このタイトルの質問は多くたくさんは拝見するのですが、少し私は考えが違うかもしれませんので、投稿させていただきます。長文御容赦ください。 私は死について考え出したのは小学6年生の時でした。 そのときは、死んでしまうともうこの世には帰ってこれないし、今楽しいと思うことはもう二度とできない。といったものでした。 そして、考え方は年々変化しました。 今は以下のことを考え、夜になると吐き気をもよおすこともあります。 ・死んだらどんな姿になるのか ・姿が変わっても親や妻、夫に会えるのか、また後から来る人にも会えるのか ・生まれ変わるというが、今実際前世何かだったという記憶も多分ありません… ・あの世でも老化ということがあるのか?あればどのくらい前の人まで会えるのか?なければ老けない姿でどうやって会いたい人を探すのか? ・なんといっても向こうでも働くのか?食べるのか?ずっと活動するのか? といったことがこれでも一部ですが、考えてしまいます… 誰も死に逢ったことはないし、わからないものです。 ですが、かといってこういうふうな捉え方をするなと言われてもできそうにはありません… ありがたきお言葉をお待ちしております……
前回と似た内容で、申し訳ありません。 親の二の舞を演じるのが明白なのに、生きていく意味があるのでしょうか? 生まれてから今日に至るまでの現実体験を踏まえれば、DNA(遺伝子)の問題であるのは、間違いありません。 具体例を1つ。 「歯茎が、お父ちゃんと同じやなぁ・・・」 初診時に、現在も通院しているかかりつけの歯科医から、言われたセリフです。父も診てもらっていたので、事実なのでしょう。 今、上の前歯がぐらついて、いつ抜けるかわからない状態です。私の歯と歯茎の状態は、その歯科医の「予想した通り」の経過をたどっています。 その他、親の二の舞の具体例には、枚挙にいとまがありません。 ところで、2019年の参議院議員選挙(比例代表)で、政治団体「安楽死を考える日本の会(安楽会)」が、候補者を立てていました。 結果は、得票数26万9,051票(得票率0.54%)で、議席獲得はなりませんでした。昨年(2022年)の同選挙では、安楽会は候補者を立てていませんでした。 日本では、安楽死の問題を議論する雰囲気は、「微塵もない」ようです。 生き方を熱く語る著名人・有識者は、星の数ほどいますが、「死に方」を論じる著名人・有識者は、私の知る限りでは「皆無」ですね。人は、いつか必ず死ぬというのに・・・。 前回の質問文中にも書きましたが、読売新聞社あてに出した投書は、ことごとく「無視」されました。 とっくの昔に、心は折れてます。 体が思うように動きません。 体のあちこちが痛みます。 もともと弱かった心臓も、さらに悪化しています。 身も心もボロボロです。 お金もありません。 何かあった時に、助けてくれる人もいません。 死んでも、白骨化するまで、誰にも発見されないでしょう。 父の七回忌までは、まだ生きている意味もありますが、それが済めば、本当に終わりです。これらを踏まえれば、やはり「安楽死所望」です。 今後の予測がついているのに、それでも、生き続けなければならないのでしょうか?
12年前に父が病気で他界しました。いま、私自身が病気を患い、諸事情により家を無くしたため帰りたくても退院させてもらえない状況です。1人でベッドの横で座っていると両親のことを思い出し、お父さんに会いたい、お母さんに会いたいと泣いてしまって余計にメンタルが悪くなるという状況です。 父は酒飲み家系で肝臓を悪くしていたのですが、塗装業という仕事柄有機溶剤によりますます肝臓を傷め、何度も入退院を繰り返したにもかかわらずお酒によって肝臓を患い死にました。 父は亡くなる少し前に動脈瘤が破裂して血圧が上がると出血が増えるからと絶食になっており、死の前日に病院から電話が来た時にICUで父に会った時はお腹すいたお腹すいたと言っていて、それでも血圧の関係で食べさせてあげることが出来なくて、たまたま母が持っていた飴をあげることしか出来ず、それが心残りで。 私は勉強が好きではなく父方の従姉妹のように早稲田大学に行くような頭も(無く、父が好きなように生きたらいいと言ってくれたからと好きに生きてきました。父は私に何も期待してくれていなかったのでしょうね。 しかし、ありがたいことに父を看取ることができ、帰りたい帰りたいと言っていた故郷にお骨になってからですが帰してあげることが出来ただけでも良かったのだろうかと思いはします。 ただ、気持ちが整理できず分骨して仏壇に居てもらってますが。 これで良かったんでしょうか。 ただ、やはり父は幸せだっただろうかと思ってしまいますし、もっとしてあげられることがあったんじゃないかと思ってしまいます。 母は父の亡くなる2年ほど前に怪我による脳内出血で左半身麻痺を患いました。 父が亡くなったため母の介護は私一人でやりました。 私が仕事や出かける時に家にいてと言っても出てしまったり、食事を摂ってくれないということがあり、母を手にかけてしまう前にと介護サービス付きのマンションに入れました。 母には小さい頃から殴られたり蹴られたりされ、まともに褒めてもらった事もなく、恨んで来ました。そして私自身病気になり半分動かなくなり、父を助けることが出来ず母を手放したバチが当たったのだろうかと自己嫌悪する毎日です。どうすれば楽になるでしょうか。
仏教では親よりも先に死ぬと地獄へ行き、賽の河原で永遠に石をつまされると聞きました。 もし自衛官や消防士などの危険な職の人が任務中、多くの人を救うために親よりも先に死んでしまった場合もそうなってしまうのでしょうか?
自分の性格は心配症です。 例えば車を運転していたら、この角から人が飛び出してくるかな?自転車に乗った人が急に来るかも?反対車線の渋滞した車の間から人が出てくるかも?と心配になります。 本題は、自分の親がもし病気になったら、亡くなったら耐えられないと、不安に襲われることです。 いま現在、両親はありがたいことに健康で生きていますが、急に病気にかかるかもしれない、急に亡くなるかもしれないと考えると、不安で仕方ないです。 歳を取ったことによる両親の体の不調が、もしかしたら大病(がん、心臓や脳の病気等)かもしれないと、急に不安で心配でたまらなくなります。 心配し出したらきりがないですが、最近はとても不安でたまりません。 もちろんいつか人間は亡くなりますが、自分が両親の病や死の時を迎える時、耐えられるのか、どう対処したらいいのか、分からずにいます。 大切に育ててくれた両親がいつまでも健康で長生きしてほしいですが、いつかはやってくる別れの時を想像すると、不安で仕方がありません。 どのような心構えでいるべきか、不安に襲われた時はどう対処したらいいか、教えていただけないでしょうか。
最近一人暮らしを始めました。 もともと体が弱いのと色々と考えてしまう性格のせいで、一人暮らしで自分の身に何かあった時に助けてくれる人がいない、その状況にただならぬ恐怖を感じてしまいます。 また、それよりも怖いのが身内の死です。 小学生の頃から身内が死んだときのことを考えると恐怖で涙が止まらなくなり、親の元へ駆け込んで落ち着かせてもらうということを度々してました。 今、親元を離れている状況で、ふと、今身内が危険な目に遭っていたら………と考えてしまうとどんどん悪い方向にしか考えられなくなり、ひどい時だとパニックを起こしてしまいます。 考えなければいい、という話ではありますが、体調を崩しているとき、気持ちがナイーブになっているとき、何か近場で事件が起きてしまった時など、スイッチが入ってしまうと考えるのが止まらなくなってしまいます。 今の精神状態だと、私は、親が亡くなったら確実に後を追ってしまうでしょう。 こんなことを考えてしまう私の心は弱いのでしょうか? 何か割り切って心を落ち着かせる方法などありませんでしょうか? 乱文での質問大変申し訳ありませんが、ご教授いただけたらと思います。 何卒、よろしくお願いいたします。
私25歳、妹23歳、両親64歳です。 社会人で一人暮らしを初めて両親の有難さに気づきました。 長年の不妊治療の後産まれた私は何の取り柄もなく、今までの迷惑と心配をかけてきた申し訳なさもいっぱいで、日々両親の健康と幸せを願うばかりです。 実家に帰るたびに、両親の白髪の多さや縮んだ背丈など、老いに気づく場面が多くなりました。ぱっと思い浮かぶ両親の姿は、背が高くて見た目も声も若い昔の姿です。ランニングが趣味だった父も「すぐ疲れる」と外出が少なくなりました。「私が死んだら食器あげるわ」「次元号変わるときはもう生きてないわ」と笑顔で話す両親の会話でも泣きそうになります。そうやって老いて死に近づいていく状態をみるのが辛いです。 昨年祖母が亡くなりました。身内の死は初めてです。 今でも祖母に会いたいと一人で泣くこともあり、祖母も祖母の家もなくなって悲しく寂しいです。 恥ずかしながら、祖母の死で改めて家族の大切さや感謝を感じました。 祖母が亡くなってこんなに悲しいなら両親が亡くなる時、受け止められる覚悟はできるのか?もし結婚して自分の家庭を持っても両親のいない長い人生を生きないといけないのか?と思ってしまいます。 「誰も死んでほしくない。健康のままずっと生きてほしい」と子供みたいに、大切な人が死ぬという現実から逃げたい気持ちでいっぱいです。 命に終わりがあるのはわかってますが、家族の死にどう向き合って立ち直ればいいかわかりませんし、受け止められる覚悟ができません。 両親が死んだらきっと悲しみで気が狂うだろうから自殺したい。でも大好きな妹のことを思うと自殺もできません。 また、介護施設で認知症の方の対応をしていたのを思い出し、両親が認知症になって私や妹ものことを忘れたら…という怖い気持ちもあります。 どうやって大切な人の死を受け入れて乗り越えたらいいのでしょうか。
はじめまして、よろしくお願いします 母がこの度進行癌になり、余命がある程度わかる状況です 母60代、私30代の男性ですが、仲は良く 同居しながら自営で仕事をしていた矢先です 質問としては、母の死を意識すると 私の命までそこで終わってしまうかのような 恐怖感が強く、これは異常なことなのじゃないかと 仏教、浄土、愛別離苦、色々な見方から 自分も、強く生き抜きたいですが、 どうにも気持ちが生死から離れません 母をしっかり見送り、先を過ごせるよう 何か教えをいただけませんでしょうか。
前回質問した時 生きがいは後から見つけるものと教えてもらったのですが結局見つかりませんでした まだ若いからそんなに早く見つかるわけないと思うかもしれませんが、今生きている理由が欲しいです というのも自分は周りにお道化て接していて 知らないうちに本当の自分ではない 所謂もう1人の自分のようなものが生まれました 前までは特に気にならなかったのですが 高校に入り、彼女ができ、 一年過ごし、今、彼女と別れそうになっていて お互い精神が不安定で、相手はいいですが 僕はもう生きている理由が見つからず どんな趣味より死んだ方がずっと楽だと思います 死ぬことが芸術のように美しいとおもいます 人の血を見ると性的に興奮するほどです 自分の人格が壊れていく事が怖いです 周りの目が怖いです 完全なる第三者以外信用できないです 親にも本当の自分をみせられないです 自分でも本当の自分がどっちなのかわからなくなってきました。 もはや生きていないといけないとか、生きてさえいればどうにかなるとか、全然響きません。 でも心の何処かにまだ生きていたいと思うのかもしれません。こうやって質問する事で少しでも生きてみようとしてるのかもしれません。 もう生きるのに疲れました。 このまま苦しい人生を送るなら 死んだ方がましです 最近は自傷をしそうになり、 結局やめました しかし、自傷したい衝動が抑えられません。 ただ死にたいという感情だけが頭の中にあります。 寝ても覚めても死ぬことを考えています。 頑張れとか期待されると苦しくなります。 優しくされると死にたくなくなります でも優しくしてくれるのは かりそめの自分に対してで本当の自分ではありません。 そうしてかりそめの自分に触れた時死にたいとおもいます。そうすれば僕に関係した人の中にはかりそめの自分だけが残り、本当の自分になるからです そうして本当の自分を消してしまいたくなります。 無意識に嘘をついてしまって 直せません。 何度も直そうとしても そのたびに嘘を重ね、自分の首を締めています。 生きている事がそんなに偉い事なのでしょうか 死ぬのは本当に悲しいことなのでしょうか じぶんには死ぬことは名誉だと思えてなりません この悩みについてお坊さんの意見が聞きたいです。 めんどくさい人間ですいません。 こんな質問困りますよね…
親が僕を生んでくれてここまで育ててくれたことはとても尊敬しているし、感謝しています。 僕は都内の学生なのですが、昨年髪が大量に抜け落ちるほどストレスを抱えてしまい、身辺整理したら死のうと思っています。そのあとの親や兄弟の気持ちを考えると、苦労ばっかりかけてきて最後まで申し訳ないと思ってます。ですが、自分で生きていく自身が持てなく、家にいると自責してただ無性に涙を流してしまいます。 あと数日の間に出来る限り恩返ししていこうと思うのですが、こういう時に思いつくあてもないです。お金に困ってるわけではないありません。今の僕にできる限りの恩返しを一緒に考えてほしいです。お願いします
死のうと思います。 幼い頃から親と親族に虐待されて育ちました。学歴もまともな職歴もない33歳です。 物心ついたころから色々なことにチャレンジしますが、全て失敗してきました。20代は医学部へ行こうと隠れ浪人を続け、叶わずただ貴重な20代を潰しました。 その後派遣を転々としましたが、いつも能力無しとして1ヶ月で派遣切りに合います。 高校生のころから鬱病と摂食障害を患っています。今は寝たきりで働けません。 風俗で働こうとしましたが、出来ませんでした。 色々なところに相談しましたし、病院も転々としましたが話を聞くだけだったり暴言を吐かれて終わりです。 日本人が嫌いです。 こんなはずじゃなかった。外に出るとしっかり働いてる人が羨ましくて情けないです。生活保護を受けようかとも思いましたが、公務員相手になんとなくみずぼらしくてなさけなくてやめました。 ずっと味方になってくれてた叔母も、孫ができてから私を捨てました。 友達もたいしていません。 疲れました、死のうと思います。でも首吊りしたら一人暮らしの賃貸だから親に迷惑かかると二の足をふんでしまいます。虐待されてきたのに洗脳されてるんです。 樹海で死ぬことを考えましたが、そこまで行く体力も気力もありそうにないです。 でも首吊ることにしました。もう疲れました。 情けないみっともない。 高学歴な親からすれば私は失敗作なんです。 長く申し訳ありませんでした。
こんにちは。 私は父を亡くし、母と暮らしています。母はすでに80歳をこえて、持病もあります。 私は現在ひきこもりのようになっており、親しく話せる友達もいません。小さい頃から女ですがマザコンといえるくらい母が好きで、友達のようにいろいろ話したりしてきました。 親の年齢が年齢なのでどうしても最期を考えてしまい、毎日気が重く苦しくなっています。いざそのときが来たら私は気絶でもするのではないか、してももう誰も助けてくれる人はいない、などどんどん悲観的になってしまいます。 母は定期的に病院に通っており、本人は楽しく明るく毎日を過ごしています。こうして母が毎日楽しく過ごせるのは私にとっても嬉しいですし、親に私が先にいく不幸を絶対味わってほしくはないですが、こんな歳なのに親が死ぬのがとても恐ろしいです。 これからどういう心構えでいけば多少なりとも心が強くなれるでしょうか?
私はいよいよ明日、命日を迎えることとなります。 親や友人にも話はしました。 ただの冗談だと思っており、真に受ける人はほとんど居ませんでした。 お金をあげるのはやめました。こんな人達にお金を残したところで、私の事などすっかり忘れて豪遊していることでしょうし、それを思えば腹が立ったからです。 しかし不思議なもので、あれほど待ち遠しかった私の命日。 いざ来てみると何だか、嬉しい反面、怖いような、悲しいような、そんな気持ちが湧き上がって来ます。 そして、何故か今更、「まだ死にたくない」という気持ちが僅かに出てきてしまいます。 これほどまでに苦しくて。やりたいことも既に自分にとって無価値なものに感じるほど、こんなにも悩んで苦しんでいるのに。 くだらない煩悩を捨てることができず、そんな自分に対しても嫌気がさして死にたいと願っているのに。 どうして今頃、急に生きたいという気持ちが微かに出てくるのでしょうか。 全くもってわかりません。 本当はどこかに、まだ生きたいという気持ちがあるというのでしょうか。 これほどまで死を願い、徹夜してまで準備するほど必死だったのに。 あとはもう実行するだけなのに。 死ぬことさえまともに出来ないのかと思うと、余計に自分に嫌気がさします。 きっとこのままだと、私は誰かを傷つけてしまいかねないと思います。トラックで歩行者天国に突っ込んだ男のように....。 そうなる前に、自分は消えるべきなのです。 もしこの質問を見てくださっている方々。 僧侶の方に限らず、ここに立ち寄った一般の方々でも結構です。 どうか私が死んでしまうよう、誰かに殺されたり、不慮の事故に遭ったりするように願ってください。 呪って頂いても構いません。 もしかしたら、それによって私が気を変えて、自殺を実行に移せるかもしれません。それが一番良いのですが...。 罪作りなお願いであることは十分承知しております。 しかし自分から楽になることができない以上、何かが私を死なせるよう、願うしかないのです。 どうか、よろしくお願いします。
人生が苦痛で、毎日のように死にたいと思っています。 死ぬことで楽になれると思っています。 ただ、自殺すると親や知人等が悲しみます。また、自殺はさらなる苦しみが待っているとも言われています。 死ぬことも生きることもできない私はどうすればよいのでしょうか?
幼稚園の頃でしょうか、祖父の死に接して、死ぬってどういうことなの? と眠られぬ夜を過ごしたと親から聞かされたことがあります。 中学高校の頃になると死ぬこと、無ということが恐ろしいと埒のあかない煩悶に苦しみ、そのうち、そもそも目の前に見える、知覚する世界の存在だって何の保証もない気がしてきて、そもそも懐疑論者というよりは病的に存在とか認識の作用自体確信がもてない、と不安にさいなまれていただけなので建設的でも哲学的でもなかったです。 「虚無」というのも言語や人間の思考の生み出した幻でしかないのでしょうか。 分析哲学みたいに考えればそもそもそんな思考のおよび得ないことは哲学の扱う領分ではないし、人が考える意味もないことなのかもしれないと最近は思って気もしました。 それに存在に懐疑するなら虚無だって懐疑すべきで…。 こんがらかってしまいます(笑)。 そもそもそういうことを考えてみたとて幸せに結びつくのかとも思います。
小学生2年生の娘が 死ぬことに対して恐怖を抱いているようです。また、生きてるのかということについても考えて、不安になっている様子です。 思い返すとここ数年で ペット(熱帯魚)が死んでしまったり、娘にとっての曽祖母が亡くなったり、死について考える事は何回かあったのですが、曽祖母は娘自身は会ったこともほとんどない近しい関係ではなかったので、それほどショックを受けるような感じではなかったです。 それでも、人が亡くなったらお葬式をして、お骨になるという事は少しショッキングだったのかもしれません。 私はいつ死ぬの? 死んだらどうなるの? 私は本当に生きてるの? 「まだ死なないから大丈夫だよ。 あなたが死ぬのは、ひいおばあちゃんぐらいの年齢になってからだと思うよ。」 「たくさんいい事をすると天国に行けるみたいだよ。」 などとも話してみたりもしましたが、なかなか不安は解消されないみたいです。 明日死んじゃうかもしれないと泣き始めることもあります。 生きてることについては うまく説明もできず 「自分が生きてるのかを今考えられてるってことはあなたが生きてるってことなんだよ。」と 「我思う故に我あり」のような事を伝えてみたりしても、小学生には、まだ上手く伝わりません。 死への恐怖 死後の話 生きてること どのように話してあげればいいでしょうか?
死に対して気持ちが動きません。 父親の死は両親の離婚後何年も会っていなかったので他人事のように感じました。もう1つの理由に離婚前より母親から父親の悪口ばかりしか聞かず私なりの判断ができるほどの交流もなかったため父親像というものが母親からの話だけで固まってしまった事です。ですが長年可愛がっていたペットが亡くなった時もその瞬間は涙が出ましたが悲しみは長く続きませんでした。母親への感情も薄く扱い難い人なので死んでも悲しまないだろうと感じてしまう自分が嫌です。人として未熟なのでしょうか。
前にも相談しましたが、死にたくて死にたくて仕方がありません。 原因は上司のモラハラ気質な言動と寮の先輩です。 なぜ私だけ親の職を侮辱されなければならないのか、なぜ私だけ嫌みったらしい言い方をされるのか…実に耐え難いです。 先輩はあれこれと言ってくるくせに自分は全くやらないし、潔癖の押し付けで毎日毎日何かと小言を言ってきてストレスゲージが振り切れそうです。 辛いことから逃れたいから死にたいのではなく、自殺してこの2人を社会的に潰してやりたいのです。苦しみから逃れたい思いも3割くらいあるかもしれません。 誰か身近な人間に相談しろと思われるでしょうが、職場の人間以外に周りには知り合いもおりません。 親に死にたいなんて言っても親は「何言ってんの笑」と笑い飛ばすタイプで真剣な相談なんて出来ないし、職場の上司は死にたい原因の一つで相談できません。その上の上司に相談したら直近の上司は指揮系統に従わなかったことに対して今まで以上に嫌味を言ってくるのが目に見えています。それに上にバレると過保護なので病院に連れていかれてしまいますし、そこで診断なんてつきようものなら、そこから人並みの昇任コースから外されてしまう職場なのでそれは避けたいです。先輩に相談しても死なれたら処理が嫌だからやめてよ〜の一言です。 2人は潰してやりたいけれど、職場や親に迷惑を掛けるのは嫌でどうしても踏み切れません。転職なんてめんどくさいし、泣き寝入りと同じで嫌だし、生きるのも辛いし、2人を堕としてやりたいし手っ取り早く死んでしまいたいです。病気の人とかには申し訳ないですが本当に死にたくてたまりません。なのに昇任の勉強とかして先を考えている自分もいてもうどうしたらいいか分かりません。生きていきたいわけでもないのに先の事を考えて行動してる自分も死にたい自分もいてもう自分がよく分かりません。どうしたらいいでしょうか。 支離滅裂で読み辛い文章ですみません。
度々いろんなお坊様のいろんなご意見を読んでは参考にさせていただいています。 一つ最初に私はあまり信心深くなく、こんな時だけお坊様や仏様の慈悲にすがる浅ましさをお許しください。 かれこれ15年、「死ぬのが怖い」発作に苦しんでいます。 きっかけは祖母の死でした。 当時中学生になりたての絶賛反抗期で、親ともうまくいかず、勉強もうまくできず、何をやってもむなしい、いいことも何もないし死にたいと思っている最中の出来事でした。 自分がいかに死を簡単に考えていたかを身に沁みて理解しました。 悲しみよりもずっと大きく、死んだらどうなるのかという恐怖と、自分が自分でなくなり消えていく恐怖が襲いました。 悲しみよりも我が身の可愛さが先に来た自分が情けなく思いましたが、その恐怖は今もなお私を苦しめます。 必死にその恐怖を押し込めて、忘れ去ろうとすることしかできません。 親には相談できませんでした。 当時の憔悴しきった様子から、自分が何か心配をかけるような真似はできないと思いました。反抗する回数も少し減ったと思います。 その時に適切に恐怖心を処理しなかった代償か、今もふとした瞬間に目の前が真っ暗になり、足元からさーっと冷気が這い上がるような恐怖で吐き気がすることがあります。 お風呂に入っているときが一番その発作が起こりやすく、全くお風呂が安らげる場ではなくなってしまいました。 かといって人間皆いずれは死ぬのに、怖がっていることが恥ずかしく、心療内科の先生(以前適応障害を患い通っていました)にもカウンセリングの先生にもうまく伝えることができませんでした。 とにかく自分が自分でなくなり、何もわからない世界に行ってしまうことが怖くてたまりません。 そして私がいなくなった後も永遠に時間が続き、地球が滅び、宇宙が滅んでいくと考えると、手足の先が氷のように冷たくなって正気を保てなくなります。 お坊様達のご意見が聞きたいです。 お坊様達の世界の捉え方、仏様の世界を知れば、この恐怖から解放され、無事に死んでいけるのでしょうか。 親(二人とも60前後でまだ元気ですが、)が死ぬことも最近は毎日のように頭をよぎり、人間が物言わぬモノになっていくことが悲しく苦しくてたまりません。 身勝手な相談で申し訳ありませんが、どうか少しでも死ぬまでに心やすらかに人生を送れるようなヒントを頂けますと幸いです。
生きるのが辛いです。 仕事でミスをしてしまったときに怒鳴りつけられ、それから通勤中に胃が痛みます。仕事中も体がふらついたりめまいがしたりして、辛いです。 家に帰ると、ゆっくりする間もなく家事をしないとなりません。親と同居なのですが高齢なので無理はさせられない。でも、思い切り汚れた台所や山のような洗濯物を見ると、泣きたくなります。 仕事のグチを親に言うと「仕方ないでしょ」と言われるか、倍以上のぐちを聞かされるので、家で話をすることもできません。 人と会うのが怖いです。 毎日死にたい楽になりたいと思っています。 どうやったら死ねるかな。 飛び降りたら死ねるかな。 こんなことばかり考えています。 まだ生きないとならないでしょうか。