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hasunoha 問答検索結果 : 「私 死 悲しい」
検索結果: 1493件

「死」を考えると気持ちが落ち着きます。

母の自殺から数ヶ月が経ちました。 四十九日を終え緊張の糸が切れたのか、うつ病が悪化してしまいました。 自責・不安・焦り・虚しさに毎日襲われます。気晴らしに…と好きなことをしても、楽しくありません。 また、母の自殺をフラッシュバックしてしまうため、"母が自殺した日"を何度も何度も追体験してしまいます。つらいです。 服薬治療も含め、できることは全てやっています。 でも、3年経った今も改善しません。それどころか悪化したので、「元気になりたい」という気持ちが湧いてこなくなりました。 以前は「元気になる」という目標がありましたが、今はそんなことを思えるほどの気力がありません。ただただ、生きるのに疲れました。自殺未遂をするほどには。 ただ、窓の外をぼんやり眺めながら遺書の内容や死ぬことを考えていると、心が落ち着くのです。 虚しさや不安を忘れ、「死んだら母のところに行けるかもしれない」と希望も湧いてきます。 以前こちらで相談したとき、【先に往かれた親しい方々やご先祖様がお母様をあたたかく優しくお迎えなさって下さいます。】と回答をいただいきました。 ふとそれを思い出し、「わたしが死んだら母が迎えてくれる、死んだら母に会えるんだ」と嬉しくなりました。 嬉しいなんて気持ち、久々に湧きました。だから、ホッとしたのかもしれません。 「死」を考えることで心が穏やかになるなんて、おかしいでしょうか。 また、心身共に疲れ果て気力がなくても、自分に鞭打って生きなければいけないのでしょうか。 わかりません。教えてください。

有り難し有り難し 42
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死の受け入れ方が知りたいです。

祖母が亡くなってから半年が過ぎました。未だなお立ち直れておらず、ふとした時に悲しみや絶望に苛まれます。 わたしはおじいちゃんとおばあちゃんが昔から大好きでした。とてもよくしてもらいました。とても可愛がってもらいました。10年以上前におじいちゃんが亡くなったときも大変つらいおもいをし、泣いてばかりの日々が続きましたが、おばあちゃんを支えないとという気持ちもあり立ち直れたような気がします。しかしおばあちゃんも亡くなった今、生きる希望がありません。わたしをあんなに可愛がってくれる人はもういません。わたしももう良い歳なのに、はやくわたしも死んでおじいちゃんとおばあちゃんに会いたいという気持ちばかりです。おじいちゃんとおばあちゃんがこの世にいないなら死にたいです。思えば、小学生の頃でしょうか。死というものを知ってから、わたしがこの世で最も恐れていたのはいつかくるであろう祖父母の死でした。寝る前に手を合わせて祖父母と家族の健康を祈ることが日課となっていました。それほど恐れていた祖父母の死を経験した今、もう怖いものはなくなりました。ひたすら祖父母に会いたいという気持ちしかありません。このまま生きていても二度とおじいちゃんと話せないしおばあちゃんのおにぎりと卵焼きも食べられない、二度とふたりに会うことができないことをふとしたときに思い出し、絶望し打ちのめされます。思い出の場所や外食した店、買い物した店など日常を過ごす中でふとしたときにも思い出がたくさん甦ってきて悲しくなったり泣いてしまったりします。仕事は頑張って行っています。趣味も楽しめてはいます。でもやっぱり祖父母に会いたいと思ってしまいます。仕事帰りにお墓に行き、ひたすら泣いて疲れて帰るという日もあります。夢にも出て来てくれるときもあります。 この気持ちは日にちが経てば落ち着き、癒えるのでしょうか。亡くなって少し経った頃、地元のお寺さんに供養に行った際に教えていただいたのは、悲しむのは悪いことではない泣いていいということでした。とても救われました。しかし半年も経ったのにまだまだ悲しく苦しいです。 わたしはどういう気持ちやおもいで日々を生きていけばよいのでしょうか。わたしはどうしたらよいのでしょうか。

有り難し有り難し 17
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母の死

7月19日に母が66歳で天国へ旅立ちました。 10年前に乳がんを患い、それとは別に3年前に大腸がんを患いました。 大腸がんは、肝臓や肺へ転移してしまい、1年半ほど抗がん剤治療を行いましたが劇的な効果はなく、抗がん剤を辞めて3ヶ月ほどで天国へ旅立ってしまいました。 亡くなる1週間前から会話などが出来なくなり、最後数日は寝たきりの状態でした。 父とお嫁さんと私で世話をし、最後は自宅で看取ることができました。 最後1週間は母のそばにずっといることができました。 母が亡くなって数週間はバタバタしていたこともあり、実感が湧かず、悲しむことが少なかったのですが、最近になり悲しみがどんどんと膨らんで行くのを感じています。 日々の生活の中で母を思い出し、 私は母に最後ちゃんと恩返しが出来たのか。 自分なりに頑張って母の世話をしたつもりだが、母はどう思っていたのか。 親孝行出来たのか。 そんなことを考えては泣いてしまいます。 父は母にべったりで、何をする時も2人一緒に行動する夫婦でした。 そのため、父の精神的なショックは大きいです。 1人になってしまった父は、食欲がなく夜も眠れないようです。 心配なのでなるべく実家に帰るようにしているのですが、そんな父の姿を見ていると切なくなってしまいます。しかし、なんと声をかけていいのかわかりません。 こういう時、父になんと声を掛けたらいいのでしょうか? そして私たちは母を失った悲しみを乗り越えることができるのでしょうか?

有り難し有り難し 19
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愛犬の死

14歳3ヶ月で亡くなりました愛犬に後悔とごめんねばかりで毎日泣いています。自分の意思で早朝から夜遅くまで週末も会社の日々を7年、長時間の留守番、長年寂しい思いをさせていた上に一緒に居る時は日常の色々にいつも苛々し犬にあたってしまった事もありました。命を預からせて頂いた責任や命の重みを軽視してしまっていました。このままでは駄目と生活や考えを改め一緒に居る時間を増やし大事にしてきたつもりですが転居数回、一緒に居る人や環境変化多い生活に付き合わせ日々の中でも自分優先の考えや行動が多々でした。 3年前仕事をしながら資格を取る事に決め段々と余裕が無くなり私の中に消したいのに消えない自分がいました。犬を撫で微笑みかけながら「可愛いいい子何年も寂しい思いをさせてきた分も世話させてね、甘えてね、長生きしてね」と言いながら心か頭のどこかで「寝たきりになる前に、、、歩けなくなる前に、、、いつ死ぬの」という言葉が出てきて犬に見えない様に自分の頬を叩いていました。 1年前から2週間に1回の血液検査、私は獣医師の前で萎縮してしまい聞いたり言ったりが殆ど出来ず家族である自覚も足りず時々検査や処置に疑問を抱き転院を考えながらもその病院へ行っていました。 ある昼間いつもと全く違う様子ぐったりしていたのに当日朝に病院へ行っていた事もあり夜に嘔吐もしましたが薬をあげて様子を見てしまいました。翌朝病院へ行き入院以降絶食絶水点滴のみで9日目朝に10gだけフードをあげガツガツ食べたと。その翌朝誤嚥か何かで肺炎を起こしたと酸素室の話も無いまま急変すると今日明日わからない、点滴を病院と自宅どちらで続けるか聞かれ連れ帰りその日の夕方息を引き取りました。亡くなる迄の長時間お腹を激しく上下させとても速い呼吸、苦しく辛そうな様子ばかり鮮明に出てきます。入院は私にとってだけの安心でしかありませんでした。特にここ数年どれ程痛みや辛さを我慢し頑張ってくれていたか、体調悪い中歩み寄ってきてくれたのも力を振り絞ってのことだった、なのに私は無理をさせてしまっていた、わかろうとしていなかった考ていなかった、と。10gのフードをガツガツ食べた、生きようとしていたと思えてなりません。じーっと私を見ている子でした。余裕のない私と私の中の消したい気持ちを感じ取っていたと思います。あの時、別の病院へ行っていたら等の後悔も次々と出てきます。

有り難し有り難し 12
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2022/10/28

死を考えています

数年前まで、都内で母方の親族が経営するメーカーで事務職に就いていました。 実家は愛媛県ですが、会社所有の土地や不動産があり、その会社と強い結びつきがあります。 親族は、複数おりますが、会社経営に関わる親族と、そうでない親族がおり、ずっと対立が続いていました。 叔父や叔母、従兄弟たち経営陣たちからは、対立する親族と関わらないよう言われていました。 それなのに、その対立する親族と接点を持ってしまったり、両親を敵に回すような態度をとってしまいました。 そうして、私は経営者である叔父や叔母だけでなく、縁故採用のきっかけとなった母を裏切るような行動を取ってしまい、家族や親族からの信用を失いました。 会社の従業員の人たちとの人間関係にも悩み、心療内科に通っておりましたが、経営者親族や両親ともコミュニケーションがうまくとれていなかったため、メンタル不調を理解してもらうこともできませんでした。 その結果、任されていた会社の経理の仕事もうまく勤まらなくなりましたが、鬱の治療を受けたり、休職願いを乞うこともできず、そのまま自己都合退職してしまいました。 東京から愛媛県の実家に戻りましたが、親からは家を出て行けと言われ、唯一の頼りだった身内との繋がりも失い、途方に暮れています。 鬱の治療もままならないまま、やっと見つけた仕事は、工場での派遣で、福利厚生もありません。 お給料は、親族のメーカーに勤めていた時の方が、遥かに上回っています。 経理というデスクワークに、縁故採用してもらい、手厚い待遇を受けていたのに、経営者親族とうまくやれなかった自分。 東京という街で、キャリアを築くこともできたのに、地方に帰ってしまった自分。 もしあの時、仕事や人間関係に悩んで、経理が手につかなくなっていたのなら、正直に鬱病であることを報告して、休ませて貰えばよかった。 親族間の対立や、両親とのこじれた関係も、うまく距離をとったり、会社での立場と公私混同せずに、自分のキャリアに集中すればよかった。 結果として、家族との繋がり、親族からの信用、仕事、キャリア、出世、全てを失うことになりました。 社長だった叔父は亡くなり、副社長の叔母からは、「顔も見たくない」と言われました。 母も、口を聞いてくれません。 謝っても、泣いても、何も取り返しがつきません。 毎日、死ぬことばかり考えています。

有り難し有り難し 23
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娘の死

35歳の娘が2年近くの闘病生活をしてまいりまして、3週間前に天国へ旅立ちました。 2回の大手術、放射線、抗がん剤、丸山ワクチン免疫療法とやれる事は全てやったつもりですが、転移、再発を繰り返して、最後は腫瘍による腸閉塞になり、点滴生活が1ヶ月半でした。 この2年で私にもお友達にもほとんど泣き言を言わず、いつも明るく前向きで、大丈夫が口癖でした。 5月に入り、3日間くらい何を話しかけても話をしなくなってしまった時にもうこのままだめなのかなあと諦めかけました。 すると4日めで目覚めて、とても怖い夢をみていた、目をつぶると死ぬよと言われ一生懸命開けてたと。 変なおじさんもいたと。 その時、私は娘は奇跡をおこせるのではと思いました。 3月の終わりに、病院でこのまま病院にいても家に帰っても点滴しかやる事がないと言われて退院してきます。 在宅看護でしたが、看護師さんもすごい生命力といってくださいました。 それから、3日間くらい、主人と私と3人で一日中一緒に過ごしましたが、しゃべってしゃべって、朝方までしゃべり続けるのです。とても元気になったのだと思ってた。 ところが、その3日後にお友達が会いにきてくれてその夜から眠ったままになってしまいました。 疲れたのだろうと思っていましたが、亡くなるまで、一言二言話すだけで、最後の3日間くらいは、顎で息をして、目は開いたままで瞼を閉じてあげようとしても、無理でした。 尿もほとんど出ず血圧も下がってきていたので、あれだけ死んだら絶対だめだと心の中で叫んでいたのに、もう楽になってほしいと思ってしまいました。 顎で呼吸になるとすぐにだめになる人が多いと看護師さんから聞いて、4日間も頑張っている娘に対して今は申し訳ない気持ちでいっぱいで、会いたくて会いたくて毎日泣いてばかりです。 目を閉じなかったのはなぜなんだろう、時々泣きそうになる顔は何を言いたかったんだろう。全部私が悪かった。これからどうやって生きていこう。 死にたいと思うが死ぬ勇気もない。 2年近く入院以外は毎日一緒だったので、どの部屋に行っても思い出して辛い事ばかりです。 神様も仏様と助けてくれなかった。 今は娘が仏様になったので、ご飯を作る事だけが、精一杯です。 娘は誰にも泣き事を言わず明るくしていました。 どんな事を思っていたかと思うと胸が張り裂けそうです。

有り難し有り難し 22
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祖母の死

幼い頃に母親を亡くした私を母親代わりに育ててくれた祖母が昨年の年末に亡くなりました   亡くなる約2ヶ月前に末期の癌と診断され、口から食事が取れないので、中心静脈栄養という直接体内に栄養を入れる管を作る為に一度入院しましたが、コロナ禍での入院は最後の時でないと面会出来ない事や、もう治療として出来ることは痛みが強くなった時に痛み止めを使用するしか無い状況でした   祖母の長年住んだ家で家族と過ごしたいとの希望や、私も24時間付き添う事は出来ないけれど出来る限り祖母の願いを叶えたいという思いもあり、退院して在宅で過ごす事を選択し家で過ごしていました   家にいる間は特別な事をする事は出来ませんでしたが約十日間くらい穏やかに家族で一緒の時間を過ごす事ができました   亡くなる3日前になると身体が栄養を吸収出来なくなり、浮腫んだり痰が多くなって逆に身体の負担となっていたので栄養を中止し、また呼吸も徐々に弱く途中で無呼吸も見られるようになり、言葉を発する事、自分で起き上がる事も出来なく、訪問看護の看護師さんから今日明日でもおかしくないと説明を受けました   看護師さんが帰り、祖母と二人きりになり、祖母を抱き締めながら今迄育ててもらった事など沢山の話やお礼を言い、祖母と二人で泣きました   そして次の日には意識がなくなり寝たままとなり、その三日後に息を引き取り、私が看取る事ができました    葬儀も無事終わり、もうすぐ四十九日ですが喪失感や悲しみで毎日祖母の祭壇の前だけでなく、買い物をしている時など様々な場所で祖母との思い出が巡ってきて涙が溢れてきます   とても優しく家族思いな祖母で、自分が癌で食事が食べれなくても家族の食事を作ろうとしたり、私が傍にいると口癖のように、ご飯を食べたか心配してくれる優しい祖母でした   祖母が亡くなった後もっと祖母に出来る事があったのでは無いか、こうしていれば良かったのではないかと考える日々です   知り合いから、私がいつまでも泣いていては祖母は成仏出来ない、世の中には死に目に会えない人だっていると言われました   家族の最後に立ち会えない人も居るのは分かります、でも看取りが出来ても亡くなった事への悲しみや喪失感、後悔の感情は皆簡単には割り切れないのでは無いかと思います   私は祖母を思い出したり泣く事は許されないのでしょうか

有り難し有り難し 33
回答数回答 3
2024/09/05

希死念慮が強いです。

こんにちは。ちよと申します。 私はADHDで、双極症Ⅱ型を患っています。 現在調子を大幅に崩しており、ずっと希死念慮が消えなくて、実際に電車に飛び込んだらどうなるかなとか、大学の建物から飛び降りたら死ねるかなとか、考えてしまいます。実際にその場所まで行ったこともあります。 本当は死にたくないし、死んだら大切な人たちを悲しませるのはとてもよく分かっているので、死なないつもりですが、どうしても苦しくて、死んで全てを終わりにして開放されたいと思ってしまいます。 きっかけは、家庭教師の仕事で悪いことをした生徒を𠮟ったら、言い方がきつかったからもう指導に来なくていいと言われたことです。中1から指導をして、現在高3で、卒業まで見られると思っていたので、こんなことであっけなく指導が終わってしまうものなのかと悲しくて悔しくて、ずっと落ち込んでいます。 精神科にも通っていて、今回の落ち込みは異常だからと薬が増えました。念の為遺書も書きました。死にたいけど、死にたくないです。 なにか誰か私を助けてくれるものを探しています。 仏教の教えでなにかいいものがありましたら教えていただきたいです。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 10
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納得のいく死

先日、最愛の母を癌で亡くしました。 癌だと判明してからたった二ヵ月足らずで逝ってしまいました。 本人には事実を告げられないまま… 本人も治ると…必ず治す!というつもりで頑張っていました。 人は誰しも自分の『死期』は分かりません。 自死の方は別かも知れませんが、皆さん『納得のいく死』 が出来るわけも無いし、そもそも死にゆく事に本人も家族も 『納得』や『覚悟』なんてそう簡単には出来ません。 殆どの人が『無念』な思いで逝くのではないでしょうか? やり残した事、言いそびれた事、気になっている事… 色んな思いを抱え、それらが『後悔』や『恐怖』となって 本当に『辛く』『悲しく』時には『怒り』となって たった一人で心細く無念に旅立っていくのではないでしょうか? そんな『無念』な思いで旅立った魂は、本当に 心安らかに『成仏』が出来るのでしょうか? 残された家族が一番心を痛める事… それは どんなに辛かっただろう どんなに無念だっただろう どんなに怖かっただろう… 話が出来たら、どれだけ辛かったか聞きたい… 今、どう思っているのか聞きたい… でもそれが出来ないから苦しいのです…。 教えてください。 自分が『死んでしまう』とは思ってもいないのに 治そうと、治ると思って頑張っていたのに 何の心構えも準備も出来ていないまま 人生を終わりにしなくてはいけなくなった時 人はどんな事を思うのでしょうか? 四十九日までは、魂はこの世に居ると聞きますが どんな気持ちで、どこでどのように 過ごしているのでしょうか? そんな事ばかり考えて、辛くてたまりません…。

有り難し有り難し 31
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