こんにちは。 先日、ショッピングモールの駐車場で、運転席のドアを隣の車にぶつけてしまいました。(恐らく) 隣にぶつからないように開けたのですが、丁度強風が吹き、その勢いで隣の車にぶつけてしまったようです。 当たった音はなんとなく分かりましたが、自分がやったと思いたくなく。。。 隣の車を確認したところ、5mm程度の白い傷がついていました。 元々傷があったのか、私がやったのかは確認しておりません。 小さな傷、その時子どもがくずっていた、強風のせいにし、その場を立ち去ってしまいました。 でも、ダメだと思って、もう一度戻ったところ、ちょうど車のオーナーの方がいたので、言おうと思ったのですが、言えず。 結局、何事もなったように再度隣に止めて、ショッピングモールに行きました。 駐車場には防犯カメラもついていたので、バレたらどうしようと毎日不満で仕方がないです。 またあの時、言えなかった自分が情けないです。 他のことでバチが当たり、スッキリできないかと思っています。 どうしたらよいでしょうか。
12月5日付の新聞報道にアインシュタインの手紙が競売に付され高額で落札されたとの記事がありました。 その手紙に宗教の神に対する否定的な見解が示されていました。 仏教は神がいないことで、宗教ではないと言えます。 仏教の基本は真理と論理による宇宙の真実が語られています。 真実とは、宗教の信仰の有無や宗教の種別に関係なく、すべての人に等しく適用されるものです。 真実の中身は、宇宙のすべてが空で構成され(色即是空、諸法空相)、現実の世界は空が物質に変化したものである(空即是色、諸行無常)と説明しています。 そして論理(縁起の理法)により、身体はその構造が複雑で故障しやすく死に到りますが、構造の簡単な心は死ぬ要因ががなく、通常の心境ではいつまでも生き続けます(輪廻転生)。 涅槃(心を空に戻す)に依る以外に四苦から逃れることが出来ないと言う、瞑想から得た真実の悟りをすべての人に知ってもらう為に、仏教として広めたのです。 心境のレベルによって、涅槃を求める方法が多岐にわたるため、宗派が分かれたと思います。 アインシュタインも、深い洞察でその見解をえたのではないでしょうか?
菩提寺が浄土宗です。 菩提寺では南無阿弥陀仏を唱えますが、日蓮宗のお寺などを御参拝の時はどちらを唱えればよいのでしょうか。
「舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」 これが第二のキーフレーズです。 「諸法」について花山勝友先生は「この世の中のあらゆる存在や現象」と解釈されていますので「宇宙」と解釈するのが正しいと思います。 横道にそれますが、「空相」は「空の姿」ですから、それに対比する「実の姿」があっての「空相」です。 従って本来はその前に「是諸法実相 生滅 垢浄 増減」(諸行無常)があるべきです。 「如是我聞」は釈尊が弟子(比丘)に説教するのが大部分ですから、常識的な会話は無に近いです。だから重要な「輪廻転生」の話はほぼ皆無です。 ここでも「諸法実相」が省略されたのでしょう。 では「諸法空相」に戻って、ちっぽけな「色」(身体)の説明になぜ宇宙を持ち出さなければならないのか不思議です。ここがキーポイントです。 「空の姿」の宇宙は自然界で唯一「閉じた系」です。 「閉じた系」の有用性は、皆様も中学、高校時代に物理で教わったように、「エネルギー保存の法則」です。 同じ空相でも「閉じた系」でなければ、「不増不減」(一定量)とはなりません。だから「色空相」として説明できないから宇宙を持ち出したのです。 これで「空(空性)」が「エネルギー」であることが確定したのです。 「是故空中、無色、無受想行識 無眼耳鼻舌身意無色声香味触法 無眼界 乃至 無意識界、無無明 亦無無明尽 乃至、無老死、亦無老死尽、 無苦集滅道、 無智亦無得、以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃」 「是故空中」とあるので、諸法空相を受けて、宇宙全体をエネルギーと見做せば、総てが無になることを説明したに過ぎません。 以上が「色即是空 空即是色」に関する説明です。 明治時代以前迄は、釈尊が悟りを開いたとき「これは非常に高尚で誰も理解できないだろうと」と布教を諦め、「この喜びのうちに生涯を終えたい」と神通力を駆使して自殺をし、彼岸に渡って「梵天勧請」事件を経て、再び生き返り諸転法輪を回したほど、難解な内容でしたが、現代では教科書で学ぶほど、「般若心経」は科学的常識となったのです。
ご閲覧頂きありがとうございます。 仏教から見た「学問を勉強すること」についてお聞きさせて頂きたいと思います。 中村さんのブッタのことばを読んでいるのですが、賢者を説明するのに「貪りを離れ~」「妄執も存せず~」といったような文が並ぶのですが、その中に「学識あり」というものがありました。 誰だったか忘れてしまったのですが、「生きているうちに全てを学ぶことはできないし、今まで学んできたことだって(歴史など)事実かわからないんだから、そんな不確かなものに縛られるくらいなら勉強なんてやめて、今ある物事の姿から真理を見いだし自分のあり方を決める能力をつけろ」といったような内容の言葉を聞いたことがあり、またその人が確か有名な宗教家?だったので私は「宗教は学問に肯定的でない」、という偏見をもっておりました。 ブッタのことばで「学識あること」を良い意味で書かれているのを見て、「では、仏教での勉学はどのようにとらえられているのだろう?」と気になったために今回は質問させて頂きます。 仏教では勉強はするべきことなのかどうか、またするべきなら何故なのか、など仏教から見た勉強についてを教えて頂きたいです。宜しくお願い致します。
以下の文章の私の理解は、正しいですか? 私の理解 仏教の教えについて。自由意志、ひいては行為者の観念は、因果関係を切断する機能を持ちます。 そのことについて、仏教を信じている人は、どう思っているのですか? 因果関係とは、本当は、無数、無限のはずです。 例えば、行為者Aが、殺人をしたとしたら、行為者Aに責任が求められますが、行為者Aが、殺人行為を行うまでには、無数、無限の因果関係があります。 しかし、自由意志、ひいては行為者の観念は、因果関係を切断して、行為者Aを責任の出発点にしてしまうのです。 これは、仏教の縁起の教えと反していますよね? 縁起(自然の法則)は、「すべての現象は自存せず、他の原因によって、生じる」というものだからです。 もちろん、社会の上では、各々が個人的行為者であり、責任を求められることは、理解しています。しかし、これは、仏教の真理ではなく、虚構です。 人間は、虚構によって、生きていると、非二元論のラメッシ・バルセカール(Ramesh S. Balsekar)は、言っています。仏教でも、世俗の真理と究極の真理の二諦説があります。 ※ラメッシ・バルセカール(Ramesh S. Balsekar)の非二元論の基本原理「出来事は起こり、行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない(仏陀がオリジナルの言葉、無我)」「神の意志でないかぎり、何ごとも起こらない。起こることすべては神の意志(自然の法則、運命)」は、心の平和のための教えです。 補足 主体、自由意志、行為者の実在を擁護する人に、なぜ、それらが存在しないことが通じないのか、と思っていましたが、感情論で、言っているのではないでしょうか? 理性で考えれば、行為者は存在しないことは、明らかです。 もちろん、私も、理性で行為者は存在しないという答えが出ても、それが、腹に落ちているわけではないですけど。 心の問題を人間の自由意志に求めるのは、逃げでしかないのではないでしょうか? また、悟りの障害は、まじめに深刻に考えることだ、と非二元論のラメッシ・バルセカールが言っていますが、そう思いますか?
こんにちは、お力添えをお願いします。 ネットで知り合った人が居るのですが、直接会ったことはありません。 その人は自身のことを悟りを開いた、ブッダ、神、なんでも出来る完璧などと良く表現します。 ネガティブな私の思想に対して生きやすくなるように色々教えて下さいます。 日頃から人をコントロールしてはいけない、尊重するように、差別思想は良くないよと言っています。君(私)のことも尊重するよと言っています。 ですが、私の思想に対しては否定ばかりしてきます。雑談のつもりで話した何気ない会話でさえも「欲まみれで感謝が足りない」と返されまして、共感共有出来ません。お相手の言っている感謝はその通りですし、全てに感謝する気持ちを私も忘れないようにしているつもりです。 尊重すると言いながら、私の価値観がお相手の価値観に添っていないとコントロールしてきます(ですがそれは私の錯覚だと言われます) そしてアドバイスの通りに思想を転換したり行動しないと、また否定されて甘えていると言われます。 私に対しては人をコントロールしてはいけない、尊重するようにと言う割にはお相手自身は私に対してコントロールしてきますし、尊重もしていないように感じます。それを素直に伝えると「反論するな、反省しろ感謝しろ」と言われてしまい対等な関係じゃないし、まるで教祖様と信者です。 お相手のお陰で仏教を勉強したいと思いましたし、人生を良くしていく教えをたくさん頂きました。 とても感謝しています。 ですが対等な関係を築けない上に、私が何を言ってもお相手は聞く耳を持ってくれないので一方的に連絡を取れないようにしてしまいました。 感謝を伝えてから終わりにしようかとも考えましたが、いつもの論調でコントロールされて平行線になりそうな気がしたので。 これこそ「感謝が足りない」と叱られそうですが、お相手に教えて頂いたことはこれからも大切にしていきたいです。 一方的に連絡を絶った私は恩義知らずの罰当たりでしょうか? お読み頂きありがとうございました。
理趣経(正確には、理趣経本文を含む解説書)を初めて読んだのは 20代の頃で、その時は何が何だかチンプンカンプンでした。 でも今になって読み返し、頭の中で反芻しているうちに、 理趣経がこんな事を語りかけているように思えて来ました。 以下、長文になりますがご了承願います↓ ・・・・ 自然界には大小様々な生き物がひしめいているだろう。 与えられた命の中で無心に食を求め、子を作り、必死に生きている。 そんな生き物たちの本能が汚れてると思うか?いや、皆清浄なのだ。 そして人間も生き物だから、人間の欲望や業だって本来は清浄なんだ。 自然がありのままで美しいように、人の欲も本来ありのままで美しいんだ。 大いに食べて楽しむのも結構、性の快楽に耽るのも結構。 自分の本性を曲げる事はない。遺伝子に刻まれた生命の原理だから。 与えられた日々を存分に生き、愛し、大いに楽しみなさい。 でも決して忘れないでね。 最高の快楽は、あなた自身がまぎれもなく、この大自然・大宇宙の 一部として存在し、共に生きている事実を実感する事。 そして他者も皆、かけがえのない生命を生きている。 だから皆が楽しんで暮らせるよう、欲の力を否定せず、 むしろ利用して世間を整えるんだ。まあうまくやってくれよ。 悟りは本来深遠で説明しつくせないものだが、 私(理趣経)がナビとなって道案内しよう。 まずは車の免許を取りなさい。仕事や家庭の都合で 無理なら運転できる人に乗せてもらいなさい。 大丈夫、私(理趣経)を信じていれば、まさか地獄には墜ちないさ。 あ、でもナビの操作だけはくれぐれも間違えないようにな。 ・・・・ ・・・こんな解釈で合ってるでしょうか? やはり理趣経については、これ以上は独学よりも、 お寺の勉強会にでも参加した方が良いでしょうかね?
こんばんは。先に何があったかお話しします。私は元特別支援学校の生徒で、昨年度にその高等部を卒業し、今は近くの障がい者専門の専門学校のようなところに通っています。上記の高校1年生の時分に当時、精神を病んでいた父に叱責されながら血反吐を吐く思いでバスと電車の乗り方を身につけました。その時は就職に必要な試練と思えたのですが。やがて1年生の三学期に体験に行った企業が家に近く、電車やバスに乗る必要がない距離であったため、血反吐を吐く思いでバスや電車を身につけたのが馬鹿らしくなり、電車やバスに乗るのがトラウマになりました。しかし今は、いずれバスや電車にに乗らなくてはいけず、しかし電車やバスのトラウマが障りとなり使えません。なので、悟りを開くとはいわずとも仏教の見地から煩悩の1つ(そう理解している)である執着(過去への執着が起因のはず)を和らげる方法を教えてください。私は浄土真宗なので、恐らく執着をなくす方法が教えになく、かといって信仰を変えることはできないので、信仰を抜きに、執着を緩和できる瞑想法や思考法などを教えてください。長文失礼致しました
「仏教的・釈尊の法として、〝感謝〟〝御恩〟の 概念 とは、どのようなものでしょうか?」 昨年は、大変、お世話になりました。 件の問題は、そのまま遺恨となったままですが、私自身は回復傾向にあり。 家族間 以外に関しては、至って順調… だと思います。 父母や家族に対しては、新しい境地です^^; 日々、試行錯誤のリハビリ中で、周囲の皆さんの 理解と協力 に、感謝しきりの毎日です。 先日、ふと、(宗教全般に関してではありますが、まずは仏教的に釈尊へ)疑問が浮かびました。 シッダルッダは、かつて、妻子を捨て国を捨てて、悟りへの修行の道を進んだと記憶しています。 息子や国の民は、その後を追い続け。 妻や女性たちは、追うことも許されなかった(ただ後を付いていったけれど受け入れてはもらえなかった)…? 宗教的には、神や仏へ対しての敬意や信仰については説かれていると思うのですが。 では、その他の存在への〝感謝〟〝御恩〟とは、どのように話されているのでしょうか? “生きる”ということは、決して 独り では行えないのだと思います。 だからこそ、他に 救い を求める。 生きとし生けるものすべて。 救い 救われ。 支えられ支えて。 そういうことについての、仏教の概念を。 そういえば、私は知りませんでした。 寺院や僧職でいえば、在家の方からの支えがあってこそ、成り立っている職だと思います。 宗教全般に限定したものでもありませんが… 個が尊重されるのは、大変に良いことだと思うのですが、個人主義に偏向し過ぎてしまっているように感じてしまう昨今。 仏教という立場では、どのように解釈されているのかが気になりました。 浅学を恥じるばかりです。
亡くなった悪友は51歳という若さで単独事故で亡くなりました。 「関係性」 相手には家庭もあり、愛人も数人居るような元気な方でした。愛人ではないが、時間が合えば出かけたり体の関係もあり遊んだりしていた仲でした。 私が再婚して連絡回数が減り1年に3回程になっていた。 何故か久々に連絡を取りたくなりめ連絡先したが返事が無くて、共通の友人に連絡とりたいと話しして伝えておくね!と翌日亡くなりました。 「デジャブ」 そして葬式準備していたら、ふと自分が喪服を着る自分の夢を思い出した。 この姿、手に持っているもの同じでした。この断片的な夢は数カ月前見た夢で何か記憶に残る動物が出ており、目が冷めた後夢占いで調べたので記憶にかすかに残ってました。 その夢占いには、「試練、大切な人が亡くなる」と言う書いてありましたがそんな事あるはずないとスルーした事がありました。 この出来事が気になり調べていたら ここの仏教の教えをしることになり楽になりましたが、仏教の教えではあり得ないが 私の様な出来事があると、この人の運命は決まっていたんじゃないかと思いました。 私が経験したデジャブのような事は 「なぜ、ひとも特定して事故死する事を見れなかったんだ、」など悔みました。 だか、ここの悟りを読んで 私に対して「試練」がくるよと教えててくれただけでもありがたいと思えるようになりました。 「疑問」 この出来事はデジャブと言うのか、守護霊さんか何かが教えてくれたのでしょうか? この方は、亡くなる運命が決まっていたんじゃないかと思えましたがどう思われますか?
大切な大切な大好きな家族である猫が病気になってしまいました。 とても辛いです。 かわりたいです。 どうしてせっかく生まれてきたのに、年をとっていくのか。 どうしていずれ死ぬのに生まれてくるのか。 生まれてきてたくさんいいこともあるし楽しいこともあると思います。 でも、悲しいことや辛いこともたくさんあります。 なんで生きていくんでしょうか。 この世には人数制限があって、新しい命がこの世に誕生するためには、失われる命がないといけないのでしょうか。 愛猫がもしいなくなったら、生きていくかいがありません。 ただ、すぐ私も後を追ったら親が悲しむので、親と愛猫がいなくなったら私も後を追いたいです。 生きていくことは修行だというけれど、それなら死ねたら楽になるのでしょうか。 不健康なことをして緩やかに死んでいけたらと考えてしまいます。 頭で理解しようとしても、心が受け付けません。 悟りを開いたら悲しくなることはないのでしょうか? できることはなんでもしてあげたい。 私と命をわけっこして、同時に最後を迎えたい。 どうして私ではなく愛猫が辛い目にあわなくちやいけないのかわかりません。 試練ばかり与えるのは、神様や仏様が私のことを嫌っているからなのでしょうか。 それとも私が悪いことをして、その報いなのでしょうか。 かわりに私の命をささげれば、悪いことはなくなるのでしょう?
前回「釈尊の悟りは神通力を得た結果?」を投稿しましたが、当たりのようです。 駒沢大学学長を歴任された水野弘元先生の著書「釈尊の生涯」の「成道と三明六通」には「(前略) そして濾尽智通以外の五神通は、必ずしも仏教者だけでなく他の宗教家や鬼神狐狸の類に至るまでも、浅深の差はあっても、これも得ることが出来るとせられる」と書かれています。 三明六通の「六通」とは先ほどにに記述の「五神通」とあるように、「六神通」と考えることが出来ますので、「神通力」を得たと考えて差し支えないと思います。 古代インド社会では「輪廻転生」は常識であったそうですが、当時のインド宗教者は、互いに神通力を競い合ったと考えられます。 三明の最初の一明は「過去に関するすぐれた智慧の宿命通(宿命明)」となっていますから、釈尊だけでなく、それ以前の宗教者にもそこに到達して、「輪廻転生」が世間に広まったと考えられます。 余談ですが、阿含宗を創設した桐山靖雄師は、著書「輪廻する葦」のなかで、成仏法と称して、神通力を修練することを勧めたようです。私は読んでいませんので想像ですが、論理の「阿含経」ではなく実践法の「雑阿含経」を研究していたようです。
ブッダは入滅する際に深い瞑想状態に入りながら入滅したと見ました。 私も肉体や精神などが極限の苦痛に達した際や死ぬ際には瞑想を使用したいとおもっておりますが、そこまで深い瞑想をするには相当な瞑想の日々の熟練が必要かと思っております。 ところが精神疾患を持つものが瞑想をするとどうやら副作用が生じ、むしろ悪影響が発生することがわかりました。 以下質問となります: この矛盾は何でしょうか?座禅・瞑想とは人類全てが実践できる安全なメンタルケアでなければならず、そのため仏教修行の多くの部分を座禅・瞑想に使用するのではないのでしょうか。 それとも仏教の座禅・瞑想は修行の一部にすぎずそれが全てではないということでしょうか。 有名なキサーゴータミーの物語では明らかに精神疾患状態にある婦人を救っているような記述がありますが、これはどのようなプロセスを経て「治して」、「さらに悟りにまで到達した」のでしょうか。 個人的に思うのはまず前提として仏道の実践と修行者の身の回りの環境を整えてから瞑想を熟練していくのだと思いますが、その「環境の充実」の基準とはどこから情報を引っ張ってくれば良いのでしょうか。 よろしければ真なるお言葉をくださいませ。なければご対応不要です。よろしくお願い致します。
永遠の地獄についてお坊様はあると思いますか? 永遠の地獄などないなんて考えは 着るものも食べるものも住む場所もある先進国で生まれた人の平和ボケした考えだと思うんですが 量子力学の光には波と粒が最初から同時に存在する二重性の性質があるという理論において この世界はどうして生まれたのかを究極的に突き止めると全ての根源は量子力学の二重性の性質に行き当たるそうで この世界は最初から有ったと同時に無かったという最初から同時に存在する二重性の性質 何も無い空間でもそこにヒッグス粒子が有るという最初から同時に存在する二重性の性質 全ての根源はこの量子力学の二重性の性質に行き当たるなら 死後の世界において永遠の地獄はなかったと思ってもそれはあるという二重性の性質を想定できますよね だとしたら永遠の地獄があると思うんですが イエスキリスト様はその永遠の地獄から人々を救える全能なる神の力があるんですが 全能なる神ではなくただの人間であったお釈迦様は 瞑想して悟りを開いたことで 永遠の地獄から人々を救える全能なる神の力があるんですか?
自分は霊魂の存在を信じています。自分は科学的な合理主義者ですが、そうであるがゆえに霊魂の存在を逆説的に傍証してしまっている具体例を知っているため、かえって霊魂の存在を信じるようになりました。 それはそれとして自分はどうしようもなく他者とコミュニケーションがとれない状況・環境にいるため、できるだけ早めに自殺しておきたいのです。これはもう結構どうしようもない状況で救いはありません。ですから自殺した場合、できる限りこの世に未練等を残して霊魂のような形で留まるようなことにならないようにしたいのです。このまま生きていてもますます他者に対する(主にマイナスの)執着が強まりそうですし生きていて楽しいと思ったことはほぼありません。むしろ悪事を為して日本人に対してせいせいするくらいです。ゆえにどういう心構えで死ねばできるだけ霊魂として現世に残った時にすぐに消滅できるのか、その方法を知りたいです。思うに大昔の仏教修行者も悟りを得るとか輪廻から解脱するとかそういう虚妄に思える話は別にしても少なくとも個としての霊魂はすぐに消滅したように思え、楽に消えることができたと思うのです。 自分は生きる気力もなければ他力本願も望めません。ゆえに今すぐ消えて楽になりたいのですがどういう心構えで死ねばよろしいでしょうか?手前勝手な相談をして申し訳ありません、どうかよろしくお願いします。しかしほとほと人生に疲れているのです。少子化にかかわらず10代の自殺者の数が増えているようですが、今なら彼らの気持ちが深くよくわかる気がしています。能天気に生きられる大人とは全く違う別の思考というか、悪い意味での才能というか、その内面を理解できたような気がしています。
こんにちは。24歳の女です。 私は学童期から18で自立するまで母親との確執に苦しみ、その間は過食嘔吐や希死念慮に苦しんできました。 今は自分なりに悟りを開きつつあり、自分の人生を歩み、楽しむことを覚え始めたばかりです。 そんな中で、18歳~20歳の頃に犯した罪を思い出しては、後悔と自責の念に苛まれています。 それは1度した援交まがいの事、19~20歳のころに3度行った風俗での勤務です。どれも最後までは行わなかったとはいえ、初めてのキスもそこで終えてしまい、その時の光景を思い出しては激しい後悔と不快感が襲ってきます。 どうしてあの時から今まで、平気でいられたのだろうかと思います。 昔の方が強かったのか、そんなことも思います。 最近は幸せを感じることも増え、初めて恋人を作ろうと行動も起こしています。 そんな日々の今、ふとした瞬間、朝に目を覚ます瞬間に思い出すのです。 まるで幸せになることを昔の自分が許さないかのように、その時の記憶や感情を持ってくるのです。 自分なりに調べて、過去の行動は防衛心からくる自傷行為だったのだと理解もしているところです。 でもどうしてもその時の自分が許せず、反吐が出る程気持ちが悪いです。 どなたかに赦しを乞いたくてここに書いているのだと思います。 私のした行いも自分の人生の一部として抱えていかなくてはならないのでしょうか。忘れることはできないのでしょうか。助けてください。
質問するのは初めてです。 私は基本的に自分のやりたいことしかせず、自由に好きなように生きています。特に何かを変えたい、何か辛いとは思っておらず、楽しく暮らしています。 そのはずなのに、ふとした瞬間に空虚感を感じます。車の中で5時間ほど動けなくなってしまったり、ふと海の中に沈んでしまいたくなったり。原因は特に思い当たりません。トラウマも悩みもありません。楽しい予定が終わってしまった後に来ることが多いですが、特に理由もなく虚無状態に陥ってしまうことも多いです。 私はただ自分が生きているだけで業を背負っていると思っています。これまで多くの人を傷付けてきました。 許されたくもないし、救われたくもありません。一生背負い続けなければいけない罪だと思っていますし、私はその重荷を背負いながら無責任に愉快な毎日を続けていきたいと思っています。 だから、私が虚無状態に陥るのは自業自得なのでしょうか?自分の選択の結果なような気もしていますが……… 楽しく過ごしているその瞬間も、心の奥がジクリと痛むことがあります。 荷物を投げ捨てたくはないですが、虚無状態に陥って自殺願望が浮かんだその瞬間にソッと荷物を傍に置く方法が知りたいです。 自分の心の穴を埋めるには、埋めるのが厳しいのであれば 見つめるには やはり悟りを開くしかないのでしょうか? 支離滅裂な文章ですみません。もしこれらの文章を読んでなにか思うことがあれば、お返事をして下さると嬉しいです。明瞭な回答でなくても構いません。私がしている質問が非常に抽象的なことは分かっているので………… 読んでくださりありがとうございました。
お世話になっております。いつも温かいご回答を頂き、大変感謝しております。ありがとうございます。 今回お聞きしたいのは、「恐怖を忘れて過ごすのは良い傾向なのか?」というものです。 以前より、死の恐怖を克服する方法についてご教示頂いております。怖くなったらお念仏を唱えたり、仏教に関する本を読んだりして、少しでも悟りに近付けるよう勉強しています。 その中で、以前よりも、恐怖を感じる時間が少なくなっていると感じます。しかし、決して死が怖くないわけではなく、ただ別のことに気を取られて恐怖を忘れているだけなのです。 日々が忙しくなるとそのような「忘れている時間」が増えていくのですが、隙間の時間に死の恐怖を思い出して、絶望感に苛まれます。 そこで、 ・死の恐怖を忘れている時間は、仏教の修行的にはあって良いのか?それは、克服へと繋がっているのか? ・それとも、何度も恐怖を思い出し、その度に勉強したり念仏したり…と繰り返す方が好ましいのか? の2点について、ご教示願いたいです。 どうしても、文献に触れたり念仏を唱えたりすると、死の恐怖を連想してしまうので、精神的に疲弊してしまいます。そのため、どうでもいい娯楽で恐怖を誤魔化してしまうこともあります。 一方で、死に対する絶望感から、「早く死の恐怖を全く感じないようになりたい」と思い、つらくても修行した方が良いのか、と思うこともあります。 また一方で、自分のしたいことは「死の恐怖の克服」だけではなく、ほかの勉強や趣味にも勤しみたいので、少なくとも現状では、やることを仏門修行だけに絞るのは避けたいと思っています。 長文かつ、わかりづらい文章になってしまい、申し訳ございません。お時間ある時で構いません。ご教示頂けますと幸いです。
今更ですが、仏教の体系が「真理」として「般若経」、「真実」として「般若心経」、論理として「阿含経」でまとまっていると考えていますので、今度は「般若心経」の解釈を試みたいと思います。 「観自在菩薩」とは釈尊が如来になる前の尊称であると思います。 次の「行深般若波羅蜜多時」が菩薩が如来になった瞬間と考えられます。 「照見五蘊皆空 度一切苦厄」 がこの般若心経の結論です。即ち「空(正確には空性)」を発見して、悟りを開いたのです。 「舎利子 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」が第一のキーフレーズです。 「般若経」は「色即是空」だけですが、それは「真理」であって「色即是空、空即是色」が真実です。 色即是空の「空」が真実であれば、空即是色の「色」も真実です。しかし「空」と「色」は別物ですからこの「即是」は定性的な即是で、「物体」は総て「空」の集合体であるという意味です。 定量的にはそこに「縁起」が加わって「色」=「縁起」X「空」、「空」=「縁起」X「色」となります。 「色」は五蘊の中の身体です。身体はこの世限りの命ですから、科学の真実と一致するはずです。アインシュタインはe=mc^2の公式を発表し、広島、長崎の実験でこの公式が真実と確定されたのです。 e(空)=m(色)Xc^2(縁起)と対応します。 「受想行識亦復如是」 「受想行識」は通常総括して「心」と訳されてます。心も「空」で出来ているのです。