なぜ、仏教では宗派を問わず、誰もが持つ死への恐れを信者から取り去るためのありがたい話をせず、「死後のことは分からない」と突き放すような言い方をされるのでしょうか。比較するのもおこがましいと思われますが、キリスト教でもイスラム教でも、一応はそれなりの死後はどうなる的なお約束を説教してくれるのに。
仏教、特に最近では浄土真宗に関心がある者なのですが、「阿弥陀如来とは何か」「(阿弥陀仏を)信じるとはどういうことか」という疑問が拭えず、調べていくと、こういう文章に出逢いました。 〈親鸞聖人のおすすめ下さる信心は、「思い込み疑わないこと」という意味ではなく、「疑いがなくなって帰依する」という意味であります。「疑いがなくなる」とは「明らかになる」ということです。 では、何が明らかになるのかと言いますと、縁にふれたら、どちらへ転んで行くか解からないような危なっかしい自分の相が明らかになると共に、「あなたがどちらに転んで行こうがほっておく事はありません」と、私をしっかり抱きしめて下さる確かな阿弥陀如来のお心が、明らかになるのです。〉 阿弥陀仏が他の宗教でいう絶対神(創造神)ではないことは聞いたことがありますが、こういった文章を読むと、多分にそういった要素があると感じてしまいます。上記引用の阿弥陀如来をイエスに置き換えればそのままキリスト教ではないでしょうか? 仏教は、釈迦が無記を説いたように、形而上のことは判断しないとする極めて理知的な宗教だと思うのですが、浄土真宗のお坊様方はは、いつも傍らにいて下さるイエス様を信じるように、阿弥陀仏を信じておられるのでしょうか。そうでないならば、どのような形で阿弥陀仏を信じておられるのでしょうか。 不躾な質問の仕方になってしまい大変恐縮ですが、御回答いただけると幸いです。よろしくお願いいたします。
先日、大学の授業で教授が「福祉の考え方は西洋から日本に入ってきた。ヨーロッパやアメリカはキリスト教の隣人愛の精神にのっとって助け合う心が人々にあるから福祉が充実しているけれど日本ではキリスト教がメジャーではないからなかなか助け合いや福祉の精神が広まっていない。」と話していました。私は宗教についてあまり詳しい方ではありませんが隣人愛という言葉は知っていますし、確かにキリスト教を信仰する人が多い国で福祉の心が根付いているというのは何となく納得が出来ます。 でも、日本人にも助け合うという考えはあるはずだと思います。熊本の地震があった際も、火事場泥棒などひどいことをする人もいるようですが現地にボランティアに行ったり募金などの支援をしたり、困っている人を助ける動きがあるという話もたくさん聞きました。なので、教授の「キリスト教が浸透していない国では福祉の考えも浸透しない」といった話を聞いて何だかもやもやしてしまいました。 そこでお聞きしたいのですが、仏教においてもキリスト教でいう隣人愛のような、誰かと助け合う、支え合うという教えはあるのでしょうか。無宗教だという人も多いので何も宗教の考えだけが人の助け合いのベースではないと思いますが、日本は仏教が身近という人も多いと思うので、仏教にもそういった教え、精神があればぜひ教えてください。
15歳の頃からキリスト教会に通っていましたが、30半ばで鬱を患い「天国を目指して迫害にも耐える信仰を持つ」というあり方についていけなくなり、仏教に心の平安を求めました。 高野山の宿坊に泊まったり、近所のお寺で座禅を組むうちに、それまでひどいときは数分ごとに波のように押し寄せてきていた攻撃的な苦しみが和らいできました。 それからも落ち込んだり、辛いことは多々ありましたが、苦しみが襲ってきて一晩中眠れないようなことはなくなりました。 相談というのは、思春期に受けた洗脳のような教えがまだ恐怖として根深く残っていることです。 ほとんどは健全なキリスト教会なのかもしれませんが、私の通っていたところでは、「伝道しないことは人殺しに等しい」「教会に来ないと悪い事が起こる」と、今思えば子供だましのようなことでも、当時の私にとってはありありと描写される死後の裁きの事や、来るべき世の終わりに大きな艱難が起こり、迫害を受けるのだという恐怖がしっかり植え付けられてしまいました。 それでいまだに教会に行かなくてはならないという強迫観念から抜けられないのです。本当に行きたくて行くのなら問題はありませんが、根底に恐怖があるのです。 実際にまた教会に行き始めたところ、また心がざわついて、イライラしたり、不安で眠れなくなったりしてしまうのです。 教会自体には問題はなくても私の抱えているトラウマが重くて、まともなメッセージも恐怖のフィルターを通して見てしまうのかもしれません。 教会に行くにせよやめるにせよ、恐怖から解放されて正しい判断をしたいのです。座禅をして心に平安を得ても、これでいいのかと罪悪感のようなものを覚えてしまいます。 仏教にしろ、キリスト教にしろ、どちらが正しいとか、教義的な事とかはわかりません。どちらにしても心がざわついたままでは一生迷いを抱えて生きていくことになりそうです。 とりとめのない質問になり申し訳ありません。 恐怖から解放され冷静な判断ができるアドバイスをいただきたいのです。 よろしくお願いいたします。
父方のご先祖さま、母方のご先祖さまが過去帳に記載されてなくてわからないご先祖さまがいます。 私は父方祖母が小さいころから般若心経となえて仏前に備えてから朝も夕も食事しなさいとゆう家でした。 しかし、あるとき介護施設で働いてたときに職員からの強姦未遂、親族からの性的虐待を四年間うけて自殺未遂くりかえしましたその親族はクリスチャンでしたそのあと、私自身心ボロボロで占いにはまってしまいその占い師さんにご先祖さまは地獄にいると言われたことや、般若心経を毎日書いて、聖書を読みなさいとかセミナーや、自宅につれてかれたことがありました。自分でも占いをしてしまいました憑依もおこりました。 そこからキリスト教にいけば救われるのかとその占い師さんに洗脳されたまま もう自分がわからない状態で、 占い師と縁をきりちゃんとしたキリスト教で洗礼をうけました しかし、洗礼をうけてもよくならず、逆に霊感は増しました教会にいってませんそのあと首吊り未遂をしてしまいお父さんにおろしてもらいました そのあと、子供のころいった曹洞宗の寺にいって座禅をしました。 それでも洗脳はまだ根っこにあってお寺をさりました断食癖も抜けてませんでした しかし、最近なって介護していると、必ずご先祖さま墓参りいきなさい、 般若心経がいいと、いろんな人から聞いてもう一度反省してみました。 なんで般若心経をとなえなくなったんだろう?となんでキリスト教にいったんだろ?と そこで数日たってみて今度は、曹洞宗のお寺に通っていた利用者さまが私に、あなたにはね、手の届くとこにね仏さまいなさるよといわれました。 その意味を考えてみたところ救いは外にはありませんで内側にありました自分はなんにも無力で小さいと思いました般若心経また、となえてます。 父方の、母方の、先祖供養は、名前もわからないのですが、お写経でどのようにかいたらいいでしょうか お墓参りにも近いうちいきます また、お寺にまたかようことにしました。 私は天国にいけないと思います、、 あと私のご先祖さまは地獄にいるんですか? あと、本屋や、ネットで、調べたけど スピリチュアル本が本当に正しいかわからないし。 天然石も、気休めでしたし。 精神安定剤も一時的です 私の霊感は、なんのためにあるのですか?
自分はクリスチャン家庭で育ちました。天の父(神)とキリスト(神の子)を信じれば救われるという教えで日々祈り、聖書を学ぶということを約12年間続けて高校生である時ふと疑問に思うことがありました。 仏教もイスラム教もヒンドゥー教もキリスト教もどの教えも悪ではなく善を教えていて、どの教徒も疑うことなく自分の信じたモノに誠心を捧げて真摯に向き合っているのにどれかが答えで他はアウト、地獄に落ちる、罰をくらうというそんな酷いことあってたまるのだろうかと。 ましてや生まれつきの環境もあるだろうし、出会い方もそれぞれだろうし、無宗教もいるだろうし、そんな一つのものに答えがあるのなら世界人口の三分の二以上は落ちるのではないかと。 母に言及すると跳ね除けられてキリストを信じれば救われるの一点張りです。 牧師にも言及しましたが『信じないものたちは終わりの日(キリスト再臨の日)に悔い改めるチャンスがある。信じなさい』と言われました。 個人的にはそれがすごくショックで幻滅しました。 そこで自分は宗教というものから一旦離れて自分なりに解釈してみました。 この地球を一種の魂の試験場だと考えて良い行い(人に感謝されること)をし、肉体的にも精神的にも人として成長し、全うして生きれば魂ポイントが上がって皆等しく天国に行き、当分そこに留まった後また輪廻転生し、悪を働けば魂ポイントがマイナスになりその回収として地獄で訓練的なものをする(借金状態)、回収後は輪廻転生。 そしてこれを繰り返して魂ポイントがある一定数貯まると次のステージ(4次元とか5次元)でまた訓練して魂レベルを高めて最終的のゴールとして神(世界の創造主)と一体化もしくは神に近づく、という結論に至りました。 先祖様、守護霊様の存在は固く信じてます。 ぜひ僕の考えについてご指摘あれば伺いたいです。 またお坊さんとしての解釈、回答者様自身の解釈を聞かせていただきたいです。 最近この事でムヤムヤしてろくに眠れてないです…。 母親とも不仲状態です。
ずっと日蓮聖人と法然上人、親鸞上人のことが頭から離れず、キリスト教を勉強しながらも反芻していました。 人の本質を仏性とすることを日蓮聖人は言われてたと思うし、窮地に追い込まれても 法華経を支持する神仏を信じることで内に起こる恐怖や不安からくるお気持ちと闘われたと思います。法然上人、親鸞上人は、法華経を目指しても自分の力ではなれない悪人と悟ることで仏の光が差し、念仏によって阿弥陀様に救われる。とされた気持ちもわかります。 悩んだあげくキリスト教を勉強し始め、生きる軸としようと生きています。 キリスト教は、自分の悪を知り、弱さを知り、懺悔を、神の御心とキリストを通して贖罪をし、罪を作らない知恵を学び祈りとするのだと思います。父が学会員だったり、祖父が浄土真宗ということで里心があるのかもしれません。地獄は人間が作った観念だと思います。神仏は地獄を作ってないと思います。時々、御布施や献金のお願いばかりして、本当に神仏を必要とした老後や病気や貧困になった時は自己責任と見放すのがお寺や教会かなって思い、まあ神仏は見放しませんよって説かれても そうだよねって思う。ちょっと信仰心も冷静になる。書いてる内に落ち着いてきました。結局、介護士になり、人の生き死に寄り添いケアをする仕事に神仏をおき、自分の命をつなげるお金をいただいていることに感謝と献身することを神仏に導かれたと思います。いろいろ悩んでいた頃の以前の履歴を恥ずかしく懐かしく想いながら、自己の命と介護させて頂く命が神仏に救われていくように祈り、頑張りたいと思います。相談したかったことは、私は許され生きていけるのかということでした。 大失恋をしたような気持ちでしたが書いている内に救われていると思えてきました。ありがとうございました。
はじめまして アメリカ人の夫と子供のいるアメリカ在住の日本人女性です。 義理の両親が車で30分の所に住んでいまして、週末は一緒に食事やお誕生日のお祝いをしたり関係は良好で、特に義母とは本当の娘の様に可愛がって頂き、私もアメリカの母と慕っておりました。 その最愛の義母が3年に及ぶ闘病の末、昨日午後に自宅で家族が見守る中、眠るように息を引き取りました。 私にとって身内の死は初めての事で、(日本の両親は高齢ですが、とても元気で私との関係は大変良いです) 今朝起きて義母の事を考えてしまい、寂しくて涙が止まりません。 敬虔なカソリックである、義理の家族、親戚、夫、子供達は「神の元に行かれ、苦しみから解放されたので良かった」と理解しているようですが、カソリック信者でない私には到底理解できません。 日本の家族や周りに日本人のお友達もいるのですが、「いつもエネルギッシュで明るい人」というイメージがあるので、メソメソして心配させたく無く、この寂しさをどうしたら良いのか、心の整理がつきません。 義母の死を受け入れることが出来なくて大変苦しいです。 アドバイスをどうぞよろしくお願いします。
父親、母親両方から虐待されました。両親は医師の姉を子供時代からひいきにしてきて、両親は外面がとても良く、私以外の人には、優しいみたいです。私には小学校時代は夢が無くて、安定してたらいいとか思ってたんですけど、10代からは看護師になりたいと思っていて、母親からはキリスト教の強制があって、ずっと優しかったのは祖父だけで、精神的に私には支えでした、祖父が亡くなってから、母親に勉強させられて入れられた、私立の中高の高校を中退しました。その時に、看護学校に行きたいと言ったら、母親に禁止されました。キリスト教を止めたいともいいましたが、許されずに、しんどかったです。なんとか、浪人して、母親も納得できる、国立大学の看護学科に合格しましたが、父親が昔、起こした事故で負った傷で実習で負傷し、辞めました。母親は私と姉を大学に行かせるために離婚しないといつも言っていて、性的な関係は私が出来てからないので、私が父親からの性的虐待を一身に受けて育ち、看護学科を辞めてからも、セクハラは続きました。大人になってから、母親がそれしか許さないので、看護学科でないですが、大学に行きました。しばらく介護職をしてましたが、看護学校は合格しました。おじいちゃんに報告に生きたいと思い、日蓮正宗のお寺に行ったら、やっと落ち着きました。今から、キリスト教徒から日蓮正宗に改宗するのは、どう思われますか?後、小学校1年の時に好きな男の子に近づきたくて、失礼な事をしました。どうしたら、お詫びを伝えられるでしょうか?
先日も「父を殺したかもしれない」と相談をさせていただいたのですが、それについて再度思うことがあり、また質問させていただきます。 なのでこの質問の一つ前の質問を見てからお答えいただけると幸いです。 さて、私が父を押し倒した際、心の中で「頭を打って死んでしまってもいいや」「むしろ死んでしまえ」と考えていたとしたら、それこそ殺人を私は犯してしまったのではないでしょうか? ただ心の中でそう考える前に「頭を打ったら死んでしまう。危ない」と考え、押し倒すのを止めるはずであり、実際に押し倒してしまったということは、単純に腹が立って押し倒してしまっただけで、それによって「父が死ぬ」とは考えていなかったとも考えました。 しかし今度は「危ない」と考えた上で、その後に「父が頭を打って死んでもいいか」「死んでしまえ」と考えたのではないかとも考えてしまいました。 私はこれといった宗教に入っているわけではないのですが、「悪いことをしたら地獄に落ちる」と考えることが多く、キリスト教やイスラム教、仏教などでの地獄を想像して、自分が父を殺した人殺しとしてその地獄に行くのではないかと毎日不安に怯えています。 ならばどこかの宗教に入ればいいとも考えたのですが、一つの宗教に入ってそれが間違いで、別の宗教が正しかった場合、やはり自分は地獄に落ちるのだと思い一つの宗教を選べません。 私は強迫性障害という障害を患っており、人に対して過剰に加害妄想をすることがあります。 今回のこともわたしの妄想なのでしょうか? また宗教はどのように選べばいいのでしょうか?仏教とキリスト教を同時に信じるようなこともしていいのでしょうか?
キリスト教では、人は禁断の果実を食べた罰でエデンの園から追い出され荒野をさまよって労働して生きるようになった。そして死んだら、神の国で永遠の安寧を得ることになるという。仏教ではなぜかこの世は穢土、娑婆世界、苦しみに耐えないと生きていけない場所だという。浄土宗では亡くなる時は冥途ではなく、極楽浄土からお迎えがくるという。ならば、希死願望は否定できないと思いますが、希死願望は否定できますか?人の死は神仏の判断によると思っています。自殺は神仏に逆らうことで、地獄に落ちると思うので私はしませんが。
いつもお世話になっています。 最近は、神棚とお仏壇に手を合わせることが増え、心が落ち着いて過ごせることが増えました。 とてもありがたいと思っています。 そんな中で、キリスト教のマリア様の像に心惹かれて、授かりたいという気持ちがあります。 ですが、仏教に帰依させていただきたいと思っているので、そんな私がマリア様の像を持つことは、仏様に対してもキリスト教の神様に対しても礼を欠くのではないかと思っています。 私は、マリア様の像を持ってもいいのでしょうか?持つべきではありませんでしょうか? 御回答どうぞよろしくお願いいたします。
外国育ちでよく理解できていないのですが(変な質問ですみません)、祖父母はすでにおらず宗派などもわからず(お墓も不明)、両親も檀家などではないのでお世話になっているお寺もないのですが(あえていえば考え方としてこころにとめている宗派はあるのですが直接信者などというわけではない)、こういう場合、お葬式などでは宗派など聞かれた場合どうしたらよいのでしょうか。キリスト教のように洗礼を受けたりというのもないようですし、たとえば、天台宗の思想がとても自分の考えにちかいからそこでお願いしたい、などそういうことをしてもよいものなのでしょうか。またある宗派の信者になるということは仏教ではどういうことなのでしょうか?(海外の宗教とは違うのでよくわからず、くだらない質問で本当にすみません)
わたしはある宗教の家庭にそだち、 その集会や熱心すぎる信者が苦手になりました。今は特定の信仰はありません。行き詰まったときは、一人で(主に新約)聖書を見たり親鸞について書かれた本を読んで安らぎを得ています。最近、近所で牧師さんが聖書の勉強会を開いていことを知りました。クリスチャンでなくても教えてくれるそうです。キリストのハナシも好きですが、親鸞の教えにも興味があるので、浄土真宗も学びたいです。お寺では浄土真宗に入信する気が無くても行事に参加させてもらってもよいのでしょうか。
今注文していた小さい御仏像が届きました。赤い巾着袋が付いていて八角鏡ミラーステッカーも同封されていました。子年生まれの私なので千手観世音菩薩でした。キリスト教では聖具を購入したら神父様に祝別して頂かないとダメなのですが、御仏像の場合はどうなのでしょうか?主人とワンコ達の為に購入しました。
お願い致します。 仏教では「人生は修行」と、キリスト教では「耐えられない苦難は与えない」と言います。しかし世界には過酷な悲惨な状況下に於いて命を落とす人達が多くいます。赤ん坊や幼い子供であっても容赦のない状況があります。修行でも 耐えられる苦難でも無く 生まれてきた意味さえ見つからないと思うしか無いような。 長い間の疑問です。お教えいただきたくよろしくお願い致します。
聖書には、神に従い悪霊(サタン)に立ち向かう時、悪霊は逃げ去るとあります。神に従う時、悪霊に勝利することができるのです。 キリスト教入門より引用http://users.astone.co.jp/ohsakazion/kirisutokyou-n-7.html 心の隙を無くすことの大切さは理解できます。 「神に従い悪霊(サタン)に立ち向かう」とはどういう風に解釈すればいいのでしょうか? 日本では悪魔について言及されていないのは何故ですか? 悪霊は危ないから近づくな。というイメージが強いのですが、これは聖書でいう悪霊(サタン)とは違うということですか? 宜しくお願い致します。
はじめまして。私は音楽が大好きで、ラルクが1番好きなアーティストです。 ふと、お坊さんでもパンクやロックを聴いて、ヘドバンしたりするのかな?と思い、質問致しました。 キリスト教徒の方は、宗教色の強い音楽を聴いたり、礼拝のときにも歌ったりすることが多いですが、日本のお坊さんも宗教歌を聴かれますか? それとも、私のように大衆音楽を聴きますか? ご回答お待ちしています。
はじめまして。 うまくお話しできるか、わからないのですが… ここ最近、自分の思想がどこにあるのかわからず、お話を聞いていただきたいと思い、投稿させていただきました。 まず、私は特に、何教徒である、ですとか、特定の宗教には属しておりません。 ただ、色々と自身の考えと当てはまるものを探すなかで、最も共感できるのが仏教でしたので、こちらにおります。 私は漠然と、神様が存在していると思っています。 神が人間を作ったと思っています。 しかし、それは聖書にあるような、直接的に人間を作り出すようなものというよりは、 人が一冊の本を作り上げるようなものだと思っています。 『神』が、この世界を作り上げ、そのなかで『キリスト教』『イスラム教』『仏教』といった… 語弊を恐れずに申し上げるならば、『地球というなかの物語の設定としての宗教』を作り上げているのではないか、と思ってしまうのです。 そうした、なんでもできてしまう神のような、宇宙の外にある大きな力が、私は怖くてたまりません。 あまりに苦しいとき、そうした『神』が、私に何かバチを与えているのではないか、とさえ感じます。 しかし一方で、仏教の『因果応報』という教えを知ったとき、どこか救われるような感覚がありました。 私が苦しんだり、喜んだりするのは、宇宙の外にある神のせいではなく、自分自身の行いの結果なのだ、と。 それから、少しずつ仏教について調べ始めていますが、やはり何か神様のようなものの存在は、否定できずにいます。 そもそも、誰か一人でも信じ、信仰し、救われている人がいるならば、キリスト教の神も、イスラム教の神も、はたまた新興宗教の神であっても、存在していると思うし、それを否定したくないのです。 自分の信じるもののために、誰かが信じるものを否定したくありませんし、ないものにしたくありません。 一方で、どこか神様のようなものに怯えている自分がいますし、こんな自分が仏教の教えに惹かれることは、それこそバチが当たるのではないかと思います。 うまくお話しできたかわかりませんが、心のもちようがわからず、難しく感じております。 なにかアドバイスなどありましたら、ぜひ教えてください。
永遠の地獄についてお坊様はあると思いますか? 永遠の地獄などないなんて考えは 着るものも食べるものも住む場所もある先進国で生まれた人の平和ボケした考えだと思うんですが 量子力学の光には波と粒が最初から同時に存在する二重性の性質があるという理論において この世界はどうして生まれたのかを究極的に突き止めると全ての根源は量子力学の二重性の性質に行き当たるそうで この世界は最初から有ったと同時に無かったという最初から同時に存在する二重性の性質 何も無い空間でもそこにヒッグス粒子が有るという最初から同時に存在する二重性の性質 全ての根源はこの量子力学の二重性の性質に行き当たるなら 死後の世界において永遠の地獄はなかったと思ってもそれはあるという二重性の性質を想定できますよね だとしたら永遠の地獄があると思うんですが イエスキリスト様はその永遠の地獄から人々を救える全能なる神の力があるんですが 全能なる神ではなくただの人間であったお釈迦様は 瞑想して悟りを開いたことで 永遠の地獄から人々を救える全能なる神の力があるんですか?