1カ月前に15年飼っていた愛犬が亡くなりました。癌で余命が少ない事はわかっていましたが、突然の死でした。私は美容師をしていて、ちょうどその時期店舗移動になり、そこの人間関係で悩んでおり、休みもなく、仕事量、精神的にいっぱいで夜も遅く朝も早い為、あまり可愛がってあげる事が出来ませんでした。普段は母親が世話をしてくれていました。亡くなる日の朝愛犬が餌を吐き出す音がし、私は朝バタバタで、よく吐き出す事はあったので、あまり深く捉えずに母親にその事実だけを伝え、家を出ました。その日の夕方母親が帰ってきた時には血を吐いて寒さの中凍えて亡くなってしまっていました。私は今国家試験前で、県外の学校にも通っており、来週から家をしばらく空ける為その事を愛犬はわかっているようでした。悲しむ間もなく国家試験の為県外の学校に通い、寮生活の中あまり悲しむ事もできず、人とあまり喋らず国家試験に打ち込んできました。そして先日帰ってきて仕事にも戻ったのですが、私は何の為にここまで頑張っているのかがわからなくなってしまっています。家に帰ると家族は前みたいには泣いていなくて、私は愛犬が亡くなった日から時が止まっています。そして仕事場も新体制になり私はそんな熱い思いについていけず、周りに笑顔を作るので精一杯です。築いてきた人間関係があるので、無理して必死に喋っています。私は普段すごく元気があると言われていて、外では元気に振る舞っています。 だけど家に帰ると涙が止まらず、頑張って前を向かなきゃみたいな事を家族にも言われ、爆発してしまいその事で大喧嘩をしました。今自分は1番悲しいのに、外では他人の事を気にかけて、笑顔で振る舞って、私は元々いじられキャラで冗談で笑って返していたのですが、こんな時まで傷つきなら笑顔で他人に接しないといけない。そして家でも心配かけないように振る舞わないといけない。そしてまだ国家試験が残っているのでそれに向けて勉強をしないといけない。お金も貰っていて技術職なので、レッスンもしないといけない。など、やる事も多すぎて、人に気を使って、疲れました。 学校の為仕事も休んでいたので、お金も無いので、働かない訳にはいきません。 私は自立して両親を喜ばせる為に今まで必死に仕事に取り組んできました。だけど、1番大切な物を失って、後悔ばかりで、何が大切かわからなくりました。何か助言をいただきたいです。
『末法灯明記』と言うの本読みました。末法の予言が現実の社会情勢と一致したため、私の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想に傾倒していった。 もちろん、とてもいい僧侶はいっぱいいます。でも、仏教の問題より社会の問題です。社会は退廃的だと思います。日本だけではない、お金持ちのG7欧米国もおちめになります。昔いの道徳はどこですか?末法思想は多分本当に今日の世界ピッタリフィット、だんだん。。。 南無阿弥陀仏。
人間最後は死ぬし生きたからってなんの意味もないのにみんな何故生きてるのでしょう?死にたくないから?本能に従ってるだけ?他の人は生きる理由を見つけたというのでしょうか?こんなに苦しくて生きる理由もないのは自分だけですか?
罪を犯してしまいました。それも、私がこれから志すつもりであった道に関する罪です。 法の遵守を訴えてきた法学生が法を犯すような、医者は人道的であれと主張する研修医が人を殴ったような、そんな罪です。 遅ればせながら罪に気づき、謝罪すると、被害者の1人は「謝らなくてもいい」と言ってくれます。しかしそれは気を遣っているのでしょう。彼女がその時抱いた恐怖は、消える事はありません。私が罪を犯したという事実も、一生残ります。私が今の学問の道を続けるなら、尚の事、何かにつけて思い出すでしょう。 加害したことがここまで苦しいと思いませんでした。自分が加害者だと認める事がこんなに怖く、苦しく、恥ずかしい事であるとは。しかし、罪を犯し人を苦しめたことは(それも致し方のない罪ではないのです。すべて私が悪いのです。悪意すらなく、人の領域を自分の欲の為に踏みにじったのです。)何をしても償えません。私が罪を忘れず苦しむ事が、まっとうな罰だと分かっています。それなのに、救われたいと思ってしまうのです。一生この罪を背負うと思うと怖くてたまらない。彼女に許しの言葉をかけられたいとすら願ってしまいます。私の学ぶ道すら汚してしまったことも、私を苦しめます。これから実績を積み、表に立つほどに、私は過去の罪に怯え、人に罪を隠し、綺麗事を吐いて生きるのでしょうか?そんな不誠実、耐えられません。しかしそれがいやだからといって、罪を告白して生きる事も怖いです。親友や家族にさえ言えません。どれだけ失望されるだろう。言い訳や弁護の余地がないほど、私が全て悪いのです。日頃から学び、やってはいけないと知っていたはずの罪を犯した私を、軽蔑しない者がいるでしょうか。恐ろしくて震えます。 彼女に負わせた傷をさしおいて、こうして自分の身ばかり考え、自分の苦しみばかり訴え、救われたいなどと思っている自分の愚かさに一層深い苦しみに囚われます。救われるべきではないのに、罪と向き合い背負うべきなのに、怖くて苦しく救いを求めてしまう私を、叱咤してください。そして、今の学問を続け生きていく上で、大切な人々に罪を告白し、加害当事者として批判を受けながら進むべきか、隠して1人後悔と罪悪感を抱えるべきか、どちらが正しいのかお教えください。
いつも大変お世話になっております。 表題の通りなのですが… お坊様になられたきっかけ、 なろうと思われたわけなどあったらぜひお聞かせ願いたいです。 私自身は、ハスノハをキッカケに仏教に非常に関心がありますが、 お恥ずかしいことに厳しいだろう修行を乗り越えられる自信が全くありません…。 そこでお坊様方のお話をお伺いしたく思いました。 お忙しい中恐縮ですが、お教えいただけたら幸いです。
55歳を過ぎ、子育ても仕事も一段落した現在、これからの人生は仏教に関する行いを通じて、世の為・人に為に人生をささげようと考えております。 僧侶とまではいかなくとも、仏法対話ができる能力までになりたいです。 僧侶になるには、どのようなステップがありますでしょうか? 高卒で就職したものですから、仏教系の大学も出ておりません。先祖は日蓮宗を信仰しております。 そもそも僧侶になりたい・・など、甘くみてはいけない!と𠮟られるかもしれませんが。
もうすぐ40歳、パートで働き主婦をしています。 これから残りの人生を、誰かのためになる生き方をしたいと思っています。 ここ数年、仏教に興味を持ち少しでも仏様とご縁がいただけないか、と思い 自分のできる範囲で勉強をしました。 そして、地元で僧侶になるバックアップをしてくださるお寺様があることを知りました。 そこで質問をさせてください。 40歳、今から僧侶になり最終的に教誨師になることは可能でしょうか? 僧侶になったとしても、収入を得たいのではなく何かの役に立ちたい気持ちです。 教誨師は元より素晴らしい役割と思っており、もちろん誰でもなれるわけではないと承知していますが そもそもステップとして、40歳が一から始めても 宜しくお願いします。
こんばんはななみです今週もよろしくお願いします。今回は少しだけ見やすいように気をつけようと思ったのですがスマホで書いてるせいなのか空行が入りません結局乱文になってしまいましたすみません。働こうと思い1ヶ月経ちました。この1ヶ月バイト面接に行きパート面接に行きちょうど来週の9日には正社員希望の面接に行きます。 面接のために履歴書を作るのが嫌になってきました、履歴書の中身が驚くほど真っ白なんです。 最終学歴は中卒ですし資格や経験の欄はないので当然空白、そもそも自分はまともに文字すら書けません(特に漢字)ので面接に行った場所で筆記試験?のような事を出されると、あ、終わった、となります。 自分でも意外でしたが人と目を見てしっかり話せてます、男にしては長い髪ですがしっかり結んで外見にも気を使ってます。 採用されるためにいろいろ頑張ってますが履歴書だけはどうにもなりません、外見や性格は明るく見えるように偽っても学歴や資格経験を偽るのは当然いけない事です。 そしてここ数日は眠りが浅く早朝に起き働いてない自分を責めてるし、ご飯を食べようとしたり、飲み物を飲もうとしたりすると働いてない罪悪感からか吐き気もしてきます。 もうとにかくこの歳で働いてない自分に対する自己嫌悪とこんな俺が働けるのか…奇跡的に雇われても働き続けれるのか、と思う後ろ向きな自分がいて感情がぐっちゃぐちゃです、なんかもう全て手遅れな気さえしてきます。
何もかも上手くいかず、ストレスが溜まるばかり。 家に帰ればいつも不機嫌で、攻撃的になるばかり… 母親の存在なんて微塵もない。 子供にも悪影響でしかない。 こんな親なら居ない方がまし どこか消えて無くなりたい
真宗大谷派の門徒です。 仏教に興味があります 法蔵菩薩は、48の誓願をかがえて阿弥陀如来になったと言われてますが、最後に誰を救って如来になったのでしょうか? 人や菩薩は次々と生まれ、南無阿弥陀仏と唱えていくので、終わる事のない営みの中で、「これでよし如来になれた‼」と言うタイミングは何時、誰を救った時なんでしょうか? それと すでに阿弥陀如来に救われているとよく法話で説かれてますが、「救われている」自覚ないのは信心がないのではと思います。 救われていると言う感覚(自覚)はどのように感じるのでしょうか?
先日、大学の授業で教授が「福祉の考え方は西洋から日本に入ってきた。ヨーロッパやアメリカはキリスト教の隣人愛の精神にのっとって助け合う心が人々にあるから福祉が充実しているけれど日本ではキリスト教がメジャーではないからなかなか助け合いや福祉の精神が広まっていない。」と話していました。私は宗教についてあまり詳しい方ではありませんが隣人愛という言葉は知っていますし、確かにキリスト教を信仰する人が多い国で福祉の心が根付いているというのは何となく納得が出来ます。 でも、日本人にも助け合うという考えはあるはずだと思います。熊本の地震があった際も、火事場泥棒などひどいことをする人もいるようですが現地にボランティアに行ったり募金などの支援をしたり、困っている人を助ける動きがあるという話もたくさん聞きました。なので、教授の「キリスト教が浸透していない国では福祉の考えも浸透しない」といった話を聞いて何だかもやもやしてしまいました。 そこでお聞きしたいのですが、仏教においてもキリスト教でいう隣人愛のような、誰かと助け合う、支え合うという教えはあるのでしょうか。無宗教だという人も多いので何も宗教の考えだけが人の助け合いのベースではないと思いますが、日本は仏教が身近という人も多いと思うので、仏教にもそういった教え、精神があればぜひ教えてください。
私は地方から上京し特にお付き合いのある寺院はありませんので自分の葬式をしたいと思えません。 死体は検体にできないかと考えているところです。 葬儀をしないと教義的に問題がある宗派はありますか? たとえば極楽浄土に行けない。 良い世界に生まれ変われない。 地獄に落ちるなど。 お葬式をやる意味を教義的に知りたいです。 よろしくお願いします<(_ _)>
お坊さんにも、悪いことをしたことがありますか? 間違ったことをしてしまったこともあるのでしょうか? 昔の罪や自分を許せないことはありますか? 過去の自分を許せない時、どのように立ち直れば良いのでしょうか。 私は悪いことをした自分が目標の仕事に就きたいなんて思っていいのか、と自分を責める気持ちがあります。 お坊さん方も、自分がお坊さんになることに対して躊躇した経験や、自分がこの仕事をしていいのか、と考えたことはありますか? お坊さんは善人というイメージが個人的に強い様に感じます。しかしハスノハの回答を見ていると、お坊さんでも過去に罪を犯してしまった方もいるようです。 私のなりたい職業よりも、お坊さんは善や心、道徳を大事にする部分が多いため、葛藤もあったのではないか、と疑問に思いました。 罪を犯した自分が夢を追いかけることに対してどうしても罪悪感が拭いきれないため、お話を聞かせていたたけたら有り難いです。 どのようにして罪や過去の自分、今の自分、そして仕事に向き合っていますか? 僧侶や仏教、宗教というものにあまり詳しくないため、検討違いな文章になっているかもしれません。 僧侶を職業だと認識して、仕事として書いておりますが、お坊さん方は「仕事ではない」と認識されているかもしれません。 知識不足でご不快な文章になっていましたら申し訳ないです。
般若心経をの訳を読んでもモヤッと書かれていてよくわかりませんでした。 苦しいことは永遠に続かないよ、としたら幸せも永遠に続かないよ、と解釈したのですが幸せを維持するために頑張るのは当たり前だけどそれが壊れるのを恐れちゃいけないよって考えてOKでしょうか? てことはどうしても湧いてくる恐れはどうしたらなくなるの?とかぐるぐる考えてしまいます。 般若心経を分かりやすく教えて頂きたいです。もしくは分かりやすい訳が載っている本を教えて頂きたいです。 よろしくお願いいたします。
みなさんいつもありがとうございます。 人生いろいろな経験をさせていただきましたところ、 おかげさまで、私は2017/2/20に突然、蓮の花の色をした明るく至福で安寧な空間(浄土?)に招かれ、凡夫成仏させていただきました。 自分のすべてを赦していただきましたので この世のすべてを赦して暮らしています。 仏様から今後生きている間は、全ての人々、森羅万象に感謝して暮らすように教えていただきました。 また、この世は生きづらく、ドロドロとしていないといけないことも教わりまして 蓮は泥より出でて泥に染まらず。の意味もやっと理解できました。 どなたか、同じような経験をして、凡夫成仏した方をご存じないでしょうか?
私は今までなんとなく生きてきました。なんとなく生きてきても何も思いませんでした。 しかし、最近(といっても半年前ですが)こんな人生でいいのかと感じるようになりました。 私は音楽が好きで、聞くのも、演奏するのもすきなのですが、ある日音楽を聴いていると、何か一つでもだれにも負けないものを持っておけ、といったような歌詞がありました。 私は今まで、なんとなく生きてきて、そんな事一つも考えた事がありませんでした。 大学の願書にも自分の特技を書く欄があり、その時は「楽器を演奏すること」、と書きました。しかし、大学に入り、より広い社会に出ると、やはり楽器を演奏することに対し、上には上がいて、どうしても越えられない壁がありました。その度に私は自信をなくし、本当に自分の特技なのか、人より誇れる事なのかと思ってしまうのです。 そう考えてしまうと、どんどん悪い方にばかり考えてしまい、自信がなくなります。 楽器を演奏することを生業としたいわけではないです。ただ、何か特技があっても上には上がいてそれを特技と呼べなくなってしまうのではないかと考えてしまう事にとても悲しくなってしまいます。 他の人にすごい人がいるから自分は必要とされないんだ、と思ってしまいます。 自分らしさってなんでしょうか、それが例えば何か一つ人に誇れるものであったならば、それを見つけるためにはどのようなことに気をつけていけばいいでしょうか?また、どのような考え方をしたら良いのでしょうか?教えてください。
お世話になっております。 柴田秋です。 以前、こちらで葬式をあげてほしくないという質問をいたしました。 戒名をもらった時点で仏教徒になるのが嫌という理由を上げましたが、それは誤りとの指摘がありました。 戒名とは法号のことであり授戒の証、すなわち仏門に入ることのはずですが、何故、戒名をもらうことが仏教徒になるということではないのですか? 少し長いですが、それでも、詳しい経緯をお知りになりたい方は下記をご参照下さい。 http://hasunoha.jp/questions/5942 予想される答えとしては「私はすでに仏教徒である」ということと思います。 一度も同意したことはありませんが… 私が嫌いなのは仏教だけではなく、宗教全般なので、特別仏教がどうのこうのというわけではないので、ご理解ください。 ただ、ガウタマ・シッダールタや、イエスや、ムハンマドなど、一人の人間の言葉の元に集まった集団が起源なのが特に嫌という感じはあります。 神道に言及しているのは、少なくとも私は宗教ではなく、神話扱いしているという理由です。 ギリシャ神話、ローマ神話、ゾロアスター教、それから、特に好きというわけではありませんが、エジプト神話あたりは、私に対して「無害」なので、別に嫌いというわけではありません。
こんにちは、ミッションスクールに通う女子高生です。 タイトルどおりですが、何を持ってすれば仏教徒と言えるのでしょうか? キリスト教の場合は洗礼を受けることですが、仏教にもそのような行いをするのでしょうか? 仏教にとても興味があるのですが、何しろ幼稚園の頃からキリスト教をずっと学んできたので知識に関しては手塚治虫の漫画を読んだことぐらいしかないです。仏教の中にも、いくつかの宗派?がありますよね、本当に簡潔でいいので教えてください! 質問が多くて本当にすみません。回答していただけると嬉しいです。
父が亡くなって一か月です。 不器用だったけど優しくて、大好きな父です。 もういないと考えると寂しくて悲しくてたまらなくなります。 毎日のように骨壺をあけて骨を触ってしまいます。 いなくなったのを納得したい気持ちと、父がいたことを少しでも覚えておきたい気持ちで触ってしまいます。 もう少ししたら納骨することになります。 そしたらもう触れないと思うと、寂しいです。 でも母や兄たちには言えません。 家族みんな寂しい気持ちを乗り越えようとしてるのは同じだとわかるから。 でも、寂しい。 誰でも大切なひとを亡くす経験をすると思いますが、どうやって気持ちに折り合いをつけているのでしょう。 悩んだときにいつも話を聞いてくれたのは父でした。 父に会いたくてたまりません。
こんにちは。 私は現在生まれ育った町に戻ってきています。 留学に近いことをしていて、 一度親元を離れて暮らしていました。 休みなので帰ってきましたが、 もう残り僅かの時間が悲しくて仕方ありません。 留学へ行くときはさほど寂しくありませんでした。 親ともまた会えるし、いつでもここへ戻ってこれ ると思っていたからです。 今ではそんなこと思えません。 一度離れた、慣れ親しんだ町へ帰ってくると いかに思い出があるか、いかに愛着があるか、 いかに家族といたいかということを痛感してしまいます。 その上、父の仕事の関係で家族全員が会えることが滅多にないなかで、 いま一番好きな場所で会えてしまっていることが 幸せすぎて 本当にこの時間が終わって欲しくない。 次いつ会えるか確実でない家族と離れることが 違う場所で暮らすことが、そばにいないことが、こんなに悲しいなんて知りませんでした。 誰かと本当に会えなくなってしまうのではないかと不安でたまりません。 母は重めの体調不良で 「もしかしたら病気なのでは、」 という考えが頭をよぎるし、 父だって、 不規則な生活をしていて、年齢のこともあります。 どうしても笑顔でまたねと言える気がしないのです。どうしたらこの不安でたまらない気持ちを取り除けますか。どうしたら泣かないでいられますか。どうしたら留学先に明るい気持ちで帰れますか。 どうか教えてください お願いします。