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他人に優しくすることの意味は。

春から新社会人になった者です。 右も左も分からない中で必死にもがきながら、社会にはたくさんの人が生きていることを痛感しています。 . 自分が人一倍傷つきやすい性格なこともあり、これまでは他人が少しでも痛い思い、つらくて心がギュッとする悲痛な思いをしなくて済むよう、できる限り優しく接してきたつもりです。 わたしは自分のそのようなところを長所だと思ってきましたし、これまでに私がたくさん傷付いて痛い思いをしてきたのは、他の誰かに同じ思いをさせないためだとの考えで、自分に降りかかる痛みを受け入れてきた背景もあります。 . しかし、社会人になり、皆がみんな他人に優しくは生きていないと気付きました。 むしろ世の中には、他人に優しくする人なんてほんのひと握りしかいなくて、みんな精一杯自分のことを守っているように見えます。 . 確かに、他人に優しくすれば、その優しさ故に話しやすいと思われて、頼み事をされる機会が増え、仕事が増えるかもしれません。 仕事が増えれば厄介事に巻き込まれ、背負わなければならない余計なリスクも増えるかもしれません。 自分1人ならいいですが、守らなければならない家族がいるとなると、リスクを削りたいのは十分に共感できます。 さらには、周りは優しくしてくれないのに自分だけ相手に気を遣うことは、損だと感じてしまうのかもしれません。 優しさに見返りを求めるのはお門違いだと分かっていても、総合的に見たときに、わざわざ優しくしつづけることの意味が分からなくなるのかもしれません。 . 事実、私自身も、他人に優しくあることの価値が分からなくなってきてしまいました。 入社以降、様々な場面で痛い思いをして、他人を切り捨てても、自分を守りたいと思ってしまうようになりました。 . 周りから見返りがなかったとしても、私たちが他人に優しくあるべき理由は、何なのでしょうか。 わたしはこれからも、仮に自分のリスクを増やすとしても、他人に優しくする心配りを持ち続けないといけないのでしょうか。 . よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 9
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他人との強い繋がりは必要か

「本気で人を好きになる」 「人との繋がりで心を満たされる」 「お互い想い合う」 といったような、人との強い繋がりを持つことに非常に強く憧れています。 この人は本気で大事な人だと思ったり、一緒にいるだけで満たされるといったような関係に物凄く憧れています。 というのも、そういったことが一度でもあれば自分の人生も良い方向へ変わるのではないかという期待と、そういったことを経験したことすらないのは人として劣っている気がするし、寂しく感じるからです。 ですが、現実は、自分にとって他人は平等にどうでもいい存在です。好きだと思ったり、大事に思った人はいません。 なぜそんなことを思えるのか不思議でしょうがないです。 こんな自分も人としてダメだと感じていますし、ただただ寂しいです。 最近では、他人との強い繋がりなんて本当に必要なのかなとも思ってきています。 勝手にそういう相手がいる人を羨ましく思っているだけで、本当にそんなに大事なことなのか。大事だと思い込んでいるから、勝手に他人と比較して自分を惨めに感じているだけなのではと。 そこで質問です。 1.他人との強い繋がりを一切経験したことも無い人は人として劣っているのか 2.他人との強い繋がりは人生において必要なことなのか 3.もし必要であるならば、自分がどういう人間になればそういう縁を持てるのか 回答お願いします。

有り難し有り難し 5
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他人から嫌われたくないと願ってしまいます。

こんにちは。 私は卒業を控える大学生です。 私は過去の学生生活でずっといじめられてきました。(原因は容姿等だと思います。) 周囲のほとんどの人が私を悪く言っている状態でした。 罵詈雑言を受けるうちにいじめを受ける前の明るかった性格は消え、今では暗くて悲観的な性格をしています。 いじめを受ける中、私は人から嫌われたくない、これ以上傷付けられたくないと思うようになり自己保身的な行動をとるようになりました。そのせいでたくさんの過ちを犯してきました。 最近こんな自分を変えたいと思い、自己啓発本を読んだりして他人を思いやる人になるべく行動を改めているのですがどうしても自己保身的な精神が抜けません。 過去のいじめを思い出しては周りは敵なんだと思ってしまいます。 嫌われたくない、傷付けられたくないという気持ちがどうしても強くなってしまいます。 また、他人に傷付けられたくないと思っているのに自分では自分自身を傷つけてしまいます。 過去の過ちを思い起こしてはひたすら責め続けたり、こんな悪いことした自分は罰を受けるに違いない幸せになってはいけないと考えます。 必要以上に未来を悲観してしまいます。 他人の過ちは許せるのに自分の過ちは許せないのです。 自分の良い部分には一切目を向けず過ちや悪い部分ばかり見てしまいます。 おそらく潔白な自分でないと他人から嫌われてしまうという考えからこんなことをしてしまうと思います。 すべてが嫌われたくない、傷つけられたくないという身勝手な一心から来ているのはわかるのですがどうしてもこの気持ちを捨てられません。 いじめの件に加え、元から自分宛てでない他人の悪口を聴くことや自分が悪口を言うのも苦手な傷つきやすすぎる性質のため気持ちを強く持とうとしても余計に辛くなってしまいます。 今、この文章を打ちながらこんな文章で大丈夫なのかと思ってしまうほどです。 どうしたら嫌われたくないという気持ちを捨てて、他人のために行動できる強い人になれるでしょうか? 支離滅裂な文章で申し訳ありません。 ご回答の程よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 12
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他人を気にしすぎてしまいます

よろしくお願いいたします。 私は、常に他人からの評価を気にしてしまいます。 いろいろなことにそれは反映されますが、たとえば趣味で描いているイラストです。 自分ではとてもうまくできたと思っているし、実際以前に描いたものよりもずっと出来がいい、というものでも、思うような評価を貰えずに苦しむことが多々あります。自分と同等、もしくはそれ以下(であるように思ってしまいます)の作品が自分のものより評価されている、ということがさらに自分を苦しめます。 自己評価と他者評価とのギャップに苦しんでいる、と言えばいいのでしょうか。 しかし、絵を描くのは楽しく、やめたいとは思いません。 自分は自分、他人は他人、と思えればいいのでしょうが、そう理屈ではわかっていてもできません。 たとえば、自分というものを否定され続けてきたならば、生きていくために、肯定されるために「他者」を取り入れるほかどうしたらよかったと言うのでしょうか。 というのも、私は不美人ですが、小中の頃から勉強も運動も芸術も、そこそこにできたのです。しかし、勉強も運動もできて部活も強く、顔が可愛くて男女問わず人気者の女の子が幼馴染みとして長年隣にいた、という過去が私のこの人格形成に影響しているのではないか、と最近になって思うようにもなりました。 まとまらなくてすみません。 毎日苦しいです。助けてください。

有り難し有り難し 69
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他人の役に立つために仕事をすると気持ちいい

ハスノハに自分の汚点を晒す気持ちで何度か質問したのですが、特定のお坊さんのお陰で悩みが解決して今は晴れ晴れしています。(名前を挙げて感謝したいのですが、規約違反かもしれないのでここでは名前はふせさせていただきます) さて、ハスノハでお坊さんの優しさを感じ取り、私は大変幸せで満たされました。 こんないい人たちがいるんだ。自分も他人のためにできることがないかなと思って普段の仕事に励んだら、とてつもなく楽しいんですね……。 今まで仕事の目標とか人生の目標がなかっただけに、私が探し求めていたのはこれか!と思いました。 さて、本題です。 この気持ちを持続するにはどうしたら良いのでしょうか。以前も同じ気持ちになって仕事に励んだのですが、1年経たずに我欲にまみれ終わりました。 もう十分なんです。自分だけの幸せを追求しても幸せになれないことは十分わかりました。 他人の役に立っている実感や楽しさ、感謝されること。それが本当の人生の楽しみだとわかりました。 ただ問題は、「他人の役に立つのが楽しい」という今の気持ちを保つことです。この気持ちを保ちたいです。 一体どうしたら良いでしょうか。お坊さん、教えてくださいませ。 ここまで私を導いていただき本当に感謝しています。ハスノハの開発者様、お坊さん。深く感謝しています。 いつもありがとうございます。

有り難し有り難し 23
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他人との比較を捨てるとは

幸せな人生とは何か、どうなれば幸せになれるのかについてここで質問させて頂きましたが、「他人との比較や相対評価をやめ絶対評価で判断すれば幸せに気付ける」という考えがよく理解できません。 私が不幸だ、人生嫌な事ばかりだと感じるその”嫌な事”とは、 父に罵声や性的な冗談を浴びせられること 母に八つ当たりされること 通学時間が長いこと いつも周囲から嫌われること 私の容姿や思考態度を批判され、直そうとしても上手くいかないこと 周囲を怒らせないよう気遣わなければならないこと 嫌いな勉強やコミュニケーションをしなければいけないこと が主に苦痛原因であり、私が不幸だと感じることです。 しかしこれは私が周囲と比べているから不幸に感じているのではないと思います。 両親への不満は「こんな両親でなくあんな両親が良かった」という思いではなく、「そういう振る舞いをする人間の言うことを聞かねばならないこと」「嫌いな人間との接触を絶てないこと」「毎日不快な思いをさせられること」への不満です。 通学時間は短い人を羨んでいるのではなく、私はその時間を長く苦痛だと感じています。 人から嫌われいじめを受けることが苦しいのは、人気者を羨んでいるからではなく、人間関係やコミュニケーションが難しいのに強要されること、人から罵声を浴びせられることへの苦しみです。 私は私より勉強や仕事ができる人を羨んだり、より良い環境でそれをできる人と比べて落ち込んでいるのではなく、自分が苦痛だから勉強も仕事もやりたくないと言っているのです。 私はよく母からも、あなたは他人と比べて落ち込んでいると言われます。 しかし私は私を他人と比べていないと思ってきました。 他人と比べて私が劣るから落ち込んでいるのではなく、私の現状が私にとって苦しいから落ち込んでいるのです。 例えば今の私が毎日食事を取れること、生きていること、健康であること、学校に行けることを幸福だと考えるとすると、それこそ「戦時中に比べれば」「アフリカの子供に比べれば」「五体満足で生まれなかった人に比べれば」という他人との比較での幸せなのではないですか? 他人と比べるって何ですか? 自分の何を絶対評価すれば幸福だと思えるのでしょうか? 私は私の絶対評価で今までの人生を苦痛だと感じていると思っているのですが、違うのでしょうか?

有り難し有り難し 32
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