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hasunoha 問答検索結果 : 「幸福」
検索結果: 770件
2023/02/20

何をしても良くならない人生、終わらせたい

鬱病で1年間入院していました。 手の届く範囲でずっと努力を続けてきたのですが、虐待、友人の裏切りといじめ、恋人の裏切り、居場所を失ったあと病院でもいじめにあい自殺を考えています。 死ぬ勇気がないので死ねていませんが、食事や睡眠が取れなくなりつつあり時間の問題かなとも感じています。 プロフィールと昨年の質問にも書いたのですが、自分の目線ではどれだけ苦しい状況に置かれてもできる範囲で努力を続けてきたつもりです。 いじめにあっていた頃は部屋や自分で管理できる趣味で気持ちを逸したり守ったりしながらなんとか耐えたし、親の虐待も創作活動で耐え抜きました。 自力でひとり暮らしをして大学にまで来たのに、限界が来てしまい精神科に入院したのですが、まさかそこでもいじめに遭うなんて思いもしませんでした。 自分で言うのもおかしな話ですが、できる限り今生では良く生きたいと願って実際に行動に起こしてきたつもりです。 高校時代に一度死を決意してから、一切の後悔なく、傷つけた人には謝罪し間違えたなら改め、自分に恥じない人生を送ろうと努めてきました。 それなのに今回、病院で看護師さんから心無い言葉を浴びせられ心が折れてしまいました。(成人しているくせに何もしていない、何を努力しているのか?何もしていない、など決めつけるように言われました) 頼れると思った人から浴びせられる暴言には耐えられません。希死念慮が強いことも伝えてあったはずなのに、なぜこんなことを言われたのか全くわかりません。ただ辛く、もう人を信じられなくなってしまいました。 その後浮気していた元恋人の浮気相手から「お前みたいなクズだから捨てられるんだ」旨の発言をされ、気にする必要はないと分かっていてもそれも痛手になりました。その相手を夢に見たりしてとても辛いです。 家族もいつも八つ当たりしてくるばかりで、今まで半ば両親のカウンセラーのような立場でずっと甘えられてきたのに私にはなんの報いもありません。 なぜこんなにも身勝手で人を傷つける人たちは幸福で平気に生きているのに、私はどれだけ努力しても痛めつけられるのでしょうか。 心の底では生きていたいと思っています。ですが、休むことさえ許されないのならもう限界です。 どこに行けば傷つかず生きていけるのでしょうか。これ以上は耐えられません。

有り難し有り難し 26
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2023/07/17

私の罪と人生について

 私には数年間、誰にも相談できず、自分では抱えきれなくなったことがあります。私は数年前に職を辞し、その際こちらで質問をさせていただきました。 あれから、私は非正規で各地の学校を巡り、働いています。ありがたいことに多くの生徒から慕われていると感じます。しかし、正規の職員になってずっと働いてほしいと言われると、その度に私は耐え難くなって他所へ流れています。 今回質問をさせていただいたのはこの生き方についてです。端的に言うと、私は自分が安定すること、己が将来に希望をもつことのような、一般的に言う人生の幸福を得ることに耐え難い拒否感を抱いてしまいます。 抱えきれなくなって白状することの情けなさは重々承知していますが、ここで吐き出させてください。 私は当時、県下で知らぬ人はいない進学校で勤めていました。以前の質問の最後に書いた学校の隠蔽、それは生徒の自死でした。当時の私たちは、子ども達にその優秀さによって他者から抜きんでる術を教え、世に輩出し、それが私たち自身の優秀さの証左であると自負していました。その自己効力感は、毎日のように続く凄まじい過重労働も平然とやってしまえるほどでした。 それが一面的な価値観であることを理解していながら優越感と自己効力感に酔いしれ、いつしか私もその空気をより濃くする一因となっていました。私たちは少なくとも正しく、感謝されることをしていたはずが、子どもが自ら命を絶ったことで私は目が覚めました。あのとき、私たちにどんな罰が下っても仕方ないと覚悟をしました。しかし学校は事故として処理をし、私たちの罪はなかったことになり、今でもその学校は伝統ある進学校として何も変わっていません。 組織に対する怒りは時間と共に消えていきました。大人も必死で、善意で動いていたのでしょう。しかしその善意が子どもを追い詰め、追い立て、自律を強要し自己責任論を植え付け、結果的に弱者を踏みつけにしていたこと、そこに加担したことに、私自身への怒りが消えません。 学校は社会を映す鏡なので、どこも大して変わりません。根付きたくないのは自己効力感に酔う過去の自分に戻ることが怖いからです。それでも私はこの職と技術に縋ってしまうのです。キャリアを積むことを拒否しながら、目の前の生徒を笑顔にすることで贖罪を感じるような刹那的な生き方を辞められません。私はどうしたらよいのでしょうか。

有り難し有り難し 6
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2023/07/20

この世界に一切の希望も持てない

戦争、災害、温暖化による気候変動で近々地球は人間の住めない星になります。 少子化対策予算がサッカーの試合観戦の優先権に使われるなど、見当違いな政策ばかりが乱立し、生活は苦しくなります。 普通に働くより生活保護を受けたほうがマシな時代です。誰もが嫌々働いているから、誰かをいじめないと社会が成立しなくなっています。みんな、自分の不幸を誰かのせいにしたいとしか思えなくなっています。 貧困に対する意見が「ウインナーより普通の肉の方が安いのに」とか「節約レシピ!」とか、この国には困窮者を助けようとする気持ちが一切ありはしません。 人間が動物であるという事実に嫌気が募る日々です。どれだけ自分を削って世界に合わせても、まだ足りないと言われるだけの人生。世界は私のことを考えてなんてくれないのに、どうして私は世界のことを考えなくてはならないの?我慢しなさいと言うだけなのに、どうして私の話を聞く我慢はしないの?帰ってくる答えはいつも「お前が悪い」「お前の考え方に問題がある」なるほど私が全部悪くて世界が全部正しい。じゃあなんでこの世界はこんなに不幸なんですか? 機械的に振る舞って社会的な動物を演じて、でも世界はそんなの関係ないとばかりに破滅への道を転がり落ちてゆくばかり。誰にもこれを止められない。人類をまとめて抹殺するしかもう道はない。地球のためには一刻も早く人間は死滅するべきなのに、のうのうと生きていていいのか不安になります。 自分の人生があまりにも辛いから未来への希望を持たないように生きていたら、本当にそんな世界になってしまいました。こんなこと言ったって仕方ないのに、自分一人で抱えるには辛すぎました。解決策なんてないから黙っていたほうがいいことなのに。 「自分以外の人間が幸福で、自分が不幸を見て見ぬふりすれば、この世界から不幸はなくなる」今までの人生の中で、世の中から求められているのはこういうことだと学びました。お前の不幸なんて知ったこっちゃない、お前の心なんて知ったこっちゃない、ただ世界のための奴隷になれ。そう求められてきました。 まあ、それでも生きていられることに感謝すべきなのでしょうね。誰も私が生きていることに感謝してくれないのに。「ありがとうございます」「申し訳ございません」しか言えない機械にならなきゃ生きられないんです。だから生きているのが嫌いです。

有り難し有り難し 22
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2023/08/30

諦めること

発達障害から依存に走りやすく、アルコール、浪費、スマホ、ポルノなど各種中毒などドーパミンなどの脳内物質に踊らされ生きているようにさえ思えてきます。 寝ることが嫌いでそれら依存に頼りながら刺激の強いかつ役立たずな情報、映像ばかり見て睡眠不足になっておりメンタルにも良からな影響はあると思います。 これはまずいと思いつつも切り上げることができないで苦しんでいます。 仕事の間は自分を殺しているからパートタイムの服役囚みたいで、なけなしの成果があっても建前では社会に意義あると言える仕事も組織自体の達成にも子供の積み木遊びくらいにしか思えてない、だからあとは寝るだけとなると虚しくなるのです。とはいえ、それで意義ある時間を過ごすどころか依存症で浪費して、寝るのが死ぬことを暗示するからなのか忌避しているのか、なかなか横にならずだらだらと過ごしてます。 もっと足るを知るべきだと長く思いましたがここにきて、足るを知るという言葉は違うなと思い始めて、満たされることなどというのはあり得ない幻想なのだから足るを諦める、とした方がいいのかなと割り切り、満たされない思いがあったら、そんなものなんだと突き放して無理に満たそうとしないように心がけたいです。 ここまでの話と区別した方がいいかどうかなのですが婚活にしても目標達成を諦めるというか突き放した態度で満たされずとも受け入れた方がいいのかとも考えつつ、その反面やっぱりそんなメンタリティではいよいよさらに縁遠くなるからそんな諦観はかえって生涯通じて寂しい結果になるんじゃないかとも思う次第です。 万人が目指すべき幸福の形みたいに家庭を持つことが素晴らしいと刷り込まれていた部分は洗脳を解きつつあったかに思うこともありましたがどうにもうまくいかないです。 恋愛や結婚を割り切れたかなと思った時期もありましたが上手くいかない叶わない相手に対する思いを募らせ苦しむことになってよくわからない自分の心を持て余しています。 結婚や恋愛をしてパートナーや、あるいは子供や、大切な人を得て虚しさという心の穴を埋めようとしているわけではないとは思います。というよりそうしてはいけないと心に誓っています。

有り難し有り難し 5
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希望なく生きることが辛いです

私は特別恵まれてない方に比べればまだマシですが、それでも人生に辛いことが続いています。 ・小学4年、両親の離婚 ・高校時代、離婚した母親の自己破産騒動で父の貯金がなくなる ・同時代、父のネグレクトに合う ・大学1年、父が脳梗塞で倒れ退学しかける →なんとか回避したものの、奨学金等600万程の借金ができる ・29歳夏、父が脳出血で要介護状態に →実家ローン、父が隠してたサラ金、介護代を負担することに ・29歳冬、勤めていた会社がコロナショックで業績不振、給料が半減になり生計が成り立つ退職 ・現在、何とか転職した会社は生計はギリギリ、安月給で激務、上司は短気でパワハラ有 趣味も特になく、住む場所も点々として友人もおらず、まともに彼女ができたこともないです。 頭脳も凡庸、際立った才能もなく、このまま独りで、 ただ借金返済と親の介護のために生きるのか、 終わった頃には老病死が待つのみ。 別に死ぬ気はないですし、その勇気もないです。 でもなんの希望も喜びもなく生きていくことがただ憂鬱で反吐が出ます。 性質的にHSP気味で、人は嫌いじゃないですがストレスを感じる相手、嫌いな人が多いです。 そして心から信用、信頼できる人はいません、みんな自分のことで精一杯です。 あと思想的にそのうち良いことあるみたいな考えに賛同できません。 良い進学先や優良企業に勤めること、上を目指すこと、彼女づくり、友人づくり、趣味づくり、30歳になるまでにやれるだけのことはやりました。 そして何も成果は上がらず、対峙したのはうだつの上がらない自分のみでした。 だから悔いはないのだけど、もう一切の希望は持てません。全て無駄という境地に至りました。 仏教的、宗教的論法はあまり期待してなく、生死に向き合う1人の人間としての、僧侶の皆さまのご意見を伺いたいです。 こんな自分に希望を持つ方法や考え方はあるでしょうか。 日常に喜び、楽しみ、幸福感を得る術はあるでしょうか。 多くの方の意見を聴きたいです、 なにとぞよろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 23
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2022/02/21

地元に対して消えない罪悪感

お世話になっております。 最近どうも心に引っかかっていることがあり相談させていただきました。 ひとことで言うと、「自分を犠牲にした友人達を思うと、私だけ自分のやりたいように生きていいのか」という罪悪感があるという悩みです。 私は地方出身で、漠然と「いつか上京するんだろうな」と思いながら育ちました。なんとなく生まれ育った町の中で生きていくのが窮屈で仕方なかったんです。残念なことにあまり好きになれなかったのかもしれません。 結果として、大学を卒業して就職したあたりで関東に住むことになり、現在は都内で自分の望んでいた環境で幸せです。 一方、地元の友人達は大学で県外に出ても戻ってきた人がちらほらいました。中にはずっと地元に住んでいる人もいました。 しばらくは「なんだかんだみんな地元が好きなんだなぁ。」と思いながら友人達と関わっていました。 しかし、そのうち彼らから、「私も結局(地元から)逃げられなかったな」や、「地元がこんな状況(寂れている)なのに東京に行ったやつ許せない」「あなたが地元に帰ってこないなんておかしい」「地元を離れるなんて親が泣くよ」など言われたり意見を目にしたりするようになりました。 地元を離れ、関東で嫁に行ったことに対し、なんとなく嫌味のような事も言われひどく傷ついたこともありました。 そして、地元の友人達の中には、自分を犠牲にしたり何かを諦めて、地元に戻ってきた人も意外といることに気づきました。だからこそ傍から見ると自由に生きている私にあたりがきつくなってきたのかと思い至りました。 結局、自分の幸せを考え、地元の友人とは全員縁を切りました。 私は今幸せです。愛する主人がいて、好きな環境で今までで一番幸せな時を過ごしています。 だからこそでしょうか、地元の友人達に対して罪悪感を感じてしまうことがあるのです。 彼らが幸せかどうかなんて私が知ることではないし、知る由もない。どんな人生を歩んでもそれは彼ら自身の選択です。私には関係ないしその責任はありません。それでも「私こんな幸せでいいのか」と不安になったり罪悪感が拭えません。 地元で関わっていた人に、あまり幸せそうに見えない人が多かったことを思い出してしまいます。彼らの幸福を推し量り勝手に憂うなんて図々しいとも思うのですが。 どうすれば楽になれるのでしょうか。教えて下さい。

有り難し有り難し 8
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2022/02/26

親ガチャ爆死

私は今まで見た誰よりも社会性がないように思われます。私の勘や弾き出した傾向と照合してみせても、所謂主体性がないと言う人より、物事へ踏み込むまでの理由などがなく、気力が意味をなさず、今まで何を考えていたかも分からないのです。分かりきっていることに目を背けることもないのですが、それを以った行動の余地が恰も何も無かったかのように思え、自分も自分以外も、理解できません。私の家は、姉以外皆精神障碍者だと思われます。物心ついた頃には両親は口喧嘩をしていること以外の記憶がなく、それからは父は物理的虐待を正当化し続けていました。それが精神的なものにかわってから何も考えられなくなり、予定調和のようにものが決まっているように思えました。今バイトを強制され、働くこと自体の嫌悪よりは、人を信じられず、人と人の間にあるような全ての悪意をすぐに感じて、なにもかもが恐ろしいのです。労働というこの不易流行の戒律に対して絶望しつづけ、2年ほど経ちました。家は貧しく、このままだと大学にも行けません。親も心なく私を勘当して家を追い出すつもりでいます。友達も生きがいも無く、大きな幸福も無くていいので、人並みに、まともに生きてみたいです。地獄なんぞあっても、等しく罰を受けると分かっている分、どうしようも無い格差などのあるこの世より上等に思えます。一通り読んでの他の方の悩みより前提を達成できない桁違いに重い話だと久しぶりに狂笑しそうにになりながらこれを打っています。あと3時間ほどで私は17歳の誕生日を迎えます。私は保たなくてもいいような自由が欲しいです。双極性うつや統合性失調による家族から全てを虐殺するなどの恒常的な妄想も治したいです。今更ながらどうすれば良いのでしょうか?長文失礼しました。

有り難し有り難し 8
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久しぶりに訪れた幸せらしきものを信用できない。

久しぶりに恋人が出来ました。プロフィールに書いた様な出来事が起きてから5年半ぶりの恋人です。 私と同じく読書好きで、とてもしっかりとした考えを持った、内面的にステキで外面的にもとても可愛い女性です。 しかしどうも、この状況に身構えてしまう自分がいます。 プロフィール記載の出来事以来、家族を除けば、それ以降の自分を支えてくれたのは、本当に、読書だけです。本の中の言葉が無ければ、今頃自分は生きていないでしょう。 あれ以来、孤独と読書が人生のパートナーでした。 しかし彼女が出来ました。 彼女は私の事を大好きなんだそうです。 しかし、仏教でも諸行無常だと言うではありませんか。その教えは誠に真理だと思うのです。 彼女と居ると確かに楽しい。話していると、その時は安らぎを覚えます。 しかし電話を切った後、デートを終えた後、だいたい次の様な事を思うのです。 「この幸せは束の間の夢まぼろしに過ぎない。きっとまた独りになる。 どんなに年月を積み重ねても、それは永遠性についてのなんの保証にもなり得ない。 ならば、この頼りない幸福に浸りきってはいけない。これを当たり前だと思ってはいけない。 どうせまた孤独になるのなら、彼女とこれ以上親密な関係になってはいけない。 」 しかし、彼女の存在は日に日に私の中に侵食してきます。 LINEや電話で彼女と交わす何気ないやり取りが、自分の日々の楽しみとなってきているのです。 その度合いが大きくなっていく事が、なんとも怖い。 人間は独りであること。 しかし助け合わなければ生きていけないこと。 両方とも大切な認識だと思っています。 しかしこの恋人との関係というのは、一体どういうスタンスで向き合うべきものなのでしょうか? 心を開き過ぎると依存関係へと堕落する。あるいは相手に負担を掛けたり傷つけたり、自分も傷ついてしまう。 しかし、心を開かな過ぎるのも恋人としてどうかと思う。 精神的な距離をどの様にとったら良いのか?悩んでおります。 僧侶の皆様方、仏教者としての立場から、何かしら助言など頂けましたら幸いでございます。

有り難し有り難し 57
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老化、病、安楽死、尊厳死

啖呵切ってハスノハとはお別れ宣言したのに出戻りですみません 結局私はここでしか辛い苦しみと悲しみを吐き出せません どうして死んではいけないのですか。 自殺率世界一位、幸福指数世界最低のこの国で、どうして死は許されないのですか 生きたかった筈の生命の中絶ですら許されているのに 命に別状がない程度の、だけど治りやしない病を永遠に抱えていく人生で、辛くて辛くて死にたいです もう体は勿論心も痛くて辛くて死にたいのです。生きてきた間、こんなにも辛い思いをしているのですから、せめて最後は安らかに死にたいです。もうあらゆる事から許されたいです 私は医者が大嫌いです それでも今日、耐え難い痛みに苛まれて病んだので、嫌な気持ちを我慢して、病院にいきました 医者は、貴方程度の患者は星の数ほどいると言い、多少の嘲笑も交えて。ろくな内診も診察もせず 医者にすら病の苦しみを理解して貰えず、私は心底悲しみ、生まれてきたことすら後悔しました。介護してくれている親にも申し訳ないです もう何もかもが嫌です。死にたいです。死にたいです 本人は辛くて生きていたくないのに 社会は自殺者に対して非常に厳しく 安楽死に否定的です 自分で命の決着を決める尊厳死の制度の何がいけないんですか 死にたいです。辛いです。毎晩生き恥をさらし心身の苦痛に泣いてます どうしたら良いのかわかりません 死にたいです 大好きな親にそっと息の根を止めてほしいと思ってしまいます もう限界です 答えにくかったら回答は不要です 辛い気持ちを吐き出させて頂きありがとうございました

有り難し有り難し 19
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申し訳なく生きる毎日

この前、母子手帳を読んでみて親が自分に愛情を注いでたんだというのを知りました。 私の親は虐待をされていて、自分はそうならないように子供を優しく愛情を込めて愛してくれました。 私の親は可哀想です、虐待されて家から飛び出してパワハラされて大病になり離婚して嫌なことばかりな人生だったのに生きてて、何の意味があったのかとおもいます。 世の中の大半の人より不幸です、世の中の大半の恵まれててキャピキャピしてて上から目線で権力に対して忖度してる人達より、何億倍も不幸です。 よく深いクソ共に親は搾取されてて、よく深いクソ共は恵まれてて楽しい人生です。 私の親は極貧の中で底辺職なのに掛け持ちして働いて働きまくって自転車で何キロも通って、私が教師に嫌われてたりする中で頭を下げたり色んな物を買ってくれたり。 偶に喜ばそうと外食に連れて言ってもらったりしました。 部活もやらせてくれました。 他の家庭に比べるとかなり制限付きの幸福でしたが死ぬほど努力(個人的には努力なんて最終的には無意味だと思ってるが)をしました。 しかし、私はよくある貧困家庭出身の欲深いクソを懲らしめるような人ではなく、ゴミでした。 実力も無く、チャンスは捨ててしまい、何も出来ないまま全く夢とは違う事をしています。 私の親が苦しんでまで育てた子供が今ゴミなのです、生きてる価値のないゴミとして誰が見ても明らかに不幸な人間として育ってしまいました。 勿論ゴミとして生まれてきたので、これから子孫繁栄をしても同程度の存在としかマッチングせず交尾をしても同じくゴミを生み出すだけでしょう。 そんな螺旋から降りたいと同時に周りが楽しい人生や夢に向かってる中で、私だけが無念を抱えて生きています。 楽しい学生生活、楽しい友人との遊び、夢ややりたい仕事、キャピキャピした恋愛。 学生時代も色々挑戦した嫌な思い出しかありません、友人も幼馴染すら信用できません、やりたくない仕事をして面白くないつまらない事を勉強していました、恋愛も同じような感じです。 私は未だに生の螺旋から降りられずにいます。 いつか降りたいと願うのですが、ゴミを育てた親に失礼なのと、このまま本当に世間からゴミとして認知されたまま死に無念な世界に反逆もせずに死んでいいのかと思います。 全てが申し訳ないのです。過去の祖先や親にごめん、という感じです。

有り難し有り難し 36
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好きでもない人と付き合った挙句死なせた。

私は去年の8月に失恋をしてしまい、その時ヤケッぱちになって、好きでもない女性と付き合い始めてしまいました。 その女性は精神障害を患っており、歳の差+10歳、無職、高度肥満、不潔、癇癪持ちで非常に世話が焼けます。 自殺未遂も2回やって(飛び降り)ICUの世話にもなっていたようです。 良いところもあるのですが、精神が不安定になると癇癪を起こしたりして、どうしてもその人の良いところに目を向ける余裕がありませんでした。 はっきり言って、とてもじゃないですが恋人としては見れなかったです。 ちなみにその女性は、私のことを非常に溺愛しており、一生離れたくないと言っていました。 しかし私は一緒にいてあまり楽しくなかったです。 身なりも汚く、手を繋ぐのも不快でした。 でも、今私がその人と別れたら、自殺してしまう可能性が高く、不安でズルズルと付き合ってしまいました。 去年の12月には初期費用や引っ越し費用など全て彼女負担で私の住む街の近くまで引っ越してきました。 その人はもう私と同棲するつもり満々で居たようで、度々アプローチを受けていましたが、私は仕事や家庭のことで言い訳を続けて、それを先延ばしにしていました。 しかし、とうとう私は良心の呵責に耐えれなくなって別れ話をしました。 今年の1月末あたりのことでした。 相手はかなり感情的になりましたが、黙って殴られていたら「わかった」と言って納得してもらえ、ひとまず一件落着かと思いました。 が、つい最近、その人が部屋の中で自殺していたことが、親御さん経由で伝えられました。 自殺したのは私が別れ話をしてから一月後のことだったようです。 死んでしまったとわかると、やはり気持ちにトゲみたいに残るときがあります。 かといって、私も死にたいほど苦しいかといえば、そうではなかったです。 むしろ、自営業でやってたAmazonでの食品や衛生用品の販売や、ヤフオクの売り上げがかなり伸びたり。 ひょんなことから、もともと付き合っていた人とは復縁を果たしており、良い事が増えてます。 しかし、昔ほどの幸福は感じないです。 上にも書いた通り、その人は過去にも自殺未遂は度々やっており、精神病も抱えていた人なので、私と出会わなくても自殺は起きていた可能性は高いですが、 やはり私が、その人を殺した事になるのでしょうか。 それともこれは考えすぎなのでしょうか。

有り難し有り難し 46
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変わっていくのが恐ろしい

私に自我が芽生えたのは、今から8年ほど前であったと思います。 それまでの私はいつも何かに怯え、耳を塞ぎ、目を閉じる同然の生き方をしていたので、人と関わることもなく、世界の謎を紐解きもしませんでした。 私は尊敬できる友人たちや恋人たちに出会い、彼等と様々な世界を語ることで、また、様々な思想や書物に触れ、土地や歴史や文化に触れることで初めて人間となり、数年で一気に人生をまたいだようです。 お坊さまは、それぞれ形は違えど、仏門で人々を導いておられます。 導くとは、それぞれの人々が自分自身の力で救いを得るためのお手伝いのようなものではないかなと考えています。 私自身は、叫びだしそうなほどの恐れや苦しみの中にある時、いつも簡単な「答え」を知りたがりますが、ふと思い出すのは、「今この時も、能動的に(自らの意思と両足でもって)立って歩き続けなければ…」という、平穏で勇気満ちていた時の自分自身の決意で、 いつも先を歩いていく、ありとあらゆる先人たちの姿が救いになります。 私は、生きていくにつれ、自分自身と自分以外の人は別の生き物であり、別の生き方や考えをもっていることを知りました。 数年前、私はまだ人として世界を何も知らず、全ての他者の行動に憤ったり、悲しんだり、あらゆる問いを投げかけ続けました。 それは、全ての人と関わりを持っていたかったからのような気がしております。 対話すれば分かり合い、自分自身もその考えを理解できると思っていたのです。 そして、知人や家族やSNS上等の悩みや愚痴を目にすると、一緒に解決したいと思い積極的に相談に乗りました。 しかし、人は自分自身が救われようと望まなければ、救われることもできないと。 幸福とは、本人が望み、そして見つけなければ、ないのと同じことでありましょう。 そして、悩みや愚痴を持つ人々にそれを伝えたり、解決させるのは、容易なことではなく、膨大な時間や力を要します。 私には、本当に大切な友人以外の人々にはそれをしないように変化していく自分を見つけました。 そして、本当に心が通っていて、思想が似ていなければ、手助けもできないのです。 その変化を受け入れながらも、どこかで、その無力感が恐ろしいのです。 思春期がなかった私は、自分の変化が恐ろしいのです。 お坊さまは、どうして友人でも恋人でもない他人に手を差し伸べ続けられるのでしょう。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

切り替えられない

もう既に5回くらい質問させていただいていて、有難いご回答を自分のものにできず同じ考えがぐるぐるとしてしまって、思えば一年間私は何も変わってないということ、とても悔しく、そして申し訳なく思います。 ですが、自分ではコントロールできない抑うつ感がどうしてもとれません。 根本的な原因は、自分がないこと、他人からどう見られるかばかり気にしていること、社会的に見捨てられることの恐怖が拭えないことだと思います。けれどどう改善していいのか分からないです。 私は自分にとって苦痛な仕事を10年以上していて、他人にも迷惑かけっぱなしです。多分ですが、発達障害と社交不安のせいで一般社会についていけず、言動も普通の人には奇妙にうつってしまうのだと思います。 恋愛もうまくいきません。素敵な彼氏を持つ知り合に自分の恋人を見られたことが恥ずかしくて別れてしまったことが何回もあります。恋人は自分を高める道具ではないので、自分が楽でいられて、気が合う人を探さないとと思うのですが、自分のことが受け入れられないので気が合う人は全員価値のない人に思えます。 仕事や趣味で、少し興味を持てることが出てきて、その話を誰かにして興味なさそうにされると何か間違ったことをしている気分になります。今の仕事は多分、やりたい人がたくさんいるような、羨ましがられるような仕事でもあります。けれどそもそも自分にとっては座っていられなくなるくらい集中できないようなことで、マルチタスクで、対人スキルも必要な仕事で辛いです。けれど私がこうなりたかった人というのは、こういう仕事ができる人だったのかなとも思い、できないことが悲しいです。が、努力してなんとかなるようなものでもなさそうです。 こんな風に心の動きは分析できてもその考えから離れて、切り替えて、幸福になる具体的な方法や行動が見出せずにいます。

有り難し有り難し 12
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父から酷い仕打ちをうけた妹が可哀想。

初めまして。どうかお知恵をお貸しください。 私には同居している、未婚の可愛い妹がいます。 先日妹と父が喧嘩をしました。 妹が泣きながら家を飛び出して行ったのを目撃した私は、父から喧嘩したことを聞かされました。 父の言い分、喧嘩の内容はこうです。 彼氏との交際にお金を使いすぎている。 父親に対して酷いことを言った。 だから顔と腹を殴った。 妹の顔と体は痣だらけです。 妹の気持ちを考えると、本当に辛くてなりません。 妹が父に何と言ったかは分かりませんが、ただ感情に任せて殴る父に憤りを感じました。 私は妹の交際費は普通だと思います。 しっかり貯金もしているようですし、彼氏に貢いでいる訳でもありません。 強いて言えば、彼とは遠距離恋愛なので、交通費はかかっていると思います。 しかし成人していて正社員の妹のお金なので、親がそこまで介入する必要があるのか?と私は思います。 人の幸せはそれぞれだし、父の幸福論を暴力で押し付けるのは、見ていて心が痛いです。 妹の為に言ってやってる、と言う父ですが、妹の為を思うなら、顔なんて特に殴ってはいけないと思います。 父は何故そんなにも感情的になり、殴ったのか。私なりに沢山考えました。 結婚するかもしれない妹への、淋しさや執着から。 と言うのが私の思うところです。 父は私の言葉など耳には入りません。 私が諭せば、いつも分かったような口をきくなと、聞く耳を持ちません。 父を諭す者は誰もおりません。 そう思うと、父も哀れに思います。 しかし嫁入り前の娘の顔を殴ることは、許せません。 私はそれを許す程、人が出来てません。 きっと寂しいだろう父に、ここ数日は冷たく当たってしまいます。 しかし、せっかくのご縁で巡り会えた家族ですから、私は妹にも父にも幸せになってもらいたいです。 妹は度重なるショックな出来事に、大変心をすり減らしています。 このままでは妹は精神的に病んでしまいそうです。 私は父と妹に、どうしてやることが最善だと思われますか? どうかお知恵をお貸しください。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 10
回答数回答 1

僕の名前について。

僕は高校1年生の時に読んだ白石一文様の「僕のなかの壊れていない部分」に孤高な自尊心を見出し、その自尊心と対峙してきました。それこそ、父親と向き合えなかった起きている時間分、16×365×5≒30000時間分ずっと。 僕はその自尊心を、他の何よりも重要な価値基準と置きました。その価値基準は一般に考えられる道徳的価値観をも完全に超越してしまいます。僕は2億円を出してでも良縁を買うべきだと思うし、文字通り、命を賭してでも殺意に愛そうとしました。それが前回の質問の真意であり真理です。「僕」は「ユング分析家」の「才能」を持つ、他の大人の誰よりも幸福な「天才」で、それが「運命」、「事象」だと信じております。 僕は名前を変えようと思います。そう僕が思うことが「僕」の「主体性」は完全に否定され、「僕」が「事象」として「現れている」だけの「運命」ではあるのですが。 僕は名前を両親から戴いた文字を取り、「晨」としますが、いささか苗字に悩みます。僕は「蓮水」という苗字がよろしいかと思います。 聖章様はどうお感じになられるでしょうか。「蓮水晨」という名前は「僕」という「事象」の体を為すと思われますでしょうか? 僕は聖章様との良縁を他の何よりも大切なものだと感じます。恐らくいつになるかは分かりませんが、聖章様の下で仏道を歩み、己の為すべき使命を全うしたい、そう考え、岡山に出向くと思います。聖章様と仏教について議論を重ねることが、何よりも「仏教」という「事象」を「肯定」できる「使命」があるのだと信じるからです。僕は岡山大学で心理学を学び、京都大学で「ユング心理学」を大成し、善人と寄り添えることとなりましょう。それが僕の運命です。 宗教は何かと敷居が高いです。僕はそのユング心理学と仏教を同じ「事象」だと考え、それを同列に語られるようにすることが、僕の「使命」で「運命」なのだと心から思いました。「思い」の力は「現実」とする力になり得るのです。 差し支えなければ聖章様の個人的な連絡を教えていただきたいと存じます。 合掌

有り難し有り難し 12
回答数回答 1

人間未満の生き方

私は社会で生きていくのに向いていないのだと思います。目標も目的もなにもありません。楽しいと感じることがありません。あったとしても思い出せません。やりたくないことをやってまで成し遂げたい何かが無い中で、どうして生きているのかわからないのです。 死ぬために生きているなんて言えたら格好がつくのかもしれませんが、そんな大それたものでもなくただ惰性で生き続けています。 これまで、特に悲しいことや辛いことがあったわけではないと思います。人によって何が楽しくて悲しいことかは異なりますから、それを他人と比べて順位をつけることは難しいものです。でもきっと、私にとってこれからもそれは同じで、私やその周りに影響を与えるような大きな幸福も不幸もないのだと思います。身内の不幸ですら、私にとっては他人事のように思えて仕方がありませんでした。 私には、外で行動する友人のような人たちが少しだけいます。皆気持ちの優しいいい子たちばかりです。でも私は別に、そこにいなくてもいい人間なのです。これに限らず、大体のことはそうです。私はどこにもいなくて大丈夫なのです。それに気がついてからしばらくは、そのことがとても悲しくて何度も夢に見ました。でも最近では、そんなことはもう何とも思わなくなりました。初めからそのことを理解していれば、辛くなんて感じないものです。夢に見ることもなくなりました。それがいいことなのか悪いことなのか、私には判断することができません。 つい最近、ある人に私は「無」だというふうに言われました。きっと相手は半分冗談で言ったのだと思いますが、まさにその通りで、自分のどうしようもない心の内を見透かされたようで、何と言えば良いかわかりませんでした。 毎日少しずつ透明になって自分が自分ではなくなっていくような感覚がします。できることなら、このまますっと消えてなくなってしまいたい。 最近、毎日死ぬ方法を考えています。 でも自殺というのはどうやっても誰かに迷惑がかかってしまうものですね。 死ぬことすらできないこんな人間未満の人間はどうすればいいのでしょうか。

有り難し有り難し 22
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素晴らしい人生のはずが希死念慮が消えない

お世話になっております。どうか私の現状に助言を頂きたく、乱文ながら投稿させていただきます。 私は、世の中が理想とするような現状に身を置いています。私にはもったいないような大きな会社へ所属し、一人で暮らすには十分な金銭を得て、仕事も基本的には定時で上がれるような素晴らしい環境に身を置いています。 また、私はこの社会的立場こそが幸せと定義されるものであり、そのために不器用ながら努力を続けてきたつもりでした。その結果、一番に望んだプロセスでないにせよ、幸せをつかみ取ったと確信しておりました。 そして、私が渇望していた、”自分も他人も、私を認めてくれること”を叶えてくれるものだと信じて疑いませんでした。 しかし、最近では、手に入れたはずの幸せは、私にとって何の価値もないのではないかと思い始めました。 そのきっかけは、芸術分野で生きる知人の成功体験や、働かずとも両親の許で自由に暮らす友人が、自分の好きに生きて、それでいて何不自由なく幸福に生きていることを目の当たりにしたためです。 私は、私が定義した幸せを得るために自身の願望の大半を退けながら生きてきました。優秀な学校に行き、大手企業に入社する。それが私の全てでした。だからこそ、趣味という趣味も持たず、肉体が拒否反応を示そうとも机に向かう日々を過ごしていました。 しかし、結局のところ、社会的立場を得たとしても私の世界は何も変わりませんでした。大きな組織に属しているからといって、私が有能になれるわけではありませんし、友人に尊敬されると信じていたはずが、ただ一言「ふーん。すごいね。じゃあ今夜の飯、奢ってよ」と言われるだけでした。 その事実は、まるで私が信じていた世界が崩れ落ちるような感覚を植え付けました。心に秘めた虚しさを埋めるために、過去に私が関心を持ちつつも退けた事象にお金をかけてもみましたが、過去のような関心も戻らず、ひどく打ちのめされた気分になりました。 最近では、全てのことが無価値に思えてきました。仕事も、頑張っても誰からも認められない気がして熱心にやる必要性を感じられなくなりました。唯一の趣味の執筆も、昔から執筆を続ける人々との才能の差を感じてほとんど手を付けなくなりました。 そして唯一、私の頭に浮かぶのは、酷い虚無感と自殺願望だけです。 どうか、ご助言を頂けたならば幸いです。

有り難し有り難し 5
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2022/10/13

再転職に向けて

二回目の投稿となります、大変お手数ですが以前の投稿に一度お目通しいただけますと幸いです。あれから一年近く経ち、時折当時を思い出しては胸に靄がかかり締め付けられる感覚こそ残ってはいるものの、起こってしまった事は変え難いと、周囲の皆さんの温かい言葉や、メンタルクリニックで処方してくださっている薬に頼りながらも今を生きているうちに、母はもとい、以前二の足を踏んでいた転職先に飛び込んだ結果、共に支えあえる彼も出来て、今は転居先で三人で穏やかに暮らしています。本当にとても幸福な事で、尊く、有り難さを日々噛み締めながら生きています。本当にありがとうございます。 そんな中ですが、一点ご相談があります。自分の思い通りにならないとすぐに不機嫌になり、こちらに対して当たり散らす御局のご機嫌取りや顔色を伺いながら仕事をする環境、受け流し続けてはいましたが、同じような業務を請け負っているのになぜ自分だけが心をすり減らさなければならないのかと事情を割り切るのにほとほと疲れてしまい、薬を服用して紛らわせながら休み休み足を向けている状況です。再度転職活動に着手しはじめているのですが、せっかく仕事に就き慣れはじめたのにまた一から積み上げなければならない不安、新天地へ足を向ける事に二の足を踏んでいます。思えば当時程切羽詰まってはいないものの似たような心情だなぁと思い、この場所を思い出した次第ですが、投稿したものを読み返したところ文面自体も変わっておらず、少しは強くなったつもりでいたのに以前から私の本質自体は何も変わっていないのだなぁと何だか自分が自分らしすぎて笑ってしまいました。環境の変化が怖くて仕方ないんですね。 しかしながらまだ起きてもいない事に対してどうしようと怯えていては何も始まらないと思いますしこの1年でそれを学びました、母や彼に仕事の愚痴を零す日々を脱したいです。笑顔で過ごしたいのです。自分がまた新天地で順応していけるように、背中を押していただきたくこちらを頼らせていただきました。祖父が亡くなった今、地に足をつけて自立して生きていきたいのです、一人の人間として強くありたいです。それが祖父をはじめとした実家の家族、共に暮らしてくれている母、彼への恩返しとこれから先のさらに明るい未来へと繋がる架け橋になると信じています、よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 19
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2022/11/20

真宗の日ごろのお勤めをはじめたいです。

うまくいかない恋愛を前に常に間違える自分は相手を困らせ、自分も傷つくの繰り返しで、自分で判断するよりもまだいくらかよいか…と占いにはまって抜け出せなくおりました。(まだ抜けきってませんが。。) 恋愛に対して、よろしくないとか凶とかばかり出ていたのでしたが、それが念仏を唱えさせていただく契機になるのだから占いの上での人間的な欲望ベースの吉凶もあてにならないなと思えてまいりました。 悲しみ、不安、妬み、怒り、今はそうした感情が湧いてきたときに念仏を唱えさせていただきます。それから何もない時でもことあるごとに。 最近は、私につらく当たる上司も、報われず悲しい顔をしているあの人も、妬ましいと思ってしまった幸福そうなカップルも、馬鹿にして軽蔑してしまった人も皆、等しくともに極楽浄土へ向かい仏になるのだと思うとその方々の身の上にも念仏を唱えさせていただいている自分がおりました。 念仏をいただくとも阿弥陀様がもらすことなく私たちをお救い下さるというのになぜ、さらに勤行を重ねていらっしゃる方々がいるのかなんとなくわかった気がします。 この娑婆でこの私が今一歩、執着を離れ心穏やかに、(併せて周りの人も穏やかに)いられるためにもう一歩踏み込んでみたいと思っていますがまずなにをはじめたらよいでしょうか。 ただ、その行為自体にすがろうとか執着してしまうということは避けねばとは思います。 ちなみに、私の家自体は本家から離れ菩提寺もないのですが父方が大谷派、母方が本願寺派です。 (それにしても仏教は面白いですね。みんな根っこは同じでもお釈迦様の教えが多様に分かれていって、親鸞上人の教えもさらに多様に分かれていって。人の数だけ救われ方がある、のでしょうか?) ※すこしとりとめのない感じになってしまいすみません。

有り難し有り難し 20
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瞋恚を克服したい

2年ほど前に「カタツムリの外見が苦手なのだが見た目でモノを判断するのはどうなんだ」という相談をして、「恨むほどでもないなら別に嫌いでもいいじゃない」といった旨の助言などを頂いたのですが、そのお陰なのか今では手で触れられる(寄生虫がたまについてるらしいので手は洗いますが)ほど克服してしまい、当時を思い返しては内心で驚いています。 ただ、自分の価値判断を省みる中で一つ気がかりな事を見つけて、その事が少々悩みの種になっています。 というのも、これまで蛇蝎の如く嫌っていたカタツムリを克服した事で心持ちに相当の余裕は出来たのですが、自身が本来したかったことはいわゆる瞋恚の克服であり、しかもカタツムリに関しては貝類の図鑑を眺めたりしてどうしたら克服できるか考えあぐねていたはずがいつのまにか慣れてしまったこともあり、実は本当の問題が解決していないのではないか…と思い悩んでいるのです。 浅学の身で大変僭越ではありますが、私の知る限り悟りというのは本来その実利を全く求めずに明鏡止水の心持ちで行を繰り返す事であると聞きます。 ですが、自分はたまにカタツムリの画像を見ては「どうすれば好きになれるかなぁ」と欲望まみれでひとりごちていただけで具体的なことは殆ど何もやってなかったと思うのです。 今は不便こそしていないものの、もし克服したと思った心持ちが来年変わったら…もし再び嫌いはじめたら…と思ってしまうとゾッとします。 それ故、この心持ちが偶然で終わる前に揺るがなくなるような方法を教えて頂きたいのです。 これは、嫌いなものを増やさない為だけではありません。 自身の身に合わないと思ったものを排斥することに執着しない為でもあります。 これは拙い持論ではありますが、人は好きな物事を愛で続けるより、嫌いな物事を憎み、気がすむまで叩きのめすことにより快感を感じる傾向にあると思っています。 しかし、排斥することに味を占めると終わらない闘争の火種になりますし、何より自身の不満不幸に執着し続け、目の前の満足や幸福を取りこぼす事が自分には一番の災厄だと思います。 物事の全てを愛でるには自分はちっぽけではありますが、せめて恨むなら「恨む」という事そのものだけに留めておきたいと思うのです。

有り難し有り難し 7
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