こんにちは。 私は、家の宗派は真言宗なんですが、実は法華経も好きです。 先日、鴨川に出掛ける機会があり、縁あって日蓮宗の 誕生寺にお参りさせて頂きました。 参拝時は流儀に従い「南無妙法蓮華経」とお唱えし、 法華経について色々と考えさせられるきっかけとなりました。 「観音経」として知られる二十五品や有名な「自我偈」を含む十六品など、 どれも素晴らしいのですが、私が特に好きなのは 仏の命が永遠と知って全世界(全宇宙?)の菩薩が歓喜し、 曼荼羅華が降り注ぎ、天には妙なる音色が響くと言う、 壮麗な仏国土が現前する十七品(分別功徳品)です。 「如是等衆生・聞仏寿長遠・得無量無漏・清浄之果報」 の所が特に好きで、正直この部分を紙に書いて お守りとして身につけたいくらいです。 この世の誰をも救ってあげよう!って大らかさとパワフルさが 法華経の魅力だと思うし、そんな法華経の魅力が結実している 一文だと考えてます。 で、ふと思ったんですが法華経の十六品や十七品で言及されてる 久遠実成は、永遠性や普遍性といった性格が大日如来と共通している のではないでしょうか? 上述の十七品は「仏国土は遠い彼方にあるものではなく、仏の永遠性を 信じれば、この現世こそが仏国土と知れる。」 と主張してるように思えますが、これは大日如来を中心とする 密教の思想にも通じていると感じるのですが如何でしょうか? 私にとって仏様と言えば、実家の仏壇に鎮座する、 きらびやかな衣装をまとった大日如来様です。 子供の時から手を合わせている大日如来様が、 法華経の久遠実成と相通じているなら 何と素晴らしい事か、と考えてしまいます。 厳密な意味での同体ではないにしても、 根底で通じているのではないでしょうか? 少なくとも相反するものではないと思うのですが如何でしょうか? ご意見をお聞かせ頂ければ幸いです。
先月、こちらで父の死についてご相談させていただき、大変有難いお言葉をいただきお世話になりました。 父の死から一ヶ月過ぎ、間も無く四十九日を迎えようとしています。少しずつ、気持ちも前を向くようになってきました。 時折、自分の身近に起きる自然の出来事、例えば普段見ない小鳥が近くまできてさえずっていたり、空を見上げたら急に晴れ間が広がったり、夜空に光り輝く一つの星が見えたり...そんなことが起きると、あれは父からのメッセージ?などと思えてくることがあります。 まるで歌の「千の風になって」のような...。 5歳の娘も、私がそう言うからか、星を見ては「あれはじいちゃん星だね」なんて話します。 もちろんか科学的にそのようなことはないとは思っていますが、奇遇な出来事に父を感じることをこのまま続けても良いのか、また娘もいつかは大人の考えを持つようになると思いますが、今はこのまま信じさせてあげても良いのかな?など、時々考えることがあります。 このような考えは、お坊様方はどのようにお考えになりますでしょうか? どうか宜しくお願い致します。
お忙しいところ有難うございます 私自身(40代)の病気が少しずつ進み 終活をしなければ、と思います どこから手をつければよいのか 分からず、不安です 両親は離婚した事もあり、子どもの頃 お墓参りはほとんど記憶になく。 結婚して、婚家はきちんとお墓があり 初めてお墓参りや法事をさせて 頂けるようになりました その宗派は浄土真宗で、葬儀やお経を 聞いて、拒否的な感情はなく ごく自然な気持ちで受け入れられました 私が自分の終活をするのに、 残される夫の負担を少しでも 減らしておきたいと思います 長男ではないので、新たにお墓を 購入する必要があること、 葬儀の形、宗派、お仏壇などについて 少し決めておきたいと考えました 何となく、というだけで宗派は 選んでも良いのでしょうか? 結婚した嫁ぎ先の宗派になるのが 自然なのでしょうか? 婚家のお墓は私営大型霊園で、法事の たびにお坊さんをお呼びしています 特定のお寺さんなど相談できる場所が なくて悩みました 私が亡くなったら、子どもたちや夫が 時々お墓に会いに来てくれて お仏壇に話しかけてくれるといいな と思います 負担にならないように、でも話したい 時に話せるようにモノの形があれば 安心できるのかな、と感じています 分からないことばかりですみません 教えていただけると嬉しいです
はじめまして。いつもお坊様のご解答を拝見しお勉強させて頂いております。 沢山のお悩みの方がいらっしゃるのに私が…という気持ちがありましたので今まで投稿を躊躇っていたのですが、お時間がありましたらお答え頂けますと幸いです。 プロフィールに記してある通り、私はモラハラが原因で体調を崩し数ヶ月休職しておりました。 その際に訪れた天台宗のお寺での不思議な体験をきっかけに、真言宗のお寺でも同様の事が起き、更に仏具屋さんの店頭の観音様にまで同様の事が起き大変驚きました。写真まで見る事が出来なくなりました。(妄りに口にしてはいけない気がしましたので、詳細はお坊様のみの公開で申し訳ございません) ご住職にお訊ねしようか迷ったのですが、ご住職にどう思われるか…また自分自身に疚しい事があり仏様が怒ってらっしゃるのでは?と考えてしまい聞くことが出来ませんでした。 そこでインターネットで検索していたところ、さるご住職のブログで納得の行く記述を拝見し、自分なりに仏様が何を伝えようとしていたのか考え答えが出掛けた瞬間、ぱたりと不思議な事は起きなくなりました。 ほんの短い間の出来事でしたが、本当に様々な事を考えさせられました。 悩みの解決の糸口を見付け、今は少しずつ社会復帰に励んでおります。何よりお見守り頂いているのかもしれないという事が大変心強かったです。 前置きが長くなってしまい申し訳ございません。 ここからがお訊ねしたい事なのですが、私はインターネットの情報の断片を手前勝手に「きっと御慈悲を下さったのだ」と都合よく解釈してしまいましたが、ハスノハのお坊様はどうお考えになられますでしょうか。 また密教寺院でのご縁でしたので、御真言を覚えて自宅やお寺で唱えたり(とても穏やかになれます)しているのですが、御真言は素人でも唱えても差し支えないとハスノハで学びましたので安心しているのですが、お経はどうなのでしょうか? インターネットで調べますと沢山「低級霊を呼び寄せる」「般若心経は特に危険」等の事が出て来て困惑しております。 件の阿弥陀様にどうしてもお礼をしたく、御前で根本陀羅尼を拙いものですが感謝の気持ちを込めて読み上げたのですが、失礼にあたる事でしたでしょうか? お聞きしたい事が多く乱雑な文章で大変申し訳ございません。 もし宜しければお答え頂けますと幸いです。
どうしても叶えたい夢があって、長い時間必死で努力してきたけど、いくら頑張っても、叶わない。 ということがわかりました。 なので、きっぱり諦めようとしたら、大事な人に、許してもらえませんでした。 (夢を叶えるには、大事な人の協力がなければ叶いません) 努力することをやめて、諦めるなら、自分との関わりもこれで終わりと言われました。 私の気持ちを知ってるのに何故、拒絶するようなことを言うのでしょうか。 私の人生をどうしたいのか、聞いてもはぐらかされます。 洗脳されちゃう? うまく説明できないですし、詳しく言えません
私が別れを告げた翌日に彼が自死しました。 当然ですが、彼の家族からは拒否られ、彼の家にある私の荷物は全て処分するから家には来ないでほしいと言われました。 彼の家族に嫌われるのは当然のことだと思います。 私のせいで亡くなったようなものですから。 ご家族の恨みを背負って生きていく覚悟です。 こんな状態なので、お葬式に参列することもできず、彼にお線香ひとつあげることができませんでした。 彼にしてあげられることはないかと考え、自分でお線香立てとお線香を買って毎日朝と夜、彼のことを想いながらお線香をたいています。 これで彼への供養になっているのかも分からないのですが、何かしないといられなくて…。 仏壇があるわけでも、お経を唱えるわけでもありませんが、彼への供養になりますか?
先日父が亡くなり、借金があることがわかりました。 父と母は25年前に離婚し、私は母とともに家を出ました。 一人っ子、長女で、その後遠方に嫁ぎ、父とは疎遠でした。 借金は夫の給料と私のパート代で返済できる額ではないと判断し、相続放棄をしようと思うのですが、そうすると父の思い出の品や愛用品まで債権者へ引き渡すことになります。 両親の離婚時に、私が母に着くと決めた事だけでも父は寂しかったはずなのに、亡くなったら形見さえ受け取らず相続放棄をするなんて、父からしたら冷たい娘以外の何者でもなく、どうしても心に引っかかっています。 父は無念に思うでしょうから、成仏して安らかに眠ってもらえるのか心配です。 亡くなった人には、どんなお経を読み、どう詫びれば安心してもらえますか。
何かのテレビ番組で、お寺さんを粗末にあつかうと、孫の代に悪いことがおきると。 私の姑は、とにかくお寺の住職が嫌いで、口癖がお金泥棒です。月命日にお経をあげに来られるのも断り、お寺さんに納めるお金も、払わないと直談判に行く。もし、自分がなくなったら、そこら辺の坊さんにお葬式をしてもらえばいい。との考え方。その為、私達もお寺さんとは疎遠になっている状態です。しかしながら、テレビ番組の話が本当なら、私達に起こっている災難、悲しみとの関係性を疑わずにはいられません。 実際のところ、どうなんでしょうか?
よく水子がたたると言いますが、そんなことはないですよね? 私自身も半年前に死産していますが、お寺にて供養をして頂いています。 まだ遺骨は手元にありますが、供養して頂いたお寺に永代供養をお願いしましたので毎日お経をあげて頂いていると思います。 私はそれで少し安心していたのですが、とあるお寺(水子供養を中心としているお寺)のサイトを見ると、数々の体調不良や家の不幸は水子供養をきちんとしていないがために起こる と書いてありました。 私はきちんと供養をして頂いていますが、そんな内容を読んでしまったが為に少し不安になってしまいました。 供養の仕方が足りないのではないかとか色々考えてしまいました。 様々な不幸と水子は関係ないですよね?
私は就職活動に失敗したため、来春から実家の寺で尼として勤める予定です。そのこと自体はいいのです。「大企業に勤めて東京や大阪という都会で生きてみたかった」「友人の多くはそういったところで働いていてうらやましい」というような思いはありますが、そこは自分の理想の高さ、プライドの高さが招いた結果であり、大企業に入れたとしても数年後には寺に帰らねばならなかったので我慢できます。しかし、不安で苦しくて仕方ないのはこれからの人生です。今付き合っている人は東京で就職します。転勤の多い職種です。もちろん、寺があるのでついていくことはできません。なので、退職まで単身赴任か、お別れかということになってきます。お別れの場合、私は新しいお婿さんを探さなくてはなりません。ただでさえ、寺に来てくれるお婿さんを探すだけでも大変なのに、私には知的障害の兄がいます。もちろん家族なので兄のことは好きです。しかし、寺に来てくれ、更に私の家族までも受け入れてくれる人はいるのでしょうか。苦しくて苦しくて仕方ないのです。就職や結婚、今ある現実や思い描く未来を考えれば考えるほど苦しいです。また、住職となるには教師資格もいります。そのためにはいくつか方法がありますが、一番簡単なのは別科に行くことだとわかっています。しかし、別科に行く=少し程度の低い大学の敷地に踏み込まなければならないという醜い醜い考えに至ってしまうのです。世間体が良い大学だけが人の全てではないということは重々承知ですし、ましてや今自分が日本一の大学に通っているわけでもない、上の下のような大学に通っている身分でこんな考えを持ってしまう自分が嫌になります。こんな考えを持つ自分が尼になり、檀家の方々に慕われるとも思えません。昔に得度をしただけでろくにお経も読めず、また、女なのでお経を読む声に重みがなく「住職の声はいい声だ」という檀家の方も多いので、自分のせいで檀家離れや収入の減少があると申し訳ないと思います。これからの時代、宗教離れの加速もあり、食べていけるのかと心配です。自分の考えの醜さ、プライドの高さにもとことん嫌になります。どうしたら今後の人生に光を見出すことができますか。
こんにちは。 私はお坊さんの説法が凄く好きなんです。 薬師寺のお坊さんの修学旅行の時の説法が 面白いのは有名な話ですが、 それだけではなく法事の時、お経を唱え終えた お坊さんが話してくれる話が好きで いつも「もっと聞いていたいなぁ」と思ってしまいます。 面白いと言っても、笑ったりとか滑稽な話などではなくて、人生を考えてしまうような、悩んでたことから心が解放されるような、フワッと心が軽くなるような、そんな気持ちになって、その感覚が気持ちよくて凄く好きなんです。 いつも優しさに溢れる言葉が、自分を包み込んでくれるようで、私もこんな優しさを分け与えられる人になりたいなぁと思ってしまいます。 けどお坊さんに直接お礼の言葉を伝える機会ってなかなか無いので、この場をお借りして。 いつも為になる、慈愛に満ちた面白いお話しを、ありがとうございます。本当に好きです。 私もお坊さんのみなさんの様に、優しさに溢れた言葉をかけてあげられる人になれるようにこれからも精進します。 ところで…何故お坊さんの説法ってあんなに面白いのでしょうか?
はじめまして、 高校生の息子についてのご相談です。 将来の夢は僧侶になることで 私はあまり詳しくは無いのですが お経の勉強や仏教関連のことを 詳しく調べたり、毎日自作の仏壇?に お勤めしたりしています。 そこまでは いいのですが、高校の勉強は 将来役に立たない、 今の学校(理系)には合っていない、 この学校に行く意味ない とか言い始めて困っています。 私が、 大人になってから 自分で好きにするのは自由だよ、 今は目の前にある勉学に 勤しむべきだと伝えても 教義を持ち出し 私からすると屁理屈を言い出します。 当人は屁理屈とは思っていなくて 私が間違えてるそうなのです。 私は僧侶になることに 反対しているわけではなく、 今は 仏教に関係ないことも 学んでおくことは大切だと 考えております。 入学してから理系が向いて いなかったと感じているのも そのことに 拍車をかけているように 感じます。 まだ高校生活が 始まったばかりで 3年間続けられるのか不安です。 対応のヒントを お願いしたく 質問させていただきました。 よろしくお願いします。
1日1日は辛い仕事ですごく長く感じるのに、一週間や1年はあっと言う間に過ぎていきます。 立ちどまって落ち着こうにも、時計は進み、言いようのない焦りに捉われます。 朝起きたとき、また一つ歳をとってしまったと思って憂鬱になります。 社会人になったあたりからずっとこの思いが消えないです。 このままでは気づいたときにはシワが増え、愛する両親や祖母とお別れがきそうです。 とても怖いです。時間を止めるか、今すぐ消えてしまいたいです。 こんな気持ちでいるのは私だけでしょうか。 周りの友人が出産しはじめた頃から、特にこの気持ちが強くなりました。 私は不妊で、治療のため会社を辞める予定ですが、仕事も出産もできない自分により一層焦りそうで不安です。 世の中の人たちは、一体どんな気持ちで日々過ごしているのでしょうか。 また、時が経つことへの不安を無くすにはどうすればいいのでしょうか。
去年の4月に祖母が亡くなり、5月に母が病により亡くなり7月には恋人が手術をしました。立て続けに私の周りで悲しいことが起きたため、お祓いに行こうと決心しました。 母方のおばがよく霊に憑かれやすいみたいで、お祓い屋(普通のお家でした)を紹介してもらい1人でいったのですが、2人憑いてるとのことでした。 一人は男性(悪霊)で、その日に祓ってもらいましたが、もう一人は母だといわれました。 霊媒師さんが言うには、亡くなる時の感情や感覚を持ったまま魂になるので、母は自分の身体がないことに気付いてなくて、まだ苦しんで助けを求めて私のところに来ていると言われました。 楽にするには私が毎日声に出して「体はないから楽になっていいんだよ」といってあげてください、もしまた今度見たときにまだいらっしゃったら成仏するお祓いをします。と言われました。(もしお祓いになると、5万円で、時間が3時間ほどかかるということも) 私は早く楽になってほしいので、家族にそのことを相談しましたが、父は「金額提示をしてくるのはおかしい」と、別のお寺にお祓いに行くことになりました。 そこでは親が子に憑くことはないと言われ、20分ないくらいのお祓いで終わりました。 ちょっと早く感じて、これでいいのかな?と心配になり、最初の霊媒師さんに行ったほうがいいのか、どうしたら良いかわからなくなったのでお話を聞ければと思います。 亡くなった親が子供に助けを求めて憑くことはあるのでしょうか? お祓いは場所によってかかる時間もお金もこんなに違ったりするのでしょうか?
こんにちは。 中学だったか高校の時、人間関係の苦しみから人を呪い、自分の幸せを願いました。 その人は私の願ったとおり怪我をしたり部活が変わったりしました。 私は今夫もいて、いろいろあって彼を好きだけど愛せずにはいます、 しかし、物質的には幸せで、困ることはありません。ある意味幸せをつかみました。 ただ、自分の願ったとおり幸せになったので、怖くなり人に見てもらったところ 低級霊の悪霊と契約してしまっているといわれました。多分神社仏閣などのお祓いでは祓えないといわれました。 もし、カルマをなくしたいなら、ボランティアとか寄付などして見ると少しは軽減されるかもしれないともいわれました。 悪霊は、私の健康と寿命を引き換えに契約したそうで、確かに今私は精神的病と糖尿病を患っており、思い当たるふしがあります。 今はもう呪いもしていませんが、契約は続いているそうです。 どうしたら、この状況を打破できるでしょうか? 一応寄付などはしていますが、ボランティアをやる気力が今はなく落ち込んでいます。 何かそういったものを取り除くお経や方法などありますでしょうか? 呪いをしてしまったこと今とても反省しています。 どうかご教授ください
兄がお墓を継いでいます。 父の年忌法要が近づいているのですが、私にも親戚にも何の連絡もありません。電話をしてみましたが着信拒否されていて話すこともできません。 私も親戚もこのまま法要に参列することはあきらめるしかないのでしょうか? 法事法要は祭祀継承者から案内のない者は参列できないものなのでしょうか? (兄の了解を得ず)お寺に直接日時を確認するのは不躾ですか?知り得た日時で突然参列するのは失礼でしょうか? 参列が叶わないとして、法要当日に遠方より想うことが参列できない者としての供養でしょうか?もしくは個人的にお寺を訪問しお経をいただくのが供養でしょうか?先祖代々の仏様には毎日手を合わせ普段より想いを寄せています。 なにとぞご指南をよろしくお願いいたします。
義父が昨年老衰で死亡しました。 跡継ぎもなく(夫は私の家の婿養子)、故人もこだわりなく、位牌は作らず先祖のお墓は魂抜きをし墓じまいしました。先祖の遺骨は義父の遺骨と共に永代供養塔に移しました。 義父の遺骨の一部を最後まで面倒をみた義姉が持っていき手元供養するそうです。 私共も義父の写真にご飯やお水を供えていますが、供養の仕方としてはこれでいいのでしょうか? 法事などは永代供養塔にお参りしお坊さんに拝んでお経をあげてもらいます。 老人施設で働いている友人から利用者が持参した位牌や仏壇の処分に困ると聞いたこともあります。 少子化の昨今、どのように供養したらいいのでしょうか?
(編集部より。投稿の一部を変更削除しています。) ハスノハの先生に感謝しています。母が新興宗教の会員ってほどではないですが、関係しています。 最近、母が亡くなり部屋を整理していたら会の お経が書かれた掛け軸が見つかりました。 そして、最近、会の女性2人が私の家に訪問してきました。 1、掛け軸を処分(一応、仏様に失礼な言い方でしょうが…)したいです。 仏様が宿る掛け軸ですので、どう処分したらいいか教えてください。 2、会員の女性たちが再度訪問してくるのが怖いです。 私はこの宗教に全く関わりたくありません。我が家は浄土真宗にお世話になっています。 角のたたないお断りのしかたがわかりません。 教えてください…。困っています。
お坊さま方には彼岸後のご多忙の中、失礼いたします。 我が家は日蓮宗ですが、この質問は宗派関係ないかと思います。 母が先月、救急車で運ばれ肺癌ステージ4と診断されました。 数ヶ月前に、同じ病院でレントゲンを撮ったにも関わらずです。 母はその時分かってくれてたらと話しました、私も同じ気持ちです。 主治医や家族は、時間がないと諦めモードです。 そんな病院の入院生活の中、母は『もっと生きたい、治療をやってみる』と言いました。 一時意識がなくなってもです。 【写経について質問】 母の本当の願い『もっと生きたい』を叶えて頂けるよう行動の一つとして、写経を始めました。 日蓮宗はあまり写経がなかったのですが、観音経をみつけました。 知っているお寺さんが写経を納めて頂けることも分かりました。 初めて写経を納めて頂くので、分からないことがございます。 ①写経をやっている最中に、誤って手で擦たり筆が触れて汚してしまったものも納めて頂けるのでしょうか? やはり汚れなどないもの、所謂きれいに仕上がったものだけでないと、仏さまやお寺さんに失礼に当たるのでしょうか? 私は20年近く精神病(鬱病)を患っており、なかなか集中力が継続しないながらも時折休みながら(日を跨ぎながらも)、書き始めました。 ②万が一、汚れた写経を納めるのは失礼な場合、それは破棄してよいものでしょうか? 【お参り・お礼参りについて】 母の病で、私はずっと神社やお寺を回りました。 縁の深いお寺には、ご祈祷をお願いしました(遠方で行かれないお寺には郵送で)。 自分の病気のせいか、記憶が定かではないのですが、途中母が意識を失った際に、お願いごとに『母の意識が戻りますように』とも加えました。 当病平癒の場合、病気の症状によってお願いが、少し変化しやすいのです。 ③お礼参りは、母の治療の途中、良くなったらその都度行くべきでしょうか? 私の最終的な願いは『母の本当の願いであるもっと生きたいが叶うように』です。 『もっと生きたい』がどのくらいかは分かりません。 例え5年生存率が数パーセントでも、私の本心は『長く生きてほしい』ですし『治ってほしい』です。 拙い文章で申し訳ございません。どうか3つの質問よろしくお願いいたします。
よろしくお願い申し上げます。 先日、父親の葬儀を無事終えました。 浄土真宗です。 いくつか疑問に思ったので質問致します。私の勉強不足で失礼な物言いになってしまっていましたら申し訳ありません。 葬儀の打ち合わせをした際、直接お寺さんにお布施をどれくらいにするかをお聞きしました。 お車代1万(片道車で30分)精進落としは辞退(つまりお膳代1万) 法名付けて30万で結構ですよ。 と仰いました。 結構ですよという文言が気になりました。 お布施は阿弥陀仏に捧げるものなので、金額に不満ということではありません。 全国のお寺さんは集めたお布施をどのくらいご自身の生活に使われて、どのくらいを修繕維持費や拡張費、又は広告費や檀家接待費に割り当てているのでしょうか?それはお寺によりまちまちですという回答はお控えください。どうあるべきかを教えてください。 私個人としてはお布施に各寺院による金額差が出ている時点でおかしいと思っています。 例えば30万のうち20万はどこのお寺さんでも阿弥陀仏に必ずこの額のお気持ちを捧げますという意味で本山などへ送金し、残った10万はお経、説法の勤めと維持費に使いますという約束が欲しいのです。 先日では通夜葬儀含め1時間もいらっしゃったかどうか。荼毘に伏す前にお帰りでした。 葬儀社の方もそれが一般的と仰っておりました。一般的ってなんなのでしょう。 葬儀に伴い、初七日を式の日に合わせて行うことが多いそうですが、言い方がわるいですが、いい加減だなあという印象です。 どうしても仕事が外せないとか、遠方で行けないとかということで日にちを改める事を遺族から伝えることは致し方ないことと思いますが、葬儀社やお寺さんがまとめて法要をすることを勧めたりというのは如何なことなのでしょうか? 不勉強ですが私は霊的にちゃんと日を数えることに意味があると思うのですが、大事なことはそこではないのでしょうか。 四十九日がお盆になるということでその日はずらしましょうと言われました。 宗教は眼に見えず、なかなか体験し難く、自分なりの解釈を得るまでむずかしいですね。 私は無宗派ですが、神仏を習慣ではなくて本質的に大事にしたいと思っておりますので、尚更疑問に思っております。システム化して商売っ気を持ち込んで来ているように思えるお寺さんに対し虚しくなります。 皆様どうお考えですか?