僧侶の皆様お世話になります。いつも感謝しております。 私の職業は占い師です。 占いが仏教の主義に反するものであることは重々承知の上ですが、修行を積み重ねられた僧侶の皆様のご意見をどうしても頂戴したく記しております。 私の仕事の形式は対面占い(お客様と1対1で会う)ではございません。 その為ご依頼くださったお客様には「ありがとうございました」と後日メールを送ることになっております。 そのメールなのですが、本当に苦しみの只中におられる方に対してどう書けばいいのか悩んでおります。 人は誰しも苦しみや悩みを抱えています。ですが、それがあまりにも大き過ぎて「消えたい」気持ちにまで追い詰められている方には何をお伝えすればいいか…私が書いたものが余計にお客様を傷付けないかと思うと不安な気持ちになります。 こちらが言葉を選んでも、それでお客様が元気を出すとは限りません。 人に本当に勇気や希望を与えられるのは神様や仏様だけだとは常日頃思ってはおります。 しかし私は仕事柄、いかにお客様に希望を持って頂くかを考えなくてはなりません。 どのように言葉を選んだら良いのでしょうか? 失礼な質問になり本当に申し訳ございませんが、回答をお願い申し上げます。漠然とした質問をお許しください。
人生は同じ事に繰り返しに思います。落ち込んで、元気になって頑張って、俯瞰して頑張る事に疑問になって、答えを出して、でもまた落ち込んで。私はずっとこの繰り返しで、趣味や興味があることに熱中したり自ら足を動かして行動する方ですが、人生はずっと同じ事の繰り返しだと感じます。 ネガティブなことの押し付けで申し訳ないのですが、この事を最近ずっと思います。 そして、同時に十分であると感じています。たのしい思いも、悲しい思いも、悔しい気持ちを一通りしたと思います。すごく幸せだと思います。でももう十分なのです。 今20歳です。これからの人生を生きていくのが大変だと思います。アドバイスがありましたら教えていただきたいです。
前回中絶した事について書き込みをし、とてもお優しい言葉を頂きました。 ですが、私の心の弱さから隠していることが多く、そんな中でかけて頂いた言葉に縋る事の申し訳なさや罪悪感に襲われたので今回は正直に書かせて頂こうと思います。 初めは産むつもりでした。相手の結婚の意思に限らず堕ろすという選択肢は私にはなかったのです。 ただ、妊娠を報告した時に初めて相手が既婚者だと知りました。相手の家庭事情を聞き、泣きながら堕ろしてほしいと頼まれました。その際心無い言葉も、正直たくさん言われました。 心無い言葉に傷ついたこと、知らなかったとはいえ産まれてくる子が不倫の子になってしまうこと、私が産むことで相手の家族が壊れてしまうかもしれないことを考え、堕ろすしかない。と諦めてしまいました。 大丈夫じゃないのに、泣いてる相手を励まし、大丈夫なふりをしました。 悪阻が酷くなり、仕事に支障が出てきました。職場に隠せなくなり、困った私は妊娠したけど赤ちゃんは育たなかったと嘘をつきました。まだ胎嚢しか見てなかった私は、それが事実だと思い込むようになりました。 お腹では赤ちゃんが育っていたのに、自分の心を守るために、お別れするその日まで私は嘘をつき続けました。 そして手術前日、初めてお腹の中の命を目の当たりにし、そこから術後までの記憶はほぼありません。我に帰った時にはもうお腹は空っぽでした。 私は、お腹の赤ちゃんの心も傷つけました。あれから毎日涙が止まらず、鬱になり、仕事にも行けなくなりました。 自死する勇気はありませんが、一日でも早く赤ちゃんのところに行きたいです。 でも、たくさん嘘をついて赤ちゃんを傷つけた私に逢いに行く資格があるのかわかりません。 水子供養も終え、今はお地蔵様に会いに行き手を合わせています。たくさん傷つけてごめんなさい。これ以上悲しい思いをしませんように。と祈るばかりです。 私のような酷い人間ですが、これから先どのように供養していけば赤ちゃんの傷が癒せるでしょうか? 月命日には必ずお参りに行けるように、家から1番近いお寺にお願いしました。 たくさんお参りにいく事しか今は思いつきません。
いつもお世話になっております、今日あるお寺さんにお参りした時に引いたおみくじ(厳密には違いますが)にあった言葉で思った事があるので質問いたします そこに書かれていたのは「足るを知る」という言葉で、自分でも何度か聞いた事はあるんですがこの言葉と自分の生活を良くしたい、豊かになりたいという考えは矛盾するのではということです。 足るを知るという事は、自分が恵まれていると感じる事でそれなら豊かになろうとする必要は無いのではと思います。これが足りないから手に入れよう、と考えるもので満足している、恵まれているならそれ以上は必要に感じる事は無いはずです。 数字で言うなら、90%を100%にしようとする事と100%を110%にする事は違うのだろうと思いますが、私にはこの違いがよくわからないのです。 世間で言う金運アップやそれに関する本やその他色々の媒体では後者を言いたいのだと考えていますが、大抵の人は前者で考えそうですし自分もそうなのではと思います。 例えば、年収を倍にしたいとか家が欲しいとかそういったことは現実としてそうなってないから望むのであって、なっていれば即ち満たされていれば望む事がない、望む理由がないのではと思います。 お腹が空いていれば何かしら食べようとしますし、空いてなければ食べる必要はないです。仏教だと欲自体は悪ではなく、どう折り合いをつけるかが大事と聞いた事があるので、欲自体を悪とは言わないのでしょうけど… 自分も含めて現状に不満がある、つまり足りてないから金運アップの行動やその他色々行動をするのであって満足していれば必要性を感じる事があるのだろうかと疑問に思いました。 自分の生活を良くするための色々な行動とこの言葉は両立しないのではと考えて質問しました。自分自身も生活の質を上げたいと思っているので、否定されたとまでは言わないですがこれまでの行動は実は矛盾しているのではと改めて疑問に思いました。 足るを知るからこそ、より良い生活を求められると言う人もいますがぱっと見でも辻褄が合わないように思えます。 より良い生活、豊かさを求める事と足るを知るは両立するのかどうかよろしければ教えていただければと思います。
今回で3度目の質問です。私は、バツイチ3人の子持ちです。先月6年一緒に住んでいた彼氏が会社で自殺しました。自殺した人は、たましいが自殺した場所に残るとよく聞きますが、私の彼氏も会社にまだ居てるのでしょうか?自殺した場所に1度でも行けるなら、行って一緒に帰ろと言いに行ってあげた方が良いのでしょうか?1度ぐらいじゃ自殺した人のたましいは、連れて帰れないと言いますが、1度でも行けるなら行ってあげた方が良いのでしょうか?教えて下さい。
最近近所の子供が家の庭に無断で入ります。呼び止めても逃げるので捕まえようがありません。これ以上庭が荒されるのは心苦しいです。 最近の親は子供を泥棒に育てたいのでしょうか。実に腹立たしいです。子供たちが家の庭に無断で入るのを防ぐにはどうすればよいのでしょうか。
自分はクリスチャン家庭で育ちました。天の父(神)とキリスト(神の子)を信じれば救われるという教えで日々祈り、聖書を学ぶということを約12年間続けて高校生である時ふと疑問に思うことがありました。 仏教もイスラム教もヒンドゥー教もキリスト教もどの教えも悪ではなく善を教えていて、どの教徒も疑うことなく自分の信じたモノに誠心を捧げて真摯に向き合っているのにどれかが答えで他はアウト、地獄に落ちる、罰をくらうというそんな酷いことあってたまるのだろうかと。 ましてや生まれつきの環境もあるだろうし、出会い方もそれぞれだろうし、無宗教もいるだろうし、そんな一つのものに答えがあるのなら世界人口の三分の二以上は落ちるのではないかと。 母に言及すると跳ね除けられてキリストを信じれば救われるの一点張りです。 牧師にも言及しましたが『信じないものたちは終わりの日(キリスト再臨の日)に悔い改めるチャンスがある。信じなさい』と言われました。 個人的にはそれがすごくショックで幻滅しました。 そこで自分は宗教というものから一旦離れて自分なりに解釈してみました。 この地球を一種の魂の試験場だと考えて良い行い(人に感謝されること)をし、肉体的にも精神的にも人として成長し、全うして生きれば魂ポイントが上がって皆等しく天国に行き、当分そこに留まった後また輪廻転生し、悪を働けば魂ポイントがマイナスになりその回収として地獄で訓練的なものをする(借金状態)、回収後は輪廻転生。 そしてこれを繰り返して魂ポイントがある一定数貯まると次のステージ(4次元とか5次元)でまた訓練して魂レベルを高めて最終的のゴールとして神(世界の創造主)と一体化もしくは神に近づく、という結論に至りました。 御先祖様、守護霊様の存在は固く信じてます。 ぜひ僕の考えについてご指摘あれば伺いたいです。 またお坊さんとしての解釈、回答者様自身の解釈を聞かせていただきたいです。 最近この事でムヤムヤしてろくに眠れてないです…。
おまじないをすることは悪いことですか? 誰かを不幸にするわけでは決してないですが、例えばですが、母の体調が少しでも改善されますようにという内容のおまじないの場合、相手に関わるものです。 この例えのように相手あってのおまじない、または自分だけに効くおまじないどんな内容だとしても 相手を傷つけるものではない場合でも悪いことになりますか?神様やご先祖さまなどはお怒りになるでしょうか もし、悪い呪い(のろい)をだれかにした場合は死後地獄に行くのではという考えなのですが、それは相手を傷つけるつもりのないおまじないの場合もそうなのでしょうか(もちろん実際に相手を傷つけるのろいなどはしません) おまじないに頼らず生きることが一番かとは思いますが おなじないが効く、効かないの問題ではなく、おまじないをすることについて、悪いことかご意見をお聞きできたらと思っております よろしくお願いいたします
良く苦しみは、幸せのプロセス と聞きます 自分自身、今いろいろな事で 悩み苦しみ、死にそうな思いをして もがき苦しんでいます よく自分の心を軽くしようと YouTubeなんかで、仏教や教えの 動画を見たりします そこで、良く言われるのは 苦しみがあるから幸せを感じれる と言う内容です そこで思うのが人間ってめんどくさい 生き物だな と言う事です 楽しい事や幸せな事を長く感じていると 飽きて苦しみたいと思う様になる それを乗り越えた先の幸せが 凄く楽しい、、、 ですが、単純にずっと幸せでも、 ずっと幸せと 思える状態なら、苦しむ必要も無いですよね? ではなぜ反対がある世の中なんでしょうか? あの世は永遠の幸せだと 聞いた事があります 生まれ落ちて修行するのは あの世で、永遠に生きていく 知識をこの世に降りて勉強すると 聞きました 不幸を体験するから人に優しくなれる 強くなると言いますが ずっと皆が幸せなら、そんな事 経験する必要も無いですよね? この考え方は、幸せだけの世界観で 狭く虚しいですか? でも皆が皆しあわせです ですが今僕はとても苦しいです これを乗り越えた先に幸せは あるとは思います 法則を信じているので ただこの法則自体に何かとてつもない 虚しさを感じます 何か教えを考えを頂けたら幸いです よろしくお願いします
私の妻は自分は霊感があり、憑依体質で、他人のしんどい思いや魂に取り憑かれる事が多く、病気や悩んでいる人に会ったり、電話で話すと、自分ももらってしんどくなることがあると訴えています。 また、神社を参拝して、神さまや仏様からのお告げが時々聞こえるようになったので、私の言うことを聞いてほしいと言うようになりました。 妻の言動にどう対応してよいか悩むことがあります。 仏の世界において霊、および霊感はどう位置づけられているのでしょうか?また、人間は神仏の声を聞くことは修行すればできるようなことがあるのでしょうか?
はじめまして 昨年大怪我をした猫が自宅庭に血だらけで来ました。動物病院へ相談をし餌を置いて馴れさせ捕獲して治療をしてもらい、結果罠にかけられ足先が無かったため外に戻すのは難しく家の中で飼育することに。 他に犬も飼っているのでこれからは自宅で飼うのは難しい為、それから来る子は去勢をして外へと戻していました。 1週間ほど前に母猫と4匹の子猫が来るようになり、小さいうちなら里親さんも見つかりやすいと思い保護しようと話していましたがまだ母猫から離すのは可哀想だと思い様子をみていた矢先、うちの車のボンネットの中に子猫が入っていたのを気づかず仕事へ向かいました。 主人は車に乗る前は車を叩いて乗っていないか注意して下回りも確認していました。なのでまさか乗り込んでいた事とは夢にも思わず車を走らせました。 20分ほど走って信号待ちして発車したときに何か踏んだ感じがありました… 助手席にいた私がミラーを見ると家に来ていた子猫ちゃんでした。 訳が分からなくなぜここにいるのかパニックになりながらすぐに引き返しましたがすでに亡くなっていました。 動物霊園に連れていき火葬してもらい共同墓地へ入れていただき、事故現場へお水と塩でお清めしました。 帰ると母猫が悲しい声で私を見て鳴きそれからずっと子猫を探しています。 その夜に1匹の子猫と1度だけ来ましたが他の子猫も来ません。 今は母猫だけしか来なくなり他の子猫はどうしたのか、まさか車に乗っていてどこかへ落としてしまったのか。 苦しくて苦しくて気が変になりそうです。 頑張って20分近くも車の中にいてやっと出れたのにひいてしまったなんて。 子猫が夜中に来てご飯を一生懸命食べている姿や母猫のシッポで遊んでいる姿が脳裏から離れず泣いてばかりの日々でどうしたら償えるのか、こんな酷いことをしてしまった事の後悔でいっぱいです。 もし餌やりしていなければ家に来ることもなく大きくなれたのに。 守ってあげるつもりが自分たちのせいで命を終わらせてしまったこと。 良かれと思ってやっていた事が間違えだったのか。今は何も考えられません。 猫の餌やりの場所にカメラを付けて家の中で見ているのですが、昨晩オーブの様な白い丸いものが長いこと漂っていました。 子猫が成仏できないのでしょうか。 今後どう償えばよいのでしょうか。 長文ですみませんが、よろしくお願い致します。
初めての質問で、ずっと考えていた、人に話したことの無い私の人生観の相談になります。 表題からまず、誤解せずに頂きたいのは、私は別に苦しいからつまらないから死にたいとは思ってません。 逆に、なぜ皆、自殺=悲劇、悪、禁忌という考えなのか理解出来ません。 私は自分の人生において、ある年齢に達した時に自ら死のうと決めております。 それは人生がつまらないだとか苦しいからだとかという理由ではなく、そこを自分の終着と決めたからです。 やり残したことや後悔などはきっとすると思いますが、それは生きている以上無くならないですし、無くしてはいけないものだとも思っているので、それも受け入れて自分に幕を引きたいと考えているのです。 その行為によって、自分が納得しているか否か関係なく周囲に必ず迷惑がその後にかかるということも承知してます。 それでも、人に気を使って私の自分で決めた終わり方をやめようとは思えません。 それゆえの、表題での根本的問いです。 本人が満足し、納得した自殺をなぜ悪く言うのですか? そもそも死が忌避される理由すらもわかりません。 世界の一つの理に対して人は勝手に忌避を覚えることに疑問です。 絶対に抗えない世界の理に対する意識とは『忌避』ではなく、どう捉え、受け入れるべきかなのではと考えています。 自然死を待つ、というのも考えてはいました。 幼い頃は長寿を望んでいましたが、なぜ長寿を望んでいたのかを考えた時、特に理由もないことに気がつきました。 で、あるならば、私はいつ死ぬべきなのか。 現時点で私は事故で死んでも、後悔、やり残しがありますが、それでも納得して死ねると思っています。 誤解されそうですが、死を美化して捉えているわけではありません。 自分自身で終着を決めることで日々生きているのだという実感を得ることが出来、そして自身で決めた終着にて、私という存在に幕引き、人生が完成を迎えるのだと思っているのです。 だから問いたい。 自殺への忌避と悪、そして逃避という捉え方は違うのではないかと。 仏教において、聞きかじりで申し訳ないですが、仏教は自殺が=で罪ではないということから、このような形で長年の疑問をご相談させて頂いております。 お坊さん方は、みなさん、自殺をどう捉え、そして生きているのでしょうか?
20代の学生です。 自分の気持ちをコントロールすることが苦手です。 例えば、やるべきこと、やった方が自分の為になると分かっていることも先延ばしにしてしまいます。 期限が近く、明確に決まっているものなら取り掛かれるのですが、期限が少し先だったり、曖昧なものだと先延ばしにして手を付けずにいてしまいます。 また、コツコツと積み重ねることで効果が出てくるようなことも苦手です。どうしても三日坊主になりがちです(そういえば三日坊主の坊主とはお坊さんに関係あるんでしょうか?)。 続けるぞ、と意気込んだ気持ちも日に日に薄れていってしまい、疲れてるから、気分が良くないから、などと考えてある日スパッと途切れさせてしまったことが過去に何度もあります。 再び意気込んで始めても繰り返してしまいます。 勉強、読書、ランニング、筋トレ、などやりたいこと続けたいことはたくさんあるのに、継続が出来ないのです。 メンタルが幼い、未熟だと日々痛感しています。 そこでお聞きしたいことは、 質問①物事を先延ばしにする癖を改善したいです 質問②三日坊主で終わらずに物事を継続したいです この二点です。 どなたかご意見頂けたらと思います。 よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっています。 ここしばらく深刻に思い悩むことが多く、死にたい気分に駆られています。 具体的に述べますと、今まで長らく頑張ってきたことが全然評価されていない、あるいはまったく成果を出していないこと、ならばもっと頑張れば良いのではと思っても年齢的な衰えか、思うように頑張れないという相反した現実にぶつかってしまい、辛いです。 このまま生きて努力してもどのみち結果は出ない、何者でもない役立たずで終わってしまうのは目に見えているような気がするので、もうここで終わりにしようかな…とずっと考えています。 良い歳をしてちゃんと自立もできていません。現実に向き合うのも辛いし、死ぬ考えに囚われているのもしんどいです。
大学生です。 最近心が不安になったときなどに、般若心経を唱えています。なぜ般若心経なのかというと、むかし母とお仏壇に向かって唱えていたので、覚えていたからです。特に宗派などはありません。 何度も唱えているので暗唱はできるようになったのですが、意味を特に理解しながらは唱えられていません(調べてもすぐ忘れてしまいます)。 そこで質問なのですが、お経というのは意味を理解しながら信念を持って唱えないと意味を成さないものなのでしょうか。 長い間気になっていたので、教えていただけると幸いです。よろしくお願いいたします。
以前からこのサイトを使っている者です。 約2年前に、精神疾患があり作業所に通うか迷っている等の質問をした者です。 その後再び症状が悪くなったりして結局どこにも通っていません。 快い回答をくださったのにすいません。 私は双極性障害なのですが、体がつらくなって起き上がれなくなるまで自分の具合が悪くなってることに気づけないことが多いです。 そこで、自分なりに「働くこと」や「一人でも生活できるようになること」ばかりに今まで目を向けていたけど、そもそも何でここまで疲れてしまうか考えてみたんです。 人に言いたいことがいえない、というか主張ができないんです。 大きな物事じゃなくて、テレビの音量を下げて欲しい、とか具合が悪くなりそうだからそっとして欲しいとか、その程度のことも言えないです。 その都度我慢してるつもりというよりは、ほんとに何て口から出したら伝わるか分からなくなってしまって、伝える努力をするくらいならとその時間が終わるのを待ってしまうんです。 普段からそんな様子なので、「あなたはどうしたいの?」って聞かれるようなときはすごく困ります。自分の中である程度の応えがあるから、モヤモヤしたり泣いたりするはずなのに肝心の言葉で何も返せないんです。 好き好んで、黙っている訳ではないはずなのにうんともすんとも言えなくなってしまいます。 そして、結局自分の考えを誤魔化したりして後から悩んだり、自分が思っていたことがよく分からなくなって辛くなったりします。 皮肉なことに、この思ったことを人に伝えるのが難しいってことを言うことも難しくて今まで誰にも話したことがないです。 この文章でさえ、書くのに三日かかりました。どうしたら少しでも自分の気持ちや意見を伝えられるようになるでしょうか。
死後の世界では、私が産まれる前に亡くなった祖父や、亡くなった曾祖母や、御先祖様に会えるのでしょうか。 また、私の事知っている・覚えているのでしょうか。。。 ご回答よろしくお願いします。
自殺対策は仏教の最も得意とする分野ですが、現状の効果はNPOのそれと大差がないのがはがゆいです。 もし輪廻転生が否定されるなら、自殺対策は有害無益で、むしろ自殺を奨励すべきです。 釈尊も若い頃自殺しました。(般若心経の呪文、梵天勧請) 仏教の目的は、涅槃(解脱、心の死)ですから、輪廻転生が否定されれば死後が無いので心は死んでいます。 まさに涅槃状態です。死即涅槃と言えます。 輪廻転生が真実であっても、自殺は諸刃の剣です。 釈尊のように涅槃状態であれば、自殺は奨励されます。 「厭離穢土 欣求浄土」と言う佛教語もある位ですから。 我々も、釈尊に倣って寿命が尽きる前に自殺によって涅槃を得なければなりません。 寿命が尽きた瞬間では多分涅槃は無理だと思います。 私はその修行の厳しさに初めから諦めています。 「現世安穏 後生善処」ならばまだ希望が持てますので寿命が尽きるまで待ちます。 しかし通常の自殺は防止しなければなりません。 何故なら心が死んでいないからです。 六道輪廻で脅しをかけるのです。 それも真実の脅しですから遠慮はいりません。 この自殺対策は有効だと思います。 ちなみに自殺者と通常の死者との死後の風景は、丹波哲郎制作映画「大霊界2」で参考できます。劇場映画ですからフィクションや甘さはありますので、その点は考慮が必要です。 輪廻転生が普遍化している国の庶民の思考については、 NHK「世界ふれあい街歩き」の「チンプー」(ブータン)が参考になります。
今年のおみくじは久しぶりに大吉でした。 「(前略)よき人の引立てにあずかります。」とありまして、そのあとに「けれど心正しくないと災いがあります」と続きました。 この最後の文について伺いたいのですが、「心正しく」とは具体的にどういうことでしょうか。 父は「世間一般的に正しいと言われることをしろ」と言いました。私は、一般論が必ずしも正しいとは思っておらず、こんな話をされるときは非常にもやもやします。 正しいこと、悪いこと、の解釈は人それぞれなのではないかと思います。つまり心正しく、とは、自分の良心が正しいと示す選択をしなさい、ということなのではないでしょうか。 それとも何か根本的に考え方が間違っていれば教えていただきたく。 回答次第で親と喧嘩しようというわけでは有りません、私自身の中で留めます。。
初めまして。 私はすごく仏教に興味があります。 お寺・神社・仏像等々、前々から興味はありまして「ぶっちゃけ寺」の影響だったりここ何年かの悩みもあり、仏様に救いを求めたいという事なのかもしれません。 ただどのようにして足を踏み入れて良いのか分からず、まずは何か仏教関係の本を読みたいなと思っているのですが、色々な種類の本がたくさんありどれから手をつけて良いのか分かりません。 初心者が読んでも分かる入門書の様なものはありますでしょうか?? よろしくお願い致します。