こんにちは。 先日は色々と教えていただきありがとうございました。 父の東北での納骨が無事終わり、今は白木のお位牌を関東に持って来ております。 そこでお水、お茶を変え、拝んでいるのですが、今まで仏壇がなかったので場所を作ってやっております。 母は火気が少々怖いようなのですが、よくあるLED等の火を使わないお線香、ロウソクは供養的にどうなのでしょうか。 調べると仏様は香を頂く?そうなので本当はお線香が良いのでしょうが……。 特にまだ三七日くらいなので、49日くらいまではできるだけお線香がいいかなとか色々考えてしまっています。 お坊さんのご意見を聞いてみたく思いました。 お手すきのときで構いませんのでご意見いただければと思います。 ちなみに曹洞宗です。
今の私は、相手の欠点しか見つけることができず、その欠点に対してイライラして腹が立ってしまいます。 自分のことしか考えない人、人の話を聞かず自分が自分がと前にでる人、思い込みで判断して自分を押し付けて傷つけてくる人、それを本人は気付いていないか開き直ってること… そんな相手と接するには、正直、心が疲れます。 お坊さんは、腹が立つこと、イライラすることら心が折れることはありますか? そんな時、どう気持ちを切り替えていますか? どんな人でも受け入れる心… どうすれば切り替えればいいのでしょうか? 受け入れよう相手の良いとこを見て悪く考えないようにしてきましたが…ちょっと心が限界です。 アドバイスを頂ければ助かります。
2週間前に母を亡くしました。 いざ葬儀の際、父は菩提寺もなく檀家でもない、お墓も持っていないこと(父は次男で実家から距離もあるので)、私が生前の母とテレビを見ながら「戒名は何十万もして高いし、私はこのままでいい。お墓も高いから…」と話してたこともあり、俗名のまま、宗派も決められないので葬儀屋さんからそれでも読経して頂けるお坊さんを呼んで頂き葬儀を行いました。 2月末には四十九日ということになりますが、その前に悩んでいるのが、 このまま俗名で供養できるのか?ということです。 母の言葉通りであるなら、戒名は不要なのかもしれません。 私自身も、母と同じ考えで自分に戒名は不要だと考えているので、母の気持ちは理解できます。 ですが実際に母が亡くなって、しっかりと供養してあげたいと考えるようになったことで、白木位牌から本位牌に代わる際、俗名のままでいいのだろうかと不安になりました。 家族は、母がいらないと言ったならつけない方がいいのではないかとも言います。 心配なのは、 俗名のまま、本位牌を作成して開眼供養して下さるお坊さんはいらっしゃるのかどうか 葬儀は読経して頂けたけれど、宗派もわからぬまま四十九日はどうしたらいいのか。 お恥ずかしい話です。 全く仏教に関する関心や信仰心等無かったのに都合がいいかもしれません。 自分にとっていい部分だけ切り取ってすがろうというのもばち当たりであるとも思います。申し訳ありません。
お忙しい中、私の質問を開いてくださりありがとうございます。 前回は重い内容の相談をさせていただきましたが、後になって私の悪い勘違いで必要もないのに自分を責めていたことがわかりました。ご心配をおかけして申し訳ございません。もちろんご回答はとても助けになりました。今は楽しく過ごせております。 (今回の相談は前回と関係ありませんが、改めて現在のことを書かせていただきました。前回の相談を見ていない方でもぜひご回答ください) ここからが今回の相談です。 私は現在高校生です。将来は大学に進学して、研究者になりたいと考えています。しかし、自分が本当に研究者になって仕事を続けられるのか迷っています。 今現在一番興味があるのが数学で、数学者になれたらいいなとも思います。ただ、私が数学を本格的に学びたいと思ったのは高校からで、小さい頃から数学好きだった人や、四六時中数学にのめり込んでいるような人の話を聞くと、本当に私なんかが数学者になれるのかと思ってしまいます。 もともと気が変わりやすいタイプでもあり、研究者に向いていないのではないかとも思います。ただ、学問を突き詰めて新しいことを発見したいという気持ちはすごくあります。 また将来の生活という面でも、研究者は安定した仕事とは言えず、不安もあります。生活を学問に捧げるくらいの覚悟がないと偉大な成果は残せないのだろうと思いますが、なかなか決めきれません。 お坊さんになるというのも、志や覚悟があってこそだと思います。よろしければお坊さんになると決めた理由や、決断したときの気持ち、苦労したことやよかったこと、その道を究める心構えなどお聞かせください。また、この相談をお読みになってアドバイスなどあればぜひお願いします。
はじめまして、今ある悩みに立ち向かうためにお坊さんのお知恵をお借りしたいです。 自分はある物事に対して、齢20になったときから新しく始めようと取り組んでいます。 ですが、取り組んでいる最中に、自分のことを減点方式で考えてしまって挫けたり諦めそうになる癖があります。 例えば ・同年代で上手い人、楽しそうにやっている人をみてしまったとき、心の中に嫉妬心が生まれてしまい楽しめなくなる ・自分と同時期に始めた知り合いが、出来が良く次々ステップアップしていき、前へ進もうと努力している姿をみたとき、自分の頑張りが全てダメなものに感じてしまう ・上手くいかなかったとき、要領が悪く失敗してしまったとき、こんなのではダメだ・・・と激しい自己嫌悪に陥ってしまう ・純粋にその物事自体が楽しくなくなってしまい、1日1時間ぐらいで心が挫けて止まってしまう 等です。 諦めるのが嫌いな性格なためか、ここ1年半は心が挫けても寝て回復をさせて、また頑張る・・・をくりかえしてきました。 が、自己嫌悪に陥ってしまい、その物事に対して苦しい気持ちを味わいすぎて心が疲れてしまうことが多いです。 諦める気はありませんが、もっと頑張りたいと思っています。 どうか、このような思考の癖を変えるための、お坊さんのお知恵を、勇気をいただける言葉をお考えをいただけたら嬉しいです・・・!!
いつもお世話になっております。 ゆうりです。 お坊さんの、一言というのは、何故こうも、身に染みるのか。 お坊さんは、話上手です。(この言い方は怒られてしまうでしょうか?すみません。) 気になりました。 タイトルは、以前の質問で頂いた、今、大切にしている言葉です。 私は、将来研究者になるにしても、農業高校の先生になるにしても、(ノンプロで噺家、漫才師、芸人になるにしても)喋るという行為は、不可欠で欠かせません。 特に先生というのは、人間をつくる(あえてひらがなです。)職業であり、また農業を通じて命を慈しむ力を育んでもらわないとなりません。 さらに、私が噺家もを目指すの理由というのも、弱い奴に立ち上がってほしいからです。社会の皺寄せは弱者に来ます。そういう人に、立ち上がってほしいからです。 さて、「こちらの心が無くて、あちらの心が動くでしょうか?」 この「心」という部分があるから、「周りの友達」ではなく「hasunoha」に救いを求めるのだと最近思いました。私もその一人です。 その熱い「心」はお坊さんの場合は、「修行」によって培われているのは言うまでもありません。 (私の場合は、理由が異端なだけに、「信念の強さ」で解決出来てしまうかもしれませんが・・・) しかし、私たち質問者は、どのようにそれを鍛錬すればよいのでしょうか? その「心」どうしたら磨かれるでしょうか? 自分磨きというものは「自分が自分をするのみ。」「自分が自分の行を行うのみ」 精神的な強さを得るためには、「自分が自分を学んでいくこと。」 そう、以前にお言葉を仰ぎました。 これの継続によって得られるものなのでしょうか? また、これだとまだ何か、足りないでしょうか? お手数をおかけしますが、お手おすきの時間がありましたら、回答の方を宜しくお願いします。
お坊さんは死にたいと思った事はありますか? 実行した事はありますか? どうやって乗り越えられたのでしょうか?
お坊さんでない普通の人はどうやって解消していくんでしょうか?修行?例えば〜をすれば良いとかありますか?
浄土系のお坊さん、お願いします。 地蔵菩薩は浄土系にいますか?
観音経25は、どんなお経ですか? また、どんな功徳がありますか? お坊さん教えてください
関東で紅葉がきれいなお寺でおすすめありますか? 調べればわかるけどお坊さんからのおすすめとかあれば
八大地獄地獄とは仏教の教えですか? お坊さん達の地獄に対する解釈をお聞きしたいです
お坊さんは落ち込むこと、 何もかもイヤになることないですか? そうゆう時はどうやって立ち上がりますか?
試験合格してました。はすのはのお坊さんのお陰です。ありがとうございます。ぐっすり眠れます。万歳。
初めまして。 私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。 私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。 ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。 仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。 私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。 先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。 もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。 人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。 こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。
はじめまして いつもお坊さんのような考え方。心掛けるようにしています。 そこで生物は生まれ持って平等ではないこと。広い心を持つ(客観的に見る)ようなことを学びました。 しかし時には自分勝手なことをしている人をみかけます。 人のものを傷つけたり大切なことを貶したり 自分は感謝の心が足りない人たちなのかなとか思います。 よく話すのがあまり良くないかも知れないのですが家畜の事です。 家畜は人に育てられて食べられるために殺されますよね?自分は命をいただくのでいただきますを大事にします。 しかし自分勝手な人はいただきますを心から言っているのか?そんなことを考えます。 そこでお坊さんにききたいのは正しく生きるってのはどのようなことなのか?ってことです。 自分らしく。周りの事を大事に。感謝の心。 実は簡単そうで難しいようなことを大事に大事にすることを自分は心掛けています。 しかしそれが正しいことか。よくわかりません。 悪い。正しい。これは自分がどう捉えるかで変わると思います。 たとえばまた動物の話しになるのですが狩りをして他の動物を食べた。これは食べられた側からしたら悪になります。しかし食べる側。狩りをした動物にお腹がすいた子どもがいたら?食べる側からしたら正しいことになると思います。 なので自分で悪い正しい。決めることはわかっていますがお坊さんの正しい生き方。正しいと言いますが人に敬われるような生き方。そして自分は正しいのか。 そのようなことをお坊さんに聞きたいです。 長くなってしまいましたがどうか意見を聞かせてください。お願いします。
子どものクラスで、先生方への卒園寄せ書きの係をしています。 有志でやっているのですが、今日、とあるお母さんが、わたしの作ったものを見て「センスがない」と言っていました。 それを聞いた時、ショックだったと同時に、 「自分の時間を割いて話し合いに参加したり、家事や育児の合間をぬって作ったのに」 「自分は何もしていないくせに文句ばかり言って…」 なんてモヤモヤイライラしていたのですが、hasunohaのお坊さんたちのことがなぜか頭に浮かびました。 そして気づきました。 いつもわたしやほかの方々の問いや悩みに、時に優しく温かく、時に厳しく答えてくださっているお坊さん達は皆さん、ご自身の時間を割いてくださっています。 回答された内容に感謝されるだけでなく、時に文章でのやりとりですから誤解されてしまうこともあり、徒労感を感じられることもあるのではないでしょうか。 でも、そんな思いなどおくびにも出されず、いつも無私で真摯なご回答をくださることに思い至り、今日の自分に起こった出来事を振り返ってみると、わたしはみんなに感謝されたかったのかもしれない、褒めてもらえずとも労ってほしかったのかもしれないと思いました。 そう考えると、自分の小ささに恥ずかしく思ったり、お坊さんとこうしてやりとりさせていただけるこの場がなんてありがたいんだろう、と。 今回のことはちょっと悲しかったし残念でしたが、こうして必要なときに支えになってくださるお坊さんとこのサイトへの感謝を新たにすることができました。 修行や仏教のことはよくわかっていないわたしですが、自分の発した言葉で人を傷つけることがないように、そして身近な人からでも親切に対応しようと思いました。できることからコツコツと。 いつもありがとうございます。
ハスノハに自分の汚点を晒す気持ちで何度か質問したのですが、特定のお坊さんのお陰で悩みが解決して今は晴れ晴れしています。(名前を挙げて感謝したいのですが、規約違反かもしれないのでここでは名前はふせさせていただきます) さて、ハスノハでお坊さんの優しさを感じ取り、私は大変幸せで満たされました。 こんないい人たちがいるんだ。自分も他人のためにできることがないかなと思って普段の仕事に励んだら、とてつもなく楽しいんですね……。 今まで仕事の目標とか人生の目標がなかっただけに、私が探し求めていたのはこれか!と思いました。 さて、本題です。 この気持ちを持続するにはどうしたら良いのでしょうか。以前も同じ気持ちになって仕事に励んだのですが、1年経たずに我欲にまみれ終わりました。 もう十分なんです。自分だけの幸せを追求しても幸せになれないことは十分わかりました。 他人の役に立っている実感や楽しさ、感謝されること。それが本当の人生の楽しみだとわかりました。 ただ問題は、「他人の役に立つのが楽しい」という今の気持ちを保つことです。この気持ちを保ちたいです。 一体どうしたら良いでしょうか。お坊さん、教えてくださいませ。 ここまで私を導いていただき本当に感謝しています。ハスノハの開発者様、お坊さん。深く感謝しています。 いつもありがとうございます。
いつもお世話になっております。前回、「行者や僧侶が恐い」と質問した者です。私の「善行」が問題になっていないか、不安です… * 私は、人には笑顔で優しく接する。お寺では職員さんにはご挨拶。お困りの方には声をかける。周りをよく見た上で、小さなお手伝いをする。これは、道でもお寺でも変わらずやっています。 * 職員さんには、着席時は立ち上がってまでの礼はせず、微笑んでの会釈程度(お坊さんには合掌)に留めています。 目が合う時を狙っているのでだいたいは「ちわっす!」などと気持ちよく返していただけます。 誰か忘れ物をしたら「どなたか〇〇忘れてませんか~」とお声がけするようにしています。自分の動線にごみが落ちていたらそれも拾うようにしています。「供養は何時から?」「〇〇堂はどこ?」と聞かれたら、わかる範囲でお教えしています。 この前なんかは、「スミマセ~ン、そこ職員さんの通用口なんで一般の方は…」とお伝えし、正しい順路をお伝えしました。 * やりすぎですか? それと、「通い始めて日が浅いので、ここのことがよくわかりません><行事とかについてのの質問ってここですればいいんですか?」 と各種祈願、奉安手続きなどを受け付けている「総合受付」でお尋ねしても問題ありませんか? * 仕事の息抜きが仏様の御前しかありません!もうこれ以上縁を切りたくない!でも、「件の寺」以来、同じ宗派だからと 小さな事でも身構えてしまいます。 どうかお智慧をお貸して頂きたく存じます。
はじめまして。 彼はお坊さんで、出張所の所長という立場です。 昨年10月に出逢って、遠距離(500㎞)です。 今年に入ってから仕事が忙しい様で、なかなか会えませんでした。4月の半ばにやっと3ヶ月振りに会えました。その後、彼から連絡がありません。私からLINEを送っても既読スルーで返信がないまま2週間が経ちました。 もともと頻繁に連絡をしてくれる人ではないのですが、1週間に1回は連絡があったのに今回は2週間連絡がありません。こんなに期間が空いたのは初めてで気が気じゃないです。 GW中は法事がいっぱいで会えないと言われていたので覚悟はしていたのですが、まさか連絡もないとは思ってなかったので心配で心配で… だからと言って、お寺まで会いに行くのは迷惑だし、共通の知り合いも居ないので様子が解らず困っています。既読にはなっているので体調不良ではないと思いたいのですが、何も出来きなくて悔しいです。 GWはそんなに忙しいものなのでしょうか? もしかしたら彼の気持ちが冷めてしまったのではないかと不安で仕方ありません。 アドバイスをお願いします。