私は死ぬのがとても怖いです 死んだら天国や地獄があるのか、生まれ変わりはあるのかなど気になってしまいます これまで良くない事もいろいろしてきました 地獄が存在したら行くかもしれないです 無記や毒矢の例えなどで仏様は死後の事は考えなくて良いと仏様は説いていたらしいと少し聞いた事があるのですが、とてもじゃないが悟りなど開けそうにない私には死後、人間がどうなるのか考えてしまい恐れています 毒矢の例えの一方で仏教では天国や地獄の存在や生まれ変わりをも説いたりしていますが実際には、仏教ではそれらはあると考えているのですか? 仏教における死後の世界の事を教えて頂けませんか? 誰も死んだ事がないので本当には死後の世界があるのか、生まれ変わりがあるのかは分かりかねるのかともと思いますが、僧侶の皆様はどうやって死の恐怖から解放されていますか?
お世話になります。 今日、初めて仏教勉強会に参加させていただきました。 そこで、輪廻転生を教わったのですが、すんなりと『なるほど~』と思えれば良いのですが…。 私は、 *『死後の世界はないと考えたい自分』と、 今までの霊的体験や臨死体験から、 *『死後は、ちゃんとあの世に行ければ、それはそれは暖かくてまばゆい光に包まれる。だけれど成仏出来なければ霊魂としてこの世をさ迷うこともある…と感じている自分』がいて、 輪廻転生を、なるほどと受け入れることが出来ませんでした。 そういう「教え」を受け入れられなくて、南無阿弥陀仏をお唱えすることに矛盾を感じてしまいました。(仏教に対してではなく、自身への矛盾です)。 輪廻転生や、死後の世界、私の感じる矛盾について、どうお考えになられますか? 宜しくお願い致します。
高校生です自分が死ぬ事と親が死ぬことが怖いです。 親が死んでしまったあとの孤独感に耐えれない 親が死んだ後一人で生きていけるのか 死後の世界はあるのか 死後の世界があるなら親と一緒に今までみたいに暮らせるのか 死ぬ時って苦しいのかなど朝起きてから夜寝るまでずっと考えてしまいます、自分は学校もまともに行っておらず親に迷惑を掛けていて死んだあと親と一緒の場所にいけて、幸せになれるのか怖くて仕方がありません。死ぬことが怖くなってから今まで楽しかったことが何も楽しくなくなりました 昼ごはんも休憩時間に帰ってくるお母さんのために作っていましたがまともな料理が作れなくなってしまって親の前で泣いてしまいそうになってしまいます 朝と昼両親が仕事に行きますがまだ一緒にいたいと思ってしまい一人にしないでと思ってしまいます。 死の恐怖を親に相談していいのか分かりません。
自殺をすると地獄に落ちる、成仏できない、と聞きますが実際の所どうなのでしょうか。 何故成仏出来ていない方達は成仏出来ないのですか? 死後の世界はあるのでしょうか? 自殺をすると成仏できないのは何故なんですか? 自殺をするのが罪ならば、自傷行為はどうなんですか? 私は自傷行為をしているのが3回親にバレてしまいました。「お前は苦労していないからそんな事が出来るんだ」や「お前がそこまで人間性が低いとは思わなかったわ」と言われてしまいました。理解してもらえないんです。正直、他でもない実の親にそこまで言われるとは思っていませんでした。本当に辛いし、死にたいです。 あと、幽霊?魂?は、現世と死後の世界を自由に行き来することは出来ますか? また、成仏するのは死後どれくらいなんでしょう?49日経ってからなのか、死んだ直後なのか。。。
3歳の頃からピアノを習っていました。その頃からいつだって私の一番は音楽でした。 しかし、同じ時から「音楽だけで食べていける人なんて一握りだから(私はそうではないから)」と自分と家族に言い続けていました。ピアノ教室にはその後十数年間は通いましたがプロを目指そうとしたことはありませんでした。どういう理由でそんなことを言い始めたのか自分でもわかりません。ただ時々、音楽家になれない自分の苦しみを家族のせいにしたくなった時は、「幼いながらに家庭の経済事情を慮ったからではないか」と考えます。 映画と美術品と文学も好きです。そして、それらを創作する人々にどうしようもなく憧れています。 この質問のタイトルの「芸術家」について、「創作活動と表現活動が生活の一番大きな部分を占める人」と私なりに定義してこの名称を使いました。私はそのような人ではありません。今は大学の勉強、卒業すれば(今のままならおそらく)会社勤めを中心とした生活を送り、趣味で芸術に触るだけの人になるのでしょう。 「音楽だけで食べていける人なんて一握りだから」という呪いを無意識に自分にかけ続けてきた。それが呪いだということにも今更気がついて、残っているのは後悔だけ。 そして現在は、「音楽だけでは食べてはいけていない人」を見つけては自分を慰めています。自分からその人たち世界に飛び込むこともしない。私は醜いです。 音楽を、映画・美術・文学に置き換えても同じです。毎日、毎分毎秒、芸術を追いかけて、新たな芸術に出会うたびにそれを愛して、同時に「自分には創り出せる代物じゃない」と泣き喚く。 悲しくて悔しくて恥ずかしくて苦しいです。しかし芸術への執着に折り合いをつけたい訳でもありません。 ただ、こんな無様でみっともない人生ならさっさと幕を下ろしたいです。 この質問を書き込んで、これからも芸術を一番に愛します。芸術家になりたいなりたい、なれないなれないとどうしようもない事柄を嘆き続けます。自殺に失敗するようなリスクは取れない臆病者のまま生きていきます。
生きてる時の未来にはワクワクしません。 死後の世界を想像するとワクワクします。 きっと私は生きることには向いてないんだと思います。 お坊さん、ごめんなさい。
現在、大学4回生です 中学生の時、突然に「死んだらどうなるんだ?」ということに気が付いて恐怖のあまり嗚咽が止まらなくなったのを覚えています。親に相談しようにも、タブーに触れるようで出来ませんでした。 その時は考えに考えて結局わからないということで放置していたのですが、ここ最近になってまたその考えがまたやってきました。 地元の信仰が浄土真宗本願寺派だったのでその考えに基づき、死生観を考えていたのですが、納得できませんでした。 納得というか、信じきれてないというのが現状なのかもしれません。 真に信仰が出来ていたらそもそもこの質問が出ないことになりますから。 どうしても考え方に疑いを持ってしまうのです。「ホンマかいな」と。この「ホンマかいな」自体が信仰に対する冒涜、罪なんでしょうか。 化学に詳しいわけではないのですが、どうもその前提に結び付けてしまします。(無知なのは重々承知しています)生きている状態なのになぜ人の死後が説けるのか?とか。脳がないのに意識は死後存在し続けるのか?、お浄土は本当にあるの?などです 臨死体験も結局は死に切れてないですし、死後の見解が地域、信仰、人によってそれぞれ違うのも疑問です かといって「死後は無なんだよ」「意識はただの脳内の電気信号なんだよ」と言われればとんでもないくらいの恐怖にのたうち回ります。死後、体も感覚も思考も、自分自身も消えてなくなり、二度と目覚めることはない。そんな状態が永遠に続くと思うと... 様々な文献、記事を読み漁っても「そういう考え方もあるのか」程度にしかとれず合点がいきません。 今を生きることこそが大切、もっと他にすることがあるんじゃないの?と言われそうですが、そうではないんです。死後が知りたいのです。 利己的な見解ばかりで申し訳ありません 自分自身でも、どう質問してよいか漠然としててわからないのです 僕以上に、もっとつらい思いをしている人がいる中で... ここまでの人生、たった21年の短い人生ですが、何不自由なく生かされてきました。両親、祖父母そして周りの人々には感謝しきれません。これから、家族やお世話になる人達にいっぱい自分の受けたモノをお返ししていきたいです。 故に死の恐怖にここから先の人生を邪魔されたくありません。 どうか僕に納得できるようなお考えを教えてください。
お世話になっております。 柴田秋です。 私は10年ほど前に自殺に失敗しました。 複数回の失敗の上、死ぬのは少なくとも生きることと同じくらいには面倒で疲れることだと感じたため、久しく実行には移していません。 それから、どう生きるのかと同じように、死について考えるようになりました。 死後の世界とかではなく、死ぬことで私の周囲に与える影響についてという意味です。 迷惑云々や、コストや、私の心とは関係なく死後に振り分けが行われるのであろうなということなどです。 こちらの質問の回答に対して、疑問が浮かび上がりました。 https://hasunoha.jp/questions/38774 余談ですが、今は少なくとも怒りは自覚していません。 「仏教は死んだらどうなるの教えではなく、生きているからどうするの教えです」 とあります。 多分、きっと心構えのことをおっしゃっているのだと思いますが、疑問が沸き起こってきます。 背景は語りましたが、それはあくまで単なる動機です。 私のことは私で考えるとして、他者のことは私には分かりません。 よろしければ、質問に応えていただきたいです。 仏教の最終的な目標は、悟り、無限に続く輪廻から脱し、六道のひとつである天道に行くことではないのですか? 仏は天道に在すもののことですよね? つまり、死後のことこそが目標なのではないですか? あくまで、そこに至るための過程として、どう生きるかが重要なのだと思っているのだと思いました。 つまり、生き方は手段で目的は死後の行き先であると。 なんとなく、キリスト教やイスラム教、パスタファリアニズムの天国を目指すのとは異なるのだとは思ってはおりましたが、疑問が起こりました。 仏教は天道を目指し、輪廻から脱すること、つまり解脱が目標ではないのですか? 絶対の正解を求めているわけではありませんので、ご自身の考えで構いません。 ※私の拠り所とする科学(科学的方法)にも絶対の正解はありません。 あれらは、今のところ否定されていないというだけです。 当然、ご回答なされた方以外の方には、天道へ行くことを目標とされている方もいるかも知れません。 それぞれのご回答を伺いたいです。 よろしくおねがいします。
自分は、心療内科に通っている先生にこう言われたわけではないんですが、 (言われたかもしれないし、言われてないのかもしれないので自信はないです) 強迫性障害だと思われる症状に悩んでいます。 この強迫性障害(であってると思います;自信なくてすみません)のせいで、自分はかなり苦しめられています。 ここ最近の自分なのですが、断るごとに死後の世界の事を 知りたくないのに、不安を抑えられるず調べしまい どんどん自分を苦しめています。本当に辛いです。 普通に考えたら、死んだ後のことを考えるよりも 今を大事に生きる事が大切だとは、お坊さんの方々も言われるかもしれません。 死後の世界は、どうなっているかなんてわかりません。 本当にあるのかもしれない、ないのかもしれない。 それは、その時になればわかる事ですが・・・、 それでも、自分は頭に死後の世界の言葉やらあれこれ・・。 頭に浮かび、知りたくもないのに調べては自分の首を絞めています。 不安を解消するために。本当にあるかどうかは定かですが・・・。 もう、何も知りたくないんです。知っていい事と知らなくていい事って 世の中にたくさんあると思います。 自分も知りたくない事を知って怖くなって、苦しんでいます。 正直もう辛くて仕方ありません。助けてください。 もうこれ以上自分を苦しめたくありません。 なんでもかんでも過敏になったり敏感に反応する自分が辛くて仕方ありません。 辛くても泣けないので、本当に辛いですし、しんどいです。 生きるのも、しんどいのかなって・・思います。
こんにちわ うつ病になり何年も治らないですし、いろいろな治療をしたのですけど、もう治る見込みがないですし、疲れたので自殺しようと思ってます、 もう苦しすぎて限界を迎えました、 母からいじめを受けて育ってきて それが原因でうつになりました、 でももう誰も恨んでないですし後悔もしてません、 そうゆう運命だったのだと思えるようになりました、 本当によくやったと思います 自分を誉めてあげれるくらいに頑張って やってきて治療もいろいろしてきました、 もう限界です、 うつ病で自殺するのは 立派な病死だと思います、 もう生きる気力がないです こんな苦しい思いをしたのだから、自殺したら、死後の世界も地獄に行かず、神様も阿弥陀仏様も助けてもらえるのでしょうか? もう 死ぬのが怖くないですし 生きるのが辛すぎるので、 死後の世界を教えて下さい、 死んでは駄目だとか言うのは何回も聞いて 頑張ってきましたが、治る見込みがないので、生きろなどの綺麗事ではなくて、死後の世界を教えてもらえたら嬉しいです、僕はあの世でどうやったら報われますか? お願いいたします
死ぬのが怖いです。いつ死ぬのかわからないし,あと何年人生があるのかとかもわからないけど,死が怖いです。死後の世界がどうなっているのかもわからないし,とにかく怖いです。人間はいつかは死ななければならないし,親もいつかは死んでしまうとわかっているのですが、死ぬのが怖いです。自分もいつかは死ぬんだなぁとふと思うことがあって,怖いです。一人で夜泣いてしまいます。死は怖いですか?
あの世や霊魂の存在を考えないという姿勢は本当に正しいのでしょうか? 中学時代の世界史の教師が言っていたことですが 昔のインドはコーサラ国とマガダ国いう強国が存在し お釈迦様はコーサラ国に支配される属国の王子った 若い頃のお釈迦様は 文武両道で抜きんでた才能があり 父親の王も頼もしく思っていたが お釈迦様は心に悩みを抱えて引きこもるようになり、やがて城も妻子も捨てて修行の道を進むようになった やがて、お釈迦様の一族や家来の中に次々と同じ道に進むものが現れたため父親は非常に悲しんだ と話していました ウィキペディアの記述によると 【釈迦族は釈迦の晩年の時期、隣国コーサラ国の毘瑠璃王の大軍に攻められ皆殺しにされたという】 とあります。 お釈迦様の存命時に一族が戦乱で滅んだということですよね? お釈迦様は大国に従属する小領主の家に生まれ 日本の毛利元就や徳川家康のように名将とし躍進する才能・可能性があったにもかかわらず、その道を捨ててしまっために一族が滅んでしまった といったところでしょうか (毛利家は大内・尼子 徳川家は・今川・織田という強い勢力に囲まれていた) お釈迦様自体は死後の世界については「無記」として語らないという立場だったようですが、 私がお釈迦様の立場なら 死後の世界を考えることはそれ自体が 生き地獄で気が狂いそう(苦しんで自殺するかもしれない)になると思います。 死後の世界が存在したら自分の祖父母 両親などが 自分の一族が皆殺しになったことをあの世で悲しんでいることが明らかで 自分もその責任を感じるはずですから・・・ 歴史上では心残りな思いで亡くなるケースは多く 平清盛 武田信玄 豊臣秀吉などは 子供の将来を心配して亡くなったことも そしてその一族(弟や子供など)の末路が悲惨だったのも知られており 死後の世界があれば、彼らはあの世でも苦しみ続けているはず 話をお釈迦様の話に戻しますが お釈迦様の死後の世界についての「無記」という姿勢は自分の身の上に起こったことが原因でバイアスがかかっている可能性はないのでしょうか? 私にはお釈迦様は日本の建礼門院、信松尼、天秀尼などと同じ立場に思えるのですが 人間は生きていくうえで本当に「無記」と言う姿勢でよいと思いますか?
もう10年以上も前になりますが、母の命日が近付くと、色々と考えます。 不治の病を宣告された母。いわゆる「手かざし系宗教」の信者である叔母(母の妹)から勧誘され、藁にもすがる思いで行った本山で「あなたには助からない相が出ている」などと訳知り顔で告げられた母。 同行した父親も勧誘されましたが、断ったとの事。 (父も母も、元々は徹底した無宗教、無神論の人でした) 母は闘病中も死の間際も、「私が死んだら○○を宜しく」 なんて言葉は一言も言いませんでした。 私は、人の思考は死を思う為には出来ていないと考えます。 脳はあくまで、身体を効率よく動かし合理的に生き延びる為に、進化の過程で生物が獲得した器官であり、「死」なんて抽象的な思考を弄ぶ為のものではないと思うんです。 死んで肉体の機能が停止すれば、感覚器官(眼や耳、肌など)も停止し、仮に死後が存在するにしても、想像を絶する世界を見て、感じるはずです。軽々と「死後の世界」なんて言えるはずが無いです。 生物の脳も身体も、ひたすら生きる為に作られています。死ぬためにつくられてる訳じゃないです。だからこの脳、この身体で死について考えること自体ナンセンスで、飛ぶ為に作られていない私の手で、鳥のように空を飛ぼうとするようなものです。 お釈迦さまが死後を無記とした真意は… 私は、死後が浄土であれ輪廻であれ、あるいは本当に恐ろしい事ですが正真正銘の「無」であっても、仏教の救いに変わりはないと言う事ではないかと考えます。 人は死なないです。死の間際でも、風邪をひいたように、一晩明ければケロリと治ってると心の奥底では信じて最後の日まで生き続けるのではないでしょうか。 母は死の間際まで死を考えませんでした。少なくとも、口には全く出しませんでした。何かを悟っていたのか、一片の悟りもなく生にしがみついていたのか今では分かりません。 ただ、母の姿を思うと私も生の続く限り全力で生きたいと思うばかりです。 「生きてる時は死んでいない、死んだら生は無い、だから死は存在しない。死を恐れず、生を全うせよ」と言ったギリシアの哲人に、私は賛成です。 こーゆー考えもまた、妄想でしょうか? 「これだけ問答を重ねて、君はまだ何も分かってない」とお叱りは覚悟の上です。 日々、人の死と向き合っているお坊様方の実感を聞かせて頂ければ嬉しいです。
以前こちらで相談したのですが、最近になってまた死が怖くなってきました。 もちろん、自分の死もですが親の死や友達の死も怖いです。 考えても無駄と言うのはわかりますが、不安で仕方がないのです。 ネットで調べて見ても、臨死体験と言って、死後は無と言ってる人と天国があると言ってる人もいてどっちかわかりませんし、死後の世界は考えにくいらしいし、どうすればいいかわかりません。 親が死ぬのが怖い、友達も、いつかできる彼女なども死ぬのが怖い、もちろん自分も。 どうすれば良いでしょうか?死後の世界は架空の世界でしょうか?それを考えると色々なことを楽しめず、朝食を吐いてしまったり、どうすればいいですか?お坊さんは怖くないのですか教えてください。お願いします。 後、死後の世界があったらおじいちゃんとおばあちゃんだらけじゃないですか?しかも、僕は死んだら親を求めるけど僕の親はおばあちゃんを求めて、おばあちゃんはひいばあちゃんを求めてってなりませんか?考えすぎでしょうか?
私は完璧主義者です。でも何事も完璧にやりきれるだけの能力はありません。 完璧な秩序のある生活や思ったことを完璧なやりきることへの執着心がとても強い人間です。だから一度のつまづきで全てを放棄したくなります。 ただ、現実に社会は混沌としています。それだけでなく、身の回りのことや仕事に完璧な秩序を保つことの能力が私には欠如しています。そのギャップにとても苦しめられています。自分で作ったルールを遵守できないこと、予想外のアクシデントで自分の計画が狂うこと、このようなことが本当に本当に苦痛です。 こんな混とんとした世界で生きることが果たして幸せなのか。娘や家族への情だってもちろんありますが、それを感じる主体がいなくなればすくなくとも私の気にすることではなくなります。おまけに私は利己的な人間です。考える私がいなくなればそれで残された人への想いも断ち切れます。 死んだら思考する私はいなくなります。苦痛を感じる器官もなくなります。それだけでこの世界を離脱することが大きな救いになると感じるのです。 死ぬことは怖いです。でもなぜ死んではいけないのか、よくわかりません。残された人は悲しむかもしれませんが、死んだ私にはそんなこと関係ないとも思うのです。 生きるか死ぬか、そのことが頭をぐるぐるしています。死んではいけないような気もしますが、とにかく死にたさが頭を覆って、でもそんな勇気はなくて、生きることに手がつきません。 死ぬことは果たして救済なのでしょうか。死後の世界については信じることはできません。それにこんな相談をするくらいですので生きたいという気持ちもないわけではないと思うのですが、この先もっと大きな挫折を味わった時、そのような自分を許すこともできないと思うのです。 この場でこんなことを質問していいかもわかりません。ただ、なんとか生きやすく生きていける方策があれば楽になれるとも思うのです。死と生について私なんかよりも深く考えておられるお坊さまに何か知恵をお借りできないかと考えています。 まとまらない文章で申し訳ありません。何卒よろしくお願いいたします。
ご閲覧ありがとうございます。 数年前くらいから、寝る前に毎回死ぬことを考えてしまい、自分の存在が消えて無くなるのに怖くなります。日中考えることもあるのですが、夜ほど怖くなりません。 家族に相談したらそんなもんだよ、と言われて、その時はそんなものかと捉えるのですが、夜寝る前に死ぬことをまじまじと想像すると、怖くなります。 死ぬことを考えるのは生きる意味や人生を考える上で大切だという考え方には賛同しますが、死ぬのは怖いです。まあ、そのおかげで今は一生しかない人生を自分のやりたいように、生きていけているのですが…。 どうしたら死を受け入れられますか?ちなみに、私は職業や性格柄、今まで自分の世界に没頭し続けて来たせいか、宗教に無頓着です。最近は宗教に興味が出てき、宗教の教えを知ることで死ぬことを克服できるのかな…とも思いますが、どうでしょうか…。 ご回答よろしくお願いいたします。
タイトルの通り、人は死んだらどうなるのでしょうか。 よく、死んだら極楽浄土に行くというような話を聞きます。それは本当でしょうか。本当に天国と地獄はあると思いますか? 私は生きてる今が地獄のように思えることがあります。死んだらただ無の世界が待っているとしか思えません。それに、死後人の魂は輪廻転生するものなのですか?魂というのも正直よくわかりません。 また、ある人が自殺は人殺しだと言っていました。仮にそうだとして、自殺をしたらいけない理由はなんでしょうか? 私は、生きるのも死ぬのも本人が選んだんだしなぁと思ってしまいます。本当に極限まで追い詰められて、もうこれ以上は無理だ、と自殺したとしても、本人が選択したことであって、それは他人が責めることではないかと思います。 苦しみから救われるために、宗教があるのでしょうか。本当に南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるのですか? 私は時折夜中に、死についてあれこれ考えて、急に死をリアルに感じ、とてつもない恐怖が襲ってくるときがあります。 かと思えば、本当に心が疲れきって、すべてがどうでもよく思え、さっさと人生を終わらせてしまいたい時があります。 私の中で、怖い死にたくないという気持ちよりは、死にたい終わらせてしまいたいという気持ちが強いです。けれど、死んでしまいたい等と言うと、親には物凄く怒られ、友達にも説教されてしまいます。 私は現在、至って健康ですし親にも友達にも恵まれいじめられてもいません。大学にも行かせてもらい毎日充実しています。周りの皆には感謝することばかりですし、当たり前ですが死んでしまいたい等と言っていい身の上ではないのです。 それに、人間いつか死ぬんだから今じゃなくてもいいんじゃない、と思うかもしれません。私もそう思います。けれど、どうしても早く全てを終わらせてしまいたいという気持ちが拭えないのです。 この気持ちはどうすれば無くなるでしょうか。気持ちを消すなど浅はかかも知れません。けれどそれならば、どうすれば生きたいと思えるのでしょうか。 最初の質問からずれてしまって申し訳ないですが、よろしくお願いします。
8年程前に兄が不慮の事故で亡くなりました。22歳でした。年月が経った今でも毎日、お経を唱え墓参りをしています。亡くなった直後の夜、父の夢に兄が出てきたそうです。スマホの充電をずっとしていてほしいと言って消えたそうです。 これは兄なりの別れの言葉だったのでしょうか。スマホは画面ロックがされているため開くことができませんが、充電は毎日しています。 また、たまに仏壇や座敷から兄が吸っていた煙草の匂いがします。愛犬も何か気配を感じるのでしょうか、兄の写真を飾っている机の前に座りずっと一点を見ています。これは兄が家に帰ってきているのでしょうか。もし帰ってきているのであれば、直接、兄に伝えたいことがあるのですが、それは兄に聞こえるのでしょうか。
たびたび本当に申し訳ありません。 私は、今謝罪しようか迷っていることがあります。 試食で1人1個と書いてあるのにそれ以上とってしまったことです。お店はわかっています。連絡をとろうと思えばとれます。家族に相談するといや、迷惑だし、商品をその分買ったじゃないと言われました。確かに忙しい中迷惑だろうし謝るとしても手紙だろうと思います。 でも、この謝罪は反省と申し訳ないという気持ちもありますが、ちゃんと謝罪しなければ死後に罰が下るのではという自分の発想が離れないせいもあるのです。 あくまで自分の発想だと理解してます。でも、死後のことは誰にもわからないのでもしかしたら今謝らなかったことで死後に罰があったらとても後悔するだろうと思っています。本当に死後の罰が怖いんです。誰もわからないからこそこれで罰があったらって謝れるのに謝らなくて罰があったらって怖いんです。謝ろうと思えば謝れるのにこれで罰があったらとてもとても後悔するだろうって。 そのため、1つの値段で2つ貰ってたのに黙っていた祭りの露店など最近は普通ならば諦めるような連絡先も探さなきゃいけないと思ってしまいます。 とても反省しています。 これからは善いことを出来るように頑張りたいし、はやく元気になって家族を安心させたいです。 でも、後悔と罪悪感と恐怖で吐き気がとまらないです。 弱い自分で本当に申し訳ありません。
いずれ寿命、病気、事故で死ぬ時がきますが死後の世界は現世の人の想像でしかないので死ねばおわりとしか思えません。死ねばうまれる前と同じでこの世に存在せず無になるだけという人もいました。 何度か火葬場でたちあいしたことありますが遺骨みると本当にさっきまで肉体あった人だったのにと思え何ともいえない気持ちになりました。自分も死ねばいずれ骨になるとはわかっていても火葬は数千度の高温でやくし嫌だなと今も思います。 日本は国土面積狭いので火葬が一般的ですが土葬できる場所もあり探しましたが管理者の話では白骨化するまで土にうまってるから火葬ほど骨もきれいに残らず土の下は苦しいですよといわれ気分が暗くなりました。猫ぐらいの大きさの小動物を土葬した場合の経過画像が掲載されたサイトがありみましたが人間より小さいのできれいに土に帰っていました。人間はそうはいかないのだろうなと思いますが。家族は皆火葬でいいといってますが私だけ土葬希望した場合一人だけの墓になります。死ぬ時は皆一人といいますが死後墓に一人というのは普通ですか。欧米のように土葬が普通ならかぞくの墓ではなく個々の墓になるので当然ですが日本は家族の墓という考えが普通なので。 多分20年後気がわりして自分も火葬でいいとなれば家族と同じ墓ですがやっぱり土葬希望だと自分で場所探し墓地購入しなくてはならないので先の話とはいえ気が滅入ります。土葬より凍結があればそれがいいですがその制度自体今はないので。 なぜ皆、火葬でいいといいきれるんですか。死ねば感覚も神経も死んでるので熱いわけないんですが数千度で焼くというのが私には火あぶりの刑と同じ残酷なことにしか思えず子供の時からずっと嫌だなと思ってます。 子供の時初めて火葬場へいった時、寒気と恐怖を感じたのを今でも覚えてます。