夫が36才で急死、夫方のツテで寺をお願いしましたが「地方にいて無理だ」とのことでその住職に紹介されたお坊さんに通夜と葬儀、そして今後新しく門下に下る方向で話を進めていましたが 通夜前になり親族と話し合い「私が今後籍を抜ける可能性もあるし、通夜と葬儀だけお願いしたい」と伝えました。 大変なお叱りを受けましたが、何とか通夜と葬儀はお願い出来、式を終えることが出来ました。 夫方には私方で寺探しをすると伝えてありますが寺探しが初七日に間に合いそうにありません。 夫の実家は少し遠方で70才の義父と義兄の2人暮らしです。 四十九日の法要は必ずしますが、初七日は目をつぶってもらえるものなのでしょうか? また、宗派が違えど納骨は夫方の墓にしても良いものなのでしょうか? なるべくならば骨は夫方の墓には入れたくありません。 私の実家に夫と長年暮らしており、子供もいない為、金銭的なこともあり墓を買うことは難しいです。 夫の家庭環境は少し複雑なこともあり、仏事は全て、寺に集まり行うことが一同の総意です。 当方全く知識が無く困っています。
仏教が好きで、お坊さんに説法を聞かせてもらったり、人生相談などしてみたいのですが、 どこに行けばいいのかわかりません。 信仰宗教ではないところで、お金があまりかからない相談方法があれば教えてください。 カルト的なものや信仰宗教の違いがよくわからず、どういったお寺さんや宗派なら怖いところではないのかわからなくて、なにか不躾な言い回しになっていたらすみません。 よろしくお願い致します。
できれば全ての宗派のお坊さんに聞きたいのですが、仏教ではどんな人が地獄に落ちるとかんがえられているのでしょうか? 以前の質問を見ていただきたいのですが、私は自転車で危険な運転をしたり、父を突き倒したりしたわけで、その時「相手が死んでしまってもいいや」と考えていたかもしれないわけですから、自分のことを人殺しかもしれないと思っています。 そんな私はやはり地獄行きなのでしょうか? また、地獄へ行くのを回避するにはどんなことをすれば良いのでしょうか?
初めまして、私はタイ国からです。早速ですが、ご質問いたします。和尚という言葉がよく理解できませんので 意味を教えていただきたいと思います。因みに、お坊さんと和尚には同じ意味ですか? 日本語はまだ十分ではありませんので ご遠慮なく、どんどん教えて下さい。
疑問に思っていることがあり教えていただきたいと思います。 我が家では祖父の葬儀はお寺で行い、法事もしました。お盆には毎年迎え盆、送り盆を家族でしています。仏壇もあります。 自分の家の宗派も認識していますが、かと言ってそれ以外に仏壇にお線香を上げる等以外は日常で仏教的な事をしている訳ではありませんし、クリスマスを祝えば、神社にお参りする事もあります。典型的な日本人だと思います。 「私は仏教徒です」と言えるのはどういう場合なのでしょうか?逆に無宗教とはどういう状態でしょうか?身内が亡くなった際はどうしているのでしょうか。 仏教の本を読んだり仏像を拝観するのは好きですが、私の場合は無宗教なのか?と思ったりします。
こんばんは。 少しだけ心がしんどいなあ、というときにいつも開くhasunoha。皆様方の問答に共感しては時に涙し、頑張って前を向いている方々を見ては自分を奮起させるきっかけにさせていただいております。 今回は心の葛藤などの悩みではなく、お坊さんの敬称についての質問です。是非お教えください。 お坊さんの敬称で、「和尚様」「お坊様」というのは正しいのでしょうか。流派によって違うものですか? また葉書の宛先などは、 〇〇寺 住職 △△様 で失礼に当たらないでしょうか。 △△の後に続く特別な敬称等あれば是非お教えください。 いつもお世話になっている方ですので、出来るだけ失礼のないようにしたくこちらで質問させて頂きました。仕様もない質問で申し訳御座いませんが、お答え頂けますと幸いです。
22歳、病院受付をしています。 直接の先輩に当たる 受付の方が怖くて仕方ありません。 先輩の言い方や接し方がきつく 失敗をするとしつこく責められる為 何をするにもビクビクしながら 仕事をしています。 仕事場では先輩の許可が無ければ 何も出来ませんし 勝手に行動すると怒られます。 どうしてこんなにきつい言い方しか 出来ないのだろうと思ってしまいます。 毎日息が詰まりそうで苦しいです。 家に帰っても仕事の事を思い出すだけで 心臓がバクバクし苦しく 毎朝仕事に行きたくなくて 起きれません。 私がもっと仕事が出来れば 頑張らなければと思えば思う程 辛くなっていきます。 仕事を辞めたくても やっと見つけた仕事で 先輩以外の周りの薬剤師さんや看護師さんは いい人ばかりです。 それに先輩が近々産休に入られる為 私が辞めてしまっては 受付の仕事が出来る人がいなくなってしまいます。 今のところ産休の変わりの方も見つからず どんどん追い詰められていきます。 私はどう頑張ったら良いでしょうか? わかりにくい文章で申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
ハスノハのお坊さんは違うと思いますが、世の中には自分がチヤホヤされたいがために貢献アピールする人がいます。 何を隠そう私も同じことをやっていました。 最初は本当に他人のために取り組んでいたのですが、次第に自分が利益を得るためとかチヤホヤされたいがために動機が変わってきたのです。 そういう人はどう思いますか? そして今の私も結局は自分のため。自分先行の意識があります。 というのも他人のために尽くしたところで報われないからです。 だからこそハスノハのお坊さんはいつも凄いなあと思っています。日本にはこんなに良い人たちがいるんだと思って励みになっています。 しかし、自分が世のため人のために生きたほうが良いのか躊躇いがあるのも事実です。
お世話になります。 社会人大学院生として、仏教とターミナルケアについて学んでおり、臨床宗教師・ビハーラ僧の活動に惹かれ得度したいと考えております。 終末期における死の恐怖に対して宗教は有効だというのがその理由です。 そのために所属寺を探しておりますが、このような理由で得度したいがために寺を所属する旨は許されるものでしょうか? お寺様に対して非礼であったり、何か問題がありましたらご指摘下さいませ。 なおビハーラ活動で生計を立てるつもりはございません。 (高齢化社会において、そうした体制作りは必要と感じてはおりますが) また、そのような特殊な活動は、僧侶としての基本を身につけた上であることも承知しております。 どたうぞよろしくお願い致します。
私は、昔、仏事専門の書家として活動していたので、自然とお坊さんにひかれました。でも、出会いがないため、寺で働くにはどうすれば?又、お坊さんと知り合うには?
初めまして。 私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。 私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。 ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。 仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。 私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。 先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。 もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。 人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。 こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。
hasunoha見てたら「ぼうさんずラブ」を発見しました。こんな面白い企画があるとは。 hasunohaのお坊さんを直撃取材が「ぼうさんずラブ」なのね。 記念すべき第1回は丹下さん! 変顔してた! 他のお坊さんにも会えますね。楽しみです。
いつもお世話になっております。 菩提寺との関係に悩んでます…。祖母の三回忌もキャンセルしました。 とりあえず、お布施を振り込んで本堂でお経を上げてもらうだけにします。 ✳︎ これは親戚(世話人)からの提案です。 「今話してて半泣きなんだから本番絶対パニックなるだろ!中止しなさい」という流れになりました。(詳細は最近の質問で) 「菩提寺と濃密に付き合いなんてしなくていい。まして坊さんに相談もしに行かなくていい」 とのことでした。 ✳︎ キャンセルと、朝のお勤めでのご回向をお願いする為お布施はどの様にするのか電話で教えていただいたところ、 もともとポーカーであまり感情を顔や声に出さない人なんですが、それだからこそちょっと冷たいな対応されたかな?と感じてしまいました。 ✳︎ 確かに私も安心しすぎて忙しいお坊さんや寺庭さんに絡みまくったのは駄目でした。 でもその場で言って欲しかったです。(件の寺でもこれをやった) なにも仏壇の発遣開眼法要後の法話で資料まで渡して言わなくてもいいじゃない。 ✳︎ お墓、お骨、仏壇具足、宗派…!菩提寺変えるかどうしよう。今不動産で揉めてて忙しいのに。 若い子って馬鹿にされて当たり前なんですか? もうどうしたらいいんですか?助けて下さい!
お坊さんの修行の世界でも、パワハラ、モラハラ、イジメがあるなら娑婆の世界は、そんなんあって当たり前ですね。 パワハラ坊主がビシバシ後輩を痛めつけといて、なんか行事があろう時には「お釈迦様の教えは〜」なんて説法しているのを想像すると、チャンチャラおかしいわ、そう思ってしまいます。 ハスノハのお坊さんは大丈夫とは思うけど、パワハラ坊主じゃないですよね?
先月、父が亡くなり、葬儀場から火葬場まで霊柩車に棺を乗せ移動し、火葬前に僧侶の方に読経して頂き、火葬炉に棺を納める時に僧侶の方がベル?鈴?(名前が分かりません)のような物を鳴らして誘導?しているように見えたのですが、それには何か意味があるのですか? また、ベル?鈴?の名前を知りたいです。 ちなみに私は曹洞宗なのですが、宗派により異なるのでしょうか? よろしければ、お教え下さい。
今や自分はともかく親が何を信仰しているかも分からない場合が多いと思います。そして特定の菩提寺を持たない場合において、祖父母の墓参りなどで直面する、お墓の前で唱える言葉の意味についてどう考えたらよいのか悩んでいます。 基本的には自分が信仰する宗派において、自分自身のために唱えるのは理解できるのですが、故人のために唱える場合は、どういう意味があるのでしょうか。 そもそも故人は自身の信仰によって成仏されていると思うのですが、それに対し後世に他人(親族です)が言葉を唱えることの仏教的な意味を知りたいです。 また、〇〇宗を信仰された祖父のお墓の前で、▲▲宗を信仰している(もしくは何も信仰していない)孫が唱える言葉は何が良いのでしょうか? 一般的には〇〇宗のお墓の前では、〇〇宗の言葉(例えば南無阿弥陀仏など)と教えられたのですが、よくよく考えていくと自分の信仰していない宗派の言葉を「形式的」にだけ唱えるという事になってしまい意味があるのかな、と思い始めました。 浄土宗などは念仏を唱えることに意義があるという点では、形式上であったとしてもある程度は理解できるのですが、浄土真宗やその他禅宗などにおいては意味があるようには思えないのです。 今まで深く考えず、親に教えられた通りに唱えていたのですが、勉強すればするほど分からなくなってきてしまいました。 迷える子羊をお救いください。
まだ住職成り立てホヤホヤで、誰にも相談出来ず、恥ずかしながら、こちらにて、諸先輩方からの御指導頂きたく思います。 実は今日、檀家さんが相談事があるとのことで来寺されました。 その方曰く、『生前葬』をお願いしたい。 もう80で長くないし、どんな葬儀になるのか、また、自分の今までのご縁があった方が来るのか見たいとのことでした。 他にも様々な思いがある様子で、既に葬儀会館は押さえているようです。 私はその場では即答出来ず、教義的に可能かどうか、宗派の事務機関が、年末年始休みで問い合わせ出来ないと、その場しのぎの返答をしました。 個人的には、要は今回の件は、僧侶が、生前葬という名のエゴイズム丸出しの、パーティーのBGMに徹する事であろうと感じます。 お布施の誘惑と、宗教者としての確固たる立脚地との狭間で悩んでおります。 皆様はどう思われますでしょうか? 宗派を超えて、仏教者の忌憚ないご意見をお聴かせ願います。 追記 依頼者は裕福なお方です笑 あと、出来ればこの愚問の御解答は非公開だと嬉しいですが、如何でしょうか?
毘沙門天の開眼供養をして下さる関東の寺を探しております。 本尊毘沙門天を奉っている寺で、宗派は問いません。 関東に紹介して頂ける寺がない場合は、全国で 本尊毘沙門天を奉っている寺で、宗派は問わず、 郵送で開眼供養をして頂ける寺がありましたら紹介して下さい。 お願いします。
初めてこちらで質問させていただきます。よろしくお願いします。 私は現在、大学院で社会学を専攻しているのですが、同時に仏教に対しても強い関心を持っております。今後の人生は仏道を中心に据えて歩んでいきたいと思っております。 現代の日本の政情を私なりに研究した結果、日本の将来には期待できるものがほとんどないという結論に至りました。日本の政治・経済・文化における凋落は民主主義・資本主義体制が崩壊するまで続くだろうと予測しております。 この現状を踏まえて、私が歩むべき道は仏道以外に見出せないと思いました。しかし、日本仏教を信仰するにはいくつかの問題点があるとも感じております。 まず、第一に宗派があまりにも多くどの宗派を信仰して良いか分かりません。様々な宗派の本を読んでは見ましたが、どの教えにも深く納得することができず、悩み続けている状況です。(最近では、禅とテーラワーダ仏教の教えに惹かれております。) 第二に、日本仏教はもはやその求心力を失ってしまっているのではないかという問題です。鎌倉時代など、社会状況が大きく変化した時代には仏教は多大な求心力を持っていましたが、現代では賞味期限が切れた宗派もいくつか存在していると思うのです。(例えば、私の家の宗旨は浄土真宗ですが、個人的には信仰することに困難を覚えます。もちろん、歎異抄などの著作には深い感動を覚えます。)それが、さまざまな新興宗教を生み出す原因になっていると思うのです。 これらの点を踏まえて、私は禅かテーラワーダの教えを学んでいきたいと考えているのですが、同時に躊躇もあります。その教えに賭けて救われなかった時のことが怖いのです。ここに非常な葛藤があります。 結局、私がお尋ねしたいのは「私はどう生きるべきか?どの宗派を信仰すればよいか?」ということです。何かアドバイスがありましたら、どうかご回答下さい。よろしくお願いします。
ユーチューブの「みすずの野望」チャンネルにて、住職の方がクラブのママと心霊スポットに出向き、クラブのママにお酒を飲みながら接客を受けるという企画を目にしました。 その企画を見た瞬間に、亡くなられた方を馬鹿にしているように見えてしまいました。とても不謹慎なことをしていると思いました。 住職がこのようなことをしても良いのでしょうか。