この度46歳の若さで実姉が他界しました。葬儀は東本願寺の系列のお坊さまにお願いし、お経と、法名をいただきました。私の住む近くに系列のお寺さんがある事を教えていただきそちらに納骨、ご供養お願いするつもりでした。ところが母が学会員という事で、三重県のとても不便な学会員専用の納骨堂に納める、法名は処分すると言い出し、今母と姉の遺骨の件で分裂しています。宗派不問の永大供養のお寺さんもあるようですのでそちらも当たってみようと話しましたが、聞く耳を持ちません。現在遺骨は母の家に安置してあり、私の家族、友人姉の恋人みんな近い方がいつでも行けるし、お母さんもいつでも会いにいけますよ、三重は遠すぎますよ、と、説得してくれましたが、五万円で永久に見てくれるし、私はもう嫁に行ったのだから、母と姉の問題だと譲りません。母が入る時にその三重に姉の遺骨も一緒に安置できるようにするから、それまでは近くでいつでも行ってあげたい、と言っても全く耳を貸しません。分骨も拒否されました。遺骨がなくてもお寺さんはご供養してくださいますか?また、法名も新しく、黒のお位牌に掘っていただかないといけないのですが、それを処分するなんて私には考えられません。学会員は母だけで、私たち姉妹は学校を出てからは無宗派です。
長い文章になるかと思います。 私は、保育園の頃から今現在を含め、友人が一人もいないのです。 何せ田舎育ちで保育園~中学まで同じ人同士での生活です。私は保育園の時にはもういじめられていますので、中学卒業まで我慢しました。 自分で言うのもあれですが、相当のいじめを受けたと思います。いまだに両親にも誰にも伝えていません。 その時間のせいでしょうか、私はとても嘘をつく人間になってしまったようです。 これに気づいたのは最近で、助けが欲しく精神科に行った際に何について悩んでいるか・体の不調・好きな食べ物や職種まで全て嘘をついてしまいました。ただでさえ少ないお金を無駄にしてしまいました。 今までを振り返ると、保育園の頃には既に親や先生の顔色をみて過ごしていましたし、つい最近も職場の後輩に陰口を言われて自傷にはしるようになりました。 辛いときどうすれば良いのかネットで調べても、自分を変えろ・信頼できる友人に・病院・電話相談…など私には全て不可能なものでした。 冒頭にも言いましたが、友人はおりませんし、これ程までに辛いのに自分を変える努力は出来ません。病院や電話相談は嘘が口から出てしまい、もう恥ずかしくて同じ病院には行けません。 このままではいつか自分が自ら死ぬような気がして、おぞましいです。 自分の宗派の教えが自分を否定しているような気がして悲しくなります。 ここで違う宗派の方のお話しが聞きたいです。よろしくお願いいたします。
先日、一人暮らしの叔母がなくなりました。 叔母の宗派は、ありません。 しかし祖母、が浄土真宗(本願寺派)の檀家で 供養していただき 私の母も、同様であり、お寺さんも、 知らないわけではないので、 叔母の供養のお願いをしました。 (父:身体障碍者:は檀家ですが、私は違います) 結局、お寺さんの事情で、来ていただけませんでした。 叔母は、無宗派の葬式をし、 お墓も俗名の彫りで、納骨の準備をしています。 お寺さんは、本山に連絡し、他のお寺さんのご足労の 依頼をするとか、親身なご対応は、しないものなのでしょうか? ここの、お寺さんは高齢のお母さまと二人で住職をされていますが、 お母さまは、もう、まともに、お念仏を唱えられません。 近々に、私の父も、 その時がくる時期ですのでが、 別の、お寺さんを訪問して 今後のお話を相談をしたいのです。 私の父も、同意はしています。 前のお寺さんの同意が、いるとか、云々の話を よく聞きますが、 先日の叔母の件で、もう、話もしたくないです。 お寺様間の内情は、存じ上げませんがそのまま、 お寺さんの変更は、許されるのでしょうか? 受けていただける、お寺さんはございますでしゅうか、 乱文にて、すみません、 よろしくお願いいたします。 追記 神戸市の東灘区です。
前回の質問にて、浄土宗の三宅章聖様にお答え頂き。元々無神論者でしたが、【仏教】に興味が湧き、色々と調べてみました。 各宗派、色々な僧侶の方が居られる事。 各宗派、様々な教え、導き方がある事。 この歳でようやく、ほんの少しだけですがわかってきました。(気がする?) そんな中、一人のお坊様に興味が湧きました。 そのお坊様は、 【散る桜 残る桜も 散る桜】 と詠われたそうですが、、 これを見た時。言葉では表現できぬビリビリっと不思議な感覚がありました。 人間ってのは、全て等しく【寿命】という致死率100%の大病に冒されてるんだよな……と、改めて思いました。 儚いですよね……。 そもそも、この【儚い】(はかない)という言葉 これも、漢字の構成は 【人の夢】 …… 我々人間なんぞは、そもそも存在自体、地球規模で見た時には必要さえ感じれぬ矮小な存在です。 改めて曹洞宗のお坊様。聞きたいのですが、、 なぜ、良寛禅師は、楽して暮らせるはずの家から苦行(俗人から見れば財を捨てた世捨人?)を選ぶ必要があったのですかね? 良寛禅師はなぜ曹洞宗を選ばれたのですかね?
先日、NHKで『戦禍のなかの僧侶たち〜浄土真宗本願寺派と戦争〜』という番組が放映されていました。 日中戦争、太平洋戦争の戦時下の動員に仏教自らも(当番組では対象を同派としていましたが、国民総動員法の元ですので宗派に関係はないと思います)戦争に加担してしまった、その実態を取材した内容でした。 77年前のはいえ、生々しい出来事の記憶です。 一方、日本史という仏教が伝来し、今日に至るまでの長い目で見たとき、お坊さんはある時、僧「兵」でもありました。また、信仰のため、民衆のため、中々アグレッシブな姿になる事もあったと思います。 私は、仏教については高校の教科書程度の知識しか持っていませんが、印象としては「穏やかな宗教」といったものです。 例えば、キリスト教やイスラームには「聖戦」という教義がありますよね。 では、仏教ないし仏教徒が「戦う」とき、戦いを「是」とする考え方はあるのでしょうか? もちろん、それぞれの事象の背景には「そうなる経緯」があります。ですので、一概には言えないと思いますが、こんな考え方、こんな教義があるというものがあれば、宗派関係なくご教示願いたいです。 あと、これは愚痴?ですが、いつも戦時下の鉄の供出にはがっかりします…お寺さんの鐘もさぞかし由緒があったろうに…。 お忙しい中とは思いますが、ご回答をよろしくお願い致します。
十年来の悩みを解決するためにあちこちの寺社を巡り、現世利益を説かない浄土真宗(現生十種の利益というのがあるのは知っていますがそういうのじゃなくてもっと即効性のある即物的な現世利益が欲しい)を辞めてまで理想の宗派を探している者です。 ただ、割と現世での救いに力を入れて説いていらっしゃるイメージがある日蓮宗のお坊さんに聞いても「現世利益とは久遠本仏を悟り安らかさを得ること」という答えだったので、ちょっと仏教における現世利益を根本から考え直さなければいけないのではないかと思ってしまった次第です。 歴史的に浄土系は来世にしか救いがないと批難してきたはずなのに日蓮系自慢の現世での救いも心の安らかさを得るだけなら浄土系と五十歩百歩ではないのか(阿弥陀念仏だって心の安らかさは得られますから)。 結局のところ仏教における現世利益ってどこの宗派も「直接的に奇跡が起きて悩みが解決するわけではないが、心の持ちようで悩みが軽く感じられるようになる」程度のものなのかと思えてきました。このあたりのお坊様方の現世利益の捉え方(具体性の程度)をお伺いしたいです。 仏教に願いを叶える現世利益は無いとまでは言い切れないでしょうが、自分の努力で一進一退を重ねても最後の決め手に欠けるという時にずっと傍観していた神仏が最後の一手だけ手を貸してくれるというようなものだと思った方がいいでしょうか?
いつもお世話になっております。 大変に唐突な質問でございますが、 仏教の世界では、障害者、無職者はまさに「障害」、「邪なる存在」なのでしょうか? * 以前にご質問した「お寺」での非礼行為に対する苦情を申し上げたのですが、依然、一部の職員さん(お坊さんは改心してくださった模様)が、いわゆる「客を見る」ような態度で接してきます。 他の寺務さんやお坊さんたちは普通なのに、その人たちの所作を見ると、「あぁ、もしかして本当は…」 と疑心暗鬼に陥ってしまいます。お護摩の時の願意の唱和?で、 「一心祈願、就職成就~!!」 と言われたり、祈祷後の短いお話も、嫌味にしか聞こえなくなるときがあります(苦情を述べる前に、私が書いた絵馬の内容を軽く引き合いに出された事がある) ちなみに宗派は新義真言宗です(「もしも」が恐いので、詳しい宗派はあえて書きません) * 私は発達障害を持っており、その影響の為か、時折ズレた行動に出てしまいます。それでも周囲に迷惑をかけないように心がけており、 就労支援にも通っているし、手帳の取得も考えています。 なので余計悲しいです。 素敵なご縁、素晴らしい教えのおかげで私自身の生活にも光が差し始め、祈りと感謝の喜びを噛み締めている所なのに…… 真実をお教えください、よろしくお願いを申し上げます。
いつもお世話になっています。 今月25日、彼に貸したお金の一部を返してもらえる日です。 今ままで、約束した日に返してもらえたことはほとんどありません。 先月も約束の日に返してもらえず、弁護士さんへの支払いが遅れました。(彼のお勤めに必要な交通費や滞在費、飲み代のため出来た借金のため昨年12月に債務整理をしました) この支払いがきちんとできなかった場合、自己破産の手続きに変わると弁護士さんには言われています。 先週、彼のお父様が入院し、その介護でお母様はギックリ腰、彼はお勤めをお休みして実家に戻っています。 今までのことがあるので、本当に大丈夫?今度遅れたら後がないから本当にお願い!と何度も彼には言ってあります。 ただ、それは彼のお父様が入院する前のこと。入院する前から彼のお父様の具合は良くなかったですが、絶対大丈夫と彼は言っていました。 彼の事情が事情なので、遅れたとしても仕方ないと思う気持ちもありますが、私もそのお金が無いと困るのです。 今まで、約束の日に返してもらえなかったことを考えると不安で不安で仕方ありません。 もし今回も遅れるようなことがあれば、彼の所属する宗派の教区教務所というところに相談すればいいでしょうか? その場合、教区の寺務に取り次いでいただけばいいのでしょうか? そして、約束のお金を返してもらえないことを伝えれば教区の方から振り込んでもらえるのでしょうか。 とにかく不安です。 何もかも不安です。 お金が返してもらえないかもしれない事に対する不安なのか、このまま彼のおうちが大変なままでしばらく会えないかもしれない寂しさに対して不安なのか、何に対しての不安なのかさえわからなくなってしまいました。 彼に会わなければ、無駄にお金を使うことがなくなるので、金銭的には楽になりますが、やはり会えないのは寂しいのです。 彼が大変なのはわかっているのですが。 家族のことで彼は大変なのに、自分のお金の心配ばかりしている自分も嫌です。 でも返してもらわないと困る・・・。 無いとは思いますが、このまま彼のお父様が無くなるようなことになったら、お金の催促もしづらくなります。 安定剤を飲んでも飲んでも不安は拭い取れず、消えてしまいたいとさえ思ってしまいます。 長文駄文で訳のわからない文章になってしまいすみません。
私の家系は先祖代々浄土真宗です。 父は本家から独立して遠く離れた地域で家庭を持ち、近隣の浄土真宗のお寺の檀家になり、私たち子供と暮らしていました。 その父が数年前に他界したので新たにお墓を建てたのですが、近隣の浄土真宗のお寺(檀家となったお寺を含む)や無宗派の墓地に良いところ(空き区画や立地)が無く、色々考えた末に生前父が好きでよく登っていた山の中腹にある真言宗のお寺にお墓を建てました(浄土真宗のお墓を受け入れてくださる真言宗のお寺でした)。 ですので葬儀場で行ったお葬式や自宅での法事は浄土真宗のお坊さまに来ていただいてますが、お墓への納骨の際にはお墓のあるお寺の真言宗のお坊さまに真言宗のお経を読んでいただくことになりました。 私はこの縁で真言宗のお経に少し興味を持ち、今では般若心経を覚えて唱えることもできるようになりました。 ただ、家系的に浄土真宗ですので実際にお墓等で般若心経を唱えたことはありません(浄土真宗では般若心経を唱える必要がないとの教えを少し理解しています)。 今後も自宅の仏壇や法事では唱えるつもりは無いのですが、真言宗のお寺に建っている父の墓前で般若心経を唱えて良いのかを迷ってます。 実際に納骨の際には真言宗のお坊さまに真言宗のお経を唱えていただいた事実もあるのですが、浄土真宗家系の私は、それでも父の墓前で般若心経を唱えるべきでは無いのでしょうか? ご縁で真言宗のお寺にお墓を建てたことですし、父のためにもなるのであれば唱えたい気もしています。 どうかご教示頂けますようお願い致します。
いつもお世話になっております。 私は仏教徒です。ですが、道端に神社があればそこに入ってご挨拶を 必ずするように心がけています。時たま、氏神様にもご挨拶や、御祈願 (万民豊楽など…)します。 もちろん、お寺でのお勤めも多いです。 ですが前から気になっていたのですが、問題ないのでしょうか? 浄土宗の経典には「仏神擁護論」が説かれているし、様々な宗派の寺院でも 神様を勧請しているのを見かけたり、私自身も「天部」という認識ですが… ご教授のほど、よろしくお願い申し上げます。
いつもアドバイスを有難う御座います。今回は母親の事です。38年前に自死をしたのですが、もう何周忌と言う法事はしてないのですが、これからもしないで良いのですか?私は、訳があって地元に帰ってないのと、実家とは疎遠なので、なかなかお寺に行けないので、ずっと気にしたままでいます。今私が住んでいる近くのお寺を探して供養をしたほうがいいのでしょうか?曹洞宗ですが、宗派関係なく近くのお寺でも構わないのでしょうか?そして、母親は亡くなってから長いのと夢にも出てこないので、成仏しているのか気になります。お恥ずかしながら、供養等にあんまり詳しくないので、どうか宜しくお願い致します。
生まれ変わりについて質問させてください。私は以前から生まれ変わりが信じられません。理由としては色々ありますが一番の理由として前世の事を全く覚えていないからです。生まれ変わる時前世の記憶が消えるという説がありますが、私としては覚えてないのになぜ有ると信じられるのかと思います。ある質問サイトでこの事を質問したらかなり叩かれました。意見は自由だと思うのですが。 また前世の事を覚えているという人もいましたが、怒らせると嫌なので反論しませんでしたが、妄想や思い込みかもしれない可能性もあると思います。お坊様のご意見をお聞かせください。また仏教には生まれ変わりを否定する宗派もあると聞きましたが出来ればそれも教えてください。
既にあるお仏壇に、お軸を後からご安置するのですが、 詳しい場所を教えてください。 ご本尊は阿弥陀如来様の仏像です。 左右両脇の二枚のお軸は、仏様と並行にご安置しますか? もしくは説明が難しいのですが、 仏壇の左右の壁面でしょうか? お仏壇を購入した際に宗派によって違うように聞いたのですが、 ネットではなかなかご安置の仕方まで見つからず、 どうぞよろしくお願いします。
こんにちは。お坊さんの妻帯について質問です。 よく日本のお坊さんの妻帯が「堕落」として批判されることが ありますが、妻帯は堕落と言えるほどの問題なのでしょうか? 日本仏教に限らず韓国やチベット、ネパールにもお坊さんの 妻帯を認める宗派はありますし、 タイでは「男性は一生に一度は出家する」という慣習に従って、 既婚者でも出家することが少なくないそうなので、 「妻帯」=「堕落」としてしまうのは早計ではないかと思います。
おそらくは、臨済宗公安の引用かと思われますが、ある本でチラリと拝見して以来、答えが閃かず悩み続けている問題がございます。 宗派問わず僧侶それぞれの解釈で構いませんので、御回答を戴けましたら幸いです。 よろしくお願い致します。 『鍬で畑を耕していたらミミズを真っ二つに切断してしまった。このミミズの魂は右の身体にあるか。左の身体にあるか。』
臨済宗で、修行の途中です。 師僧から、自分の修行の方向は自分で決めなさいと、言われています。 そこで、日本の臨済について色々と調べてみたところ、開祖の栄西師は、比叡山で天台教学を学んでいたことを知りました。日本仏教の母とも言われているそうですね。 わたしも臨済の座禅を学びつつ、天台教学を学んでみたいのですが、この方向性で、間違っていないですよね。 ラッキーなことに天台の尼さんになりたい人のお勉強会を聴講してもよいことになりそうです。 他宗派を学んだため、破門!と、言うことはないですよね。 ちょっとビクビクしています。
以前、師僧の事で相談したものです。 先日の説法会でのことです。 個人名をあげて同宗派のお坊様の悪口を言っていました。 参加者は、しーん。顔を見合わせる方も。 まずいと、思ったのか「このごろちょっと荒れとるんですわ」と、自分で言ってました。じぶんでも、お分かりのようです。理由も薄々わかりました。 弟子としては、ハラハラ。近々面談する予定なのですが、その時にさりげなく何かお伝えした方がよいでしょうか。でも、畏れ多いですよね。 ちなみに、その会に出席している弟子はわたしだけです。 へんな噂がたたないようにと、気をもんでいます。 どうお伝えすればよいでしょうか。
こんにちは。 ご教授ください。 仏教では、死は穢れと見做していないというのが私の認識でした。 ところが、とあるセミナーで土地に関するデリケートな問題を扱った場面があり、"仏教あるいは神道において、生死や血液を穢れと見做しており・・・云々"とテキストに記載されておりました。 死や血液を穢れと見做しているのは神道ではないでしょうか? 講師の方曰く、お葬式の際、清め塩で穢れを払うように、 仏教で死は穢れなんですよねと説明されていましたが、私はそのような話を存じ上げません。 そのように説いておられる宗派があるのでしょうか?
仏教が好きで、お坊さんに説法を聞かせてもらったり、人生相談などしてみたいのですが、 どこに行けばいいのかわかりません。 信仰宗教ではないところで、お金があまりかからない相談方法があれば教えてください。 カルト的なものや信仰宗教の違いがよくわからず、どういったお寺さんや宗派なら怖いところではないのかわからなくて、なにか不躾な言い回しになっていたらすみません。 よろしくお願い致します。
順観と逆観について調べていると、逆観について二種類の解釈の仕方が有って非常に混乱します。 一つは、「無明が滅すれば、行が滅する...生が滅すれば、老死が滅する」という上から下へ降る否定の形式です。 もう一つが「老死が滅すれば、生が滅する...行が滅すれば、無明が滅する」といった逆に下から上に昇る否定の形式です。 これらの解釈は宗派によって分かれているものなのでしょうか? また、二つの言い回しの違いは、それぞれどのような意味が有るのでしょうか? 何卒お坊さま方の智慧をお借りしたく存じ上げます。