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検索結果: 2049件
2023/05/08

瞑想とは

ブッダは入滅する際に深い瞑想状態に入りながら入滅したと見ました。 私も肉体や精神などが極限の苦痛に達した際や死ぬ際には瞑想を使用したいとおもっておりますが、そこまで深い瞑想をするには相当な瞑想の日々の熟練が必要かと思っております。 ところが精神疾患を持つものが瞑想をするとどうやら副作用が生じ、むしろ悪影響が発生することがわかりました。 以下質問となります: この矛盾は何でしょうか?座禅・瞑想とは人類全てが実践できる安全なメンタルケアでなければならず、そのため仏教修行の多くの部分を座禅・瞑想に使用するのではないのでしょうか。 それとも仏教の座禅・瞑想は修行の一部にすぎずそれが全てではないということでしょうか。 有名なキサーゴータミーの物語では明らかに精神疾患状態にある婦人を救っているような記述がありますが、これはどのようなプロセスを経て「治して」、「さらに悟りにまで到達した」のでしょうか。 個人的に思うのはまず前提として仏道の実践と修行者の身の回りの環境を整えてから瞑想を熟練していくのだと思いますが、その「環境の充実」の基準とはどこから情報を引っ張ってくれば良いのでしょうか。 よろしければ真なるお言葉をくださいませ。なければご対応不要です。よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 16
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どちらの宗派、教えを信じれば良いのか

初めて質問を投稿いたします。 るると申します。 私は学生時代うつ病を患い、生きていくことのつらさ苦しさと死への恐怖に悩み、救いとなる教えを求めて父方の宗派のお寺である東本願寺へ参りました。 そこで、どのような人間であってもすくい取ってくださる阿弥陀様の教えを聞き、何があっても必ず助けてくださる存在があるということに強い安心安堵感を得ることができ、その後は真宗の教えを聞く機会を定期的に作り心の支えとしてきました。 数年後、大学は無事卒業し就職すると私は非常に忙しい部署に配属され、激務と過労で再びうつ病の兆候が出てきて頭の中があらゆる雑音でいっぱいになっているような感覚に陥りました。 その時心の支えとなる教えをまた求めてお寺に行こうと決心したのですが、何故か今回はいつもとは異なる直感のような感覚で母方の宗派のお寺である永平寺に参りました。 永平寺で禅の一端を体験し、その後禅に関する本を読む中で、あるがままを冷静に見つめ自らの内の欲や煩悩を統御する教えを学び深く感動し、禅の教えをこれから生きていく中で実践したいと思いました。 前置きが大変長くなりましたが、二つの宗派の教えと出会いわたしは今どちらを信じたら良いのか迷っております。 煩悩を否定せず阿弥陀様が必ず救うとする真宗か、煩悩を統御し坐禅を通して自ら悟りを目指す禅宗か、全く異なる教えに触れどちらも捨てられないと悩んでいます。 両方を信じる道もあるのでしょうか。 拙い文章になりましたが、僧侶の皆様から何か教えをいただけたらと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 60
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2021/08/28

どこまで人間の業を許せますか

コロナ禍の中、さまざまな意見も飛び交っていますが、私は少数の富裕層が、その他の人間の生き方や社会をコントロールできる今の世の中に疑問を感じています。 例として、ブラック企業で働く人々は、ブラック企業で働きたいと思っていないにも関わらず、そこで働かなければ生きていけないと思い込まされ、被雇用者は経営者に利用され、結局ブラック企業は淘汰されず残り、富は資本家に集まります。どこかで救ってほしいと思っていても、立ち上がることができないのです。 世の中で、また個人の人生のなかでも、全く似たようなことが起こっているのを、友人や知人を見ていてわかってしまいます。しかし、それを言葉にして本人に伝えるのは難しいことも知っております。 ですから、私は少しでも良い社会のために、と署名活動への参加や、できるだけ納得したものだけを購入するといったことを、完璧は不可能ですが実践するように心がけていますが、そういった生き方に対し、ある友人は「私はそこまでして生きたくない、世界はどうなってもいいし、責任を取りたくない」と言い、そういう方こそ生き方に難しさを感じていたりしていてよく相談されたりします。しかし「あなたの行いがあなたの人生を作っている」と正論をぶつけることもできず、難しいものだと思います。どこかで頼られていたり、羨ましがられていると思うこともあります。あなたは頑張っている尊敬する、と言われることが多いですが、その裏には彼らが何かを抱えているのが見えます。 仏教では、こうした社会的な搾取や過ちも肯定し、受け入れるのでしょうか。 最終的には、人類全ての行いとして、その集大成として私たちが絶滅する運命をたどるのだとしたら、それに違和感を感じている私も運命共同体として何もしないべきなのでしょうか。 私は社会に対して、行動をし、考えている人たちを、「やりすぎだ」などということは決してできません。きっとお釈迦様も悟りを得るまでに沢山の思考を重ねたものだと思います。 ワクチン等も強制に対し、「でもそうしないと生きていけないから」と言うのは、あらゆる強制を受け入れた先の、超支配社会を肯定することにつながりかねません。そうしたことに反対し続けるのは、無駄で、現在の人間の行いを無感情のまま受け流すのが、正しいことなのでしょうか? そこに違和感を感じてしまう私は、人として未熟なのでしょうか。

有り難し有り難し 42
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2022/08/01

八聖道によって死の恐怖を消せますか?

以前よりお世話になっております。毎回真摯なご回答を頂き、本当にありがとうございます。 今回お聞きしたいことは、八聖道によって死の恐怖が消せるのかということです。以下、詳細な私の現状です。 私は「死んだ後自分がどうなるかわからないことへの恐怖」と、「自分と世界が存在している(五感で感じ取れる)ことの恐怖」を常に抱えています。 そこで仏教を自分なりに勉強した結果、四諦と八聖道を知りました。恐怖克服のため、ぜひ八聖道を実践しようと思いました。 現在は在家で修行がしたいと思っています。正思、正語、正業、正命、正精進、正念は、日常生活の中でなんとなく「これに気をつけて生活すべきなんだな」という具体的な実践が思いつきます(といっても、素人の浅知恵で、悪口を言わないなどの程度です。ここに関しても今後もっと勉強していきます)。 しかし、正見と正定は、瞑想(座禅)などを行なって会得するものだと拝見しました。 私は禅宗(臨済宗や曹洞宗など)の教えも好きなので、座禅を日常に取り入れたいと考えています。ですが、禅で有名な一休さんでさえ、「死にとうない」と言って死んでいったと聞き、正直とても怖くなりました。 座禅を含め、八聖道を実践していっても、死や存在の恐怖は克服できず、怯えたまま生きて死ぬしかないのか?と不安です。 hasunohaでは、座禅の中で悟りのような経験をされている方や、「実践を伴って初めて仏教がわかる」とご回答されている方をよくお見受けします。そのため、知識を学ぶだけではダメで、具体的な実践をして初めて、疑り深い私でも「仏教を知識だけでなく心で納得する」ことができるのだと考え、八聖道を実践しようと思いました。 長々とすみません。以上の流れから、 1.八聖道(座禅含む)を実践していったら、死と存在の恐怖を消すことができるのか? 2.もし出来ないなら、私は今後どうしていったら良いのか?(恐怖に苛まれるのは本当につらいので、なにか解決策があればご教示頂きたいです) の2点をお伺いしたいです。 また、私の現状の中でも、間違ってる行動や考えがありましたら、ご指摘頂ければと思います。 長文になってしまい申し訳ございません。お時間ある時で構いませんので、ご教示頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 34
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生きる意味を知りたいです。

生きる意味を見失っいます。 私は虐待を受け育ってきました。父親からの暴力、暴言、包丁で刺されたこともあります。父親はアル中で母親にも暴力をふるい入院したことも何度かあります。 最近まではこの状態が普通じゃないと理解すること難しかったように思います。 中学時代は父親に復讐を誓いました。どれだけ否定されようとこいつより社会的位置も収入も超えてやる、それだけで勉強を頑張りました。もちろん勉強の参考書に水をかけるような邪魔、学年で1位取ろうが褒められることもなく馬鹿にされ続けました。らが、その結果大学に行き、希望の業界に入社3年目になる時には会社での成績も上位、父親の収入2倍以上、社会的地位も超えたと、目標を達成出来たと自身の中で満足してしまったように思います。 その時から人生全ての目標を失い、自分は何のために生きてるのか分からなくなり鬱病が発病しました。薬で抑えても外に出ることも出来なくなり、自分の役目が終わったと希死念慮も出ました。会社も自主退職しました。 とにかく認められたかったという思い、そして今にして思えばずっと精神的に支配されてると思います、進行形で。 それから虐待を受け同じような経験を持つ女性と出会い付き合うことになり一緒に治療していきませんかという提案を受けそれに乗りました。治療に関しては過去の記憶を一つ一つ思い出して書き換えるというもので半年かけてやり切りました。 その間、トラウマを思い出して感情のコントロールも出来なくなったり父親から包丁で突きつけられ彼女が警察に通報し父親が殺人未遂で捕まり接見禁止になりました。 その後彼女からは鬱を原因に別れを切り出され私は拒絶されたように感じ周りに味方がいないように感じどんどん落ちていきました。 今はそれから数年が経ち業界大手に転職も果たしました。ですが生きる目標が分からない。ただただ死なないように生きているだけ。人は死という絶対的未来に進んでいくのに対しそこに意味を見出そうとする事で生きているように思います。意味を見出せなくなった時点で魂的には死んでるのだと。 生きることは修行であり魂を磨く為に輪廻転生を繰り返す等、宗教によって様々な捉え方はあると思います。 ほとんどの宗教でも大前提で自殺する事は悪である。しかし人によればこれは救済ではないのか?とにかく生きるとは何か本質を知りたいです。

有り難し有り難し 17
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お寺での写真撮影の禁止事項。良くないといわれた写真について。

はじめまして。 姉と一緒に33箇所めぐりを去年からしています。 GWに竹生島に姉といきました。 竹生島の弁天様の幸せのダルマというのがあるのですが その写真を撮り、わたしがブログにのせました。 知人がそのブログをみて ダルマさんの写真に良くないものが写っているので 削除したほうがよいといわれました。 ブログも写真も削除はしたのですが。。。 よくよく考えてみたら 写真を撮ってくれたのは姉でした。 姉にも写真のデーターを消すように言ったほうがよいのでしょうか? あと、その写真内容もお寺などに行き みてもらったほうがよろしいでしょうか? 姉は去年のはじめ離婚をし その後、33ヶ所めぐりをはじめました。 最初はどんな気持ちで はじめたかはわかりませんが 今は、わたしと旅行気分で楽しく回っているので このことを言うと、すこし気落ちするのではと心配です。 あと、あまり33ヶ所めぐりなどでお寺に行ったとき 写真などは控えたほうがよいのでしょうか? (写真撮影禁止のところは守っていました。) 知人が人の怨念などがあるからよくないと言われたました。 長くなりましたが、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 23
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無常観と向き合いたい

昔から断続的に、無常観に由来する虚しさに襲われます。 研究が上手く行った時、恋人と互いを大切にできた時、音楽で満たされた時、古典を読んで古人と共感した時、夕焼けや木漏れ日など身の回りの自然に感動した時、幸せを感じることは多いし、上手く行っているときは自分が本当に幸せで、信じられないくらい恵まれていると思えて、自分を取り巻く全ての人や、私に恵みを与えてくれた運命か何か、すべてに感謝しています。 しかしそのようなポジティブな気持ちは長くても一月も続きません。何か上手く行っていないことをきっかけに私はまた、無常観に捉われるのです。 結局人は皆死ぬし、文明も人類も滅びるのに、自分はなぜ何かを残そうとしてもがいているのだろうか。究極的には人は孤独で、全てをわかり合うことはできないのに、なぜ時に寂しくなりまた傷つくのだろうか。全て消え行くのになぜ生きるのか、自分の行為1つ1つには何の意味があるのか。 私の虚しさは、もし、一神教の神を信じることができたら、私の悩みは救われるような気がします。善悪を教えてくれ、自らの行いを見て報いを与えてくれる神の存在を信じられれば(そんな単純ではないかもしれませんが)。しかし、そのような価値基準と人格を持った神を、私は信じることができないと思います。 私は人智を超えたものを否定しているわけではありません。たとえば、個人の力ではどうしようもない巡り合わせは存在して、それを運命と呼びうると思います。 しかし、私が科学者であることと関係があるかもしれませんが、それらは価値判断とは無関係なニュートラルなもので、人間に喩えられるような心を持っているとは思いません。ですから、自らを神に任せることで苦しみから解放される、という類の救いは私には訪れない気がします。また、そもそも、人智を超えたものも、全ての価値も、結局人間の心が生み出した共同幻想である、という考えから自由になることはできません。するとやはり虚しくて辛くなります。 なんでも構いません、このような私が、無常観から逃れる、もしくは無常観と向き合うヒントをいただければと思い質問させていただきました。 悟りを得る具体的な行動や、東京都文京区に住んでいるので、具体的な法話や修行のご案内もぜひお願いします。この質問をきっかけに、長年の悩みに前向きに取り組めたら嬉しいです。

有り難し有り難し 20
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専門学校を辞めたいです。

私は今年から社会人になりましたが、高校在学中にやりたいことに挑戦したいと会社に通いながら専門学校に通う事に決めました。 しかし、専門学校にいった初日で辞めたいと思いました。 私は幼い頃から生きることに意味や価値が欲しいと強く思っていました。 しかし、ずっと意味を見つけられず、生きることに全くと言っていいほど執着を持てずにいました。 しかし中学生の時に、自殺未遂なんて当たり前の人達が集まるサイトを閲覧するようになり、少し経った時にある1人の方が「死のうとしたけど死ねなかった」と書き込みをされていて、そしてまた別の誰かがその人に「死ななくて良かった。生きていてくれてありがとう。」と書き込んでいるのを見て、自分でも知らない内に泣いていて、涙が止まりませんでした。 その時に生きていればいつか私を必要としてくれる人に出会えるかもしれないと思い、その時初めて生きることに執着を持ちました。 それから中学生の時にやりたいと思える仕事を見つけ、この仕事だったら誰かに必要とされる、価値ある人になれると思い目指すようになりました。 そして前述に書かせて頂いたように専門学校に通う事になりましたが、初日を終えて、理屈ではなく悟りとでも言うのでしょうか、私には慣れないと漠然と思いました。 中途半端ではなく本気でなりたいと思っていました。しかし今まで臆病者で自分のやりたいことを言い出せず初めてそれを口に出し、挑戦した結果が今回の専門学校でした。 しかし、やめたいと言っても学費などは後から返すつもりではいましたが既に親に払って貰ってしまっている事とたった一回行って辞めたいなんてことを言うのはかなり気がひけます。 幸い学費はあまり高くありませんが通う時の交通費がばかになりません。辞めるなら早く辞める方が交通費的にはとても良いのですが僅か一日で辞めるというのは、親からすればよくない気持ちだと思います。 一日通って帰ってからあまり良くなかったんだろう事に母は気付き、学費は仕方ないけど、交通費的にも辞めるなら早い方が良いよって言ってきてくれました。 私はどうしたら良いのでしょうか。 長文、支離滅裂な文章で申し訳ありませんがご回答頂けると幸いです。

有り難し有り難し 41
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