こんにちは。私はとある信仰宗教の元信者です。その宗教ではその宗教のお経を毎日よんで、法名といわれるものをおさめ、つどいと称される会合に参加し、弥勒山という山に登ります。勧誘してきた人は私の20年来の付き合いのある方で、その信仰宗教をとても心から信じていました。しかし、私はこの信仰宗教に違和感を感じていました。職場の方に話してもら辞めた方が良いという回答でした。また、旦那が私には居ましたがその宗教を毛嫌いされ、彼の親族にも激怒され縁をきられてしまいました。私は今実家で幸せに暮らしています。仕事も頑張って居ます。勧誘された方は癌で若くして亡くなりました。彼女は最後までその宗教を信じていましたが、私も彼女もそのお経を毎日読みましたが、私は離婚し、彼女は命を失いました。これのなにが幸せなんでしょうか。私には弟が居ます。まだ若くこれからどうなるか分からないですがきっと結婚するだろうと思います。義理の妹は果たして私の事を理解してくれるかと不安になり、檀家になってるお寺のお坊さんに相談しました。その方は瞑想会をしていて、瞑想すると涅槃の境地に近づけるとの事で、私は毎日するようになり、瞑想会にも参加するようになり、元の信仰宗教は辞めたい。と彼女の旦那さんや支部長に言って辞めさせていただきました。しかし、彼女には本当にお世話になったし、お経を読まないと瞑想出来ない脳になってしまったので、辞めてもお経は読んでいるし、彼女のお墓にお墓参りに行こうと思っています。信仰宗教で出会った方々とはまだLINEで繋がっています。このままいくとまた、戻ってしまうかどうか心配です。私は幸せになりたいからやってるんではありません。ただ、お墓参りして、お経読んで、瞑想して、線香あげて。私は仏教なんて全然知りません。お経の意味も分かりません。でも、これから勉強したいと思います。信仰宗教であげてるのは簡易なもので独自の解釈がされていて本質ではないと思います。瞑想の檀家のお寺のお坊さんも良い方ですが、わたしが涅槃までいけるかどうかは分かりません。こんな私は社会から見ておかしな人間なのでしょうか?仏教ってなんなんでしょうか?お経読む事でしょうか?墓参りする事でしょうか?瞑想する事でしょうか?私は宗教を理由に仕事休んだ事はありません。信仰宗教勧誘は一度しかやった事がなく、家族からも止められてるので今はやってないです。
初めて質問致します。 よく先祖供養やご祈祷などで「ご先祖様にお願いします」「仏様にお願いします」と言いますが 私の供養をご先祖様は受け取り 私のお願いを 仏様は本当に聞いて下さっているのだろうか…と思います。 と いうのも私は 生前の両親とは 仲はあまり良くなかったし、怒られていた記憶しかありません。 そんな私がお彼岸やお盆などに「先祖供養」しても その思いは亡くなった両親やご先祖様は受け取って下さっているのかどうか、気になります。 否、多分私が本当に真心込めて供養したとしても 「何を今更 ゴマすっているんだ?」と嫌がっているように思います。 仏様へのご祈祷でも 穂特様側から見れば 「はぁ?お前 普段 信心も何もしてないくせに”ご利益を下さい”なんて 図々しいにも程がある!」と思っていらっしゃっるのではないかと思い ご祈祷をためらってしまった事もあります。 やはり ご先祖様や仏様から見守って頂き またお願いなどを聞いてもらうには お坊さん方のように 欲を断ち切り善行を行うしか 他に方法は無いのでしょうか? 例え純粋な思いで供養しても ご先祖様から疎んじられ 純粋な気持ちでご祈祷をお願いしても 仏様に門前払いされてるような気がしてなりません。 やはり お坊さんのような修行をしないと 仏様はご利益を与えて下さらないし、両親や親戚縁者と 仲が悪かったら どんなに供養しても受け取ってもらえない…と思うと悲しくなります。
最近、坐禅に興味を持ったものです。 恥ずかしながら十年間引きこもりで、障害年金で暮らしています。 井上貫道師の著作を読み、坐禅に興味を持ち、その弟子筋にあたる方に電話面談を予約しようとしたのですが、自閉症ゆえ、極度の人見知りが発生して、キャンセルしてしまいました 只管打坐と言っても、ただ坐るのが難しく、参禅は必須と聞いております けれど、田舎住みなので近くに寺もなく、本当にハッキリした方につくのは難しそうです。 坐禅をしたい理由は、お釈迦さまの見た光景をこの目で見たいというものです。 けれども坐禅は諦めるしかないのでしょうか? この本があれば大丈夫、というのもないと思いますし、電話で気軽に坐禅を訂正してもらうというのも、忙しいお坊さんには無理ですよね… 長文失礼しました
こんにちは! 悩みでも何でもなくどうでもいい質問ですが、どうぞよろしくお願いします。 妄想ですが、お釈迦様が説法をしていた時にそこにいた誰かがすかしっ屁をし、あまりにも臭かったとします。そのときお釈迦様は、その臭いを観察するだけで無反応だと思いますか? また答えてくださったお坊さんは、どんな反応をなさいますか? 僕は家族がクッサイ屁をすると、キレそうになりながら違う部屋に行きます。なるべく怒りを生み出さないように心掛けていますが、まだまだですね...。
先日祖父の十三回忌がありました。お坊さんにお経をあげていただいている時に奇妙な景色が頭の中に流れてきました。 どこか分からない場所を、お遍路さんが持つような長杖を支えにして祖父が歩いていました。祖父の顔は遺影よりも若く、少し苦しそうでした。 死後の世界とは苦しいものなのでしょうか。それとも供養が足りないから祖父は苦しんでいるのでしょうか。ただの幻覚ならいいのですが状況が状況なので気になります。
はじめまして。仏像彫刻を習っているヨソと申します。 仏像に対して疑問があり、悶々とした日々です。①②③と質問を書きましたので、お答えいただけたら幸いです。 ①お釈迦さまは偶像崇拝と呪文(お経)を唱えることを良しとしなかったと見たことがあるのですが、それは本当でしょうか。 それが本当であれば、お釈迦さまの嫌がることを積極的にやってることを、どのように肯定してきたのでしょうか。 ②お釈迦さまは実在されていますが、多くの仏は、人々の願いや願望から生まれたという認識でいます。インドや中国や日本に伝わる過程で他の神様と混ざったり意味合いが変わったり、そうして生まれた仏をどういう気持ちで信仰したらいいのかがわからず、教えていただきたいです。今は丸ごと受け入れることに抵抗があります。 ③地元では高名な仏師(兼ご住職)に彫刻を習っていました。片付けの苦手な先生でしたが、ある時先生の作品展を開催するにあたり、ゴミの山の中から見つけて展示した作品に、来場者が手を合わせお布施をされていました。 仏は仏像ではなく祈る者の心に宿る言われますが、ショックを受けた場面でした。 仏像とはどういう存在だとお考えでしょうか? 浅識な上に不勉強なもので、見当違いなことばかり言っているかもしれませんが、このモヤモヤに自分の答えを見出したいと思っています。 どうか宜しくお願いします。
こん○○わ。初めまして。よろしくお願いします。 さいきんとある方から聴いたのですが、阿弥陀仏の48願というものがあるとききました。 今流行りのアイドルのような数字なので、気になり調べましたが、 センターの願いとでもいうべきでしょうか。 第18願を浄土宗の法然氏は一番大切と言ったそうですが、インド語の原文にはない部分で書き足された部分だという話をききました。 私も聞いた話なので、詳しいことは知りませんが、 このことが本当なら、これはどのように捉えれば良いのでしょうか?? お坊さんの皆様お願いいたします。
大学へ行くか専門学校に行くか進路に悩んでいます。 私は中学生の頃アルボムッレスマナサーラ長老の本を読んで仏教に興味を持ちました。 お坊さんになりたいわけではないですが、仏教学の学べる大学へ行って心のあり方、仏教の歴史を勉強したいです。 でももっと色々な本を自分で読むだけでも大学まで行かなくても勉強になるのかな?とも思います。大学は学費もかなりかかってくるのですごく悩みます。 それと専門学校と迷ってるわけは、親の仕事を継ぐのであれば専門学校へ行くことになるからです。きっと親は継いでほしいと思います。それが親孝行かなとも私は思います。 でもしたいって思わないし、その仕事をしてる私を想像しても楽しくなさそうです。 やっぱり仏教学の学べるの大学を調べれば調べるほどワクワクします。 親は専門学校に行ってくれると今も思ってると思います。大学に行きたいと言い出せないです。残念そうな顔を見るのがつらいです。 私は一人っ子なので継ぐなら私しかいません。 奨学金を借りてまで大学へ行って仏教を学んでもいいですか?
私は、今の苦しみから輪廻からの苦しみの解放をどうやったら出来るのか?私なりに調べてみました。 そしたら、福音書というものに、人の命、生き物の命を愛しみ世の中のためになる事をして生きていけば、死後は栄光の身体を与えられて幸せに満たされると書いてありました。 つまり、もう生まれ変わる事もなく苦しむ必要のない世界に召されると言うことです。 ここで、質問ですが、人はこういった価値を見出し世のために善行を働いたら死後はもう苦しみから解放されているのでしょうか? 現世でどんなに世の為になる事をしても幸せを心から感じることが出来なくなった人間でも死後は幸せいっぱいの世界に召される事はありますか? お坊さん的観点からのご意見お待ちしてます。
初めての質問で、ずっと考えていた、人に話したことの無い私の人生観の相談になります。 表題からまず、誤解せずに頂きたいのは、私は別に苦しいからつまらないから死にたいとは思ってません。 逆に、なぜ皆、自殺=悲劇、悪、禁忌という考えなのか理解出来ません。 私は自分の人生において、ある年齢に達した時に自ら死のうと決めております。 それは人生がつまらないだとか苦しいからだとかという理由ではなく、そこを自分の終着と決めたからです。 やり残したことや後悔などはきっとすると思いますが、それは生きている以上無くならないですし、無くしてはいけないものだとも思っているので、それも受け入れて自分に幕を引きたいと考えているのです。 その行為によって、自分が納得しているか否か関係なく周囲に必ず迷惑がその後にかかるということも承知してます。 それでも、人に気を使って私の自分で決めた終わり方をやめようとは思えません。 それゆえの、表題での根本的問いです。 本人が満足し、納得した自殺をなぜ悪く言うのですか? そもそも死が忌避される理由すらもわかりません。 世界の一つの理に対して人は勝手に忌避を覚えることに疑問です。 絶対に抗えない世界の理に対する意識とは『忌避』ではなく、どう捉え、受け入れるべきかなのではと考えています。 自然死を待つ、というのも考えてはいました。 幼い頃は長寿を望んでいましたが、なぜ長寿を望んでいたのかを考えた時、特に理由もないことに気がつきました。 で、あるならば、私はいつ死ぬべきなのか。 現時点で私は事故で死んでも、後悔、やり残しがありますが、それでも納得して死ねると思っています。 誤解されそうですが、死を美化して捉えているわけではありません。 自分自身で終着を決めることで日々生きているのだという実感を得ることが出来、そして自身で決めた終着にて、私という存在に幕引き、人生が完成を迎えるのだと思っているのです。 だから問いたい。 自殺への忌避と悪、そして逃避という捉え方は違うのではないかと。 仏教において、聞きかじりで申し訳ないですが、仏教は自殺が=で罪ではないということから、このような形で長年の疑問をご相談させて頂いております。 お坊さん方は、みなさん、自殺をどう捉え、そして生きているのでしょうか?
よろしくお願いします。 私は、介護に携わる仕事をしています。 偶然なのか…必然なのか…不思議な出来事がありました。 一昨日から昨年にかけ、一人の方が亡くなられてから…毎月一人亡くなっていました。それが一年くらい続きました。皆さんご高齢の方で、老衰であったり、体調を崩されたりとまざまざでしたが、その半数が私の夜勤の日に重なりました。人を看取る事はあまり経験がなく、初めは様々な感情がありました。けれど、死後の処置や死に化粧など、経験できない事をさせていただき、逆にいろんなことを考えさせて頂く事ができました。そして、看取らせて頂く事に対しても、最後に私を選んでくださったんだと有難く思いました。 そんな出来事は、たまたま起こったものだったのでしょうか…それとも何か意味があるのでしょうか…
犀の角のようにただ独り歩め。 という言葉が私はなんとなく好きですが、これって自分の我を通したり、孤独に生きろという意味ではないですよね? 最近、趣味のテニスでも仕事でも、周りと協力しないとうまくいかないとようやく感じるようになりました。我を通してるだけでは自分もうまくいかないし周りにも迷惑かけるのを体験してきました。犀の角のようにただ独り歩め。というのは一見周りを見ないで自分のやるべきことをやれというのを感じます。間違ってない気はするのですが、冷たい人、思いやりのない人、とっつきにくい人そういうイメージになりそうです。というか私が今、こうなってる気がします。 なぜこのような言葉をブッタはおっしゃったのでしょうか。
うまくいきません。 時間もあるので、心のストレッチの為に、 読書をして教養を高めたいと思いますが、 何か良い本があったら、教えて頂けると大変助かります。 よろしくお願いします
父親から過去に性的嫌がらせを受け 姉には現在進行形で虐待を受け 他の家族はみんな助けてくれない 結婚前提だった恋人は暴力団に騙され借金、破局 信じていた友人に裏切られ、無職 唯一の支えである男性との関係は年の差によりいい顔をされない 精神科に何年も通院しても治らない そんなあたしに生きる意味、ありますか。 ここは、救いの場だと、思っていました。 でもあたしが思う救いとは違うようですね。 あたしにはいつも回答が一件。 お礼をしたら回答受付中のアイコンなんて無意味。誰にも相手にされない。 他のみなさんには複数件。 それは、あたしの伝え方が下手だからだけでしょうか。 あたしは違う気がします。 みんなの注目が集まる質問ばかり回答がくる。 そこで、回答すればみんながそのお坊さんのことを知るきっかけになりますもんね。 今回もどうせ回答なんて一件だよね。 たくさんのお坊さんの意見なんて聞けないんだよね。だって注目されない質問だもの。 現実もネット上もダメ。 あたし死にたいです。 説教、苦情いりません。 毎日言われているので、これ以上傷付けないでください。 まだ生きる意味、ありますか。 あたしはなんでこんなにも人生が苦しいのでしょうか。 *先ほど同じ様な質問をしたのですが、画面が真っ白になり、質問できなかったようなので、再度質問をしました。重複していましたらすみません。
こんにちは、初めての利用です。よろしくお願いします。 お坊さんの皆様にお聞きしたいのは題名の通り、他人の愚痴を聞き続けることがつらいためどのように折り合いをつければ良いのか、またどのように振る舞えば良いのかということです。 もちろん私も多少の愚痴は言います。聞く方でも会話の中で多少出てくる程度であれば、慰めたり一緒に怒ったりすることができます。むしろ自分に心をさらけ出してくれたように感じ少し嬉しくもあります。 しかし、会話の内容があまりに愚痴や悪口、文句ばかりであると参ってしまいます。 愚痴を聞けば聞くほどに自分の心に澱みが溜まっていくような感覚です。あまりに聞かされ続けると自分が嫌な感情のゴミ箱にされているような気すらします。 そして、聞き始めた最初は同調できていても段々と受け止めきれなくなり、言っている本人を責めたくなってしまいます。実際に正論という名目で責めてしまっている気がします。 さらには責めるような事を言わせるくらいに愚痴を言いつづけた相手を恨めしくも思ってしまいます。 いま、この文章を書いていて自分の心の狭さが嫌になります。 過去に、愚痴を聞くのが嫌でとても仲の良かった友達と疎遠になってしまいました。 また仲良くしたいと思う一方で再び愚痴ばかりを聞かされるのかと思うと躊躇します。 また、最近は恋人も仕事の愚痴が増えてきました。本人もつらいだろうし聞いてあげることで少しでも気持ちが軽くなるのなら、と、聞いてあげたい気持ちはあるのですが聞いてるうちにうんざりして投げやりな返答をしてしまいます。 愚痴を聞かずに済むのであれば、正直なところ聞きたくありません。しかし生活をしていればどこかで不満を抱きそれを他人と共有したいという気持ちがわくのも良くわかります。 また、話している本人は心を預けてくれているからこそ、他人に言えない分を私に愚痴るのだとも思います。 それをぞんざいに扱うことでその心を砕いてしまう気がして申し訳ない反面、正面から受け止めるのはやはり辛いです。 他人の愚痴に対してどのように付き合えば良いのでしょうか。どう聞けば自分の心に澱みを溜めず相手の愚痴を聞けるのでしょうか。 お坊さんの皆様、どうかこの感情との付き合い方や相手への振る舞い方をどうか教えていただけませんでしょうか。
毎朝、ご先祖様へ感謝の気持ちをお伝えしたくお経を唱えています。 実家では祖父が毎朝般若心経をお唱えしているので、私も馴染みのある般若心経を唱えています。 そのときの心待ちについてお尋ねします。 YouTubeでお坊さんがお唱えする動画にあわせて行っているのですが、正直文字を追って口を動かしているだけでいっぱいいっぱいになってしまい、感謝の気持ちをこめることができません。こんな状態でも感謝のお気持ちはご先祖様に伝わるのでしょうか。 般若心経の内容について勉強したりしていますが、まだまだ暗記することができなくて。気持ちを込めたくてもお唱えでいっぱいいっぱいになってしまって、できない自分にちょっと悲しくなります。
もちろん悪意あるいじめや悪行はいけません、 しかし善意での行動、もしくは悪意なくとった行動が、他人に対して 肉体的、精神的に苦痛を与えることになった場合も、 己の罪となるのでしょうか 皮肉になってしまいますが、お坊さんの言葉でさえも、聞く人によっては 毒にも薬にもなりますし、その教えによって自殺する人も 生きようと思う人もいるとおもいます 善の行為によって、他人を苦しめてしまうとき、仏教の考えでは どう対処するのが良いのでしょうか
徳について質問です。 徳を積む方法を知りたくて、動画サイトで、ある経営者さんの徳を積むことについてのお考えを聞きました。 ご本人に直接伺うことができないので、お坊さん方のお考えを聞かせて頂きたいです。 その方は、周りの人が笑顔になるように行動すればいい、周りの人を不快にさせるような行動はダメというような事を仰っていました。 故意に人に不愉快な思いをさせるのが良くないのは わかりますが、わざとでない場合はどうなるのでしょうか? 私は外斜視で、手術を受けたものの矯正できるギリギリ限界まで筋肉を切除しても治りませんでした。 電車に乗っている時など、自分では正面を見ているつもりでも、気が付くと向かい側に座っている人から凄い顔で睨まれていたりして ⁇ となり、後になって「あ、斜視で知らない間に私の方から相手の人を凝視したと思われたんだ」とわかるのですが、知らない人に「私、斜視なんです。あなたを見てたわけじゃないんです」と言うのも変ですし。 でも、人を不快にさせたのは事実なわけですから、この場合 私の徳はどうなるのか知りたいです。 人前ではなるべく下を向くようにしていますが、時々忘れて このようなことになります。
昨日祖母が亡くなったと電話で聞きました。僕は10代の中学校なんですが、亡くなったと聞いてあまりにもショックでした。もちろん亡くなるなんて思っていませんでした。中学生で思春期で、冷たい態度をとってはいないのですが、祖母の家に帰省すると、祖母とは少しは会いたいという気持ちはあるけれど、お金ももらえるからという気持ちもありました。しかし、亡くなったときいて、なんで自分はこんなこと思ってたんだろうとなってしまいました。後悔の念があります。何もしてあげられなかったと思うので祖母にできることはありますか?また会えますか?亡くなったのを見つけてから、7日程たっていたので、お坊さんには四十九日は9/13といっていましたが、ぴったりでなくてもちゃんとした四十九日の法要をすることはできますか? あと宗教に入ってなかったら例えば浄土宗でしたら、南無阿弥陀仏と祖母にいえば入っていなくても、仏様やお釈迦様、阿弥陀仏様に伝わって、祖母は安心で快適な生活を送ることができますか? あとお盆に入りましたが、具体的にどのようなことをすればいいですか? 長文失礼しました。 どうか返答なさって頂けると幸いです。
一つの悩みが解決したら次の悩みが生まれます。一つの幸福を覚えたら次の幸福を求めます。どっちの方向性も永遠と続きます。過去も未来も同じであって全体のスパイラルが見渡せる所へ大衆を導ければ一気に全員が楽になります。しかし必然的に個々でその気付きに達しないと無理とも思ってます。いっそ自分の想念を強めて、見えてる現実世界を追従確定させる事ができれば、大勢の人が精神的に楽になるのかなと思ってます。「他人」の向こうに「自分」がいる事実だけでも、他人の精神に植え付ける事は悔い改めるべき考え方なんでしょうか? この文章含め、全ての意味や価値、疑念は個々の中に存在しそれが全てです。お坊さん風に言うなれば、 「無」とは頭の中でさえ唱えず、魂なる精神が先行したその瞬間です。 「煩悩」は無くすのでなく、その先にある自身の姿を捉え全ては手中にあると知れ わたしの幸福は他人の向こうにあります。逆も然りです。心構えの相談です。 宜しくお願い致します。