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hasunoha 問答検索結果 : 「お坊さん お経 」
検索結果: 1064件
2022/10/01

修証義について教えて下さい。

祖父の葬儀を境に改めて仏教を学び始めました。  宗派は、曹洞宗です。 お坊様が唱えて下さるお経を理解した上でご先祖様や祖父に手を合わせ今後、向き合いたいと強く感じたからです。また、現在の生活の中でお経について調べる事は、小さな安らぎを感じられる学びの場になっています。 現在の学び方ですが、hasunohaにてお経についての質問をブラッシュアップしたりしながら般若心経や修証義について調べています。 また修証義については、以下の現代語訳をみつつ内容を深めています。しかし、解釈や内容が正しいのか不安もあります。 https://www.zen-essay.com/entry/soujyo そもそも、現代語訳事態がダメでしょうか? 曹洞宗の教えが分かる書物があれば知りたいです。浅い状態ですが曹洞宗の教えに…悟ることすら手放す(悟りたい欲求を手放す)座禅スタイルが凄く衝撃的で素敵な考えでもっと色々と知りたいのです。 また、触れてみた状態な上での発言で恥ずかしいのですが…お経を調べると供養する相手よりも供養する側に対する生きる上での教えを説いている様に感じました。間違ってたらすみません。 余談ですが、普段、お世話になっているお坊様の爺様に法事後、お経について調べている事や内容を理解したいとの相談をしましたら笑顔で学んで来なさいと言って経本を頂きました。宿題を逆に出された気分で終わりましたので次の法事が違う意味で緊張します…。後、曹洞宗の本山は、身近な場所にあるので一度行ってみようと思っています。 ※質問して申し訳ないのですが現在、生活苦なので「お気持ち」は後々にさせて下さい。申し訳ありません。

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【お嬢様】あの…そろそろチクってもいいですか?

 いつもお世話になっております。もう、我慢の限界です。  道が一緒になりゃ固まられ、頭下げりゃガン飛ばされ、  知り合いにゃ私の悪口三昧。  地下回廊で道が一緒になって固まられた時は本当に鬼みたいな 顔で怖かったです。「どうぞ」と促したら頭下げて通って くれましたが。  ちょうど本尊とお嬢の間に私がいた時、それから、寒くて身体を 折った時にちょうど柱の陰からお飛び出してきて、ぶつかりそう だったので謝罪の意味も込めて笑顔で頭下げたら睨まれるし。  お経終わって皆さん帰って行く時、距離は置いているけど 直線上に私がいると睨んでくるし。  経卓や地下回廊の壁面に偶然ぶつかってしまい音を立てて しまった時など、2回も3回もチラチラ睨まれて!  親戚のおっさんに相談したら、「知らん奴が絡んでくるって 坊さんにチクれ。抑もそいつがなんの病気かもわからんだろ」 とのこと。ちなみに、どの事象もかなり時間が経っています。  「なんであたしなのよ…若くて目立つから?」 「そういうこと。お前だからお前なの!」と言われました。  お坊さん、修験行者の先生がたは、時にはからかって笑わせて くれたり、あちらから挨拶をしてくれます。  結構可愛がって貰っています。  ちなみに一番最近の事象は、地下回廊での硬直、 本尊前でのガン飛ばしです。  「こう言う人からこう言うことをされて驚いた。以来、私も ビクビクしながら参拝してます、どうしましょう」と報告しても 大丈夫でしょうか?  ご意見お待ちしています。

有り難し有り難し 39
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手を合わせるとき

昨年末に母を亡くしました。恥ずかしながらそれまで仏教とは無縁の家庭でしたが、親父の実家が浄土真宗大谷派だったということで浄土真宗のお坊さんにお経をあげていただき、葬儀、49日の法要とすませました。49日に合わせて小さいお内仏も設け、今は朝晩、手を合わせるのが日課です。 毎日手を合わせるなかで、今は「おはよう。今日もみんなを見守っててね。なんまいだぶ、なんまいだぶ・・・」とか「安らかに眠ってください。なんまいだぶ、なんまいだぶ・・・」みたいな感じで心の中で呟いているのですが、浄土真宗の考えでは亡くなったら仏様になって極楽浄土に行くとお聞きしましたので、わざわざ安らかになんて言わなくともすでに安らいで極楽浄土にいるのだから、言葉としておかしいのかなと素朴に思って質問させていただきました。本来は手を合わせてお参りするとき、どのような心構えでお参りしたらよいのでしょうか?それと母なので生前のように親しくタメ語で話しかけていますが、仏様になったのだから、タメ語では失礼なのでしょうか? また関連してもうひとつお聞きしたいのですが、自分の身内に限らず他人のお葬式などでお坊さんの読経に合わせて手を合わせることがありますが、お経の意味やその宗派やしいては仏教のことを知らない私のような一般人というのは、どのような心持ちで手を合わせるのがよいのでしょうか?何も考えずお経に耳を傾けているべきですか?「安らかにお眠りください」のように故人の冥福を祈るのですか?個人との思い出にひたるのがよいのでしょうか? 純粋に疑問がわきました。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 6
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お寺さん参りの作法と服装について

 いつもお世話になっております。  私は中学2年の頃に仏様とのご縁を意識しはじめ、就労支援や通院等のない日には頻繁に寺院にお参りしています。  しかし6年の歳月がたっていますが、いまだにマナーやルールといった法則がつかめません。    その中で私が気を付けている事として、 ・山門や殿堂に出入りする前は15~45度程度の一礼をする ・スカートやズボンは膝丈より長いものを履いていく ・堂内では足音を立てない。 ・参拝中の人の前を通る時には合掌しながら頭を下げて通る ・お堂から出たら数珠はカバン、もしくはケースにいれてポケットへ ・お坊さんとすれ違う時は会釈 ・御祈祷勤修中以外にお経はしない。    それと服装です。私はミリタリー系が好きなので、よく迷彩柄のジャケットやボトムスを着ます。お寺ではまずいですか?  説法会はリクルートではありませんがスーツスタイルです。  連休の時は行事がなくても連日お参りします。「若いのに珍しいね!」とよく言われるので、かなり目立っていると思います。  10代女子ですので…(笑)  なのでなおさら、スタッフさんやほかのお客様のご迷惑、ご不安の種にならないように振舞いたいのです(それが何らかの形で還ってきて肩身が狭くなるのが恐いという気持ちもある)。    長くなりましたが、  お寺に参拝する際に以上のこと以外に気を付けるべきこと、適切、不適切な服装を教えていただければと存じます。  よろしくご教授のほど御願い申し上げます。

有り難し有り難し 11
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諸行無常について教えてくださいませ。

いつもお世話になっております。 私の母方の祖父、伯父は菩提寺の総代を務めさせて頂いておりました。 私が小学校中学年の時に、祖父が亡くなりました。祖父が親しくおつきあいさせて頂いていた先代のご住職様は既に亡くなっていらっしゃいました。次の代のご住職はご本山からやって来た地域にまだそんなに根差しておられない方でした。 祖父の葬儀の時に、その新しいご住職は手を合わせてはいるのですが、カセットテープのボタンを押し、お経のテープを流したのです。 その場にいた大人達は驚き、小声で「テープだ。」と囁いていました。親族は怒っていました。私も子どもながらに「お坊さんなのに何でお経を読まないの?」と不思議でした。 法話もありませんでした。 祖父は生前、先代のご住職とは親しくてご住職を交えて祖父の家で一緒に食卓を囲んだりしておりました。古い木造のお寺なのでもし何かあった時にと山から木を切り出してきてすぐに使える状態にしておいたり、祖父は総代という事もあり、何かと菩提寺の為に肉体労働で尽くしておりました。祖母もご飯を作る時には「典座しなくちゃ」等とお坊様の言葉を真似ているほどでした。 祖父はご本山から感謝状を頂きました。 そして祖父が亡くなった時にはテープのお経でした。私は今までずっと喉につかえた小骨のように、その事が気になっておりました。 先代のお坊様と家族で食べた楽しい食卓の思いでがテープのお経のせいで黒く塗りつぶされてしまった様な気がしていたのです。 でも最近、諸行無常なのかな。と思うようになりました。 私の諸行無常の理解は間違っていますか? 教えてくださいませ。

有り難し有り難し 8
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いつかその日が来た時に

いつもこちらではお世話になっております。 沢山の教えの中に日々気づきを頂いております。 ありがとうございます。 今日相談させていただきたいのは、檀家というお寺との関わりに関してです。 以前にも相談したことがあるのですが、私には歳の近い親戚が突然死したこともあり、不安症なところがあり、発作的に「家族の死」を考えて落ち込みます。 ですが、従姉妹の死が「その時が来たら、自分が見送られる側じゃなくて、見送る側だったことを見つめるんだよ」「あなたがこっちにきたら私も、祖父母も、みんないるから、会えるから寂しくないからね」と、教えてくれているようで、時間を要しながらも、今目の前にいる家族を大事にしよう。と、顔を上げることが出来ています。 そして、いつも思うのが、 わたしには今恋人も、自分の家族もいないので、いつか一人になった時に、誰にもこの悲しみを言えずに悲しみから抜け出せずに潰れていくのではないかということにも不安の要素があるのだと気付きました。 そこで思ったのが、 自分が日頃から関わっているお寺があれば、日頃からもっと仏教に触れることはもちろんですし、葬儀でお経をあげていただくことになっても、知っているお寺の方でしたら気持ちが落ち着きますし、法名の相談もできるかもしれません。 何より一人で辛い時には説法を聞きに行けたりして、孤独ではない、自分が生きているのは今であるということを感じる時間を持つことができるのではないかと思いました。 ですが、我が家は既に地域の納骨堂を用意しており、お墓のことを含めて檀家にというのは難しく思います。 更にお寺によるかと思いますが、お金もだいぶ掛かると聞きます(収入はそんなに高くないので) この場合、檀家になったり、馴染みのお寺を見つけることは難しいことなのでしょうか。 もちろん一番大事なのは場所ではなく、気持ちだというのはわかっているのですが、未熟者ゆえ、このように考えてしまいます。

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お墓と宗派について

母が他界しお墓を探しています。 私が未婚ですので、両親と私で3人入れる永代供養のお墓を数ヶ所見学しました。 家から無理なく通える環境の良い霊園がありましたが、曹洞宗のお寺が管理してくださっている霊園です。 父は日蓮宗てす。 その霊園は宗派問わずに受け入れ可能で、法要の際は信仰のある宗派のお坊さんを呼んでも良く、また霊園で契約している日蓮宗のお坊さんにお願いすることも出来ます。 私が生きている間は日蓮宗で法要が出来ますが、私が亡くなったら曹洞宗のお坊さんの年に一度の合同法要のみになってしまいます。 生前の母と私の考えは、特に宗派関係無く、お経を唱えてくだされば、それだけで有難い気持ですが、父のことを考えると契約に踏みきれません。 また、日蓮宗でずっと法要をしているのに、最後は違う宗派のお経の供養を受ける事は、問題ないことなのでしょうか? 自宅から近い日蓮宗のお寺にある永代供養墓も見学したのですが、周りに何も無く殺風景で寂しく感じてしまい、母を先に納骨するのに後ろ髪を引かれる思いになってしまいました。 父の意見は、霊園の方が母らしいし、自分も寂しいのはイヤだ。ここで良いとは言ってくれましたが、本心は日蓮宗のお寺が良いのに、私達のことを想って無理してるのでは...とも考えてしまいます。 このような場合、もう一度最初からお墓探しを考えた方が良いのか、父が良いと言ってくれているのだから、問題無いのかご意見いただきたく、質問させていただきました。 よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 28
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「心を込めた行動」とは?

最近、知人と議論しているのですが、結論が出ませんのでご意見お願いします。 毎朝のお勤めとして、「仏壇にご飯・お茶・お経をあげています。 それは母の代わりであり、ご先祖様への感謝とかの心を込めての行動ではなく、義務的なことです。 知人いわく、 「心が入っていない義務的な行動ならば、悪縁を結ぶことになり、やらない方が良い」と言います。 何かの法話で、 「多くの寄付もしているし、これだけ信心深い私には、どれだけのご利益があるのか?」と質問した人に対して、お坊さんは「無い」と応えた。 と聞いたことがあります。 私としては、その法話も納得だし、義務的なお勤めに何かのご利益とか功徳とかを期待もしていないし、望んでもいません。 ただ単に、「母がやりたいけど出来ずにいるストレス」を軽減するためだけです。「今日もちゃんと仏壇にお供えしたよ」って言うためだけの行動です。 しかし、利益・功徳などのプラス効果は期待していませんが、「悪縁を結ぶ」「罰が当たる」などのマイナス効果になるとまで言われると、気になります。 理想的なのは、「心を込めた行動」でしょうが、「行動しない」よりは、「心が入っていない行動」が良いと思うのは、間違いなのでしょうか?

有り難し有り難し 31
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法華経譬喩品第三の善人と悪人

浄土宗の勤行をしています。 法華経は すべての人が成仏するとあるのに なぜ 説く相手を 悪人には説いてはいけない 善人に説きなさい としているのか と思いました。 法華経は 一切成仏を説く経だから 誰でも差別なく悪人も善人も救われると 説かれているのかと思っていたのに と 愕然としたことがあります。 そのうえ 法華経を謗ったり 捨てたりすると 口や体が 臭くなったり 病気になったり 障害をもつことになったり と 書かれているし そういう人を救わなくては 仏国土にならないと 阿弥陀様の救いに 法然さんは 道を見いだしたのか と 思いました。 日蓮聖人が 法華経にそって 法然さんを 悪僧としたのは 残念です。 他のお坊さんたちも 目の前の人を救いながら 日本を仏国土にしようと 布教されていたのに 題目も 念仏も 一緒だ という人は 嘘だと 思います。 悪い人でなく 善い人の項目の人になるようにするたって 難しいし そうでない人のほうが 多いし 難しいから 念仏して救われる道を歩めるようにしなさい ということかな と 思いました。 また そうならないように そこからでれるように 題目を唱え 救われる道をいきなさい とも いえるのか とも 思いました。 また 行ったり来たり です。 とにかく がんばります

有り難し有り難し 17
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2023/12/26

阿弥陀如来の存在を確信できません

浄土真宗の方におうかがいいたします。 私は浄土真宗某派の門徒で、すでに法名もいただいております。 代々の門徒の家に生まれ、お経と言えば正信偈でした。 しかしながら、阿弥陀如来の存在を確信することができません。 人間を超えた大いなる存在があり、それによって生かされているということはしばしば実感し、そうしたときは感謝の念が自ずとわいてきます。 しかし、それが阿弥陀如来だ、と言い切れるかというとそうは言えないのです。 必ずしも阿弥陀如来でなくてもいいのではないか、という気がします。 大いなる存在は感じることができても、「法蔵菩薩であられたとき・・・」「四十八願を立てられ・・・」「西方浄土におはします・・・」と物語が始まった途端に、あまりの非現実さに白けてしまうのです。 現在の文献学の認識では、浄土三部経はゴータマ・シッダッタ様が直接に語ったものではないというのが、定説だと思います。 キリスト教がキリスト教たり得るのは、預言者イエス・キリストに近侍し、その言動と奇瑞に直接に心を揺るがされた弟子たちの福音書があるからだ、と考えます。 阿弥陀如来は、誰が、どのようにして見出されたのでしょうか。 別の言い方をすれば、浄土三部経は、誰が、どのように阿弥陀如来の存在を感得して、編まれたのでしょうか。 誠に不躾な質問で恐縮ですが、私にとっては根源的な問題なのです。

有り難し有り難し 6
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