちになります。 大変曖昧な文章になってしまいまして失礼なのですが、これから私は自分の罪についてどう向き合っていけばよいのか、どのような心持ちで生きていけばよいのか、ご助言をいただければと思います。
愛犬の病気が治りません。以前も大きな手術をしていて何回も入院してきました。毎日不安で不安でたまりません。治療もあまり経過がよくなく今日も愛犬は具合が悪そうです。 以前は、突然、具合が悪くなり夜間の救急にも何回も通いました。そこの医者の中に信じられないかもしれませんが、私に対して馬鹿にしてくるようなスタッフがいました。担当の先生は、診察の時は親切にしてくれましたが、一番近い救急がそこしかなく二次診療機関もまた必要ならそこに行かなくてはならないかと思うと憂鬱で仕方ありません。 そういうストレスもあり、愛犬の具合が悪いと私まで体調が悪くなるようになってしまいました。毎日つらいです。つらいのは愛犬のほうなんだから、私がまいっていてはいけないとは思うけど、正直つらくなります。 家族には、こんな時にグズグズしてないで愛犬の食事を作るなら早く作れ、などどやされたりそれなら自分が作ればいいだろ、などと思いながら昨日も過ごしました。 また、別にいる同居の家族は非常に無責任で雪の降る寒い日に体調の悪い愛犬を留守番させる際暖房を危ないからといって消して行って、帰ってきたら愛犬が呼吸も荒くてひどいことになっていました。それなのに、そんなの大丈夫だとか平気で言い放ち腹が立ちます。 ここのところ、正月も深夜も関係なく病院通いの毎日で、それで良くなるのならば苦ではないけれど、今は治療の見通しも立たないのでそれが不安でたまりません。 以前、危篤的な時には延命のお唱えを心の中でしてみましたが、神様に病気を治してください、とお願いするお唱えみたいなものはありますか? また、こんな時はどういう心構えでいたら良いでしょう。何かアドバイスあればお願いします。
広島在住で、いわゆる安芸門徒と呼ばれている地域の者です。 葬儀と言えば導師による読経の後、定番となっている《白骨の御文章》の拝読があります。 拝聴している遺族、縁者にはこの御文章の言葉ひとつひとつが重く胸に突き刺さり 感極まって涙する姿は参列者の心をも締め付けるものがあります。 そこで以前から私には一つの疑問がありました。 法話を聴聞する為にお寺参りをした折、読経後に住職あるいは講師としてお招きした僧侶による御文章拝読がありますが この御文章は数ある章の中から日替わりで読まれている様です。 しかし なぜか私の地域では《白骨の章》にだけは巡り合う事が殆どありません。 普段のお勤めの祭には意識的に避けて、葬式の時に用いる切り札として温存している様にさえ思えるのです。 (もし、他の地域あるいは他宗派では違うのであればごめんなさい) その理由として お寺参りと言えばどちらかと言えば余生短し老人が多いので 死を意識させる話題には触れないでおこう。 そして葬式に限り《白骨の章》で締めれば無難であろうといった僧侶の方々の思惑が働いているのでしょうか? “人の死 ” というものは日常においては誰だって考えたくはないし、忌み嫌われる事はわかりますが 死 という事ほど絶対的に決まっていることはありません。 なので 子供のうちから葬式以外の日常の中で《白骨の章》を耳にするチャンスをたくさん頂くとか 御文章に綴られた深い意味に気付かせて頂く機会が多い生活を送ることは決して悪いことではないと考えるのです。 いつか必ず自分の番が回ってくる死に対しては 若くて元気な時から真剣に考えておかなければならない大切な事だと思うのです。 そうすることが 今の人生を真面目に正しく生き抜く力になるのではないでしょうか。 とは申しましても 現実問題として 住職様の立場から言えば「お寺参りの度に《白骨の御文章》を聞かされたのではたまったものじゃない!」と門徒の方から批判を受け、お困りになるかも知れませんが 私の様な考を理解して頂ける方はおられないものでしょうか? また《白骨の章》を敬遠しないで日々の暮らしの中に活かせる良い工夫があれば お聞かせ頂きたいと思います。
こんばんは。最近仏教の勉強を始めて、初めての仏教本を読んでいます。お暇な時に、よかったら教えてください。 ハスノハのお坊様のお話から学ばせていただくうちに仏教は実践重視なのだと何となくわかってきましたが、それでも苦しい時お釈迦様や観音様にお祈りすることもあるだろうと曖昧に考えていました。それが、仏教は神のない宗教と本に書かれていて、私動揺しています。 どうにもならないこともあるけれど、私は何があってもいつも神を拠り所としてきました。その神がいないとどうしても不安になってしまいます。仏教ではブッダの教えを実践して苦しみを減らすから、神に救いを求める考えがもともとないということなのでしょうか。でも、人間は完璧ではないと思うし…苦しい時、お坊様はどうされていますか?
宜しくお願い致します。 母がガンの可能性が高いと言われました。 親が亡くなると言う事。 人の命に永遠はなく、いつかはお別れしなければいけないのは、理解していたつもりです。 母は、かなり苦労して、親不孝な私達姉弟を育ててくれたと思います。父はおりますが、どこかに連れていってくれたと言う記憶はありません。 こんな事になってから気づく事…。 私には彼がおりますが彼の家族や親族との関係を見て、家族とはこう言うものなの?と驚愕致しました。年末年始、お盆のご先祖供養をきちんとします。 母方はそういう実家ですが、父方はそういうものが一切ありませんでした。 母は、結婚してから自分のものさえあまり買わず、旅行や人生の楽しみもなかったように思います。私達姉弟も仕事や遠距離もあり、年末年始だけ戻れるだけで、それを心の中の言い訳に何かしてあげる事をしてなかったと思います。 私達姉弟には、子どもがおりませんので孫も抱かせてあげる事ができませんでした。 今、後悔と自責の念で一杯です。 母は幸せだったのだろうか? 私達が迷惑をかけてしまったからだろうか? 私みたいなのが子供で産まれてしまい申し訳なく思います。 本当に今更です。 私は母にどうしてあげればよいのか何をしたら幸せだったと思ってもらえるのか…。 母も、もう高齢です。本棚には冠婚葬祭の本、お坊さんの方々が書かれた小冊子等があるのを見つけ切なく思いました。 心が壊れそうです。 どうぞ宜しくお願い致します。
非童而蒙と申します。いつも拝見しています。 多くの様々な悩みや質問に真摯に答えられているお坊様方のお言葉に触れて、とても温かな気持ちになります。たくさんのお坊様方の生きたお言葉に感謝致します。 また、相談者の方々が疑問や悩みを打ち明けること自体も、私のような他人にも学んだり考えたりする機会をくださる大変ありがたいことだと思います。相談者の方々にも同様に感謝致します。 仏教やハスノハの皆様、相談者の方も含めて皆様方とのご縁に感謝いたします。 このハスノハの場全体に、仏教のありがたさを感じる気がします。頭の中に「善哉~善哉~」と美しい調べが流れてくるようです。 感に堪えず投稿致しました。乱文平にお許しください。コロナもあり難しい時期が続きますが、どなた様も健やかにあられますように。
先日ある方の講演会で、人生には縦軸に充足感と孤独感不満で横軸に病気貧困と成功名声。 いくら成功名声を手に入れても、本人には孤独感や不満感が顔の表情に出て、何故か満たされない雰囲気がある人になるくらいなら、たとえ貧しくても病気を抱えていても人生に充足感が出ている人になりたいとおっしゃいました。 おっしゃった意味はよくわかります。 私には勿論、地位や名誉も有りませんし、今迄生きて来て人に話せる事も何も無く、人生に充足感が全くありません。 そして今は仕事も辞め、親の介護を担っています。 人様には介護をしてると言いながらも、私の心の中は心配を掛けた親だから介護をしなくてはいけないと言う気持ちと、もういい加減にして欲しい、今すぐに親から距離を置きたいと言う気持ちがいつも交錯しています。 知り合いからご両親が介護する事無く亡くなられたと聞くと、「羨ましい」「どうして私ばっかり」などと思ってしまいます。 何事にも一生懸命やれば充足感は得られるものでしょうか? それはその人間性によって違うものでは無いでしょうか。 すみません文章がまとまっていませんが、よろしくお願いします。
私は幼少の頃から2つ上の実の兄に性的虐待を受け続け失語症になり友達もできず親にも言えず高校生になりました。 高校生になって親友ができ、はじめて相談し、一緒に泣いてくれて少し心が救われました。 その頃、母が兄の性的虐待に気が付いた。 でも責めたのは私でした。 お前が誘ったんやろ。お前なんか死んだらええのに。 ずっと自殺ばかり考えていた中学校までの気持ちに戻りました。 両親と兄を殺すか私が死ぬかしか答えが見えませんでした。 何年か悩んで家を出るという選択肢が見えました。母は世間体が大事で、高卒で就職しても一人暮らしも駄目。門限守るために残業も駄目。会社に残業させるなと言いに行った。 結局、二十歳超えても就職しても私は自由になれないとわかって絶望し、会社辞めました。給料のほとんどを母に回収されて、夜兄から逃げる為に出歩く事もできない。働く意味がなくなりました。 結局結婚するまで兄から逃げる事はできませんでした。 兄からの性的虐待から逃げる為だけに結婚しました。相手の方が提案してくれ、助けられました。結婚し、近距離別居になり、それでも頻繁に突然訪問してくる兄が怖くてひどい鬱になりました。 その頃母が病気で余命宣告され、私が介護しました。死ぬまで世話しました。 私だけを悪者にし、暴言を吐き、周り全員私の敵にして、旦那以外の全員から責められる、1番辛かった時期でした。 母の死後、父に全部話しました。泣きながら謝ってくれました。父は兄のこと何も知らなかった、気付いてやれなくてごめん、と号泣されました。父だけは味方だったのだと思い、頼りました。もう一生兄に会いたくない、と言いました。兄は結婚して子供もいるから兄嫁の為、黙っててくれ、と言われ、黙りました。 結局父は兄嫁の為、私を排除しました。 また絶望し、全てを諦めました。 今は父とも連絡を断ち、離れたところで住んでいます。 もう離れて何年も経ちますが、悔しい、辛い、理不尽だという気持ちが消えません。 周りは兄と父はともかく母はもう亡くなってるんだし、もう許してやれと言います。 私は母の言動でずっと傷ついてきたのに、まだ引きずって苦しんでいるのに死んだら許さなくてはいけないんでしょうか。 今も親戚から私だけが悪者にされている。兄だけが何も悪い事してない顔して普通の生活しています。兄も母も許せない。気持ちの持っていきようがない。
私の悩みは他人にやけにイライラしてしまうことがあることです。 昔からの悩みなのですが、 近くにいる友達や恋人に対して なんだか理由もなくイライラしてしまう、 優しくできないことがあります。 自分の中でもこういった感情が怖いです。 この人に優しくしたい、 関係を壊したくない、 と思っている自分がいるのに どうしてかイライラしてしまうのです。 体調や、他の悩みには関係なく 突然イライラの波がくるので 精神的な病気なのか?と考えたこともあるくらいです。 ホルモンバランスが崩れやすいのですが やはりそれだけではないと思います。 自分自身の性格にも問題があるはず…。 そう思い、ネットであれこれ検索したり本を読んだりして 他人に期待をしすぎないとか、 いいところを見るとか、 いろいろな方法を試しました。 ですが、気持ちはモヤモヤしたままで 友人や恋人に対しての従来の気持ち(会いたい!好き!など)は なかなか戻ってきません。 相手を許すというか、頭の中では落ち着くことができるのですが 気持ちはずっとモヤモヤしたままです。 今現在は、お付き合いしている人のことで悩んでいます。 とても優しい彼ですし、 自分にない良さもあり、尊敬している部分もあるのですが デリカシーのない発言や、 気の使えないところにイライラしてしまいます。 もちろん、同じ人間でも他人なので 価値観も違えば自分とは得意分野が違うこともわかります。 丸ごと受け入れて愛したいとは思っているのですが… 心が狭く、思い通りにならないことに どうしてもいちいちイライラしてしまう自分に嫌気が刺します。 イライラをどう鎮めるのか、 相手をどう愛したらいいのか 未熟な私にどうかご教示いただけないでしょうか。
お忙しい中恐れ入りますが、供養についてご相談させていただきたいことが2つございます。 昨年、私が生きづらくなり、ある信頼できる方に視ていただいたところ、私の姉の魂が餓鬼、母の魂が餓鬼、母の母が餓鬼、と餓鬼の系統であり、遠いご先祖様の悪行を受けた人達の恨みつらみを私と弟が背負わされていると指摘されました。 ならばその苦痛を受けた方々を供養させていただく必要があるのではないでしょうか。でも、どうしてよいかわかりません。 ご相談の一つは、この場合どのようにしたらよいでしょうか、です。 2つめは、私たち家族は餓鬼供養をすべきでしょうか。お寺の施餓鬼会に参列させていただくとか、自宅で五色旗を立て、水の子を置くなども必要でしょうか。 ご先祖様と被害を受けた方々の苦しみが、今の私の苦しみならば、きちんと供養させていただきたいと考えております。 たいへん恐れ入りますが、ご指導賜りますと幸いに存じます。 よろしくお願い申し上げます。
私は自分の仕事疲れを理由に祖母に会いに行かず、 祖母の死に目に間に会うことができませんでした。 とても後悔しており、せめて線香くらいは上げに行きたいと思っているのですが、 生前の祖母の看護は叔母が行っており、叔母と母の折り合いは悪く、 母の子である私が祖母への線香をあげることを認めてくれるとは思えません。 (祖母の家は叔母が継ぐことになりました) 私はどうしたらいいでしょうか。 葬儀はまだであり、叔母に会う機会はあります。 しかし私が「線香をあげにいっていいか」と問うたとしても 拒否されるとしか思えません。 せめて墓の場所くらいは思い切って聞いてみるべきでしょうか。 (母の子であることで拒否されるようにしか思えません) 心の中で祖母の冥福を祈ればよいのでしょうか。 ご確認いただければ幸いです。
こんにちは。 私は中2の息子がおります。 上には成人している長女がおります。 息子はつい一週間前から突然思春期が始まりました。 穏やかで、今まで怒った事は一度しかなく、 まるでお地蔵さんの様な子でしたが、 人が変わったかの様に、私に攻撃的になりました。 私も、毒舌タイプなので、往々にして悪いとは思うのですが、親なので、言わなくてはならない事があります。 何処の親もそうだと思います。 学校の事、勉強の事、生活の事、塾の事、 色々と全てを一手に引き受けて、管理し、 パートと家事もこなし、家族の面倒もみる。。。 まるで働きづめの家政婦の様に、馬車馬の様にこなしています。 息子に問うと、私の発言全てに怒りを感じるみたいです。 とても、悲しくなりました。 しかも、最近私は、仕事で新しい店長に理不尽なシフトカットをされ続け、収入もほぼなくなり、意見しても、他を探せと取り合ってもくれず、 一体私が何をしたのか? ほぼ毎日神仏にもお参りをし、家庭の安全を祈り、一生懸命働き、尽力してきたのに、 私の存在意義が失われる様な喪失感を覚えています。 息子は、学校もちゃんと行きますし、お友達ともうまく行ってますし、最近は勉強も成果を出して、一緒に喜んでいた矢先の、突然の変容ぶりで、思春期とは分かっていますが、 何が起きているのか、私の脳みそが追いつかない状態です。 踏ん張らなきゃ行けない。 こんな事に負けてはならない。 そう自分を奮い立たせていますが、 辛くて心が死にそうです。 夫も、周りの空気が全く読めないタイプでして、私がシフトカットをされている事を話したら、「お前はもういらないんだよ!俺は知ってたよ!面倒クセェなぁ!と思われてんだよ!」と心無い言葉を言われました。 こうゆう事を平気で言う男なのです。 長女は私の連れ子です。 息子は夫の子です。 私は本来平和主義者で、穏やかな性格なのですが、この夫と今の状態の息子と居たら、メンタルが破壊してしまう気がして、家族を支えてあげられなくなりそうで、怖くてなりません。 私も毒舌な所があるので、それは、悪かった。と息子に今朝謝りましたが、それも理不尽でなりません。 別居も考えています。 何か助けになるアドバイスを下さい。 お願い致します。
お布施については既に回答して頂いている中に見ることできます。また、他のホームページにも沢山書かれいることなのですが、それでも解らない愚か者にご教授をお願い致します。 お布施とは三施のことである、といって間違いないと思います。 お布施は対価として支払うものではなく己の為の修行です、というのは理解できます。 しかし一方で、お布施はお礼ですと多くの方が仰っています。 また、お布施は謝礼ではありませんと仰る方もおられます。 謝礼は対価であるのか対価ではないのかということも、意見の分かれるところだと思います。 教えを説くことや読経も三施の中の法施ですから、見返りを求めないことが大前提でありますので、謝礼を受け取って良いのだろうか? と思います。 謝礼を要求することはしていませんと仰っても、謝礼を受けることはほぼ確実なので未必の故意というものです。 しかし私のような凡夫は、お布施をする時にお礼の気持ちを込めて無いのか?と問われれば、有りますと答えざる負えません。 お布施はお坊様が受け取るのではなくお寺に納めるものですと仰られますが、お坊様がお寺で生活をしたり給与を受けていれば、お布施を受け取っていないとは言えないと思います。 などと言ってますが、お寺やお坊様がお金を必要とすることを否定するつもりでは全く有りません。(重要) お坊様が畑を耕しているお寺もございますが、お釈迦様はそのようなことを推奨しなかったと信じています。むしろお布施を施したり受けることを積極的に推奨したと思っています。 しかし、新宗教の中には物欲を捨てるためにと言って多額のお布施を求めるものもございます。ここでは是非を問う事ができませんが、その様なことも考慮に入れてのご回答をお願いしたいと思います。 厳しいことを問うているように思われるかも知れませんが、「仏教しっかり頑張れよ!」っていう応援メッセージだと思ってください。 正しい気持ちでお布施できるようにご回答お願いいたします。