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hasunoha 問答検索結果 : 「 煩悩 」
検索結果: 3775件

善悪とは、どう生きれば?

世の中は陰陽の関係で構成されていますよね? そこで、わたしが葛藤しているのは、善悪や幸不幸などが見る立場や目線を変えて考えると、善悪や幸不幸がコロコロ変わるという事。 例えば戦争、「武器を作る商人にとって戦争は生きていくために必要なので善」しかし「家族を無意味に殺された人達からしたら悪」このように考えるその人の主張、属しているグループ、見る立場や見る視点、価値観、人それぞれによって善悪がコロコロ変わる、それぞれの善悪の主張が目線を変えるとその立場では正しくなるんですよね。 私はみんなが共通で善だと思う世界にしたいんですよ。 でも世の中、育った環境も価値観、思想、知識も違う、千差万別、陰陽の関係で出来ているので私が人を幸せにすると、間接てきに不幸になる人も出る、もう無理じゃんと、これが、壁として出てくるんですよね。これが一つ。 二つ目が、自分を含めこの世全員の幸せと世界平和が叶って欲しい。でも人間欲がある、財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲などなど、これらがある限り世界平和は夢物語。 ならば自分の欲に忠実に生きた方が楽だし、楽しいだろうなと、自己中に生きた方が良いのではと、自暴自棄になっています。 でも、私としては来世の為にも徳分は減るような行為はしたくない、十善戒は守りたいし、経典の思想に則って生きたい。 でも、どうせ現世でみんなが幸せになるのが無理なら、俺も周りの人みたいに自己中になって現世は自分の欲を満たして過ごすかな!という欲 vs 経典に書いてあるような思想にそぐわない、徳分を損なうような事はするな、という構図になるんですよね。 我欲 vs 仏教的思想 心vs脳 これが二つ目。 長くなりましたが、利他の精神で皆んなの幸せを祈る→しかし幸せは人それぞれ、間接的に不幸を祈る事にもなる→仏教思想に矛盾が起きる→アホらしくなる→自己中になる→仏教思想に反するし、来世がろくなことにならない、となる→訳が分からなくなる。これが現状です。 私なりに考えて、利他の精神から起こった純粋な欲かどうかで、自分の欲も他人の欲も、仏教的にも矛盾せず善悪、幸不幸を決めれるのかな?と思いました、又、皆が皆幸せになれなくても、報われなくとも、努力する心が一番大事なのかなと思ったのですがどうなのでしょう。 読んだ感想でも構いません、回答お待ちしています。

有り難し有り難し 25
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男にとって出産は点?

男にとって出産は点なのでしょうか? 女にとって出産は線です。 その前もその後もずっと続いているのです。 私は子供を生まないと決めており、何でそうなったかは過去の質問やプロフィールの内容からわかって頂けると思いますが、最近夫が「今時出産で死ぬなんて数パーセント程度、交通事故で死ぬ確率の方が高い。ビビりすぎ」等と言うようなりました。 確かに医療の発達により出産時の死亡率は低くなっています。 しかしそういう問題ではないのです。 十月十日も身重でからだの自由もきかず、つわりやホルモンバランス等で苦しみ、仕事のキャリアも諦めねばならず、生むときには長時間にわたり激痛、しかも場合によっては帝王切開になったり陰部を麻酔なしでハサミでジョキジョキ切られる。 出産は全身にダメージがいくため一ヶ月は安静にしなければならないのに数時間おきに授乳で起きねばならず、寝ることすらままならない。 ホルモンバランスは更に狂い人によっては自殺。 仕事に復帰するもキャリアの挽回は容易ではなく、共働きでも育児は殆ど女がするはめになる。 女にとって子孫を残すというのは、自分の人生を犠牲にする事なのです。 セックスで気持ちよくなって、あとはいつも通りの仕事等の生活を送れる男とはわけが違うのです。 出産したらはい終わり、点ではない。 続いている、線なのです。 この事を夫に言っても「考えすぎ、うつ病じゃない?子育ては楽しいことだし、新しい命が生まれるって素晴らしいことだよ。楽しんで子育てしてる人に失礼じゃないかな」と言われてしまいました。 こんな残酷な発言あるでしょうか。 ここまで説明されておきながら。 子育ては楽しい? 新しい命が生まれることは素晴らしい? それは理想論ではないでしょうか。 ある意味他人事なのではないでしょうか。 当事者達がどれ程苦しんでいるか。 もう夫が同じ人間だと思えなくなりました。 何で結婚してしまったのだろう。 何でもっと早い段階で気が付けなかったのだろう。 結婚を決めた時の自分を止めにいきたい。 そもそも結婚するべきではなかった。 愚かすぎる自分の決断を、今さら悔やんだって遅いのに。 後悔ばかりで胸が苦しいです。 前向きになれる言葉をいただけないでしょうか。

有り難し有り難し 62
回答数回答 3

集団心理と対立し続ける自分

今まで経験してきた集団心理の恐ろしさと、それに気が付く人がほとんど見受けられないことに絶望して、人を信じることも心を開くこともできない状態にあります。 私は読書や歴史的資料を見るのが好きなのですが、それらによって表面的には分からない個々人のことを深く知って、他者に対する理解力や様々な視点を学び、また共感することも多いのですが、集団になるとその場の雰囲気に流されて個人として考えることを途端にやめてしまうあの集団心理だけは納得できません。というのも、私は集団の中には入れないタイプの人間だからです。人間社会に対して、正しく疑いを持たなければ危ないと感じることが多いのです。 けれど、集団と私の差はますます広がり、恨みや憎しみも生まれました。今は、この気持ちが強すぎて他者に対して強い恐怖心と憎悪に苛まれています。その根本は、過去の瞬間瞬間に「自分が上手く対応できなかった後悔の念や自己嫌悪」が正体のようですが、それも含めて人間を憎まない日はありません。どうすれば、この気持ちから自由になれるのでしょうか。お坊さんが心から納得している方法や考え方、経験などあれば教えてください。

有り難し有り難し 36
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どこまでが直すべき自我なのか

以前から様々な方の悩み相談を拝見しており、参考にさせて頂いております、ありがとうございます。 はじめての質問をさせて頂きます。私はある大切な人との出会いをきっかけに、仏縁が出来、無神論者で虚無主義者だったところを、かなり改善することができました。 もともと私は自分勝手な人間でした。正義感はあったのですが我が強いために、独裁者に立ち向かうなどの良い行いに活かせたことも稀にあったのですが、それ以外のほとんどの面ではただの我儘な人間でした。さらに中途半端に哲学などの知識をつけてしまったせいで、反出生主義などの極端な思想に走り、その思想を家族にぶつけて困らせてしまったことも何度もありました。 好きなものへの執着心もひどかったです。自分だけがその存在を知り愛していればよいと思う一方で、それを好きにならない人間は悪趣味だとも思っていました。 つまり、私は(一般的に見て)悪人というほどではなかったものの、自分が好きな食べ物ほど他人に食べてほしいと思えるような成熟した人間では決してなかったのです。 しかし、仏教を学び始め、苦しみはまさにそのような自身のエゴが作り出していることを痛感しました。与えられるのを待つより与えるほうがずっと幸せになるということもよくわかりました。 問題は、そのことが分かった上で、仏教が理想的とする人物像に達するために、日常をどのように生きればよいのかわからなくなってしまったということです。 仏教を知らない人でもわかるような善行ならできます。でも、心の状態まで管理するとなると、例えば私は劣等感を克服して自分の容姿を肯定的に捉えられるようになり、それを活かすためにメイクするのが好きなのですが、このことはエゴへの執着となってしまうのですか?可愛い服を着た自分を可愛いと感じて自信をつけることは? 食べ物1つとっても、心が沈んでいるのをなんとかするために、好きなものを食べようとするのはいけないことなのか?と考えてしまいます。 作品はどんなものを観ればよいのか?私は児童文学が好きなのでまだいいと思うのですが、教訓のない物語を読むのは心に良くないからだめなのですか? 無学な私にどうか智慧をお授けください。お願いいたします。

有り難し有り難し 24
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女なのか、男なのか。

女なのか、男なのか、はたまた別の生き物なのか。 僕は女として生まれました。 幼い頃は女であることに疑問はありませんでした。 (と云うか、女とも男とも思ってなかったのかも?) 周りの女の子たちに生理がはじまり、胸の膨らみがあらわれるようになった頃です。 僕は僕に疑問を持つようになりました。 僕は女じゃない。 でも、男でもない。 定まらない性が、今も僕を苦しめます。 スカートもいつしか嫌いになっていました。 心の中で男っぽい服装の時は男装と言い、女っぽい服装の時は女装と言っていました。 女で生まれた以上、それを捨てることはできません。 胸も膨らんでいれば、生理もあります。 それがとてつもなく辛い。 胸を切り落とし、腹を切り裂いてやりたい。そう思うこともあります。 これが生きているのが辛い理由でもあります。 両親にはほぼ何でも話すので、このことも知っています。 一人称はその時によって違います。どれもしっくりしません。 僕、私、ウチ、おいら、自分、俺、色々ですが、まだ僕がマシなので今回は僕にしました。 一人称を定めたいという訳ではないです。 男とか女とか別にして、一人の人間として生きればいいというのは分かっています。 でも、この体でいるのが辛いのです。 何かアドバイスを頂けると嬉しいです。

有り難し有り難し 46
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死にたいです。

死にたい、消えたい、今まで何度もそう思った瞬間はありました。 でも、そんな勇気はないし、そんな勇気があるなら今を頑張ろうと思ってきました。 3年前に弟を交通事故で亡くしたのですが、その時に、離婚して女で1つで育ててくれた母親の悲しんでいる姿を見た時、これからは私しかいない!母を守らなくては!と、心に決めて生きてきました。 なのに、今、心が折れそうです。 今抱えている問題が大きすぎて、自分の力では解決出来ない問題で、頼れる人もいなく、いつ解決するかもわからず、どうしたらいいのかわからなくなってしまいました。 母親は鬱病を抱えていて、頼る事はできません。 恋人は、問題の渦中にいるのですが、彼から愛や安心感を感じる事が出来ません。でも、別れる事も出来ません。 本当なら1番甘えたり、頼ったりしたい人に、それが出来ません。 特別なんか求めてない。 普通になんの不安もなく、安心して暮らしたいだけなんです。 年齢的にもこのままじゃ子供も産めないで終わってしまうかもしれない。 不安しかありません。 毎日何かにビクビクしながら生きています。 ホッと出来る場所がありません。 問題を解決する術も見つかりません。 今、心が折れそうです。 愛されたい。誰かに必要とされたい。 安心して暮らしたい。 特別なんか求めてない。 それだけなのに。 死にたい、しか思えなくなってしまった今日、こちらを知りました。 思わず質問させてもらいました。 生きる意味とはなんなのでしょう? 死にたいと思う事は悪でしょうか?

有り難し有り難し 85
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悟りが得られないです

執着も捨てましたし、友人も恋人も物も殆ど捨てました。 生きていて色んなことを学んでもこちらで質問しても納得する回答は得られず日々悶々としています。 まず命への執着を手放す以外に残るものは今ありません。 しかし苦しみは消えません。 嫌な毎日です、それすら執着を手放しても苦しいままです。 1秒を我慢し続ければ耐えられると此方のサイトで言われましたが耐え続ける人生に何の安寧があるのでしょうか。 嫌な事も受け入れて、執着を捨て、全てを捨てて、あとは自分で死ぬだけです。 その死なない間にも嫌な事が沢山あります。 こんなに受け入れて、何も動じず、ただあるがままの苦しみを受け入れてるのにまだ苦しいです。もはや悟りなんてないのでは??? 例えるなら親を目の前で殺されて、まっいっかというレベルで執着を捨てていても苦しいままです。 誰か助けてほしいです。 悟りなんてないんじゃない? 私は科学ガチ勢だけど、死んだら解脱とかも無理じゃない? ただただ生まれつき運が悪いか、良いかの違いなんじゃない。 知的な障がいが脳にあればそもそも解脱する事は不可能です、それと同じで生まれつきの知能が低ければ高度な思考すらできません。 世の中運が良ければこの世界に満足して死ぬわけです。 つまり解脱も悟りもなくて、この世界で運が悪かった人が負け惜しみでそういう概念を思いついただけじゃね? ああ人生って意味不明すぎる。 このまま色んな人に説教されるか、曖昧な表現で反論されてこのまま人生続いていくんだろうな。。そしてその曖昧な表現の人たちもそのまま何の答えも得られず死んでいくんだろうな。

有り難し有り難し 93
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色々つらいです

姉弟で差がある家庭で、姉だ・女だと事ある毎に理不尽で我慢し、甘えられず頼れず、羨んで憎んでヤケクソな強がりでその場を強く切り抜けましたが、更に憎たらしく思われた日々。 時は過ぎ結婚・出産し、相変わらず差別や罵倒はあったものの初孫はとても可愛がり愛情を見せ、子育てで助けてもらう内に、親に対するマイナスな気持ちも薄らぎ感謝し、私も親の苦労が理解出来る立場になった事でお互い穏やかになりつつあったのですが…親は突然倒れました、救命措置で命は助かったが脳挫傷で意識不明・寝たきり、気管切開で喋れず・食べられずです。そこからは少しは意識はあったけれど病院の診立ては違いリハビリは出来ず、本人も私達も辛い入院が続き、何とか復活を願ったのですが自分たち素人に出来る事は少なく、お見舞いで明るく振る舞ってマッサージや手を握り励ますくらいしかできないのが歯痒くて、とても辛く悲しくてショックで心が変になりました。そして寝たきりのままどんどん悪くなり一年後に亡くなりました。 辛い。残酷だ。恩返しも感謝もこれからだったのに、1人親なのに、孫ともお互い唯一の存在でとても仲良くて子供の心の支えでもあったのに、どうしてこんな酷さで持っていない所から奪っていくの?と受け入れられないで居ましたが 主人は、それは神様が決める事、そして皆んなに訪れる事だから天命だから受け入れよう、と言います。受け入れることは諦めることとどう違うのかわかりません。教えてください。 そして将来がとても不安になりました、親の死の後にもお金が動き手続きで忙しくて、親戚やきょうだいが居る事で助けになったのに、一人っ子で親戚の無い我が子の将来が心配でたまりません。不安と心配と後悔と悲しみで気が狂いそうになる時があります。救いの言葉をください。 それど死んだ後は各宗派によっても違うし、浄土やら魂やら輪廻やら何が本当ですか?ずっと見守っているのですか?生まれ変わるのですか?死後のことはわからないはナシでお言葉をください。よろしくお願いいたします。長文失礼しました。

有り難し有り難し 20
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死ぬことが頭から離れない

私は完璧主義者です。でも何事も完璧にやりきれるだけの能力はありません。 完璧な秩序のある生活や思ったことを完璧なやりきることへの執着心がとても強い人間です。だから一度のつまづきで全てを放棄したくなります。 ただ、現実に社会は混沌としています。それだけでなく、身の回りのことや仕事に完璧な秩序を保つことの能力が私には欠如しています。そのギャップにとても苦しめられています。自分で作ったルールを遵守できないこと、予想外のアクシデントで自分の計画が狂うこと、このようなことが本当に本当に苦痛です。 こんな混とんとした世界で生きることが果たして幸せなのか。娘や家族への情だってもちろんありますが、それを感じる主体がいなくなればすくなくとも私の気にすることではなくなります。おまけに私は利己的な人間です。考える私がいなくなればそれで残された人への想いも断ち切れます。 死んだら思考する私はいなくなります。苦痛を感じる器官もなくなります。それだけでこの世界を離脱することが大きな救いになると感じるのです。 死ぬことは怖いです。でもなぜ死んではいけないのか、よくわかりません。残された人は悲しむかもしれませんが、死んだ私にはそんなこと関係ないとも思うのです。 生きるか死ぬか、そのことが頭をぐるぐるしています。死んではいけないような気もしますが、とにかく死にたさが頭を覆って、でもそんな勇気はなくて、生きることに手がつきません。 死ぬことは果たして救済なのでしょうか。死後の世界については信じることはできません。それにこんな相談をするくらいですので生きたいという気持ちもないわけではないと思うのですが、この先もっと大きな挫折を味わった時、そのような自分を許すこともできないと思うのです。 この場でこんなことを質問していいかもわかりません。ただ、なんとか生きやすく生きていける方策があれば楽になれるとも思うのです。死と生について私なんかよりも深く考えておられるお坊さまに何か知恵をお借りできないかと考えています。 まとまらない文章で申し訳ありません。何卒よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 87
回答数回答 4