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葬式をあげてほしくない

回答数回答 14
有り難し有り難し 411

死後の事についてご相談があります。

私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。

私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。

ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。

そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。
特に仏教式の葬式です。

なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。
悟りも輪廻も御免被りたいです。

衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。

家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。

死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。

ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。
(論理、公理とは数学上の意味です。)

ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。

ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。
渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。

私は人間らしさを捨てたくはありません。
仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。

さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか?
それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか?

相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 14件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

かなり荒っぽいですが禅に近い発想かな

禅にはあえてお坊さんらしくしない伝統『も』あります。

>悟りも(中略)御免被りたい
→煩悩即菩提
※意味が1つではない単語なので注意

>(前略)輪廻も御免被りたい
→禅では輪廻を死後の状態ではなく心の状態として捉えている

>無いことの証明は極めて難しい
→お釈迦さまの「無記」の教え
→肯定することも否定することもできないのだから考えてないで修行しろ。変に肯定することも囚われだが、変に否定することも肯定と表裏一体なだけで囚われている。

>仏教という枠に囚われてしまう
→禅的アンチ教外別伝
→そもそも仏教は「枠なんぞ認知の問題に過ぎない」と説いているのに、枠の内だの外だのってズレてるでしょと反論

以下は個人的な視点

>死んだらゴミ箱に
→焼骨の体重に占める割合は全体の1割以下だか1%以下だと大学の同級生が言っていました。では、自分の身体の9割はどこに行ったのか?煙になってお空に。そちらに着眼してはいかがでしょうか。

>葬式をあげてほしくない
→よそのQ&Aでお骨を拾わなかったことを後悔する質問を見かけたことがありますので、火葬場としては探せばやってくれるでしょう。
ただ、ウチのお檀家さんでお父様が献体をご希望なさった時のことです。献体に出すと遺体が2-3年返ってきません。かと言ってそれまで待つわけにもいかないので、お骨もご遺体もなしでお葬式を挙げました。するとですね、お嬢様が「お別れした気になれない」と言って泣いていらっしゃいました。あらかじめ家族の了解を得ていてもそうなるのですよ。それが人情です。

渇愛渇愛って、そういう人情を思い遣ってこその渇愛であり、人間らしさでしょう?

お葬式をしなければ年単位で「存じませんで大変失礼しました」とお香典が届く。お香典辞退で…と伝えていても「せめてお線香の一本でも上げさせてください」とお見えになる。裏事情としてはこういうこともあります。お葬式自体が社会人としてのマナーです。
そんなお付き合いが全くないなら、行政が世論の批判を浴びない程度にやってくれますから心配無用です。

私の師匠は「死んだら地域のお寺さんや総代さん方とよくよく意見のすり合わせをして、好きにやりなさい。どのような形になっても私は気にしない」と言い遺しています。本当に囚われがないというのはこういうことです。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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お葬式は、故人のためでなく、遺族のもの。

ですから、
故人の遺志は尊重されますが、
決定権は施主さまにあります。
結局、ご遺族がしたい型のお葬式になります。

柴田秋さまがそのように希望されても、
その通りのお葬式になるかどうかなんて、
死んでしまっているから注意できないし、
心配しても気にしても、
どうすることもできません。

柴田秋さまの宗教観は、
私は尊重しますが、
それをご家族にも理解してもらえるよう、
時間を掛けるしかないと思います。

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おきもち

和田隆恩
 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生ま...
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葬式の話はさておき

沢山回答を集めてるのがあるので、参加!

柴田秋さんのお考え、、実はうちの母親も似たようなことを言ってました(苦笑)

映画「世界の中心で愛を叫ぶ」が流行ったとき、散骨が流行りました。
「私のお墓の前で~」が流行った時、墓参りが減ったそうです。

そんなブレブレの最中、自らのポリシー貫くのはいいと思いますよ!

でもね、自分の愛する家族の骨をゴミ箱に捨てたがる人はいないと思いますよ。
だから、そんな悲しいこと言わんといてくださいね。

人間らしさって渇愛だけじゃないとも思います。というか、渇愛として冷静に捉えることができるから人間なのだと。

でも、動物って、必要以上は食べない、不必要なものは欲しがらない、自殺しようとせず過酷な環境でも必死で生きる、無益な殺し合いもしない、環境破壊もしない……

人間はどうですかね?
動物のほうが知足して、むしろ人間のほうがよっぽど渇愛してる気がします。

動物にはできない人間らしさって「死を考えることができること」「神仏の存在を信じれること」だと思ってます。

よりよく生きることを求めることができるのが人間です。

話がそれましたが、本題の

「これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか?
それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか?」

どちらもせず、そのままでいいかと!
いざ自分の死に目が分かった時、もしかしたら違う考えも沸いてくるかもしれませんし、今あえてポリシー変えなくていいんじゃないでしょうか。

自分の体も諸行無常、自分のポリシーも諸行無常。
家族仲良く、よりよく生きましょう(^_^)ノ

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おきもち

困っている人や悩んでいる人にとって、仏さまの教えが少しでも良薬となれること...
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面白い方ですね。

全く共鳴も共感もできませんが、考え方としては面白いです。ユニークです。
私は否定も肯定もしませんよ。仏さまさの教えを人を否定したり、非難する教えではありません。
たったいま、この身のままこのどうしようもない私が救われる教えだからです。
あなたはあなたの信念に基づいて生きて行かれたらいいんじゃないですか?
ここで、坊さんに聞いても仕方がないように思いますよ。
いろいろな問題に直面して、仏教という枠組みなかで、何か違う話を聞きたい。
生きる上での意見を聞きたい人が問う場です。
仏教という枠組みの外にいらっしゃるのだから、聞いても仕方がないように思えます。
私がお答えしているのは、大変失礼な言い方かもしれませんが、哀れみを感じたからです。
共感されていらっしゃる、スパゲッティ・モンスター教ですが、そもそもの起こりは、
人間はサルから進化したという進化論とインテリジェント・デザイン説(ID)、何等かに絶対的存在、
まあ創造主ですね、その方が作ったというお説の、この2つの説を教育現場で掲げなさいいう方向性
対して反対の意思を、パロディーで表現したものと私は考えていますが、
公的機関でのキリスト教的思想の介入に対するある種の問題提起をしてもと、
考えられるところ、このサイトで問題提起をするあなたの意図が全く理解できませんね。
なぜなら、ここはあなたのお気持ちを尊重していますし、なんの介入もこちらからしていないからです。
葬儀をしようが、しまいが、あなたの自由、お骨は散骨されたらいいんす。
ただそれだけですね。信じないのもあなたの自由ですが、勝手に縛られてしまって、
何故縛られるのかと聞いているわけです。
仏さまは誰も縛りませんよ。私もあなたもね。
信じていないと言いながら、輪廻や悟りいう言葉に縛られていませんか?
誰も縛っていませんから。あなたがあなたを縛っているのだから、
単に自分自身の既成概念のように思えますよ。
何度も言いますが、あなたは仏教を信じなくてもいいんです。
概念や言葉に縛られないように、それが私が哀れを感じた理由です。
ご自身の信じるままに生きたらいいんですよ。今瀬は。
私は来世も、阿弥陀さまも信じていますか。
幸せです!!

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おきもち

浄光寺の三浦康昭です。 くよくよと考えてもしかたがありません。明るく前向...
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仏教がそんなものならば一緒にゴミ箱に入ってあげましょう

近所の中華料理「蓮華」の麻婆&担々麺にハマっている三度の飯より中華料理大好き(飯だ)坦々丹下と申します。私も僧侶ですが仏教に所属なんてしてません。本来仏教って仏教に所属するとかいうものではなく、そういう思考や偏見・個人思想・個人主義を卒業するものです。
お釈迦様も、会員登録してません。
もっとおおらかなものですよ。
あなたは自分の死後に「戒名をもらうと仏教徒になるという偏見」を持っているだけかと。
周りの坊さんも見てください。仏教学んだにしてもあなたのような個性的な発想は生じていないでしょう。仏教言いましても色々です。だから厳選してマトモな先生に師事するのが良いと思います。
死んだらゴミ箱にポイで構わんという感覚は悲しい思考沼にハマっているといわざるを得ません。何かあったのでしょうから相談のります。
私も仏教・仏教したものや胡散臭いものは嫌いです。
だからこそ「そのヘンテコなくくりにとらわれたくない」という気持があなたにもあるんでしょう。
本来仏教とはそんなアヤシいもんじゃない。ご安心を。
モチロン中には偏った思想仏教もあるでしょう。キリストでも変なものがあるでしょう。それは個人思想というもの。
そういうのにくくられるなら私もゴメンこうむりたい。私もゴミ捨て場に一緒に入って枯れ木に花を咲かせましょう。
死後の世界について一人妄想せず、ちゃんと学んだ方がいい。
死後の世界とは、あなたや親・友人が死んだ後も残された人が生きていく、この世界をこそ死後の世界というべき。
どんな死に方をしても、その影響力は残る。だからちゃんと生き、ちゃんと死んでいくべきです。
輪廻ということも誤解している。どこか、この世以外のところで無限ループ∞している空想ファンタジー世界を妄想していると思います。
そういう根拠のないアヤシい思想も全部仏っ飛ばして、真実自己に目覚めて安楽になるのが本当の正覚(サトリ)です。
悟り臭き悟りは真の悟りに非ず。
悟ったって、人間らしさは残ります。
虚無悟りやスピリチュアル系の悟りと、サトリ世代と仏教の悟りとは別物です。
あなたが今まで仏教だと思い込んできたのはあなたのフィルター越しの「仏教とはどうせこんなもんだろう」的な個人思想であって仏教と混同しない方がいいです。
坦々タンゲの麻婆坐禅会にどうぞ。

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おきもち

日本人は生まれながらにしていずかれの宗教には縁がある

「宗教に基づいた慣習やイベントは好きだけど云々」というのは結局は自分に都合のいい部分しか見てない、見たくない、といったことでしょうか
それに関してはご自由にどうぞ、とそれくらいのものですがちょっと勿体無いかな、と思う程度です

空飛ぶスパゲッティモンスター教に関してはぶっちゃけ「お前それ言いたかっただけやないかい!」と言っておきます、それだけでパスタファリアンを名乗るのは本家パスタファリアンに失礼、1回しっかりと教義を勉強してらっしゃい

さて、根本としての間違いは戒名をもらった時点で仏教徒になってしまう、というあたりでしょうか
日本は多くの宗教が入り混じり、お寺に行ったり神社に行ったり仏壇あるのに神棚あったり
成長する過程でどこかしらの宗教に縁があります、おみくじ引いたり初詣行ったことあるなら神道だしお寺に一歩でも足踏み入れたり両手を合掌したことがあるなら仏教徒
いただきますの両手合わせるのも含みます、幼少の頃からただの一度もしてませんか?

ついでに言っとくと輪廻をごめん被りたいとか言ってもだめです、言ったところで輪廻するもんは輪廻します、諦めなさい
信じる信じないは個々人の自由であり、好きになさったらよいかと思います、拒否感を前面に押し出す方に無理に文字だけで信じろと言っても難しいでしょうし
ただ斜に構えて仏教思想自体を批判したいだけなら日記帳にでもお書きください。

さて、では最後に質問に答えましょうか

考え方を変える努力をしたほうがいいかどうかを決めるのは貴方自身です。
変えなければ自分が困ると感じているならば変えられた方がよろしいでしょう。
貴方が自分の考え方を貫きたいと思うのならば貫けばよろしいかと、ご自分の心でお決めになりなさい。
自分がその括りに囚われたくないから自分の意志を家族に尊重してほしいならそう言い続けることです、それを貴方が亡くなったあとで決めるのは残った家族次第です。

で、あるならば貴方にできることは家族になんとしても貴方の意志を尊重してもらうよう日頃から言い続けて考え方を植え付けるしかないでしょう

もう少し肩の力抜いてみな、仏教そんなに悪くないぜ

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おきもち

悩み苦しみを減らす道が仏道

渇愛を完全になくして輪廻から解脱できれば悟りの頂点ですが、仏教が取り扱うのは、輪廻からの解脱だけではありません。
日常生活の悩み苦しみを減らすための教えが仏教であり、その延長に渇愛の消滅が見えてくるのです。

要は、悩み苦しみの原因は煩悩である、ということです。
「葬式をあげられてもあげられなくても、どちらでもよい」と思えたら、悩み苦しみは一つ減ります。
欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩が、「葬式したい」「葬式したくない」という執着につながり、ストレスにつながります。
「どちらでもノープロブレム」と思えたらよいですね。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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ご自由にどうぞ

何か勘違いしているようです。
仏教とは楽に生きる為のお釈迦様の教えなのです。
ですが、あなたは特に苦しんではいないようなので、そのままでもいいですよ。
ある意味その生き方、楽な生き方も仏教的には正しい生き方とも言えます。(あくまで私個人の意見です)

葬式は遺言書でも残しておいたらどうですか。
エンディングノートもありますよ。
火葬は火力を上げて時間を延ばせば骨を残さず燃やせますよ。灰は少し残りますが。

また何か悩みや疑問があったら質問してくださいね。( ´ ▽ ` )ノ

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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思索して経巡ってのち年老いてなお見つからぬ人間の鍵

いまのお考えが人生の最終的な結論として、この世の終わりのその日の夜明けまで持ち続けているかどうかは誰にもわかりませんね。かくあるべしという結論に到達した人はいないのかも知れない。悟りだって課程的なものかも知れません。人間の様態は多岐にわたっていますから、たったひとつの正しい在り方や真理なんてものはこの世にないのだろうとおもいます。
私は親しくしていた友人の画家が死亡したとき、細君が無宗教で葬儀をしたいので、山内さん司会を是非お願いしたいと頼まれて、快くやってさしあげた経験があります。
世間的には、お坊さんの私には枕経を頼まれお葬式の導師を頼まれるのが普通かも知れませんが、奥さんは葬儀屋さんに取り仕切られてのありきたりのセレモニー風の葬儀も、仏教の葬儀にも抵抗があったのでしょうね。
若いあなたが今から葬儀のことなど気にされてるとは思えませんがそれについて思索、考察されていることは良いことです。
仏教にも他宗教にもいろんな宗派が分派しているのも、ひとは立場によって考え方が変わるのだということです。
立場はその立場に立つ者にとってのみ立場たる意味をもつ、という田邊元さんのことばがありますが、止まず思索を深めてください。

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おきもち

山内 宥厳
楽健法と楽健寺の天然酵母パンを普及しはじめてかれこれ半世紀になります。楽健...
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経験が貴女に変化をもたらすはずです。

貴女がどの様な考え、どの様な行動をとられようと貴女を尊重致しますし、貴女の自由です…私が貴女の思考にとやかく首を突っ込む事もないのでしょう…。

只1つだけ、貴女も今までに1度や2度、義理であろうがなかろうが故人様の遺影に手を合わせ「きちんとお別れをする」という意志のもと、お葬式に参列された経験がおありだと思います。

仮に、これまでお葬式に参列された経験がなかったとしてもこれから先、貴女のご両親が亡くなられたらきっとお葬式をされる事でしょう。
そうなれば貴女も遺族として座られる事になるのです。

その時、自分を生み育て、大人になっても温かく見守り続けてくれたご両親に対して自然と溢れ出た感謝の念から手を合わせ、心からの追慕の念が生じるのだと思います。

恐らく貴女の死後においても、貴女に対して感謝の念、追慕の念を抱かれる方が必ずいらっしゃるはずです。

自分だけの土俵内(気持ち)を注視するのではなく、そういった貴女の周りの方々の気持ち、想い、人情を汲み取った上で、更にはこれからの人生における様々な経験を経て、その都度臨機応変によりよい判断を下されるべきでしょう。

貴女の生も、
貴女の死も、
貴女だけの問題、
貴女だけのものでは無いという事をお忘れなく。

隆介 合掌

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おきもち

少しでも皆様のお気持ちに心を寄せて行けたらと思っています、どうぞ宜しくお願...
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哀れ

哀れ。
人間らしく生きることを捨てるとは。

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「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れ...
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悪魔の証明という悪魔

柴田秋様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」・・始めて知りました。

「アーメン」と祈る代わりに「ラーメン」と唱えるのですね・・

三度の飯よりラーメン大好きの丹下さん、出前です、いや、出番です。。(あ、でも飯やん・・)

創造主の問題や決定論・宿命論の問題、インテリジェント・デザイン説の問題・・と凝り固まった思想信条をほぐす上で、色々とどこか考えさせられるところがございますよね・・

「スパゲッティ・モンスター神が存在しないという明確な証拠さえ提示されるのであれば、スパゲッティ・モンスター神が存在しないという事さえ否定しない」・・悪魔の証明を持ってくるとは・・

「教祖や教団にお布施をする代わりに、そのお金は「貧困をなくす」、「病気を治す」、「平和に生きて、燃えるように愛して、電話の通話料を下げる」のに使う。」・・

「電話の通話料を下げる」という意味が分かりませんが、意味を問うこと自体に意味はないのでしょうね・・きっと・・

とにかく、貴女様が「悪魔の証明」を持ち出されてしまう以上は、詭弁を説く小悪魔となりかねず、それ以上、議論も話し合う余地もなくなってしまいかねません・・

拙生が、「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」のことをざっとながら少し勉強してみましたように、仏教のことを一通り勉強されて、もっと正確にご理解を賜れましたらとは存じます。

仏教では、仏教という枠の中でしか通用しないような真理を扱っているわけでは決してありません。

例えば「空」や「縁起」という全てのモノ・コトに共通している真理も扱います。

そして仏教では、決して、「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」を全面否定するわけではありません。

その者の迷い苦しみを真に解きほぐしていくために役立つものであるならば、方便として、「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」の教えであっても便宜的に利用させて頂くものとなり得ます。

いわゆる「対機説法」、「応病与薬」ということになります。

但し、最終的には、仏教における悟り・涅槃へといざなうことにはなりますが・・

制限字数の関係上、ここまでにて。是非、もっと色々とご質問を頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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人の考えは変わることもあります(^^)

葬式がしたくないならしなくてもいいです。
ただ、立場が変われば考えも変わるかも知れません。

仮にとても大切な人がいたとして、その人が亡くなってしまったら...
仮に子どもが出来て、その我が子が幼くして亡くなってしまったら...
葬式はしてあげたいと考えが変わるかも知れません。

「死後はない」と考える方は多いです。
しかし、そんな人が大切な人の死を通して「あの世で幸せになってほしい」「私もまたあの世で会いたい」と、考えが変わることがあります。
私はそんなご縁をご一緒させて頂きたいと心から願って、浄土真宗の僧侶をしています。

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おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...
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葬式は仏教の専売特許じゃないですよ。

こんばんは。

葬儀がご家族の間で争議になるのは悲しいですね。

葬儀は仏教の専売特許じゃないですよ。
仏教があって葬式ができたのではありません。
死んだ人を処理する一連の流れの中で宗教や作法が生まれてきたと思う立場です。

なので、特別な式は必要ない。
という言い方でご家族には説明されればよろしいんじゃないでしょうか。

死んだら河原の魚に身を捧げてくれと言ったお坊さんもいますし、
ミイラのような感じで仏像の中に取り込まれたお坊さんがどんな葬式をしたかも分かりません。
また死後、献体を希望された念仏詩人もいらっしゃいました。
仏教に帰依したお坊さんの中でも死の作法はいろいろですね。

仏教って籍を置いたり属したりという直接的なかかわりだけでなく、間接的なかかわりもあるかと思います。
死の間際だけ仏式がちょっと混じったからといってそれは所属にはならず
空飛ぶスパゲッティモンスター教祖様が浮気したと怒ることはないと思います。

どうしても残された人が残された人自身のために何かされたいのであれば、坊さんの立会い関係なく
後日、有志で柴田秋様を偲ぶ会を勝手にしてくださいという提案も一理あるかと思います。

私も先日、葬式を断り献体をされたある詩人の33回忌を有志で行いました。
私も渇愛を滅しきれない人間臭さは大事にしたい立場です。

柴田様のご質問に多くのお坊様が触発されたようなので、私も仲間に入れて欲しいと思い回答しました。

フライングスパゲッティ教祖様が葬式を僧侶含めた誰かに間接的にさせた由が分かると、
葬儀へのアプローチが変わるかもしれないですね。

早速のお礼文ありがとうございました。
大学時代参列した友人のおじいさんの葬儀が神道でした。
関西でしたが、情報集めれば実施可能だと思います。

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おきもち

自分のことはあまり好きじゃない。 でも、だから、せめて自分だけは 自分...
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質問者からのお礼

人間は動物でありますし、渇愛を捨てることが人間らしさと思うそれ自体が相容れない考え方ではあるようですね。
仏教の根源であり、それこそ公理でありますから、相容れないことはわかっておりましたが、ひとまず、素早いご回答有り難うございました。

> お葬式は、故人のためでなく、遺族のもの。

たしかにそういうものですね。
ご回答有り難うございました。

仕組みを作って、必ずそうする、あるいはそれ以外できないようにするということを日頃から考えているせいか「諦め」はできないでいる私がいます。

時間をかけて家族に考え方を理解してもらうというのは継続していくのが良いかと思います。

> 悩み苦しみを減らす道が仏道

それが「囚われ」であり、煩悩であるという指摘は確かにそうだと思います。

精神医学と真逆の考え方であるなということを感じました。
精神医学では環境を変えようとしますが、それができない時に対処的な方法を取ります。

環境ではなく、自己を変えるということは対処を変えるということと思います。
仏教は対処療法の極限かもしれません。

さて、それを自己の中で矛盾なく受け入れることができるかという新たな悩みはでてきますが、ご回答有り難うございました。

> ご自由にどうぞ

遺言書。
順当に考えるとそれですね。

具体的なご回答ありがとうございました。

> 日本人は生まれながらにしていずかれの宗教には縁がある

翔玄様にもパスタファリアニズムについて誤解があるようですが、私は成立からの歴史を知った上で、割と本気で「信仰のパロディ」をしております。

他、論争になっても不毛と思いますので、諸々渇愛いたしますが、ご回答有り難うございます。
ヒントになるようなことは頂いたように感じておりますので、ありがたく思っております。

> 葬式の話はさておき

考えが変わることもあるからそのままでいい。
家族との和を大事に。

一番楽で、一番やりやすい道かもしれません。
ひとことで言うと腑に落ちています。
まだ30余歳ではありますし、悩む時期ではないのかもしれません。
それを考えるきっかけはたくさんあったりはしたのですけれどね。

ご回答有り難うございました。

> 面白い方ですね。

異なる立場の考えを聞くことは私自身の考えを整理するための役に立つと思っております。
仏教の枠組みの外の人間が仏教の枠組みの中の人に意見を聞いて、それを行うのはこの場では行えないですか?
私は問題提起や主義主張をしたいのではなく、私の悩みが私の中の概念に起因するというだけのことなのですが…

言葉に縛られているというのは正しい指摘だと思います。
それは私の属性であり、公理だと思います。
私は発達障害を持っております。
障害のせいにしているつもりは全然無いですが、発達障害と仏教は相容れないものかもしれません。
これは批判や避難ではなく、マッチングしないというだけの問題にすぎないと思います。

ともかく失礼しました。
ご回答有り難うございました。

> かなり荒っぽいですが禅に近い発想かな

仏教の中の派閥という言い方で良いのですかね。
色々な考え方があって、そういうものができているというのは伺ったことがあります。
興味深いと思います。

囚われがないことが理想というよりは複数の囚われが矛盾することが問題なのかもしれません。
ダブルバインドというものですね。
一般的な感覚を想像すると、囚われがなくなれば苦しみや悩みがなくなるというのは確かに理想かもしれない感覚は理解できる気がします。
自らを由とする囚われと、そうでない囚われと折り合いがつけていけるのが、私の中の理想だと思っています。

ご返答ありがとうございました。

> 悪魔の証明という悪魔

電話料金に関しては、預言者ボビー・ヘンダーソンの私情が入っている気がします。
私は、パロディであることを体現しているようで面白いと思います。

空飛ぶスパゲッティ・モンスター教も他の宗教一般を否定しないことを教義としています。
少なくとも、その聖典である、反★進化論講座にはそう謳っています。

色々とパスタファリアニズムについては、思い入れがあるのですが、それを個々で語ると礼を失する事になるかと思いますので、この辺りにさせていただきます。

お互いの考え方を認め合い、お互いが共存できる環境を作っていければ幸せな状態かなと思っております。

応病与薬の方は言葉は聞いておりましたが、対機説法については初めて伺いました。
辞書的な意味は先ほど拝見いたしました。

渇愛、煩悩を抱えていたいと思っている私ですので、他にも悩みは当然あります。
また、ご質問させていただくこともあるかと思います。
その時は、アドバイスをいただけると嬉しく思います。

ご返答ありがとうございました。

> 葬式は仏教の専売特許じゃないですよ。

以前、知人に同様の話をしたら、キリスト教式が良いのではないかと勧められました。
空飛ぶスパゲッティ・モンスター教式の葬式があれば受け入れやすいかもしれません。

もしくは神道式の葬式が許されればそれも悪くないかもしれません。
要件を存じませんので、もしかしたら難しい可能性もあるかもしれません。
根の国は過ごしづらそうですが。

献体も悪く無い考えですね。

ご提案、色々ありがとうございます。
ご返答、ありがとうございました。

> 仏教がそんなものならば一緒にゴミ箱に入ってあげましょう

辞書的な意味では、戒名とは死後与えられる法名のことと伺っているのですが誤解なのでしょうか。
授戒した証、すなわち仏門に入ることではないのでしょうか?

仏教をヘンテコとは思いませんが、私には合わないというだけにすぎない話ではないかと思います。
六道に入ったら、悟りを放棄していますし、畜生道、餓鬼道、地獄道のいずれかに入る気がしています。
仏教上の罪となるもの全てを知っているわけではありませんが、地獄道に入るかもしれないような気もしています。

こういった捉え方はもちろん、一面的なものと思います。

ただ、人を殺さなくても殺人について語れたり、推理小説をかけるように、その全てを体現しなくても、仏教について語ることはできることと思っております。
調べるということは重要と思いますので、知識不足については反省するところです。

ご返答ありがとうございました。

> 人の考えは変わることもあります(^^)

人の葬式をする分には良いですし、遺族や故人の遺志を尊重する気持ちもあります。
少なくとも表面上は礼節に従う程度の常識はあるつもりですので、焼香もしますし、手も合わせます。

ただし、自分のことを人に決定づけられてしまうそれが嫌なのだと思います。
それは自らを良しとしないこと、不自由な状態です。

この考えも変われば、より幸せになれるのかもしれませんね。

ご回答有り難うございました。

> 経験が貴女に変化をもたらすはずです。

これは想像に過ぎませんが、別れは死の場に於いて訪れるのではないかと思っています。
葬式はやはり生きている人のためのものになる気がします。
両親の葬式はやはり、両親の知人のために行うのではないかなと思っています。

物心ついてから、遺族の立場で参加したのは母方の祖父の葬儀程度のものでしたが、そこがお別れの場というよりは、生前最後にあった時がお別れの場であったのだなと思ったものです。

他者によって決められて、戒名を付けられてしまい、勝手に仏教徒にされてしまうのが、不自由であるという感覚を考えると、やはり、人の気持ちのために、そこまではしてほしくないと思っています。
もっとも、戒名を受け取ったから仏教徒になるということは誤解であるという指摘もありますし、何が正しいのかということを考えています。

死んだら人権もへったくれもありませんが、信仰の自由をそのために捨てることができるほど、私は心は広くないようです。

ただし、更に知識を得、考えを深めていくのは良い方向かと思います。

ご返答ありがとうございました。

※ 追記
-- ここから --
戒名を貰わない葬式も可能という話もあるようです。
そういう方向性を考えてみてもいいのかと思いましたので、皆様へのお礼も含めて、ご記入させていただきます。

誤字訂正
> 他、論争になっても不毛と思いますので、諸々渇愛いたしますが、ご回答有り難うございます。
渇愛 → 割愛

> それは自らを良しとしないこと、不自由な状態です。
自らを良しとしない → 自らを由としない
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「葬儀」問答一覧

海外からの祖父の葬儀参加について

先週に私の祖父が逝去したと妹より一報がありました。 今週末に予定されている祖父の葬儀への参加に悩んでいます。 きちんと見送ってあげたい気持ちがあるのですが、正直なところ複数の理由から、参加を見送ろうかと悩んでいます。 私は初孫だったので特に可愛がってもらったと思います。今でも小さかった時の祖父との思い出が記憶にあり涙が出ます。大人になってからは頻繁に会いに行ってあげられていなかったので、薄情な孫であったことが申し訳ないです。 悩む理由の一つとして、私が今現在海外在住(日本へのフライト時間が半日以上かかる場所)であることです。帰ろうと思えば帰れなくはないのですが、既に一ヶ月後に一時帰国を予定しておりその予定はキャンセルできないため、葬儀の2日間のためにフライトチケットを手配して行くことになります。 帰るなら早急にチケット手配や荷造り等をしなければいけないので、迷う時間も限られています。 また、参加できたとしても直後に家族での遠方への旅行を予定しているために、また帰ってすぐに長距離移動をすることになり精神的・体力的に厳しそうだなと憂慮しています。 もう一つの理由として、私が毒親である両親との縁を一方的に断っているため、もし葬儀に参加できたとしても精神的に受けつけない両親と顔を合わせ言葉を交わすことになることが恐怖に感じています。 (体調が悪くなる可能性があります。) きちんと祖父を送ってあげることに集中したいのですが、夫は仕事の都合で帰国しての参加が難しく、妹も仕事の都合で欠席予定となり、孤立してしまうので、精神的安全がなく、親戚への気遣いも必要な場ではかなりしんどいのではと危惧しています。 こういったときの常識がないため、色々調べ、花が好きだった祖父へ、せめてもの供花を妹夫婦と私夫婦で贈ろうかと考えています。 香典は海外からは送れないため、後日の一時帰国の際に連絡の取れそうな叔母に手渡ししようかと思っています。 (おそらく喪主は長子の父親かと思いますが、一番祖父母のケアをしているのは近くに住む叔母で、話の分かる優しい方です。) 今更ですが、きっと気落ちしている祖母にも声をかけに会いに行ってあげたいです。 帰れるのに帰らないのは、卑怯でしょうか。 欠席の場合、供花を贈るだけでは祖父に失礼にあたるでしょうか。 最後まで言い訳がましい孫で祖父には申し訳ない限りです。

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祖父の葬儀での出来事

先日祖父が亡くなり、生前からの祖父の意向もあり、家族のみ参列し、所謂直葬を執り行いました。 無宗教ということと、以前身内の葬儀の際にお坊さんの振る舞いについてとても嫌な思いをしたことがあったようで、それ以来自分が死んだら戒名もお経もいらないから家族だけで見送って欲しいとのことでした。 祖父の希望通りに直葬を執り行ったのですが、せめて火葬場ではお経を1回くらい読んで貰った方がいいのではないか、と親族の一人から声が上がり、じゃあそうしようということで、その際お世話になっていた葬儀屋さんに相談し、お坊さんを手配して下さるとのことで火葬の前に読経していただけることになりました。 お経が始まり、喪主である祖母がまず焼香し、それに続いて参列者が順番に焼香を行っていたのですが、一人ずつではなく三人ずつ焼香を行って欲しかったようで、お坊さんが読経中ですが参列者のいる後ろを振り返り、すごい目付きで睨んできました。 確かに焼香台は三つありましたが、特に何も言われなかったため、喪主に続き一人ずつ焼香を行っていました。 お坊さんの様子に気付いた火葬場の職員の方が、三人ずつどうぞと声をかけてくださったのですが、その間も時折こちらを睨みつけるように見ており、更には肩を竦めため息を吐いていました。 あまりの出来事に唖然としたと同時に頭にカッと血が登り、動悸が激しくなりました。 そのくらいの衝撃を受けました。 そのお坊さんにとっては数ある内の一つかもしれませんが、私たち遺族にとってはそうではありません。 大切な祖父を侮辱されたようでとても腹が立つと同時に悲しくて仕方ありません。 祖母も気付いており悲しがっていました。 こんなことなら祖父の言葉通り、読経してもらうべきでは無かったと後悔しております。 そのお坊さんへのお布施は一万円お渡ししましたが、お金さえ貰えれば後はどうでもいいのでしょうか? 腹の中で何を思ってようが自由ですが、それを表に出さないようたった数分も我慢できないのでしょうか、それが不思議でなりません。 上記したように、以前にもお坊さんのことで嫌な思いをしたことがあり、それに今回のこともあり、もちろんそんな事はないと分かってはいるのですが、こんな人ばかりなのですか? また、この悔しい気持ちの落ち着け方が分かりません。 アドバイスいただきたいです。 よろしくお願いいたします。

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母の葬儀を神式でやりたい父を理解出来ない

2月5日に、母がガンで他界しました。まだ60代の若さでした。今、悲しみと喪失感に暮れて居ます。 そんな中でも、葬儀の準備を進めなければなりません。我が家は、代々仏教式での葬儀を行なって来ました。 しかし、何故か父が神道式にしたいと言い出したのです。 ちなみに、父は特別神道を崇拝している訳でも無く知識もほとんどありません。 神式では、代々のお墓に遺骨を入れられません。魂も輪廻転生の輪に入れず、神棚に奉られる状態になると聴きました。 私は、生前散々苦労して来た母を、極楽浄土に送りたかったのです。 生まれ変わって、来世こそは、苦労無く、幸せな人生を送って欲しい。 しかし、神式では嫌な思い出ばかりが残る我が家に、魂を縛りつける事になるのでは無いかと心配しています。 父が私に相談も無しに依頼した葬儀屋さんも、神式葬儀の事例はほとんど無く、儀式なども曖昧に形だけやっている状態です。 母の亡骸は、まだ自宅に安置されています。枕直しの儀に必要な小刀などを担当の方が置いてくれました。 しかし、刀の置く向きが違います。葬儀屋さんのスタッフさん側に、神式の知識が無いのです。 用意出来る祭壇も小さく質素で、どうにも必要な用具が足りていません。これでは、あまりにも可哀想です。 まさか、お葬式の件で父とケンカをするとは思いませんでした。 どうしても神式で葬儀を行いたいのであれば、そこは仕方がありません。 ですが、せめて今の葬儀屋さんをキャンセルして、神式の儀式に詳しい、専門の葬儀屋さんに変えて貰いたいのです。 枕直しの儀を取り行ってしまった後のキャンセルは、失礼に当たるので出来ないのでしょうか…。 逆に、儀式をしたにも関わらず、別の葬儀屋さんで2度目の儀式を取り行う事は、 母の魂が迷ってしまったりなどの影響があるのでしょうか…。 葬儀業者をキャンセルして切り替えた経験のある方。 そして、数多くの魂を送って来られた、お坊様。 もう時間がありません。何卒、救いの手を差し伸べて戴けます様、お願い申し上げます。 大切な母親が人生の最後に、主役になれる日が葬儀だと考えています。 とびきり美しく、良いお式だったと言って戴ける様なものにしたい。私が出来る、最後の親孝行です。

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檀家総代について

先日父方の祖父が亡くなり、週末にかけて葬儀等を済ませたのですが 実は父が檀家総代をしているお寺の住職の母親の四十九日が祖父のお通夜と告別式が終わった次の日にあり 父は間もなくその手伝いに向かいました。 亡くなる1ヶ月前から祖父は施設のベッドから落ちて大腿骨を骨折したのちに入院と手術をしていたのですが その際はちょうど住職の母親が亡くなったあたりのタイミングだったため 本来であれば医師からの説明のためずっと病院に居なければならないはずが 檀家総代であるという理由から葬儀をまとめなければならず あまりそばに居ることができないような状況でした 「なんとかして祖父のそばに居てやれないものか」と言っても 父は「俺が葬儀のまとめをやらなければいけない」と返され聞き入れてもらえませんでした その時でも色々と疑問に思うことはありましたが まだ祖父は生きている状態だったので とりあえずはあまり口を出さずにいました でもなんだか今回は話が違うような気がするのです 昔からお世話になっているお寺なので 色々と感謝することがあるのは間違いなく 手伝う義務のようなものがあるのは十分理解しているつもりなのですが 身内の、しかも自分の親を見送るという時に葬儀から荼毘まで最低限のことだけして それが過ぎたあとは先にひかえている他人の葬儀を優先的にまとめるというのは なんだか祖父をないがしろにしているような感じに見えてしまってわたしは納得できません。 せめて四十九日までは自分の親のために集中できないものなのかと ただでさえ葬儀の前も後も大変だというのに… 檀家総代というのは、大切な家族の時間を犠牲にしてまでこなさなければならないものなのでしょうか? 本人に言っても、まわりに相談しても 「仕方がないことだから」と言われて終わってしまいます。 自分の行いは大なり小なり必ず自分にかえってくるものです もし自分があの世に行くときでも同じようにないがしろにされても良いということなんでしょうか。 あまりに薄情な気がしてなりません。。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ