私は学生なのですが、小さい頃から、親が共働きで、祖父母の家で過ごす時間が多くなりました。しかし中学に入ってから、自分の家で過ごすようになり、祖父母と関わることは少なくなりました。祖父母は小さい頃から面倒を見てもらい、大好きな人たちです。ですが人間いつかは死にます。私は、もし祖父母が死んでしまったら立ち直れる自身もないし、どのような心境になるかもわかりません。最近そのようなことを、考えるようになりました。もし祖父母が死んでしまった場合、どのような立ち直りをしたら良いでしょうか?
心霊的なものは一切信じていませんが、朝からディラン効果で頭の中でお経が止まりません。こんな経験は初めてです。小さい頃、同居していた祖母の影響でお経を覚えました。私自身はお経に興味はありません。 私には希死念慮があります。いつも死にたいです。これは私の死が近いんでしょうか。 自己紹介欄に書いてますが、本当に社会的には真っ当な人間です。精神病歴もありません。 補足までに ※ディラン効果 ディラン効果とはある瞬間に聞いたことのあるアニソンなどの曲のワンフレーズや文字が頭の中で強迫的に繰り返され、毎日、朝から止まることなく反復されて聞こえてくる現象のことです。
こんにちは。よくある質問ですみません。 長いこと死にたいという気持ちがなくなりません。 長い間、死にたいと思っているせいか、死ぬことへのハードルが年々下がっています。 死ぬことはいつでもできるから、とりあえず現状維持しようと思っていても、死ぬことへの欲求に負けそうになります。 私の調べですが、気楽に自殺するのに必要な金額は3万円です。 「月3万は自分の好きなことに使う。生きるためにお金を使ったのだから今月は生きよう。」という消極的な生き方をしています。 大抵嫌なことがあるから、しんどいことがあるから、自分が恥ずかしいからなど、死にたい理由は私自身の中に、私自身の弱さによると思います。 今回は、バイト先からもう信用できませんと言われたからです。 もともとしたくない苦手な仕事です。断れない状況だったので仕方なく引き受けました。 正直、最初から信用してくれてない感じがあって辛かったけれども、やれるだけやりました。 でもダメでした。 バイトもうやめればいいじゃんと自分でも思います。 死ぬこと以外の解決方法はいつだってあります。 でも、死ぬことへのハードルの低さが、今後も色んな問題がでてくるんだから死ぬのもいいんじゃない?と囁いてきます。 自分自身が死にたいという気持ちを否定してしまいたいわけじゃありません。これはたぶんどうしようもないからです。 実際に死んでしまおうとするのをなんとか止めたいんです。 私自身、死にたいのと同じくらい本当は生きたいのだと思います。 どうしたら、苦しくても死ぬことへ逃げずに生きられますか。 教えてください。
私はまだ20歳の女子なのですがこの歳でもう死後の事を考えています 気にしたらキリがないのに 死後の世界が怖くて死にたくもありません。 その上虫や飲酒をするだけで 地獄行きという事も知り余計に怖くて仕方ないです。 どうすればこのような考えにならないかアドバイスが切実に欲しいです 両親にそのことを話したら考えすぎと言われました。 確かに神経質過ぎたなとは思っています ですが怖くて仕方ないのです どうにか考えなくなるようにしたいです お願いします
従兄弟の娘が亡くなりました。 もうすぐ2歳になる女の子でした。4歳のお兄ちゃんもいます。 明後日お葬式があるのですが、自分の息子たち(4歳男、3歳女)を参列させるべきか迷っています。 私の両親は無理に参列させなくてもいいのでは、と言っていますが、あまりに突然の死で、絶望の淵に立っているであろう当人達のことを考えると、子供達と一緒に悲しんであげたほうがいいのでは、と私は考えています。 これは私のエゴなのでしょうか?
以前より、死の恐怖についてご相談させていただいております。いつもありがとうございます。 今年から仕事をはじめ、毎日必死に慣れない仕事をこなしています。以前と違って少なくなった休日は、友人との交友や趣味を詰め込んでいます。 そのような生活をしばらく続けていましたら、以前悩んでいた「死の恐怖」について悩む物理的な時間が殆どなくなっている事に気が付きました。 しかし、死の恐怖がなくなった訳ではなく、今でも偶に恐怖で叫び出してしまう事はありますし、将来のこと(今後のキャリアやライフプラン)について考える時にも、「死ぬ時、恐怖に震えながら死ぬのだろう」ととても悲しく、またとても恐ろしくなります。 これは、「今を生きている」のでしょうか?確かに、目の前のことに必死で、死について考える時間がないので精神は健全です。以前より充実していると思います。 ですが、人生の本質のようなものを蔑ろにしている気もします。今の生活はなんとなく、さまざまな問題から逃げている現実逃避のように感じます。人生は死からの逃避、という言葉をどこかでみました。私の人生は今、逃避なのでしょうか。 そこで、「今を生きること」と「現実逃避」の違い、「今を生きること」と「何かに夢中になり、悩む余裕がない」ことの違いが知りたいです。 また私の今の様な生活は、仏教やお坊さんのお考えからはどのように思われますか? 死に怯えるだけだった過去から、今の生活になったことは進歩でしょうか?これは、私の望む「死は悪くない、怖くないと安心して死ぬこと」に近付いていますでしょうか? お忙しいところ恐れ入りますが、知恵をお貸しいただけますと幸いです。よろしくお願い致します。
はじめまして。質問というより悩みについてです。 私は普通に生きている人間です。 要領が悪く仕事でも迷惑をかけっぱなしで全く上手く行かずミスばかりで呆れられています。 プライベートの人間関係も上手く行かず迷惑をかけてしまい距離を取られてしまうことがあります。 不器用でそれでいて感情のコントロールが難しく 生きづらく自分を責めて生きています。 ふと今年の春頃、殆ど最近です。 「今年のうちに死ななくちゃな」と 思いました。 本当にふとご飯のメニューを決めるかのようにそんな考えが浮かんでその思考にとらわれる形になり今年のうちに死のうと考えています。 嬉しいことも楽しいこともあります。 ただ自分がこうして存在してることが何より辛いし、いけない事で、義務的に死ななくてはと思います。 正直な話、死ぬことは恐ろしいです。 死んで救われるとも思いません。 ただ死ななくてはならないと強く思うんです。 今年中できればもう少し早く。 今年に出来る予定はなるべく無理でも入れました。来年の話ははぐらかしています。 なんだかそうしなきゃならない気がするからです。 今までの人生トータル的にはとても辛い事が多かったです。でも楽しい事もありました。 ですがもう今年のうちに決めてしまわないとならないと思ってます。 あわよくば死ねたらと毎日過ごしています。 自分のこの思考は正しいとは思えないのに死を思いながら生きています。 死ななくてはならないという事は運命なのでしょうか。好転して生きたいと思った時それは私自身を裏切ってしまう気がして怖いのです。 この思考を、捻じ曲げてやる事は出来るのでしょうか。遠ざけてやる事は出来るでしょうか。 長くなりましてすいません。 質問をさせていただきありがとうございます。
私は取り柄がなく、仕事を転々として、人間関係で鬱になり10年以上たちます。この年で恋人もできた事がありません。容姿も自信がなく、おとなしいからだと思います。いつまで鬱と戦わなければならないのか。もう消えてしまいたいです。自殺するつもりはありませんが。いずれ死は遅かれ早かれ訪れますが、死んだらその先の世界があるのでしょうか?人はこの世での無念、苦しみ、悲しみ等全てを背負って死後の世界に行かなくてはならないのでしょうか?それともこの世での想いは浄化されるのでしょうか?死後の世界では生きていた時の苦しみ悲しみ悔しさ等は何もかも忘れていたいです。死後に生きていたときの嫌な記憶を抱えていたらと思うと怖いです。
介護の職場について早13年…。 こういう仕事ですので、 終末期や急変等で亡くなる方を 看取る事があります。 自分は、他の職員からすると、 看取ってきた回数は多いほうだと感じています。 今月に入って、夜勤中に 急変の方がお一人、終末期の方をお二人看取ってきました。まれにみる多さだと感じています。 自分としては、人が亡くなる事は悲しい事ですが、最期の時、家族でもない自分を選んで頂いたと感謝しています。 先日、亡くなった方を見送り、職員が出勤して来た際に「また◯◯君の夜勤の時?」と数人から言われ、とてもショックを受けてしまいました。 あたかも、自分が夜勤の時に、不幸な事が起きていると言われてるようで…。 人が亡くなる事って、そんなに悪い事でしょうか? よろしければ、お聞かせ下さい。 宜しくお願いします。
たまに生きていることが虚しく感じます。 生きていて感動することも、出会えてよかったと感じることも沢山ありました。しかし何故かいつも、どうせいつか死ぬという考え頭を過ります。 私は医療従事者です。しかし、こういう考えが頭を浮かんでしまう自分に対し、自分は命を尊く思っていないのではないか、と不信感が消えません。 命を尊く、生きることは儚く素敵な事だと心の底から思いながら生きていたいです。
小学校高学年ぐらいから毎日何度か死にたくなります。 今は特に1日に何度も死にたくなります。 でも、何か理由をつけて(飛び降りるところや首を吊るところが家の近くだと家族に迷惑がかかる等)死なない軟弱な自分もいます。 しかしながら毎日こんな沈んだ気持ちでなぜ生きながらえなくてはいけないのか。 なぜ寿命を自分では決められないのか。 難病でも生きたくて仕方ない人もいるし、生きたかったのに事故や災難に見舞われて突然無念の死を迎えてしまう人もいる。 なんの不足がなくても死にたいと思って自殺する人もいる。 なぜ自分の意思で寿命は決められないのでしょうか。
お世話になります。2年半ほど前にコロナ禍で生きがいを失い、悩み相談させて頂きました。その時に頂いたご助言のおかげもありなんとか生きながらえています。 しかしながら、タイトルにもある通り以下のようなことから希死念慮が絶えず付き纏っています。 まず仕事面については今年色々と行き詰まりがあり数ヶ月の休職をしてしまいました。今は復帰していますがリハビリと言うこともあり給料に見合わない(不当に高く払われすぎだろうと思われるような)単純作業をする日々です。周りの同世代や下の世代がどんどん仕事を覚えてキャリアを進める中で自分1人が無様な状況。転職しようにもこんな奴が箸にも棒にもかかるとは思えず。30になるので第二新卒もない。情けない状況です。 次にプライベート。当方男ですが、周りの同世代は上記の仕事面だけでなく恋人がいたり結婚したり子供を授かったりとプライベートにおいても充実させてます。それに比べて自分は未だ一人で仕事は上記のざまで、趣味も1人でライブやスポーツ観戦をするもコロナ規制や同じ場所にカップルで来てる人を指を咥えて眺め悶々とする日々。 そしてコロナ禍に対する不満。前回質問時もお話ししましたが、日本だけが一向にコロナ規制が終わらず、ライブやスポーツ観戦も思ったように楽しめない日々。まして今はカタールW杯でマスクなしの声出し応援をしてる風景を見て余計に悶々とします。「うちはうちよそはよそ」と言われても現状を正当化したいだけの屁理屈にしか聞こえません。 上記の通り仕事やプライベートで一向に思ったような改善や向上が見られない、そしてその原因は自分にある。 どんなに嘆いても社会や世の中は変わってはくれません。分かってます。どんなにコロナ規制の不満を嘆いても変わらない。だったら自分が良くなるように変わるしかない。でもそれも出来てない。なら自殺以外に選択肢がないですよね。弱者男性という言葉がネットで流行ってますがまさに私のことです。ネット曰く私のような人間は安楽死で淘汰されるべきだそうで是非そうしてもらいたいです(笑) ならさっさと死ねよに対して返す言葉もありません。慰めが欲しくて書いてるのでもないです。死にたいなら死ねも大歓迎です。最後は取り止めもなく気持ちを書かせて頂きました。 要は死ぬ勇気と生きる希望のどちらかが欲しいと言う悩みです。申し訳ありません。
いつもお世話になっております。 先日もご相談させていただいたのですが、相変わらずしてもいない不倫や男遊びをしている、とご近所で噂されて死にたいと思うようになりました。一生懸命真面目に生きてきたのにこの仕打ちです。神様は私に針のむしろをご用意されたのだな、と思うと生まれてこない方が良かったと思うと同時に、自死したらこの苦行から逃れられると考えてしまいます。自死すればもうやさしい夫やかわいい子どもに会えない事はわかっています。善かれとおもって行動しても裏目にでます。 昨年秋までは幸せに暮らしていました。そういう運命なのでしょうか。諦めるほかないのでしょうか。自死すれば魂はどこへいくのでしょうか。
正直な所、私が殺してしまったようなものです。 幼い頃から犬が欲しくて、小学生の頃にようやく飼うことができました。 犬がシニアになった頃から大きな病気をいくつも患うようになり、この子の為になるように勉強し、動物病院に勤めました。 犬の体調が悪い時は同伴出勤し、入院した時も長く一緒にいられるように8時に出勤・22時過ぎに帰宅したり、特別に医療機器を持ち帰り自宅でも治療をしておりました。 ですが、勤務先でなくかかりつけ病院で大手術を受け見た目が大きく変わった為、職場の方に根掘り葉掘り聞かれるのが嫌で、その後同伴出勤することはなくなりました。 1番苦しいのはこの子なのに、向き合うのが嫌で家に帰るのが辛くなり、夜遅くまで帰らなかった時期もありました。 ある日の朝、犬の食欲が無く体調が悪そうだったのですが、仕事から帰宅後の様子次第でかかりつけ病院へ行こう考えておりました。 深刻さは理解しておりましたが、今までも何度かあったしきっと大丈夫だと思い出勤しました。 この時に職場の人の目を気にせず同伴出勤するべきだったと後悔しています。 まもなく定時になるという頃に、家から職場に連絡が入り、犬が亡くなっていたと知らされました。 家族は仕事や学校でしたので、犬は最後の瞬間もひとりでした。 家には粗相の跡があり、体も汚れ食餌もできていない状態。 孤独で苦痛に耐えていたのかと思うと苦しい気持ちになります。 家族が帰宅し犬を見つけた時、最後の力を振り絞ったのか、一声だけ鳴いたとのことです。 私は連絡を受けた後直ぐに帰宅しましたが、最後の瞬間に立ち会うことはできませんでした。 死後硬直しかけている少し温かい感触を覚えています。 やりたいことを全て楽しんでから後を追おうと考えていましたが、来年も花火を見たいなど欲が出てしまい、後を追うことをやめ数年が経ちました。 ここまて長々と書き連ねましたが、結局は「私はこれだけ頑張った」とアピールしたいだけ。 誰かに「あなたのせいじゃない」と言って欲しいだけなのかと思います。 最愛の愛犬を殺しておいて、自分だけ救われたいだけです。 犬の死にどう向き合い、自分の気持ちにどう折り合いをつけるのが正解なのでしょうか。 いつか、また犬を飼うことは許されるのでしょうか。 貴重な時間を割き、最後までお読み下さいましてありがとうございました。
またこの場に来てしまい申し訳ありません。 毎日同じ間違いをしてしまいます。 このままでは駄目だと理解してはいますが、現実を受け入れ変わる事が本当に怖いです。 死ぬしかないと希死念慮から眠れない日々です。 楽になる方法ばかり考えてしまいます。 母に「生まれたくなかった」「生まれてきてごめんなさい」と謝る毎日です。 楽になれるなら地獄に行っても構わない と思っているのに勇気が出ません。 誰かに頼る事しか出来ずごめんなさい。 相談ではなく不満になってしまい申し訳ありません。
私は、いつも頭の中に家族がいつ死んでもおかしくないと考えており、死ぬかもしれない死ぬかもしれないと強迫観念が回っています。特に次男の食事を作る時、洗剤の洗い残しで毒になり、次男を死なせてしまうのではないか?火に近づけたセーターを次男の部屋にしまう時、セーターが後から燃え出して、次男の部屋が火事になってしまうのではないか?と、本当にばかばかしいことばかり心配してしまいます。長男にはそれほどないのですが、死のことを心配しているのは同じです。どうしたら、この苦しみから逃れることができるのでしょうか?よろしくお願いいたします。
看護師をしています。 私は病院で働く中で多くの患者様を見てきました。軽症から重症まで。若い人から超高齢者まで。 その中で、看護師として働くことを諦めるような悩みを抱えました。 ご高齢の方や終末期の方は、死への恐怖というより現在ある痛みや苦しみ、排泄など恥ずかしい部分を他人に見られる羞恥心などから、もう楽にしてくれという方が多くいました。殺してくれとも。 命を救う側の私たちは、目の前の命を救うという責任があります。見捨てることはできません。 しかし、それでも何度も何度も楽になりたい、あちらの世界に生きたい、今自分の意思で生きているのではなく他者に生かされてるだけだと、涙ながらに、そして時には怒りながら訴えられました。 そんな方々を多くみる中で、私は看護師として生きることを諦めないようにお話をする機会もありました。 その中で私は、ここが生き地獄だと思っている人たちを救うことが本当に人のためになるのだろうかと疑問を持ちました。 本人の意思ではないのに、多くの管で繋がれ、ベッドに縛り付けられてまで命を守ることが本当に正しいのだろうかと疑問に思いはじめました。 私はこの疑問に対する自分の中での答えが出ず、看護師を一度完全に辞めました。このような疑問を持つことは、命を救う立場の者としてあってはならないと思ったからです。 世の中には尊厳死や安楽死などの言葉が存在します。尊厳死は、延命治療を無理にせず苦痛を取り除きながら、自然に死を迎えられるようにというものですが、日本の医療の現状としてなかなか行われていないのも事実です。苦痛は痛みだけではありませんし。安楽死などもっての外です。 以上の過程があった上で相談したいことは以下の通りです。 ・生命は大切にしようとよく言われるが、そもそもその考え方はどこから生まれたのでしょうか?生き地獄だったとしても必ず守らなければならないのでしょうか? ・安楽死などの考え方について、仏教の視点からはどのような考えがあるのでしょうか? ・命の大切さという根本的なところが分からなくなっている私は医療従事者として失格でしょうか? 長文で申し訳ありません。 お時間のある際にご回答いただけると幸いです。
10年前 私が20代半ばの頃です。約2年半程 交際していた方が自ら命を絶ちました。当時は 悲嘆に暮れ 絶望感と今までに経験したことのない喪失感でいっぱいでした。 私の言動や行動が 彼を追いつめたのではないかと思い自責の念にも苛まれました。 彼に対して 『何故、どうして?』という気持ちがいっぱいで溢れそうになり 時にはそれが『なぜ私をこんなに悲しませるの』と、怒りになることもありました。 彼がいなくなってからも 私の日常は変わらずにあり 泣いてばかりもいられませんでした。半年も経てば 彼がいない生活にも慣れてしまいました。亡くなってからの一年間は 周りに心配をかけまいと 必死に毎日を過ごしていたように思います。楽しいことがあれば普通に笑えたし、その一方では 死にたいと考えてしまう自分がいたり。今思えば、 常に両極端な緊張感の中にいるようでした。結果 糸がプッつり切れてしまい休職するに至りました。 『時間が経てば癒される』と よく言いますが、三回忌を過ぎた頃からは 彼がいないことに対して寂しくて泣くことは少なくなりました。あんなに毎日の様に彼のことを考えていたのに 自分のやるべきことに追われ忙しい日常にいると すっかり彼のことは忘れていましたし、それでいいのだとも思っていました。しかし そう簡単に割り切れる訳もなく、 少し疲れていたりすると 決まって彼のことを思い出しては悔やんでいる自分がいたのも確かです。 七回忌が終わった頃には 私自身も 歳を重ね 彼の自殺の原因を考えるより 彼が亡くなった意味に想いを巡らせる様になりました。 歳月が流れて 私の気持ちにも沢山の変化がありました。時間はかかってしまいましたが 私なりには彼の自死を消化してきたつもりです。しかし、10年が経とうという今でも あの当時の喪失感だけは拭えません。新しい誰かと未だに向き合えない自分がいます。 また、物にも あまり執着しないようになり、とにかく身軽でいたいと年々 思うようになりました。彼以外にも この数年に大切な家族を立て続けに亡くしたことも かなり堪えています。 すっかり 自分の進むべき道を見失ってしまいました。生きることに執着がない自分自身にも とても不安になります。何か新しく手に入れたり 出会いが生まれれば、そこから貪欲になれるのでしょうか?
以前読んだ仏教の本に、 お釈迦様は死への恐怖は、生への執着によるものだと悟った と書いてありました。 では、なぜ生きるのが嫌になったとき、自ら命を絶つのが悪いことなのでしょうか? 失恋したり、仕事がうまくいかなかったり、自分のことが嫌いになって、いっそのこと死んでしまいたいと思うことはなぜいけないことなのでしょうか? 生への執着が悪いことであるなら、自ら命を絶つことは許容されるべきなのではないでしょうか? こんなことをずっと考えてしまう自分が大嫌いです。助けていただけないでしょうか。
いつもご相談にのっていただきありがとうございます。 自殺のニュースをみて毎回とても悲しい気持ち辛い気持ちになります。ニュース見るたびに、虐められたこと、その相手をやり返してしまったこと、今も地元では誹謗中傷されてることを思い出し深く考えてしまいます。いじめ返したことはとても反省してます。 私も相手もいじめ被害者の時に死ななくてよかった。ですがまだ相手が苦に思ってる可能性もありますよね。。私も未だにやられたことは思い出して辛くなるからです。自分がやられて嫌だったことをやり返した時のことの方が申し訳なく辛くなりますが。。相手は私にやった事忘れてるみたいですがそれもまた辛いのです 私も消えたくなることもありますが、子供の成長を見ていたいですし、夫も好きですし、長年の悩みを解決し前向きに生きたいとも思います。ここで相談させていただいて、だいぶ前向きになれる時間が増えてきたような気がしていた矢先、また落ち込んでしまいました。 死って本当に悲しいです。ですが私も死んだ方がましとか、最悪なことを考えてしまう時がたくさんあります。もう何年も体に染み付いてるように、頭に浮かびます。 どうすれば、死にたいなど思わなくなるんでしょうか。誰にもわからないとは思うのですが、、、死にたいなど思うと言霊になったり、悪運を引き寄せたりすると思うのでほんとに辞めたいのですが、、