今まで経験してきた集団心理の恐ろしさと、それに気が付く人がほとんど見受けられないことに絶望して、人を信じることも心を開くこともできない状態にあります。 私は読書や歴史的資料を見るのが好きなのですが、それらによって表面的には分からない個々人のことを深く知って、他者に対する理解力や様々な視点を学び、また共感することも多いのですが、集団になるとその場の雰囲気に流されて個人として考えることを途端にやめてしまうあの集団心理だけは納得できません。というのも、私は集団の中には入れないタイプの人間だからです。人間社会に対して、正しく疑いを持たなければ危ないと感じることが多いのです。 けれど、集団と私の差はますます広がり、恨みや憎しみも生まれました。今は、この気持ちが強すぎて他者に対して強い恐怖心と憎悪に苛まれています。その根本は、過去の瞬間瞬間に「自分が上手く対応できなかった後悔の念や自己嫌悪」が正体のようですが、それも含めて人間を憎まない日はありません。どうすれば、この気持ちから自由になれるのでしょうか。お坊さんが心から納得している方法や考え方、経験などあれば教えてください。
怒鳴られたり、理不尽な怒りをぶつけられたときの対処法についてアドバイスをいただきたいです。 誠実なアドバイスは喜んで吸収するのですが、度々関係ない人格否定の言葉を投げられることがあります。 「お前は何をやってもダメだ!」 「親の育てが悪かったんだな」 「人間のクズ」…などなど。 私がミスしたのは私が悪いですが、何もそこまで…と思うぐらい、人格否定までしてくる人によく出会います。 ここまで怒鳴られて威嚇されると、私は怖くて意見が言えなくなります。ここで対抗したら後から怖い間に合うんじゃないか?とか1人怯えてしまいます。 共感してくれる友達や家族はいます。 ですけど、お互い傷を舐め合うような状態で前に進んでいないので、このままでは終わりがないなと思いこちらに相談いたしました。 この人たちはなぜわざわざ敵を増やすような発言をするのでしょうか? こういう人たちに対してはどういう対応を取れば良いんでしょうか? アドバイスお願いいたします。
年末年始の風物詩とも言える「除夜の鐘」の騒音苦情の対応に中止されるお寺が増えている事について 苦情を申し出る理由はそれぞれであろうかと思います。 「明日は仕事だから寝れない」 「赤ん坊が寝起きで泣く」 「宗教上の理由で鐘の音を聞くのが嫌だ」 などなど‥‥ ただ個人的な思いですが、年に1度厳かに新年を迎える行事を楽しみにしている方が大多数かと思います。年に1度だけでも苦情の方は少しあいだ忍んで頂けないものなのかな~‥と思います。 正直、除夜の鐘までにクレームが出る世の中に「どうした日本」って感じで衝撃と悲しい感じです。 苦情を受けたお寺さんにもご苦労をお察し申し上げる次第です。 そこでお坊様方々に二つお尋ねします。 一つ、もしこの様な苦情を受けた場合にどの様な対応をされますか? 二つ、楽しみしている多数派より少数派(マイノリティー)を優先しなければならない現状をどう考えますか? お答え頂ければ幸いです <(_ _)>
前回のお返事もしていないうちから、質問を立ててすみません。 実はずーっと疑問に思っていたことがあって、上手く説明出来るか自信が無いのですが、もしもご存知でしたら教えてください。 あと、バカバカしいって思われると思います。 私もバカバカしいなと思いつつも、楽しみにしているんです。 私は、死んだら光になって、光の速度で他の光の形を観察したり、宇宙に行って、何億光年も先に存在している星々を観察したいなぁと思っています。 宇宙飛行士や衛星では行けない、宇宙の果てがどうなっているのかとかを自分の目で確かめてみたいと思っているんです。(死んじゃってるんですけど・・・) 死後の楽しみってやつですね。 肉体が滅んで、死後の世界でどんな姿を持ち、どういうものかはもちろん分かりませんが、今生きてるこの瞬間よりかは可能な夢に近づくんじゃないかなーと思っているんです。 仏教の輪廻転生の中に光はあるんでしょうか。 誰かの愛猫にもなってみたいし、光にもなってみたい。 来世に楽しみを持ちすぎだなと苦笑してしまうんですが、どうなんだろうと疑問を持ちました。 よろしくお願いします。
以前から様々な方の悩み相談を拝見しており、参考にさせて頂いております、ありがとうございます。 はじめての質問をさせて頂きます。私はある大切な人との出会いをきっかけに、仏縁が出来、無神論者で虚無主義者だったところを、かなり改善することができました。 もともと私は自分勝手な人間でした。正義感はあったのですが我が強いために、独裁者に立ち向かうなどの良い行いに活かせたことも稀にあったのですが、それ以外のほとんどの面ではただの我儘な人間でした。さらに中途半端に哲学などの知識をつけてしまったせいで、反出生主義などの極端な思想に走り、その思想を家族にぶつけて困らせてしまったことも何度もありました。 好きなものへの執着心もひどかったです。自分だけがその存在を知り愛していればよいと思う一方で、それを好きにならない人間は悪趣味だとも思っていました。 つまり、私は(一般的に見て)悪人というほどではなかったものの、自分が好きな食べ物ほど他人に食べてほしいと思えるような成熟した人間では決してなかったのです。 しかし、仏教を学び始め、苦しみはまさにそのような自身のエゴが作り出していることを痛感しました。与えられるのを待つより与えるほうがずっと幸せになるということもよくわかりました。 問題は、そのことが分かった上で、仏教が理想的とする人物像に達するために、日常をどのように生きればよいのかわからなくなってしまったということです。 仏教を知らない人でもわかるような善行ならできます。でも、心の状態まで管理するとなると、例えば私は劣等感を克服して自分の容姿を肯定的に捉えられるようになり、それを活かすためにメイクするのが好きなのですが、このことはエゴへの執着となってしまうのですか?可愛い服を着た自分を可愛いと感じて自信をつけることは? 食べ物1つとっても、心が沈んでいるのをなんとかするために、好きなものを食べようとするのはいけないことなのか?と考えてしまいます。 作品はどんなものを観ればよいのか?私は児童文学が好きなのでまだいいと思うのですが、教訓のない物語を読むのは心に良くないからだめなのですか? 無学な私にどうか智慧をお授けください。お願いいたします。
私は浄土真宗の教えに触れて前よりも煩悶せず心静かに過ごせているように思います。 そんな中で気になったのですが、浄土門の各宗派において、浄土で阿弥陀様のお導きで悟りを得させていただくのはこの先の何度も何度も続く輪廻転生の先のいつか、という理解になるのでしょうか? 今生だけでも長く苦しむこともある遠い道のりとはいえそれでもいつかは悟りを得させていただく身と考えて子供の頃の悩みや恐怖、不安が大人になってからはそんなこと気にしなくてよかったと思えるようになったみたいに今のこの身に起こる煩悶も少し離れて見られるような気がします。 何度も生まれ変わるとして、その時にも仏縁に導かれたいものです。
女なのか、男なのか、はたまた別の生き物なのか。 僕は女として生まれました。 幼い頃は女であることに疑問はありませんでした。 (と云うか、女とも男とも思ってなかったのかも?) 周りの女の子たちに生理がはじまり、胸の膨らみがあらわれるようになった頃です。 僕は僕に疑問を持つようになりました。 僕は女じゃない。 でも、男でもない。 定まらない性が、今も僕を苦しめます。 スカートもいつしか嫌いになっていました。 心の中で男っぽい服装の時は男装と言い、女っぽい服装の時は女装と言っていました。 女で生まれた以上、それを捨てることはできません。 胸も膨らんでいれば、生理もあります。 それがとてつもなく辛い。 胸を切り落とし、腹を切り裂いてやりたい。そう思うこともあります。 これが生きているのが辛い理由でもあります。 両親にはほぼ何でも話すので、このことも知っています。 一人称はその時によって違います。どれもしっくりしません。 僕、私、ウチ、おいら、自分、俺、色々ですが、まだ僕がマシなので今回は僕にしました。 一人称を定めたいという訳ではないです。 男とか女とか別にして、一人の人間として生きればいいというのは分かっています。 でも、この体でいるのが辛いのです。 何かアドバイスを頂けると嬉しいです。
私は強迫性障害と呼ばれる精神障害者です。例を挙げるなら手洗いを何回もやらないと気が済まない、外出の際、家の玄関の鍵を何度も確認してしまう等です。今一番苦労しているのが、車を運転する際、極度の加害恐怖症のようになってしまい安全運転を心がけているにもかかわらず本来なら楽しいはずの運転がとても、苦になってしまっている事です。 毎日、毎日この繰り返しで正直、本当に生き苦しい毎日です。ちなみに余計な事かもしれませんが心療内科には通い続けています。
死にたい、消えたい、今まで何度もそう思った瞬間はありました。 でも、そんな勇気はないし、そんな勇気があるなら今を頑張ろうと思ってきました。 3年前に弟を交通事故で亡くしたのですが、その時に、離婚して女で1つで育ててくれた母親の悲しんでいる姿を見た時、これからは私しかいない!母を守らなくては!と、心に決めて生きてきました。 なのに、今、心が折れそうです。 今抱えている問題が大きすぎて、自分の力では解決出来ない問題で、頼れる人もいなく、いつ解決するかもわからず、どうしたらいいのかわからなくなってしまいました。 母親は鬱病を抱えていて、頼る事はできません。 恋人は、問題の渦中にいるのですが、彼から愛や安心感を感じる事が出来ません。でも、別れる事も出来ません。 本当なら1番甘えたり、頼ったりしたい人に、それが出来ません。 特別なんか求めてない。 普通になんの不安もなく、安心して暮らしたいだけなんです。 年齢的にもこのままじゃ子供も産めないで終わってしまうかもしれない。 不安しかありません。 毎日何かにビクビクしながら生きています。 ホッと出来る場所がありません。 問題を解決する術も見つかりません。 今、心が折れそうです。 愛されたい。誰かに必要とされたい。 安心して暮らしたい。 特別なんか求めてない。 それだけなのに。 死にたい、しか思えなくなってしまった今日、こちらを知りました。 思わず質問させてもらいました。 生きる意味とはなんなのでしょう? 死にたいと思う事は悪でしょうか?
執着も捨てましたし、友人も恋人も物も殆ど捨てました。 生きていて色んなことを学んでもこちらで質問しても納得する回答は得られず日々悶々としています。 まず命への執着を手放す以外に残るものは今ありません。 しかし苦しみは消えません。 嫌な毎日です、それすら執着を手放しても苦しいままです。 1秒を我慢し続ければ耐えられると此方のサイトで言われましたが耐え続ける人生に何の安寧があるのでしょうか。 嫌な事も受け入れて、執着を捨て、全てを捨てて、あとは自分で死ぬだけです。 その死なない間にも嫌な事が沢山あります。 こんなに受け入れて、何も動じず、ただあるがままの苦しみを受け入れてるのにまだ苦しいです。もはや悟りなんてないのでは??? 例えるなら親を目の前で殺されて、まっいっかというレベルで執着を捨てていても苦しいままです。 誰か助けてほしいです。 悟りなんてないんじゃない? 私は科学ガチ勢だけど、死んだら解脱とかも無理じゃない? ただただ生まれつき運が悪いか、良いかの違いなんじゃない。 知的な障がいが脳にあればそもそも解脱する事は不可能です、それと同じで生まれつきの知能が低ければ高度な思考すらできません。 世の中運が良ければこの世界に満足して死ぬわけです。 つまり解脱も悟りもなくて、この世界で運が悪かった人が負け惜しみでそういう概念を思いついただけじゃね? ああ人生って意味不明すぎる。 このまま色んな人に説教されるか、曖昧な表現で反論されてこのまま人生続いていくんだろうな。。そしてその曖昧な表現の人たちもそのまま何の答えも得られず死んでいくんだろうな。
姉弟で差がある家庭で、姉だ・女だと事ある毎に理不尽で我慢し、甘えられず頼れず、羨んで憎んでヤケクソな強がりでその場を強く切り抜けましたが、更に憎たらしく思われた日々。 時は過ぎ結婚・出産し、相変わらず差別や罵倒はあったものの初孫はとても可愛がり愛情を見せ、子育てで助けてもらう内に、親に対するマイナスな気持ちも薄らぎ感謝し、私も親の苦労が理解出来る立場になった事でお互い穏やかになりつつあったのですが…親は突然倒れました、救命措置で命は助かったが脳挫傷で意識不明・寝たきり、気管切開で喋れず・食べられずです。そこからは少しは意識はあったけれど病院の診立ては違いリハビリは出来ず、本人も私達も辛い入院が続き、何とか復活を願ったのですが自分たち素人に出来る事は少なく、お見舞いで明るく振る舞ってマッサージや手を握り励ますくらいしかできないのが歯痒くて、とても辛く悲しくてショックで心が変になりました。そして寝たきりのままどんどん悪くなり一年後に亡くなりました。 辛い。残酷だ。恩返しも感謝もこれからだったのに、1人親なのに、孫ともお互い唯一の存在でとても仲良くて子供の心の支えでもあったのに、どうしてこんな酷さで持っていない所から奪っていくの?と受け入れられないで居ましたが 主人は、それは神様が決める事、そして皆んなに訪れる事だから天命だから受け入れよう、と言います。受け入れることは諦めることとどう違うのかわかりません。教えてください。 そして将来がとても不安になりました、親の死の後にもお金が動き手続きで忙しくて、親戚やきょうだいが居る事で助けになったのに、一人っ子で親戚の無い我が子の将来が心配でたまりません。不安と心配と後悔と悲しみで気が狂いそうになる時があります。救いの言葉をください。 それど死んだ後は各宗派によっても違うし、浄土やら魂やら輪廻やら何が本当ですか?ずっと見守っているのですか?生まれ変わるのですか?死後のことはわからないはナシでお言葉をください。よろしくお願いいたします。長文失礼しました。
修行僧の人達は何のためにどんな事をしているのですか?いくつか教えてください。
私は完璧主義者です。でも何事も完璧にやりきれるだけの能力はありません。 完璧な秩序のある生活や思ったことを完璧なやりきることへの執着心がとても強い人間です。だから一度のつまづきで全てを放棄したくなります。 ただ、現実に社会は混沌としています。それだけでなく、身の回りのことや仕事に完璧な秩序を保つことの能力が私には欠如しています。そのギャップにとても苦しめられています。自分で作ったルールを遵守できないこと、予想外のアクシデントで自分の計画が狂うこと、このようなことが本当に本当に苦痛です。 こんな混とんとした世界で生きることが果たして幸せなのか。娘や家族への情だってもちろんありますが、それを感じる主体がいなくなればすくなくとも私の気にすることではなくなります。おまけに私は利己的な人間です。考える私がいなくなればそれで残された人への想いも断ち切れます。 死んだら思考する私はいなくなります。苦痛を感じる器官もなくなります。それだけでこの世界を離脱することが大きな救いになると感じるのです。 死ぬことは怖いです。でもなぜ死んではいけないのか、よくわかりません。残された人は悲しむかもしれませんが、死んだ私にはそんなこと関係ないとも思うのです。 生きるか死ぬか、そのことが頭をぐるぐるしています。死んではいけないような気もしますが、とにかく死にたさが頭を覆って、でもそんな勇気はなくて、生きることに手がつきません。 死ぬことは果たして救済なのでしょうか。死後の世界については信じることはできません。それにこんな相談をするくらいですので生きたいという気持ちもないわけではないと思うのですが、この先もっと大きな挫折を味わった時、そのような自分を許すこともできないと思うのです。 この場でこんなことを質問していいかもわかりません。ただ、なんとか生きやすく生きていける方策があれば楽になれるとも思うのです。死と生について私なんかよりも深く考えておられるお坊さまに何か知恵をお借りできないかと考えています。 まとまらない文章で申し訳ありません。何卒よろしくお願いいたします。
仏教で言う慈悲とはなんでしょうか?愛のことでしょうか?
テレビやネット等でニュースや、それにまつわるコメント見ていると、様々な感想や意見が思い浮かんでくることがあります。 それだけならいいのですが、頭の中でネット上のコメントに反論したり、こんなこと言っている人がいるだろうなと想像上の敵を作り出したり、自分の感情を上手く消化でず、鬱屈としたような気持ちになることがあります。あまり考えないようにしようと思っても、気がついたらまた同じような状況になってしまいます。 元々、自分なりに色々と考えるのは好きなのですが、最近はそのせいで割り切れないような気持ちになることが多いです。 こうした状態になってしまうようなニュース(議論が巻き起こっているニュース)はなるべく見ないようにしていますが、完璧に避けることは出来ませんし、ニュースに無関心でいすぎるのも良くないよなとも思ってしまいます。 どうしたら、このような頭の中で議論したり、想像上のコメントに反論したりといったことを止められるでしょうか。また、そうしてしまうことで釈然としない気持ちになることとどう向き合えば良いでしょうか。
死にたいと考えることは極端な発想だとよく聞きますが、生きようと思うことが極端ではないと言い切れる根拠はどこにあるのですか?
私は、専業主婦をしています。2歳の子供を育児中です。 現在子供も小さいこともあり、手のかかる状況。 前妻との間の養育費の支払い。(関係ないかもしれないけれど、生活費の中からでているので) 年収が上がっているため、減額申請もできないとなると、生活できないからです。 夫の年齢的な事もあり、家のローンもある状況です。 そんな中で妊娠が発覚。二人目を望んでいたし産めたらってこともありましたが、今後の金銭的な事もあると難しく、一人目だけを育てていくつもりでした。 夫婦での話し合いをしていき、金銭的な理由で生活がだめになったり無理をして倒れると周りに迷惑をかけると思いました。 堕胎することは罪なことだとはわかっています。ですが後悔はしない気持ちでいます。辛いですが納得はしています。 経済的な理由でも、選択としてはありという人や親としての資格とかないという人もネットの相談掲示板上ではよくみかけます。 経済的な理由で妊娠した事を諦めることも選択になりますか??
大好きな父を病気で亡くしました。 若いうちに私を産んだのに、きちんと育ててくれて成人させてもらえました。 私はパパが大好きで、ファザコンと言われる程仲良しです。父に限らず家族が大好きでしたが、父が1番の味方でした。私はインドアで1人が好きで、友達ですらも人と過ごすのが苦手で。 なので休みの日はいつも父と一緒でした。いつも私のワガママに付き合ってくれました。 急性と名のつく病気だったためありがとうもごめんねも言えず、どのくらい痛いのかどのくらい苦しいのか、何か伝えたいことがあったのかどうか、父の言葉も何も聞けず。 私はいつか絶対に父に会いたいのです。父と母からもらったこの身体と命を自分の手で無駄にしない為には、死後の世界に縋るしか生きる希望がないのです。 本題ですが、 自死をした場合は、天寿を全うした人達と同じ世界には行けない、即地獄行き、自死は罪なのでカルマがどうのこうの、沢山調べました。 これらは本当なのか、少しでも自死をする人を躊躇させるため減らすために適当に作られたものなのか。 そもそも死因によって魂の行先は変わるのか。 仮に私が自死をしたら、病死した父には会えないのか会えるのか。 知りたいです。 もちろん死後の世界のことは誰にも分かりませんから、私が見漁ったWebサイトよりも信用出来るお坊さんの考え方が知りたいだけです。 別に死ぬつもりも度胸もないので私を止めるための綺麗事は必要ありません。死について調べてる間に見飽きました。 自死でもお父さんに会えるよ!という返答が来たからと言ってじゃあ自死します!ともなりませんので、変に気遣わずそのまま元々のお考えを教えていただければ嬉しいです。 お忙しいところ恐れ入りますが、よろしくお願いいたします。
こんにちは。仏教の慈悲について考えていたのですが、迷いました。お暇な時に、教えてくださると助かります。 私は最初、慈悲は愛と同じかな?と思いました。愛とは誰か困っている人を見つけたら自分がしてほしいと思うように相手を扱い助けることだ、と助祭から昔教わったんです。それと似た気持ちかなと思って。でも慈悲について過去の記事を読んでいるうちに、慈悲と愛は違うかもしれないと思うようになりました。仏教では周りの人や生き物と自分が皆繋がっている考えがあると感じたんです。それで、まず慈悲とは共感することなのかなと思いました。でも、共感だけではなくて広い心で人の為に祈るような意味もあるのでしょうか。うまく言えないけれど、憐みみたいな....例えば、自分に敵意を持っている人に対して慈悲の心で接するような表現をどこかで見たのですが、それは相手が自分のやっている悪い事に気がついて正しい道に進めるように祈ることかな、と思ったり。あれこれ考えているうちにわからなくなってきました....。 題とは直接関係ないけれど、今月父の一周忌でお坊様のお祈りと共に納骨されていくのを見届けることができました。普段は全然泣かないのに涙が出てきました。悲しいからではなくて、安心したからだと思います。僧侶とはすばらしいお仕事ですね。とても感謝しています。
死後というのは無ですか? もう、無ということすら理解できないくらい無ですか?