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hasunoha 問答検索結果 : 「私 いない 」
検索結果: 61295件

SNSへの苦手意識

ここ数年ずっとモヤモヤしているので、お話聞いて頂けますと幸いです。 私は絵を描くことが好きですが、SNSが得意ではありません。イマドキ逆に珍しいだろうなと思うのですが、要するにネットでコミュニケーションを取るのが極端に苦手です…。 理由としては、ストレスが溜まるからです。他人の何気ない発言にいちいち引っ掛かってしまうし、誰かの気分の変化をモロに食らってしまうので必要以上に疲れてしまいます。それに、SNS独特の距離感がイマイチ分からず気を遣いすぎてしまうんです。 すごく仲良くしていたと思ったら急に話もしなくなったり、ステキな絵を描く人が誰かの悪口言ってたりとか日常茶飯事で、所詮ネットですしそりゃそうですが、自分はなかなか割りきれないです。 しかし、絵描きのコミュニティは今やSNSがメインです。絵を描く人たちが交流をしたりバリバリ活用しているのを見ると、すごいなあと思います。どうしてみんな当たり前みたいにSNSやってられるんだろう、と思います。 友達にそう言った旨を相談すると「いちいち気にしすぎじゃない?」と言われます。それは自分でもわかってるんですが…。 ちなみに、リアルでそう言ったストレスを感じることは少なく、人と話すこと自体は好きです。リアルの方がむしろ友達作りやすいです。 多くの人に絵を見て貰うことを目指すのなら、SNSは欠かせないツールだと思うので、なるべくなら良い距離感で使っていきたいと思っています…。ですがどう割りきればいいのか未だに分かりません。 長文な上に何だか要領を得ない文となってしまいすみません。お言葉いただけますと嬉しいです。

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僧侶の威厳と戒律

毎回、私のは質問というよりイチャモンと言った方がよいかもしれませんが、今回もよろしくお願いします。 私(S40年代生まれ)の子供の頃は、現在よりもずっとお坊さんは尊敬される存在であった気がしますが、現在の僧侶の威厳の低下(私にはそうみえる)はどこに原因があるのでしょうか? それは、現在の僧侶の大半に、戒律を厳守して生活している印象が全く無い、というところが大きいのでないか(あくまで部外者の印象で、実際のところはわかりませんが)と私は考えます。 「威厳なんていりません」とおっしゃるかもしれませんが、毎日、朝夕「三宝に帰依します」と唱えている側にしてみれば、やはり僧侶には、仰ぎ見る存在であってほしいのです。 現在、僧侶(日本仏教界)にとって戒律はどのようなもので、どれくらい重要視されているのでしょうか? ぜひ、ご意見をお聞かせください。 ちなみに、私は仏教徒であることを強く意識するようになって、五戒のうち、せめて不飲酒戒の一つだけでも、死ぬまで守り通そうと決めて、十四年間一滴も飲んでいません。それ以前は、ひどいもんでした...。       私は本当に仏教に救われたと思っています。

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ストーカーになりそうな自分が怖い

4年間付き合っていた彼女に先月振られました。ストーカー行為が頭に浮かぶ自分が怖いです。 別れの原因は交際中に一度酒が入って上司と一緒にいかがわしい店に行ったのがバレたことです。 彼女には真摯に謝罪し一度許してもらっていましたが、信用関係は崩れ、彼女には深い傷を負わせてしまいました。前日まで普通に「次のデート楽しみ」といった遣り取りをしていたところから、急に別れを告げられ取り乱してしまい、その日以来音信不通です。 友人や親類、同僚とも話をして過去のことを後悔する気持ちや復縁したいという気持ちは消えてきました。(無論反省はしています)しかし、「無言電話をしてやろう」「SNSにあることないこと書いてやれ」「音信不通になってしまったから彼女の自宅に行けばいい」といった明らかなストーカー行為が頭に浮かんでは理性で抑えることを繰り返しています。 つきまとい行為は「絶対やってはいけないこと」と頭の中では分かっています。本当にやったら警察沙汰になることも理解しています。友人にも「ストーカー行為をやるなんて言い出したら、俺は殴ってでもお前を止める」と真摯にたしなめられました。こんな考えが浮かんでしまう自分、そしていつか箍が外れてしまうかもしれない自分に恐怖を覚えます。 別れの原因は自分にあるのだから完全に逆恨みだと理解しています。自分では必死に反省して次の人間関係に切り替えていこうとしているつもりなのに、やはり未練が残っているのでしょうか。どうすれば恨みの感情・執着心を捨てられるのでしょうか。喝を入れてください。

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愛憎と生と死

お世話になります 現在、きっと感情がぐちゃぐちゃになっています。 最近フラッシュバックが時々起こり、虐待されていた瞬間が点滅するように脳に蘇ります。 仕事中でも家事をしていても、寝る寸前でも。 恐怖が、とにかく恐怖が頭の中を覆って叫び出したくなります。愛されなかった子供の頃の自分が甲高い悲鳴を上げてフラッシュバックの中を逃げ回って、気が触れそうになります。 フラッシュバックから何とか戻ったら、恐怖から憎しみに感情が変わり、父親も味方である姉も知り合いも道行く見知らぬ人もすべてが憎くなります。 時には声に出して呪います。「死ね、死ね」と何度も。でもそのうちに死んでほしいのは自分だと気付くのです。愛されなかった自分が許せないのです。賢くなかった自分が、若くして死んだもう一人の姉のかわりになれず父親を満たせなかった役立たずな自分が、憎くて憎くて、大嫌いです。 せっかく生まれてきたのにこんな風に自分を責め続ける人生とはなんでしょうか。いっそ死にたい。でも死ぬ前に一度でいいから父親に愛されて、生きてて良かったと感じたい。 もう父親に会うことは絶対に無いのですが、父親に対する憎悪と同じくらい父親からの愛に飢えているのです。 こんな惨めな人生は嫌だ。幸せというものを理解したい。 死にたくて、生きたい。 瞑想時の呼吸法で落ち着こうとするのですが、感情がジェットコースターのように急速に急回転してうまくいきません。 憎しみとはなんでしょう。愛とはなんでしょう。 死にたいと生きたい、どちらが本当の気持ちなのでしょうか。 めちゃくちゃな文章で申し訳ございません。

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一人っ子にすること

初めまして。 三歳の一人息子を持つ母です。 親の都合で一人っ子にしてしまう事への意見を頂きたく相談します。 経済的理由、 私の未熟さからこれ以上の子供を育てる自信がない事、 息子が大事すぎて二人目を妊娠・出産する事になった時に息子に寂しい思いをさせるのが嫌な事、 前回の妊娠中に私の体調面で周りに迷惑をかけた事、 などから一人っ子にしようと思っています。 主人も特に二人目を望んではいません。 でも周りは違うんです。 「2人目はまだ?」と何度も言われ、「一人っ子は可哀想」攻撃。 息子を同時期に出産したママ友はみんな二人目を出産済み。 四人家族の楽しい話を聞くと、息子に兄弟を作ってあげられない事に 罪悪感も感じます。 本当は私自身が二人目の子供を欲しいのかもしれません。 でもこれからの生活費の不安や、やっとらくになってきた子育て、 また一から新生児のお世話をする精神的余裕がないんです。 もう出産しなくていいんだと思うと心が楽になったりもします。 周りは子供が2人・3人が当たり前の環境で一人っ子を育てていく アドバイスを頂けませんか。 こんな親の都合で兄弟が持てない息子は、やはり可哀想な子なのでしょうか。

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自分の信じる『神』や『仏』が何者かわかりません

はじめまして。 うまくお話しできるか、わからないのですが… ここ最近、自分の思想がどこにあるのかわからず、お話を聞いていただきたいと思い、投稿させていただきました。 まず、私は特に、何教徒である、ですとか、特定の宗教には属しておりません。 ただ、色々と自身の考えと当てはまるものを探すなかで、最も共感できるのが仏教でしたので、こちらにおります。 私は漠然と、神様が存在していると思っています。 神が人間を作ったと思っています。 しかし、それは聖書にあるような、直接的に人間を作り出すようなものというよりは、 人が一冊の本を作り上げるようなものだと思っています。 『神』が、この世界を作り上げ、そのなかで『キリスト教』『イスラム教』『仏教』といった… 語弊を恐れずに申し上げるならば、『地球というなかの物語の設定としての宗教』を作り上げているのではないか、と思ってしまうのです。 そうした、なんでもできてしまう神のような、宇宙の外にある大きな力が、私は怖くてたまりません。 あまりに苦しいとき、そうした『神』が、私に何かバチを与えているのではないか、とさえ感じます。 しかし一方で、仏教の『因果応報』という教えを知ったとき、どこか救われるような感覚がありました。 私が苦しんだり、喜んだりするのは、宇宙の外にある神のせいではなく、自分自身の行いの結果なのだ、と。 それから、少しずつ仏教について調べ始めていますが、やはり何か神様のようなものの存在は、否定できずにいます。 そもそも、誰か一人でも信じ、信仰し、救われている人がいるならば、キリスト教の神も、イスラム教の神も、はたまた新興宗教の神であっても、存在していると思うし、それを否定したくないのです。 自分の信じるもののために、誰かが信じるものを否定したくありませんし、ないものにしたくありません。 一方で、どこか神様のようなものに怯えている自分がいますし、こんな自分が仏教の教えに惹かれることは、それこそバチが当たるのではないかと思います。 うまくお話しできたかわかりませんが、心のもちようがわからず、難しく感じております。 なにかアドバイスなどありましたら、ぜひ教えてください。

有り難し有り難し 71
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空についての理解

2回目のご質問になります。前回も真摯なご回答を ありがとうございました。 尚、今回のご質問も優先ではありませんので、深刻な ご相談を優先させて下さい。 仏教を学ぶ上で「空」の概念が定まりませんので、 ご教示頂ければ幸いです。 世俗諦としての表現でしか質問できませんので、 質問の意味も理解されるのか心配でもあります。 これまでの仏教の学習から、全ての物事は「現象」 であり、その瞬間の状態であり続ける「実体」は なく、全て川のように流れていくものだと理解し ました。=無常・無我 →この理解で正しいでしょうか? 物事が「ある」でもなければ「ない」でもない。=空? この意味が正直、理解に苦しんでいます。 「空」(から)という世俗諦としての言葉のイメージ だと、「からっぽ」のように感じます。 でも、何もないと定義すると六根センサが何も作動 しないと思います。 「見えた」「聞こえた」・・・は、実際にあります。 私の理解したことは、 全ての物は「地水火風」の構成のされ方で、現象 としての現れ方が異なる。 →物質、人、動物、植物・・等々 全ての物は、エネルギーと言えるのではと、感じました。 エネルギーという表現が適切かわかりませんが。 物質には、質量というエネルギーがある。 生命にも質量もありますが、心があり、生存欲求や色々 な欲求がある。これらをエネルギーと表現しました。 このエネルギーが他のエネルギーとぶつかりあって変化 を生み、因果法則によって、現象として常に変化し続ける。 物質も空気に触れ、物質と空気のエネルギーのぶつかり 合いで酸化し、そのもの自体も変化し続ける。 自分の心(本当は自分という実体はないのでしょうが)も 六境が六根センサにぶつかり、物事を認識し(エネルギー がぶつかる瞬間)、六識で心が何らかの反応をする。 ぶつかるという表現より影響し合う方が適切かも しれません。 ですから、「空」とは、ある/ない(虚無)ではなく、 あるエネルギーが他のエネルギーとぶつかり(影響)、 因果法則によって変化し続ける現象と理解するのは 誤りでしょうか? 空=無常=無我と感じられます。 以上、初歩的な質問で恐縮ですが、宜しくお願いします。

有り難し有り難し 51
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