まず、お坊さまへは何度も家の事情を聞いていただきその度に丁寧なご回答をいただき感謝しています。 どうしてもまたモヤモヤして不安な事が湧いてしまいました。気分転換にヨガをしたり本を読んでみたけれど全く晴れないのでまたこちらで書かせてください。 先月、父が亡くなり、来週法要と納骨になります。亡くなった父が悲しむと思い、49日までは何とか母と揉め事は起こしたくないと努めてきました。 両親は離婚しているため喪主は私ですが、やはり元とはいえ本来ならば妻である母が喪主ですから、父の葬儀の事は全て母の意向に沿うようにしてきました。母の希望でコロナ渦で親戚は呼ばない家族葬で見送りましたし、コロナ渦なので親戚への連絡もすぐにはしたくないと母が言うので私からは連絡しませんでした。結局向こうから連絡があった時に話すことにはなったのですが。 そして、納骨には親戚の方々もみなさん行きたいと言ってくれたのですがコロナが治らないからと母が全て断りました。 それなのに、父に縁もゆかりもない自分が信仰する新興宗教の友人を3人も呼ぶというのです。コロナ渦だから親戚を呼びたくないという意見と矛盾しています。 結局のところ、母は自分と疎遠になっている親戚よりも自分のよく知った友人を呼んで安心したいだけなのです。 父と親戚は生前元気な時は毎年お正月に集まっていた仲でしたので、せっかく行きたいと行ってくれたのに申し訳ない気持ちでいっぱいです。 今さら私からその方々にお断りするということはしませんがその事にずっとモヤモヤしています。 母から7日毎に一緒にお経をあげようと提案されそれも朝早く起きお勤めをし、今朝が最後だったのに、昨日から母は不機嫌で今朝もうお経はあげたからお前はいいと言われ、それもとても残念で悲しいです。 母も歳なので辻褄の合わないことを言う事が多くなっているのは理解しております。こちらが筋の通った事を言ったとしても理解できないで怒り喚き散らし周りに迷惑をかけるだけなので何も言いません。しかし何も言わなければ言わないで母は私は何も出来ない人間だと思っているようです。親戚の若い子にまでうちの子はこれもダメあれもダメと話してるのを聞きまた悲しくなりました。 父の納骨の日までには何とか自分の気持ちを立て直して父を見送ってあげたいのですが、どういった心持ちでいれば良いでしょうか。
私は就職活動に失敗したため、来春から実家の寺で尼として勤める予定です。そのこと自体はいいのです。「大企業に勤めて東京や大阪という都会で生きてみたかった」「友人の多くはそういったところで働いていてうらやましい」というような思いはありますが、そこは自分の理想の高さ、プライドの高さが招いた結果であり、大企業に入れたとしても数年後には寺に帰らねばならなかったので我慢できます。しかし、不安で苦しくて仕方ないのはこれからの人生です。今付き合っている人は東京で就職します。転勤の多い職種です。もちろん、寺があるのでついていくことはできません。なので、退職まで単身赴任か、お別れかということになってきます。お別れの場合、私は新しいお婿さんを探さなくてはなりません。ただでさえ、寺に来てくれるお婿さんを探すだけでも大変なのに、私には知的障害の兄がいます。もちろん家族なので兄のことは好きです。しかし、寺に来てくれ、更に私の家族までも受け入れてくれる人はいるのでしょうか。苦しくて苦しくて仕方ないのです。就職や結婚、今ある現実や思い描く未来を考えれば考えるほど苦しいです。また、住職となるには教師資格もいります。そのためにはいくつか方法がありますが、一番簡単なのは別科に行くことだとわかっています。しかし、別科に行く=少し程度の低い大学の敷地に踏み込まなければならないという醜い醜い考えに至ってしまうのです。世間体が良い大学だけが人の全てではないということは重々承知ですし、ましてや今自分が日本一の大学に通っているわけでもない、上の下のような大学に通っている身分でこんな考えを持ってしまう自分が嫌になります。こんな考えを持つ自分が尼になり、檀家の方々に慕われるとも思えません。昔に得度をしただけでろくにお経も読めず、また、女なのでお経を読む声に重みがなく「住職の声はいい声だ」という檀家の方も多いので、自分のせいで檀家離れや収入の減少があると申し訳ないと思います。これからの時代、宗教離れの加速もあり、食べていけるのかと心配です。自分の考えの醜さ、プライドの高さにもとことん嫌になります。どうしたら今後の人生に光を見出すことができますか。
〔編集部より。規約により投稿の一部を修正しています。〕 はじめまして! 私は5人家族でした。母と姉は4.5年前からある宗教に入っています。しつこく勧誘をされ、自分の親が意味のわからないことを延々 と話している姿に毎日涙がとまらず、私は家にいることが嫌になり、家を出ました。 お父さんはすごく優しい人で、理解はしようとしました。 でも結局、確証のない話ばかり聞かされて毎日言い合いばかりしていたようです。 兄は全く聞く耳も持っていませんでした。私が実家に帰るといつもその愚痴や、昔から仲が良かったのでたくさん話をしてくれました。とゆうか私も本音で話せる家族は兄しかいませんでした。 ですが去年の11月から兄は鬱病になりました。私はこの原因はその宗教にあると思っています。 仕事が大変なのは聞いていましたが、兄はもう9年ほど同じ所に勤めていました。今さらその原因が仕事だとは思えないです。 そして5月10日、兄は薬を大量に飲み、自殺を図りました。 病院に搬送され、一命は取り留めたものの、13日の夜、亡くなりました。 集中治療室の中、他にも生きようとしている患者さんがいる中でも御構い無しにお経を読む。 睨みつけてやりました。 お前らのせいで大好きな兄が死んだと。言ってやりました。 親族内で散々揉めました。葬儀はその宗教方式でやると聞きません。 そのせいで兄がなかなか葬儀をできないのも可哀想なので、もうそれで決まりとゆう運びになりました。でも私は兄が嫌がっていたお経を唱えないと決めたので、その意見だけは絶対に曲げません。 私が話を聞かないなら縁を切ってくれても構わないと言われました。上等です。 親戚の叔母や叔父は、もうあんな奴を親だと思わなくていい、こっちの娘になりなさい、実家に帰らなくていいと言ってくれました。 私は一生その宗教を、押し付けた母と姉を恨みます。 あんな奴らの元では兄も供養できないと思ったので、分骨をして私の手元で好きだったラーメンをたくさんお供えしています☺️ こんな事しかできませんが、少しでも天国で楽しく過ごしてくれたらと願っています。 長文で失礼しました。 毎日悲しくて悔しくて、一生この気持ちが離れないと思うと死んでしまいたくなります。 こんな悲しい出来事をもう他の誰にもして欲しくないです。切実な願いです。兄の死を無駄にしたくないです。
はじめまして、お忙しい中恐縮ですが、気になることを質問をさせていただきます。 私は読書ブログで本を紹介させていただいたり、本の内容を暮らしの中で活用したお話を書いています。 仏教の本は、暮らしの中で自分も相手も気持ちよく暮らせる取り組みが多く、よく紹介させていただいております。 先日取り上げた本には、十善戒について書かれた内容があり、暮らしの中でできているかを当てはめてみました(心に思っただけのことも入れて自信を持ってできる!といえるコトは1つだけですが…) 本では十善戒を、①殺生しない、②盗まない、③性において淫らな行為をしない、④嘘をつかない、⑤意味のない流行り言葉を使わない、⑥悪口をいわない、⑦二枚舌を使わない、⑧貪らない、⑨愚痴らない、怨みや妬み羨み怒りの心を持たない、⑩愚かな考えをおこさない、と紹介されていました。 実際に暮らしに当てはめてみると、「暮らしに合わせて3つに分けられるのでは?」と思えてきました。 ①〜④までの教えは、最低限、「生きていく」のに守らなければならない決まり。 ⑤〜⑦は、家族と仲良く暮らしたり、地域や会社でトラブルを減らす「社会で暮らす」のに欠かせないこと。 ⑧〜⑩は、自分の心の中の出来事でもあるので「幸せを感じる」のに必要なこと。 ちょうど順番通りになっていたので、もしかしたら元になったお経でも「こうなっているのかな?」、まとめていてふと思えてきました。 十善戒の中で「生きていく」ための決まりは守りやすく、後半の「幸せを感じる」のに必要なことはとても難しいと感じます。 教えの元になったお経では、順番によって守りやすさはあるのでしょうか? 解説書などでは、何かしらの分け方があるのでしょうか? 専門家のお坊さまに、お時間のあるときで構いませんので教えていただきたく思います。 緊迫する悩み事ではありませんので、本当にお時間のあるときで構いません。
一昨日祖父が亡くなりました。 その日の晩は控え室で叔母と私の2名で、祖父と一緒に寝ました。 その日の晩、壁からコツコツと何度も音がし、一緒に控え室にいた叔母と一緒に廊下に出ましたが原因が分かりませんでした。 ふすまが揺れていたのだろうということで、その後音が鳴ることもなかったので特に気には留めていませんでした。 そして翌日のお通夜。 お坊さんがお経を読んでいる間、遺影を見ていたのですが、遺影前の水ばんの花が一輪だけぴょんぴょんと上下に5回ほど大きく揺れました。はじめは真上にあった換気扇の排出口から水でも落ちてきたか(1輪だけで、明らかに風が当たった動きではなかった)、大きなハエが1匹飛んでいたのでそれが花に当たったのかと軽く考えていました。 そして翌朝「お通夜の時花がすごく揺れてた」と親戚の前で話すと、母が「私も見た。向かって左のあの花でしょ?花が大きく揺れているなとは思っていたけど深く考えていなかった。でも同じものを見ていた」と。他の親戚は見ていないようでした。それから周辺を確認しましたが、換気扇の排出口は水滴が垂れてきているような形跡もなく、花の真上かと言われるとそうではありません。虫が当たった可能性も考えてみましたが、虫が当たっただけであんなにぴょんぴょんと何回も同じ高さまで上下に揺れるでしょうか。 母と不思議に思いながらもお葬式が始まりました。 そんな話をした後だったので、動いたと話した花をずっと見ていたのですが、その時は動きませんでした。しかし祭壇の向かって右のろうそくだけ、消えそうなほど激しく揺らめいていました。しかし向かって左のろうそくは、まるでおもちゃの炎かのようにピンと炎が立ったまま一切揺れないのです。 風の流れのせいなのか?と思っていましたが、葬儀終了後にまた母が、ろうそくが揺れていたねと言うのです。 ろうそくは偶然かもなと思うのですが、どうもあの花だけはどんなに考えても不自然な動きだったなと思います。 ちなみに母と私は祖父と一緒に暮らしていた時もあり、人一倍祖父への思い入れは強かったです。祖父が私と母だけにわかるようにアピールしていたのでしょうか。 こんなことってよくあることですか? あと、お経読んでる時お鈴を鳴らすと、ろうそくの炎がいっそうはげしく揺らめくものですか? 音が風として(?)響いて、祭壇の上の炎まで到達するのでしょうか??
先日亡母の一周忌法要の読経を所謂檀那寺に依頼して執り行いました。葬儀の時と同じ僧です。まず、亡母の法名を把握されていませんでした(法名はこの僧がつけお布施を支払っています)読経の前に長々と浄土真宗のPR、報恩講の内容、他宗の批判、自宅で本尊を祀っているかなどの遺族への質問等を約1時間ほど話してから読経されました。阿弥陀経、観無量寿経そして正信偈。70歳を過ぎた高齢の為だけとは思えない非常に変わった節回しで終始下手な読経でした。そして、自らが日本仏教会の役員であると言ってニヤニヤと自慢話までされていました。時間にして1時間半以上でした。 昨年の葬儀の際は、枕経は忙しいのでしません!と言われ、出棺の際にも次の葬儀の予定があるので失礼しますと言って帰られました。当然、火葬場では僧侶による読経なしの見送りでした。他のお見送りされるご遺族の方には寄り添ってらっしゃる僧侶ないし牧師様のような方がいました。 また、私が「本来は七日ごとの法要(二七日〜四七日)をお願いすべきですが、一般の通例として遺族がそれぞれ自らの気持ちで念仏したいが、三十五日と一周忌の際は宜しく御願い出来ますか?」とこの住職に尋ねると、「お前は法事をサボるのか?」と言われ、サボる訳ではないが、、と伝えても「サボるんだろ!」と恫喝されました。そう言われても一周忌はお布施もきちんと致しました。当たり前のことですから。 この住職とは祖母の頃からの付き合いですので、存命の父の考えも尊重して我慢してきましたが、親族から「三回忌は(違う僧侶を)考えた方が良くないか?」との意見も出ております。 そこで、質問ですが、①法事の際、檀那寺から違う僧侶へ変更は可能でしょうか?②この住職の言動で傷つく方が現れないように世間に知らせてあげる方法はないものでしょうか?法事の会場のスタッフの方からもあのお寺さんはかなり特殊ですね!と言われ、業界でも有名のようでした。 大変長々と拙い文章で申し訳ございませんが、宜しくお願い申し上げます。
いつも、相談にのっていただきありがとうございます。 ストレートで申し訳ないのですが、キリスト教を信仰するか、仏教を信仰するか、迷っています。 キリスト教の教会は10年ほど前ですが、通っていました。信仰告白もして、あとは洗礼を受けるだけ…という所までいったのですが、別れた主人が浄土真宗のお寺の孫でキリスト教なんてとんでもない!と激怒され、そこから疎遠になってしまいました。 仏教はお経を今、私なりの言葉でわかりやすく訳していて、お釈迦様や阿弥陀如来の智慧に向き合う度に泣くほど感動することもあって、とても心を惹かれています。 幸い、わからないことがあったら聞いてくださいねと言っていただける僧侶の方とも出会うことが出来て、何度か質問もしました。 その僧侶の方の人となりだと思うのですが、終始、仏様を信じられたらいいですね。と言ってくれます。 私は仏様を信じたいと思っていますし、お経から導かれたこのご縁を大事にしたいとも考えています。 ただ、どうしたらいいのかわからないのです。キリスト教の時は日曜日の礼拝から始まり、聖書の勉強会を定期的にすることで 信仰を深めて行くことが出来たのですが、仏教は敷居が高いと言うか、私の住んでいる地域では勉強会もないですし、法話会もこのご時世なのでやっていない所も多く、やっていても都合が合わなかったりでなかなか信仰が深められません。 そんな時にクリスチャンの友人からまた、教会に行かない?と誘われました。 私の気持ちは仏教に傾いているので、教会に行く気持ちはないのですが、正直揺らいでいるのも事実です。 どうしたら、今ご縁がある僧侶の方に仏教を信じたい!仏教の勉強がしたい!という私の気持ちが伝わるのでしょうか? 仏教の勉強が出来るサイトや学校みたいな所も見つけたのですが、お金がそこそこかかるようでカツカツで暮らしている今の現状では厳しく…。 内容が前後して申し訳ないのですが、ご縁があった僧侶の方には信じたいということも、もっと勉強したいということも伝えています。それでも、返ってくる言葉は「信じられたらいいですね〜」という感じで、最近は私と関わってしまったことを面倒臭く感じているのでは?と思うことしきりです。 長文駄文失礼しました。 よろしくお願いします。
私は神の実在を信じています。でも、各宗教の説く信仰の世界になじめず、ひとりでさまよっています。 私の煩悩は「自殺したい」とか「神よ私を速やかに殺してください」と願うことです。 自殺すると仏教で言う「無間地獄」に堕ちると信じるので、具体的にはあの世で自殺霊・地縛霊になり、救われることはないと信じるため、怖くて実行できません。 そんな人生否定の感情や死後の恐怖から生きるとしたら、なんと消極的で暗い、マイナスの人生観・生活観でしょうか? 私は人生の初期に親から新興宗教の経典を読まされ、神棚の前に正座して「人生は苦悩なり」という経文を唱えさせられていたことが、そもそもの間違いの始まりだったのではないか?と思います。 小学生のころから「人生は苦悩なり」と権威をもって教え込まれるのではなく、夢や希望や「わくわくすること」を追いかけてがんばり、その夢をつかむよう教えられるべきだったのでは?と思います。 小中学校時代、その新興宗教の夏季合宿に必ず参加させられていました。 中学に進学したとき無意識に友達の前で「あ~死にたい!」と口にして嫌われました。そのころそんなことを言う子は一人もいませんでした。 高校時代は「自分は不幸だ」と友達に告げて「じゃあ、なぜ自殺しないのか?」と問われました。 大学時代、変な宗教に強引に勧誘され「早く過ぎ去れ、青春よ~!」という歌を歌わされました。 大学卒業後は自殺未遂をして精神科に入院することになり、絶望のどん底でした。 3年後、父の死をきっかけに退院して新聞配達や肖像画制作をしてがんばり、登山までするようになったのですが、15年ほどで体力が衰え、失職してひきこもりになり、医師の診断通り「統合失調症」ということを受け入れざるを得なくなりました。幻覚も妄想もない統合失調症患者もいるということですが、私もそのひとりなのだと思います。 症状は「疲れやすさ」「意欲の低下」「睡眠障害」の3つです。 神への信仰、医療に頼っていますが、仏教文化も私には必要で、多くの影響を色濃く受けています。「般若心経」「観音経」「白隠禅師和讃」を仏前であげることもあります。CD集『ひろさちやの感動するお経』全8巻も繰り返し聴いています。 障害年金で暮らし、身近に相談相手もいない私は母亡き後果たして生きて行けるのか心配と不安で夜も眠れないほど悩んでいます。
・三帰礼文(今、人として生まれたことに感謝し、仏、法、僧の三つの宝を敬い、拠り所にして生きます) ・十善戒(正しい行い、正しい言葉、正しい心を保つ事を誓います。) ・発菩提心真言(私は今、悟りを求むる心を起こしましたという真言。オンボウチシッタボダハダヤミ) これらの経や真言を「全くその気がない者」がするとどうなりますか?例えば… 私の声「オンボウチシッタボダハダヤミ…」 私の心の声(別に悟りに興味ないし…単にこの真言を唱えたいだけだ) 私の声「三帰礼文~!~自ら仏に帰依し奉る。まさに願わくは衆生と共に~…」 私の心の声「仏様は大好きだけど帰依とかそんな重たい誓願なんてしたくないよ…しかも衆生と共になんて!衆生の事なんてどうでもいい!自分や家族さえ良ければそれで良いんだよ!」 このように私が経や真言をする時はなんとなく仏様を近くに感じたい時、落ち着きたい時などに座禅を組み合掌(印母)を結びながらやってます。 単に仏教の教えにあまり興味なく仏様が大好きなだけなんです。 でも一つ言い訳させてもらいますが、私は決して仏教や仏様を茶化したり、品位を下げたりする気など無いんです。 単に「戒律を守れない、守る気すら失せた」「衆生がどうなろうが私の知ったことじゃない」「自分や家族さえ幸せならそれで良い」というだけなんです。 ただ「疑城胎宮」の境地から抜け出す気なども失せて「もうこのまま疑城胎宮の中でまったりするのも良いか…」というだけなんです。 【しかし声に出してソレらを唱える以上、それは一つの約束、仏様と交わす誓いになりますよね?その誓願を初めから守る気など無くアッサリ誓いを立てては破り続ける…】 このように仏様を欺き続ける私を、カタチだけの“仏教ごっこ”を楽しむ私を仏様はどう思うのでしょう…また実際に本物のお坊さんが私を見たらどう思いますか? 私はハッキリとモノを言われないと分からないバカなのでよろしくお願いします。 ちなみにこれらの事はあくまで「私独り」の中で完結させているので、決して周りに仏教を語ったりなどはしていませんのでそこはご安心を。
納骨についてご相談させていただきます。 昨年の夏に配偶者を亡くし、現在遺骨を自宅の仏壇に安置しております。 昨年の葬儀の際、突然であったこと、郊外の自宅近くで葬儀を行ったこと、コロナ禍でもあったことから、家族葬で簡素に行いました。その際に、少し様子を見たいので、納骨は一周忌の時にとしました。その後、四十九日、百箇日は、お経を読むことができる親族に来てもらい、これまた簡素に自宅でお経をあげていただきました。 一周忌まで一か月となったのですが、墓のある霊園の法要室はコロナのため使用不可、おそらく導師の方も来ることはできそうにありません。一周忌、納骨法要はきちんと行いたいと思っていましたが、難しい状況です。霊園の方では、法要を行わず納骨だけはできるようです。 納骨に関して調べてみると、時期等には特に決まりはなく、遺骨にもあまり執着しないようにした方がよいという記載が多かったように思います。 きちんとした法要等を行って納骨したいという気持ちと、いたずらに納骨を遅くすることへの抵抗の間で悩んでいます。 納骨を行いたい気持ちとして、今は在宅勤務ですが、コロナ禍の状況が変われば、元々出張族であるため自宅を離れることも多くなりますし、故人との思い出の地を訪ねたりといったことも行っていきたいと思っています。 納骨を遅らせる気持ちとして、簡素な葬儀であったため、納骨法要はきちんと 行いたいこと。このような状況が、「納骨はまだ待って」と故人に言われている ような気持ちにもなることがあります。 僧侶の皆様のお考えを教えていただければと思います。 ------------------------------ 以前に「義父、義母の菩提寺へのご供養依頼」という質問を行い、和田隆恩さま、日延さまにご回答いただきました。義父母の菩提寺と連絡を取り、追善のご供養が無事できました。田舎に伺うことができなかったのですが、ご住職さまが 読経、塔婆を立て、その画像をメールでお送りいただきました。また、墓地のお世話をしてくださっている本家の方にもお話をしていただいたようです。 こちらでの回答をいただき、追善供養を行ってよかったと思っています。 ありがとうございました。
城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑) 前略 その時、世尊はかように仰せられた。 比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。 まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。 後略 (私見) 釈尊の説教にしては珍しく、修行者であった過去の苦労を述懐しています。 輪廻転生は既に先達が確認しているので、終始その出離を模索していたことになります。 生があれば自然の摂理で老病死は免れず、仏教とて救うことは出来ません。 死後は苦が無くなるので、仏教は救う必要はありません。 再生を断ち切ることだけが、仏教の救いです。 仏教はその目的以外何もないのです。 「生」については、心が永続するとなれば誕生の仕組みが常識と大幅に変わります。 渡哲也の病状に関して、一時テレビに出演した臨死体験者の新堂のぶ子氏は、講演会で「親が子を生むのではなく、子が親を選択する。」と述べています。 また「子は授かりもの」とも言います。 またある宗教学者が、多分「大縁経(広縁経?)」に「意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。」と伝えています。 このことから想像すると、総てが自分の意思で生まれたのだということになります。 親は唯この世で生きるために身体を作ってくれたのです。従って「生老病死」は自己責任です。 因みに、浄土宗ではお説教の初めに三帰衣文を唱和するそうですね? その内容は「この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん」だそうですね。 「度する」は多分般若心経の結論である、「照見五蘊皆空 度一切苦厄」の「度」ですから 正に「仏教の目的」そのものです。
悩みのループに入ったときに、今まで頂戴した回答を読み直しています。 ありがとうございます。 さて、今回大げさなタイトルになりましたが、仏様と向き合う心持ちがわからなくなりご指導を賜りたく投稿いたしました。 仏教の最終目的が成仏・涅槃に入ること、また望ましいありかたとして菩提心を起こして日々を送ることだとしたら、私はそれを望んでいない、なのに写経や読経をするのは方向が違うのか考えてしまいます。 普段、自宅のお仏壇にお経をあげたり、近隣のお寺の写経会に参加しております。 そのお寺での住職様でない方の法話で「仏教的な幸せは涅槃に入ること。表現が難しいけれどお星さまになることかな。寂しく思うかもしれないけれど、それが一番の幸せ」というようなお話でした。 私は仏様になったことがないので、そこまで高尚なことはピンときません。来世があるとしたら人間に生まれ変わって、今叶わなかったことが満たされていたいです。輪廻から出られないことがそれほど不幸なのか?と思います。 菩提心につきまして。こちらの僧侶の方々や写経に伺っているご住職様は菩提心があるなあと驚きます。相手の苦痛を減らそうというお心がひしひしと感じ取れます。ゆるがぬ信仰心と強固な信念に基づいているので、悩んでいる方に寄り添えるのだなあと思います。 翻って私は人並みの親切心はあると思いますが、共感しすぎて痛い目にあうことが多く、拠り所(僧侶の方にとっての信仰心)とするものがありません。最近はやりのバウンダリーをはっきりさせて、余計なことに首をつっこむのをやめよう、自分がしっかりしていないので、他人のことはもう放っておこうと決心したばかりです。 ただ、お寺通いやお経をあげることは止めたくありません。記憶のある時からなぜか神社仏閣が好きです。 仏教的に見て望ましい行い・最終目標から逸れた心を持ちながら、どのように仏様と向き合ったら良いか、是非ご指導くださいませ。
以前の質問回答も見ていただければ幸いです。 あるテレビ番組(40歳からJリーガーになった人の話)を見て、奮起されるものがあり、復職を決意しました。 とりあえず、頭を丸めて、毎日浄土宗日常勤行式で阿弥陀経をあげています。経本しか買い求めていないので、本尊も鳴り物も三具足もありませんが。鳴り物が欲しいと父に言ったら(アパートなので)「隣の人に迷惑だろう。」とくれませんでした。 あと、休日は三十三観音巡りをしています。隣のおばあちゃんと。隣のおばあちゃんは車を持っているので。 実家で復職の話をしたところ、「檀家に任せているので仕事はない。」「戻るなら、完全に仕事ができるようにならないとダメね。」とのことでした。中途半端に戻すと檀家に「いだんだどれ。(いるじゃないか。)」と言われ潰されるというのです。あまりに檀家の目を気にしすぎで、体面ばかり気にしているのだと思いますが、そこは目をつぶって、就職活動に頑張ります。 ちゃんと就職さえすれば、もし寺からの給料が途絶えても生きていくことはできますし、僧職ではなくてもお坊さんは続けていくことができます。 今週4でパチンコ店の清掃をしています。これから仕事ですが、朝7時から8時半の仕事です。パチンコ台240台とかパチスロ台192台を時間内に拭かなくてはならないので、短時間とはいえ、結構きつい仕事です。しかし、週4働いて月2万弱にしかなりません。 秋になれば、以前していた旅館の朝食の後片付けのバイトが入ってきます。コロナでしばらくお休みでしたが、秋から雇うと若旦那は約束してくれたので。週2ですが、月1万弱にしかなりません。 ただその場合パチンコ店のバイトは週3に減らして、旅館のバイトは週2で働くのが良いように感じています。 双方ともに一般雇用ですが、障害者と分かって雇用してくれていて、特に旅館のバイトは、2か月も休職させてくれました。(その後4月に旅館がコロナで休業してしまい6月に再開するもののそのままになってますが。) そして、いずれは障害者雇用でフルタイムの仕事を見つけてバイトはやめ、それ一本にし、ある段階で復職かなと思っています。 ある段階とは父の死かなと思っています。父が生きているうちは寺に戻ることはできないと思っています。 何かアドバイスがありましたら、くだされば幸いです。
私は、結婚前からお寺巡りを趣味にし、法話会や特別拝観などを楽しみにしている年齢の割に合わない趣味をしていました。 京都、奈良は年一回、普段でも休みの日は鎌倉等に出かけていました。 私は、見た目を若く見られる傾向がいまでもあるか、年齢のわりに幼い所を見過ごされるのかはわかりませんが、お寺に行って拝観料、拝山料を収める時や写経して納経帳をお願いする時に(拝観時間や常識のある時間にに行ってます)お坊さんやお寺の人に私からすれば面倒くさそうな顔をされたり、あんたに何がわかるの?的な顔をされたりされた事がたたあります。 仏教に興味があり、座禅会に行ってたお寺でまだまだわからない事もありあってお坊さんにもっと知りたいのでオススメの書籍はありますか?と相談したら、煙たがられ座禅会を辞めた事もあります。 写経して行っても、あんたが本当に書いたの?と疑われたり、写経会で一番に書き上げたらビックリした表情されたりと、時々不愉快になる事がありました。 お寺は誰が行ってもいいんですよね? 得に忙しい時期に行ったわけでも、法要等のある日に行ったわけでもありません。 なのに煙たがられました。若いから行ったら行けないんですか?年寄りなら歳相応でいいのでしょうか? 受け入れてくれる所には何度も足を運び、法話会にも毎月行ってました。 そりゃあ、来る人の中では若いので多額のお布施はできませんが、見た目で判断されても嫌です。(ハデハデしい今どきファションでお参りに行った事もありません。) カバンから数珠やお線香を出してお参りしている時でも、檀家さんでもないから?か嫌な顔されたり、イヤイヤ納経帳を書いているように見られます。 ハッキリ言って一度くらいそのような態度をとった人に理由を聞いてみれば良かったと本当に思います。
お上人方にご相談です 私自身は、寺の長男一人っ子として生まれで父が実父であり師匠となっています 父は、都会の檀家1000件の大きなお寺の三男として生まれ、修行はどこへも行っていません。人の紹介があって、今のお寺(地方寺院、檀家200件)に婿にきて私が生まれました。 先代(私の祖父)はもう20年前に亡くなり、父が新住職として主導しております。 私は、幼い頃から父とは親子仲はよくなく、高校卒業と共に大本山の小僧として入り、その後、父から「うちにはお前の給与はだせないから、他で勤めなさい」と言われ、昨年末まで都会のお寺で勤めさせて頂きながら、そこのご老僧に配慮を頂き宗門の修行はすべていくことができました。(費用は寺から出なく自費で出だしてきました) 昨年末、勤め先のお寺もご老僧から若上人へ代が変わり私も仕事が無くなり、言わば退職となり、自分の年と両親の年など考え、正月から実家の寺に戻りました。 僧侶となってはじめて、師匠と一つ屋根の下で暮らし始め、いろいろ気づくことが増えてきました。 1、お寺のお金をおよそお寺の活動とはほど遠い趣味の分野としてお金を使っていること 2、お経を法事葬儀以外朝夕のお経などを一切あげない、本堂にすらはいらないこと 3、風俗へ通っていること 4、母への暴言 5、私には仕事はさせないこと(することもないので、自費でゴミ袋と箒を買って掃除をします。それも嫌な顔をされます) 6、給与は月に50000円頂いています(食事は三食寺で頂き、寝るところは幼少の時の部屋があります) お寺には貯蓄はなく、借入金もあるそうです。(総代さん曰く) 親子とは言え、出家した時点で親子でなく子弟であり、僧侶として師匠と弟子との関係は絶対であるという認識でいます。しかし、上記の理由など疑問に思うことが多くここのところ悩んでいます。 師匠の僧侶としてのあり方に異を唱えることは果たしていいことなのか? それとも、黙って反面教師としてでも仕えるということが進みべき道なのか葛藤しています。 ことあるごとに、「だれがここを継いでもいい」と後継はお前で無くともということをちらつかせています。今まで一度も反論したことはありません。 恥ずかしい話し、仲間にも顔を合わせて聞けずにいます。 どうすべきなのでしょうか?
9月末に第二子を嫁が出産予定で長男の時は追々は一人娘の嫁の家系を継いで貰う為に嫁の家系の遠い先祖から一字を頂いて名付けしました。 第二子は私の家にちなんだ名付けをしたいと思い名付けを考えていたのですが 自分の家の家系図は祖父までしか追えず近くから名付けは代々受け継いでいるのと違い縁起が悪いと本やサイトで前に知っていたので嫌だという気持ちで 家系からの名前ではなくな私自身、色々な宗教の中から仏教を信じているので仏教の経典、教えや宗派を問わず宗祖、高僧の言葉から良い字を頂きたいと思い 自分の菩提寺が浄土宗なのでまずは浄土三部経の現代語訳を読み名付けを考え読み終えて良い言葉、字などありましたが素人が経典の真の意味や伝えたい事が飲み込めているかも不安ですし。 一応は菩提寺の浄土宗を信じていますが宗派問わず仏教全体を信じているので 名付けでも引き続き、法華経、大日経、金剛頂経などの現代語訳を読んで良い言葉や字、教え、本で宗祖のことばを調べ続けていきたいのですが 私自身、仏教系大学の知り合いがいなく菩提寺の住職が他県の住職になってしまいその息子さんが住職をしているので関係が薄く聞きに行きづらく それとここで宗派を問わず経典で一番大切にしている言葉や字、 大学や先代住職、師からの教えでその宗派で大切にしている仏の言葉、教典の言葉を色々とご教授頂けたらと思い質問をさせて頂きました。 お坊さんも十人十色などで同じ宗派でも違う言葉、教えを大切に思っていると思いますので色々と教えて頂きたいです。 宜しくお願い致します。
国家試験になかなか受からなくて、悩んでいます。 会社の仕事の関係上、色々な資格を受けなくてはなりません。 もう、勉強なんてって、正直思いますが仕事も覚える為にも勉強しなくてはいけません。 分かってはいるのですが、自分の勉強の仕方が悪いと思いますが、中々本当に合格しません。 人並み⁈には努力はしているとは思うのですが(周りや皆さんから見たら努力が全然足りないないと思われるかもしれませんが) 勉強量としましては、試験当日前から約2ヶ月前程からやらなくては、自分が頭が悪く、覚えが悪いので・・・ 去年は後、1問足りなくて・・・ ってことか、2回も続きかなりショックでした。 職場の先輩から後、一歩だったなって、優しいお言葉を頂きましたか、正直、合格しなくては意味がないんです。 会社から受験料(受験前の勉強会、教育料)も支払って頂いていると思うと・・・ 正直自分自身、プレッシャーに弱いです。 試験当日になったりしますと、ど緊張してしまいます。 今度こそは合格しなくては! と言う暗示を自分自身に言い聞かせて! それがいけないのかは、分かりません。 不合格の度に、また会社に迷惑かけてしまった、職場のメンバーに迷惑かけてしまったと思うばかりです。 お坊さまに国家試験を受からないことをお聞きする自体、失礼又は愚痴をお聞きして頂くなんて、どうかと思ったのですが、もし宜しければご返答を宜しくお願い致します。 また、お坊さまも、なにかしらお寺に入るときなど、試験などあったりしますのでしょうか?継がれるときとかでも⁈ 長いお経も暗記したりするんでしょうか? とても、難しいそうなお言葉が一般並んでいます。 長いお経をお読みになられて聞いていますと、良く読めるまたは暗記なさってるな!と感心してしまいます。 失礼なお言葉、質問でしたら、申し訳ありません。
長文失礼します。 先月21日に一緒に住んでいた最愛の母親が浴室で亡くなりました。昨年難病になり今年3月再発し、4月に入院の件で喧嘩しながら再入院、翌5月に退院し一週間後に亡くなりました。 直前迄元気だったそうですが、前日身体が動かない、治療が悪い、こんな苦しい治療を選択させたのは貴女達(嫁に行った姉がます)のせいだ。と言われました。亡くなった当日病院に行く予定でしたので、後悔と苦しさで毎日泣いてます 49日はまだですが、葬式後姉夫婦がお経をあげてくれたお寺に行き、永代供養等話聞いてくれました。実は墓守は私限りで、今年お彼岸の際、父親が介護保険施設に入所中見舞いの帰り、母親とお墓の話をしてました。母親は『決してお墓の土地は売るな、一度は入れろ、墓守は甥や姪にさせろ』と言ってました。 私は現実的では無い、と言いそれきりになってしまいました。 購入した墓の土地近くには叔母の同じく購入した墓の土地が有り、私がお参りしなくても、叔母やその家族がお参りしてくれるだろう、との考えだったようです。 生前話してました。 母親の生まれ育った土地柄そういう習慣でした。 姉が相談したお寺の住職様曰く、墓を建てるにも墓仕舞いもお金がかかる、考えてくれ。行事がある度遠い墓より、近くのお寺に永代供養した方が手を合わせられる。と言われたそうです。 そのお寺では永代供養とはお骨を皆と一緒にして、供養塔に納骨し、他の人と一緒に毎日祈ってくれるそうです。また、 納骨も納骨堂が有るそうですが、吹き曝しのお堂らしいです。かなり古い骨壺もあったそうです。 因みにそのお寺と当家族とは縁もゆかりもなく、たまたま母親の実家と父親の実家の宗派が同じだった事から葬式会社が頼み、お経を上げて頂きました。 49日も終わらず、また、私自身母親の死を受け入れておらず苦しい毎日です。 最後の母親の希望を叶えつつ、どうしたらいいのか教えて頂ければと思ってます。
こんばんは。 プロフィールにも書かせて頂いたのですが、幼い頃より祖父の隣で読経したりお墓参りやお供えをしたりしていました。 結婚し子供にも恵まれ、祖父が亡くなってしまったこともあり、なんとなく仏教というものと疎遠になっていたのですが、最近になりまた仏教に関心が出てきて、子供の頃なんとなく諳じていたお経の意味やその他諸々を勉強するようになりました。 まだ子供が2人とも小さいこともあり、毎日のお勤めまではなかなか継続して出来そうもないのですが、いずれは祖父のように、ご先祖様や子や人の為を思いながらお経をあげられるようになりたいと思っています。 さてご相談なのですが、無知なのでこれが仏教となにか関わっているのかさえわからなかったのでこのカテゴリーにさせていただきました。 もういつ頃から始めたのかは覚えていないのですが、多分小さい頃から祖父と墓地に並ぶお地蔵様に手を合わせたりしていて、その癖?なのか道にいるいわゆる事故等で亡くなられた方のためにあるお地蔵様にも手を合わせています。 これは結婚してからも子供が産まれてからも、祖父が亡くなってからも続いています。 運転中にも目には入ると、片手ですが手を合わせる真似みたいにして軽くお辞儀をしていて、毎回通る道なんかは、もうすぐあのお地蔵さんのところだな、と覚えてしまいました。 自分的には、もうこんなに毎回手を合わせなくても…と思ったこともあるのですが、一度やりだすと途中で投げ出すみたいで結局続けています。 しかし人に聞いたのですが、事故で亡くなられた方のお地蔵様に手を合わせたりしていると悪い?霊が寄ってきたり、なにか障りが出るんじゃないかと言われてしまい、どうすればよいのだろうかと思案しています。 この一連のわたしの行動は、仏教的にはどうなのでしょうか。 あまりしないほうが良いのであればやめようと思いますし、大丈夫なのであれば続けていこうと思います。 それとも仏教には関係ないのでしょうか。 ちなみに祖父はお寺に建つ石の柱?みたいな所にも名前が載るほど熱心な真言宗の檀家さんで、亡くなった時はお坊さんが泣いてくださるほどでした。 なのでわたしも他の宗派に触れたことはないですが、偏見や拒絶等はございませんので、是非多角的に教えて頂きたいと思います。 稚拙な文章を長々と失礼いたしました。
よろしくお願いいたします。 実の母はシングルマザーなので私が幼い頃から働きづめでした。なので、近所に住む子供がいない一人暮らしの叔母が料理をしてくれたり、ゆっくり話を聞いてくれたり、ほぼ母親のような存在で育ちました。本当に優しく温かい人でした。 ここ10年ほどは認知症がすすみ施設にいました。私は月1回面会に行っていました。 その叔母が先日亡くなりました。90歳でしたので自然な事だと思います。 が、最後が施設で寂しくなかったかなとか、色々な気持ちが入り交じり気力がわきません。 プロフィールに詳細を書いてありますが、今の私はいくらでも一人で時間があるので常に考えてしまい悲しみにどっぷり浸かってしまいます。喪失感が大きく、全てが嫌になるというか一人ぼっちになってしまったような。 また、葬儀の時に親戚に「お前はあれだけ世話になって月一しか面会行ってなかったのか?」という言葉も頭から離れません。その人は一度も行った事ないのに。というより私以外誰も行ってなかった。 そして始めは週1で行っていたら大部屋なので他の入居者が叔母に嫉妬のような嫌みを言うようになってきたので仕方なく間を開けていき結果月一になった流れです。が、説明する気にもなれず言われっぱなしでした。 だんだん自分は薄情だったのかなと後悔も出てきて、さらに辛いです。 49日までに自分が叔母にできる事はないか、こちらのサイトで調べて「なるべく肉を食べない・写経をする・お経を唱える」と見つけ、やってみようと思っているところですが、他に何かありますでしょうか? また、この悲しみや後悔や親戚の言葉への嫌悪?憎悪?をごちゃごちゃに抱えた汚い心で写経やお経をして叔母の応援になりますか? お知恵をいただけたらありがたいです。 乱文長文失礼いたしました。