何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。
2度目の質問になります。 よろしくお願いします。 ひと月前に最愛のペット(犬)を亡くし いまだに気持ちは止まったままです。 先日の質問に有難いお言葉を頂き その際に、私が天寿を全うした時には もう一度会えますよ、教えて頂きました。 その言葉を何度も自分に言い聞かせ 何とか毎日を頑張れてる次第です。 月命日の今日、フッと思ったのですが 輪廻転生を信じている私は 私が天寿を全うしあの世に逝った時 もし犬が生まれ変わってしまってたら 会えないのかな?と疑問がわきました。 どうしてもあちらで もう一度ペットに会いたい気持ちがあります。 でも生まれ変わってまた幸せに 過ごしてほしいとも思っています。 ど素人の考えでは解決できない疑問です。 どうか教えて頂けないでしょうか? よろしくお願いします。
いつもお世話になっております。 この様な時間に申し訳御座いません。 今年の3月に最愛の父を亡くしました。間もなく5月に四十九日を迎えます。 生前の父からは、「人としてあるべき姿」や数え切れない程の処世術を学びました。 私が人間関係で苦悩する時には、一番の相談相手でした。又、就職氷河期で行き迷う私を、正社員になれるよう全力で応援してくれたのです。 人の魂がこの世にとどまれるのは、四十九日の間であるそうですね。 あの世にあがった魂が、この世に降りて来れる季節などは御座いますでしょうか。父の存在を感じることができたら、心強いです。 お教え頂けると幸いです。 宜しくお願い致します。
お世話になります。 今日、初めて仏教勉強会に参加させていただきました。 そこで、輪廻転生を教わったのですが、すんなりと『なるほど~』と思えれば良いのですが…。 私は、 *『死後の世界はないと考えたい自分』と、 今までの霊的体験や臨死体験から、 *『死後は、ちゃんとあの世に行ければ、それはそれは暖かくてまばゆい光に包まれる。だけれど成仏出来なければ霊魂としてこの世をさ迷うこともある…と感じている自分』がいて、 輪廻転生を、なるほどと受け入れることが出来ませんでした。 そういう「教え」を受け入れられなくて、南無阿弥陀仏をお唱えすることに矛盾を感じてしまいました。(仏教に対してではなく、自身への矛盾です)。 輪廻転生や、死後の世界、私の感じる矛盾について、どうお考えになられますか? 宜しくお願い致します。
お世話になっております。 以前にもこちらでご相談をさせていただきました。いつも読み返しては心救われております。 前にも相談させて頂いた母が亡くなり一か月余り。何度もお坊様方からのご返信を読んでおります。しかしなかなかうまく心の整理はつきそうでつかず‥ふと、どうしようもなく寂しく、悲しく、苦しくなります。 心が抉られるような気持ちになります。 自分の職場の先輩や母の友人から「今は暫しのお別れで、またいずれあの世で再開すると思うことで少し気持ちが楽になるよ」と言われます。そのような考え方を信じながら日々を何となく、だましだまし生きています。 子供が2人いるので日常はバタバタとしておりますが、もうこの日常に母がいないと実感する度に心が折れそうになってしまいます。 これまでいつも一緒に子育てをしてくれていて、支えてくれていた母だったのです。 早い、早すぎる、なんで母なの‥そんな思いが消えません。 外は暖かくなり、母が好きだった花が咲き、散歩が心地よい時期に一緒に居られないと思うと、世界が色を失ったような気持ちさえしてきます。単純に毎日を生きることが苦しいです。私も子供がいる母親だというのに、こんな甘えた気持ちでいるのは恥ずかしい限りなのですが、やっぱり母が大好きだったので気持ちの切り替えができずにおります。 49日の法要は来月ですが、初めから分骨についても決めていて、少しだけ手元に残し供養するつもりです。賛否諸説ありますが‥大丈夫でしょうか。もやもやしてしまいます。 諸々、心の在り方をご教授頂きたいです。 まとまっていなくて申し訳ございません。 この後の気持ちの持ち方、切り替え方、考え方、なんでもいいので気持ちが前を向くようなお言葉を頂けませんでしょうか。 どうしても苦しいです。
私は生まれた時から家が仏教をしていて仏壇に向かってお経をあげるのが普通になっているのですが、 お経をあげるという事はどう言う事なのか何故お経をあげるのか? 小さい頃に反抗期でなぜお経しないといけないの!と仏具を投げてしまった事があります。 今ではあげていたら先祖が喜んだりお婆ちゃんお爺ちゃんもあの世で見てくれて喜ぶのかな?と思いながらあげています。 実家にいる時は毎日あげていましたが、ここ最近結婚をし家を出て仕事の疲れや家事に忙しくてなかなかあげられていませ。 毎日あげないとやはりいけないのでしょうか?
いきなり過激なタイトルで申し訳ありません…。 私は常々このように思っているのです。 これほどまでに厳しい世の中で、「生きる意味って何…?」と 多くの方が感じているのではないでしょうか? 病気などの体の不調、経済的なこと、家族や身近な人との死別、仕事…。 この世では、次から次と試練がやって来ますよね。 これほどまでに大変な世の中で、我々は何を学ぶのでしょうか? また、散々この世で苦労をし、それらの“試練”のようなものを突破した人しか、 あの世へは行くことは許されないのでしょうか? 是非、教えてください…😿。
お世話になります。 母は2度の脳内出血で倒れて、喋れず四肢麻痺になってしまい施設でお世話いただくよりも自分の手で世話をした方がいいのかなと思い仕事を辞めて在宅介護を始めましたが、夜中や終日泣き叫ぶ母に早く死んでくれればいいのに。と思ったり殺意が芽生えたりして自分の感情を抑えることができなくなり自己嫌悪に陥ります。 おとなしい時は、どんなに大変でも苦になりません。 親をどこまで看れば他界した後、後悔せずにすむのでしょうか。 私自身、早くあの世に逝きたいと罰当たりなことを思ってしまうのです。
いつもお世話になります。 私は、神社やお寺で色々な神仏を拝んでいるのですが、一つ神仏を拝む中で引っかかる点が出てきました。それは、神仏は、自殺者を斟酌しないと言う点です。よく自殺者は、死後の世界で神様から与えられた命を放棄した人達であるからあの世で大変苦しい業が課せられるとよく あちこちで耳にします。 ただそれって不条理ではないでしょうか?自殺をする側も好き好んで自殺なんてしないはずだと思います。神仏が、全能ならその辺を斟酌してもいいと思うのですが、そんな話はあまり聞かないし そこで、思うのですが、自殺する側の意見を聞かない神仏は拝むに値するものでしょうか? ちなみに私自身 自殺未遂の経験者です。
父親が肺がんの末期ガンなんです 父親は今56歳で、母親は46歳、兄は24歳、私は17歳の高校3年生の息子です。 末期ガンですが今は通院で、寝たきりなどの状態ではありません。 ですが余命はそれほど長くはない言われたそうなのです。 今は処方された薬を飲んで肺がんなどの専門的治療法の病院にも通院し父親は頑張っています。 父親の末期ガンを知ってから母親も元気が無くなり自分も一緒にあの世にいきたいと言っています。 私は受験がありますが進路もどうすればいいのか分からなくなってしまいました。 自分も一緒にいけたらと思ってしまうことも多々あります。 父親や母親とどう接すればいいのかも分かりません。 どうすればいいのでしょうか?
先日もこちらでご相談させて頂いた者です。 最愛の母が亡くなってからもうすぐ3週間になります。葬儀のとき目の前で眠っている母を見て「あぁ本当に死んでしまったのか‥」と現実を突きつけられものの、やっぱりまだ実感がないというか、受け入れ切れてはいません。 でも亡くなる前や亡くなった直後は毎日のようにところ構わず泣いてしまっていたのですが、葬儀を済ませて忌引休暇を取って何とか無理矢理にでもと仕事に復帰したくらいから妙に落ち着いたような、麻痺しているような感覚があります。つらい悲しい苦しいと思う気持ちは引き続きあるものの、母がいてくれたらもっとこうだったのに‥などと思わないように割り切っていかなければという気持ちも出てきました。 母がいたときの幸せな日々を遠く感じるというか‥実際よりも長い時間が経ったような不思議な気分です。とても寂しいです。もしかしたら防衛本能でそう思っているのかもしれません。現実を直視したらつらすぎるので。 どこかで自分の親はきっとずっともっと長く生きるだろうという思い込みがありました。まだ60代後半でしたので。 母が亡くなった後はまるで自分の一部を失ったかのような喪失感があり、心が常に重たい気がします。前述したような、落ち着く時間が増えたものの、急に不安定になり子供たちの前でも突然涙を見せてしまいます。毎日お線香をあげて母に話しかけています。こんなに寂しがっていては母は成仏できないのでしょうか。 49日の法要を来月控えていますが、分骨して部屋にずっと置きたいと思っています。夫もそれでいいと言ってくれました。 母のことが大好きで、いないことが実感できず、気持ちがグルグルとしています。 絶望感、割り切り、逃避、など感情の起伏が激しくてコントロールができません。 人は死んだら先祖に会える、というのを心から信じていたい反面、死んだら無になるのでは‥と、ものすごく寂しい気持ちにもなります。 どうしても母に会いたいです。母は今も近くで見ていてくれているのでしょうか。あの世で先に逝ったご先祖様たちと会えたのでしょうか。 突然の死でしたので、話がしたいと強く願ってしまいます。またすぐに会えるような気さえしてしまいます。
最近、口癖のように死にたいと言ってしまいます。死んでも楽になれないとよく言われるけど、それは他人だから言えることなのだろうと感じます。死にたいなら死ねばと言われたこともありますが、その言葉を受け止めることができませんでした。自分勝手ですが、心のどこかで助けて欲しいという思いを持っていました。何も上手くいかず、生きていても無駄ではないのかと感じます。 自分が死んでもなにも変わらないとは思いますが、こんなに現実で苦しい思いをするくらいならいっそのこと死んであの世で苦しい思いをした方がいいと感じます。生きる意味とは何なのでしょうか。よく、宗教関係の方が私達は生かされていると仰られますが、何故こんな私が生かされているのかわかりません。
私は30代女性ですが、昔、日本が戦った戦争に興味があり、本を読んだり、戦争関係の映画を観たり、戦争跡地に行ってみたりしてます。 戦争のことを考えるようになった時、お国のために特攻隊や自ら敵陣に乗り込み自爆した、若くて尊い命、、、 戦争には負けたけど、よき日本になることを信じて犠牲になったのに、、、 亡くなった英霊は、今の日本を見て、どぅ思いますかね? 政治のこと、薬物乱用、コンビニのおでんに指入れちゃう常識のなさ、虐待などなど、色んなことがありすぎて、、、 私は、日本のために自らの命を犠牲にした方々の気持ちを忘れたくないし、大きいことでも、小さいことでも、恥ずかしくないように行きたいし、そんな日本にしたいと思ってます。 英霊があの世で胸を張れるような日本にしたいと思ってます。
最近拾って15年可愛がって飼っていた老猫が死にました。 悲しみにくれ、涙したあげく「俺もいつか歳をとってあの世に行くから、必ず三途の川で元気で待っていろよ!」と亡骸に言ったのですが・・・ 後から考えてみると、人間には死んだら審判があって天国や地獄があるとは言いますが、動物はどこへいくのでしょう? 別の道を行ってしまったらもう会えない?また会えるかな? あと、亡骸に話しかけても、もうここにはいないですか?
父が8月に46歳で脳幹出血に倒れそのまま亡くなりました。先々週に百か日を迎えました。 お坊さんから「百か日はこれまでの悲しみを乗り越えて普通の生活をするための節目」だと聞きました。 私は今の今まで父が死んだなんてことは実感しておらず長い長い出張に行っている感覚でした。いつ作業着で帰ってくるんだろう、と、そんな気持ちで待っている自分がいたんです。だから、倒れた時の父の顔を思い出したり写真を見れば涙は出ますが、普段悲しいと心の底から思ったことがありませんでした。 でも昨日、たまたま寄ったパン屋さんで流れていた曲が昔父と二人美味しいと言いながら食べたラーメン屋さんで流れていた曲で、その時初めて「あ、父は亡くなったんだ。もう一生あのラーメンを父と一緒に食べられないんだ」と実感しました。 昨日はたくさん泣きました。 いないと思えば思うほど涙が出て今も少し思い出すだけで涙が出そうになります。 今まで頑張って1位を取っていた定期試験もなぜか頑張るのが怖くなってしまいました。 褒めて欲しい人がもういないんです。 乗り越えたいなんて思えません。でも乗り越えないといけないのは痛いほどわかります。 私が今しなければならないことはなんですか? 父が今私にして欲しいことや私にして欲しい生き方がわかりません。私が今したいことは父とまた会話することです。おはようだけでもありがとうだけでも父に言って「なんもだよ」って言われたいだけなんです。
昨晩、母と出かけて家に帰ってきたら、12歳の猫が母のベッドの上で亡くなっていました。 突然のことで、放心状態になっています。 もしかしたら、どこか具合が悪かったのかもしれません。 最近、私は精神的に不調で鬱が悪化しており、猫の様子を気にかけてあげられませんでした。 亡くなったのは、私のせいかもしれないです。 罪の意識が消えません。病院に定期的に健康診断も連れて行ってあげられていませんでした。 まだ12歳なら大丈夫だと過信していました。 私や家族は罪深い人間かもしれません。 どうしたら、猫に許してもらえるでしょうか。 そして猫は、無事にあの世へ行けているのでしょうか。 最低な人間ですみません。
永遠に幸福でありたいです。「諸行無常」とは、幸福は永遠には持続しないという意味でもあるのでしょうか。もし永遠に幸福であれるならば、私にできることはなんでしょう。私は人に優しくしたり人を愛することは当たり前で、そこに見返りを求めないことが自分の生きる意味だと思っております。それはきっと、どんな貴金属や財産と違ってあの世に持ち帰ることのできる宝だと思っているからです。お知恵をよろしくお願いします。 宗派は浄土真宗ですが、自分だけでなく、全ての命あるものみんなで愛し合い、みんなで永遠に幸福でありたいと思っております。私は病気で才能も実力も無いので、その辺は他力本願7割(仏様に助けを求める)、自力3割(縁を結んだ全ての人を愛する)ですが…。
先日11年飼っていた猫が亡くなりました。最後までとても頑張り一生懸命生き抜いた猫を看取る事ができ、幸せにすら感じています。 そんな誇らしい猫の為にも悲しみや寂しさを引きずらずに明るく前向きに、生きようと努力していますが、一ヵ月経つ今でも涙が止まりません。色々納得しているはずなのに寂しくて寂しくて自分もあの世にもういってしまいたいと思うようになりました。 愛する者の死にどう向き合えばいいのでしょうか。答えが出ません。
4年前に母が78才で急死しました。 借金がある事が発覚して、発覚した時は財産放棄出来る時期も過ぎており法的にそれを免れる事が出来ませんでした。 今、その債務の処理に苦しめられており、母を恨んでおります。 もう、金輪際、二度と墓参りに行くまい、と心に誓い、毎日、あの世で更に死ねと恨み言を呟いて毎日を過ごしております。 本当に許せません! この辛い気持ちはどうすれば癒されるのでしょうか?
数年前に親が急死しました。 親が意識を失う前にそばにいたのが自分一人で、様子がおかしいと気付いて救急車を呼んだのも自分です。意識を失って病院に運ばれ、そのまま亡くなりました。 それ以来、そのことを思い出すにつけ「自分が異変に気付かなかったばかりに親を殺してしまった」と考えてばかりいます。 誰かに話したとしても「貴方のせいではない」と言われるだろうことが分かってはいますし、自分でもどうしようもないことは分かってはいるのですが、いつまでも自分の心と折り合いをつけることができません。 このような自分を納得させる考え方は無いものでしょうか?