3年前に亡くなった母は私を生んだときは未婚でした。 一人で育てると一大決心で、誰にも言わず私を生んでくれました。 その後、父の先妻さんとの離婚が成立し、私が6才の時に正式に結婚しました。 父は身勝手で自己中心的で封建的な人です。母は苦労し、死ぬ間際まで別居をしたいと言っていました。 私さえ生まれなければ、母は父と縁が切れ、もっと違う人生を歩めたに違いありませんし、先妻さんのお子さんたちも、片親にならずに済んだはずです。 なのに、生んでくれた母に私は何一つ孝行もできず、優しい言葉の一つもかけられず、旅立たせてしまいました。 せめて供養だけは、母が望んでいた通りにしてあげたいと、父に歯向かって説き伏せて、一周忌で納骨を済ませました。 私の命は生まれなかったほうがいい命ですが、生まれたことを粗末にせずお迎えが来るまで懸命に生きることで、母の選択も私の命も、意味を持つと信じて苦しい人生も前向きに生きております。 遺された父にも毎日電話をし、600km離れて暮らしていますが、何かあればすぐ駆けつけるようにしています。 今は私自身が離婚をし、大切な子供たちと離れて暮らし、自分一人の生活ですから、父にそれだけのことをしてあげられますが、母の生前はまだ婚姻中で4人の子育てをしていたので、毎日電話をするだけで、その電話でさえ優しい言葉の一つも言えず、本当に親孝行はしてあげられませんでした。 父も母の死後2年ほどは落ち込み悲しんでいましたが、今は籍は入れていませんが新しい女性とお付き合いをしています。体こそ全くの健康とは言えなくとも楽しく暮らしています。 新しい女性とのお付き合いは、それで楽しいならとても良いことだと思います。 ところが、先月、父は実家に私に相談もなく新しい仏壇を買い、母の位牌もなくなり、父の両親と同じ過去帳に記してしまいました。 宗派のやり方に沿ってはいるのですが母は生前、仏壇などはしないで欲しいと、父の先祖や親族と同じところには祀られたくないと言っていました。 だから、納骨は母の親族がみんな眠る合同墓に入りたいと言う遺言を叶えてあげたのに…。 実家には新しい女性の物がどんどん増え、母の物はどんどんなくなっていきます。 私は母孝行もせず、母の遺志を叶えてもあげられず、謝ることもできず…。 母に会いたいです。 母のところへ行きたいです。
初めて選ぶカテゴリーになります 私のカウンセラーさんは浄土真宗本願寺派の僧侶です 私はそのカウンセラーさんをとても尊敬しています 人見知りで言葉も詰まりがちな性格 何だか身体も弱いのでこちらが心配してしまう程なのですが 自分に正直で弱味を隠さないその素の姿にとても好感を持っています 医療の現場ではよく起こることなのですが 患者さんが医者など医療関係者に恋心を抱くケースは多く 片想いや失恋を経験したことのある人もここhasunohaに訪れた人の中にもいるかも知れません 互いに患信頼関係が築かれてたからこそ生まれる感情だったりもします 私も今のカウンセラーさんを信頼出来るようになってからカウンセリングが単なる苦しみを吐き出す場ではなくなりました 時には「なんのこっちゃ」と言うような他愛のない話になることも多くなりました 私の家系は父方が浄土真宗大谷派で母方が本願寺派です ここからが妄想の世界になります もし私がこのカウンセラーさんのお寺さんに嫁ぐとなったら… 私は母方の宗派になるのか…??? そんなことをカウンセリングを受けている時に思ったのです それこそ「なんじゃこりゃ!?」なんですけども でも患者さんが医者関係者に恋をする気持ちが少し分かったような気がします 辛いとき困ったときに助けてくれる人のことを好きになるのは自然と湧き出る感情ですよね 止められませんよね 私はカウンセリングを受ける立場になってカウンセラーさんを尊敬し信頼するようになって初めて「患者→医者関係者」の恋心も理解出来るようになってきました でももしもですが もしも私がそのカウンセラーさんのことが「好きだ!」と想うことがあるとしたら それは… 「患者→お坊さま」「私→お坊さま」ってことにもなりますよね 一目惚れする可能性だってあります。 お寺にお参りに行ってお坊さまに出逢う度に私が「わ~お坊さまだ!」「わ~ステキ!」とキラキラとときめいたりしたら?!なんて想像したものですから そんな些細なことから人生何が起こるか分からないなと思ったのです いつも堅苦しい感じの私が話すには珍しい内容になりましたが 質問です 私ぐらい老いてから結婚されたというお坊さまはhasunohaの中にいらっしゃいますか? 年齢なんてフツーに関係ないものなのでしょうか?
京都市内に下宿出来るお寺はありますか?
長年一緒にいてくれてとてもかわいい猫がいます。 3匹のうち今日兄弟猫がなくなってから、ずっと2匹と一緒にいました。 ただ、年齢もあるのでしょうが病気もあり、入院をするようになりました。 生き物だということはとてもよくわかります。 でも、これから歳を重ねるに連れて、たくさん悲しいこともあるのかと思うと、これからの人生は辛いことしかないように思います。 年をとってできないことも増え、若い人を見て羨ましくなり、自分が情けなくなり、そんな中で別れを経験するのかと思うと生きているのがとても怖いです。 修行のために生きていて、生きることは苦しみなのだと聞きますが、耐えきれなくて精神的な病になるのはそれほど罪深い存在だからなのでしょうか? 早く終わりたいと思ってしまうのは、いけないことでしょうか?
菩提寺の住職がやめそうです。 借金があるようです。そして住職はお寺に隣接する自宅にお住まいです。 やめて宗門から代わりの僧侶が派遣されるのか、末寺なので近くの 大きなお寺の兼任寺になるのか分かりませんが、どういうパターンが 考えられるでしょうか?また檀家はどうなるのでしょうか?
この前親戚の子から連絡きてお寺に入って修行してお坊さんになりたいと連絡きました。なんで私がお坊さんになりたいのって聞いたら自分を鍛えたいからと答えました。 私もお坊さんの修行は過酷だけど本当にお坊さんになりたいのって聞いたらなりたいと言い切りました。近いうちに返事しないといけないんですが、ハスノハのお坊さまに聞いてからじゃないと返事が出来ないと思い質問しました。 後平日お昼のバイキングに毎週木曜日にお坊さま出てましたが今は出てないんですね。ハスノハのお坊さまも出られてた事がありました。 お坊さんになるために私から親戚の子にアドバイスした方がいいのでしょうか❓それともお坊さまからの返事をそのまま伝えたい方がいいのでしょうか❓よろしくお願いします
いつもお世話になっております。 死への恐怖が強く、以前よりご相談させて頂いております。 私は、本当に死ぬのが怖いです。 なぜなら、死んだ後どうなるか分からないからです。 仏教の中には、死後について細かく書かれている本や考えもあるとご教示頂き、いくつか拝読致しました。しかし、大変申し訳ないのですが、信じることができませんでした。 死んだ後帰ってきた人は居ません。ということは、少なくとも私の今生きている世界では、死んだあと私の意識がどうなるかについて明確な根拠と理論を持って説明できる人は、いらっしゃらないのではないかと考えてしまい、信じられませんでした。 次に発想を変えて、恐怖心を消すことを考えました。死ぬことは変えられなくても、死の恐怖さえどうにかなればいいと思い、怖くなったらお念仏を唱えるように致しました。仏様にすべておまかせするという考えです。しかし、これは一時凌ぎで、恐怖が何度もぶり返すようになってしまいました。死が「自分ごと」だと認識すると怖いのです。お念仏を唱えている間は、死が「他人事」のように感じられて、死が遠くにあるような感じになり、一時的に怖くなくなります。きっと、私のお念仏のやり方に、何か間違いがあるのだと思います。 私は今、なぜか、ここに生きてしまっています。生きているから、いつか死ななければなりません。 どうしようもなく恐ろしいです。 いつかくる死に怯えて、気が狂う程の恐怖に、毎晩叫んで、ジタバタしてしまいます。もう、本当に、生きているのがつらいのです。矛盾していますが、この恐怖が本当に本当に耐え難く、こんなに恐ろしいなら死んでしまいたいと思う毎日です。 今回の質問が、仏教に対して失礼でしたら、本当に申し訳ありません。私は仏教が好きです。出会えて良かったと思っています。また、今までご回答頂いたお坊様方、本当に感謝しております。ご回答頂いたのに、前進できない愚かな私で申し訳ありません。 支離滅裂な文章ですみません。ここまで読んで頂き、ありがとうございます。 私はこれから、どうしたらいいでしょうか。 毎日「この世界に生きている」と実感するたびに、「いつか死ぬ」と恐怖で発狂するこの状況を解決する方法を、どうか教えてください。ここから私は、次に、何をしたらいいのでしょうか。
私はいつか、お坊さんのように、困っている人の相談を聞いたり、助けてあげられる人になりたいと思っています。皆さんはどのような経緯でお坊さんになられたのでしょうか。 また、そう言う人になるには、どのようなことを心がけて生きていけば良いのでしょうか。 他にも、お坊さんといえば男性のイメージが強いですが、女性でもお坊さんになることができるのでしょうか。 教えていただけると嬉しいです。
はじめまして。 何年か前に結婚したのですが、私の実家は浄土真宗だったのですが、嫁いだ先は曹洞宗でした。 私の地元が浄土真宗と縁のある場所だったこともあり、個人的には浄土真宗に親しみを感じていました。 ここで質問なのですが、結婚したらやはり、改宗するのが一般的なのですかね。 義祖母のお葬式の際にお経も全く違い、もし私のお葬式で曹洞宗のお坊さんだったら違和感があるな。と思ってしまいました。 年齢的にも考えるにはまだ早い気もするのですが、義父義母の手前、私だけ浄土真宗で。というのも申し訳ないし普通はどうなんだろうと思っております。 ご回答のほどお願いします。
先日は、大変お世話になりました。 今日は、私の煩悩の1つでもあると思うのですが… 一歩を踏み出す前によく調べるとか、失敗しないための努力をするとか、あまり考えることができないままに答えや結果を出して、はじめてそこでやっと、これじゃいけないんだと思ったり、気付いたり。もうこのときには遅すぎるんですよね…。こんな私が前もって変われる方法はありますか?ありましたら、お教えして頂けたら幸いです。宜しくお願い致します。
40代独身で、500件ほどの檀家がいる田舎の寺の住職をしております。 近所の住職死亡後、やり手のない寺を数件、兼務しており、合わせると500件ほどになります。 もともと別の自宅住まいでサラリーマンをしてましたが、途中親が病気にかかり、長男で跡取りだった私に、やってくれと親から頼まれて継いだのがきっかけで、仕事を辞めて継いだのですが、もともと私は他人とコミュニケーションを取るのが苦手なので、現在寺の檀家との関りが大変で、葬式が入る都度、寺の仕事が嫌でたまりません。 そのような状態で、精神科に通院しながら、精神安定薬と睡眠薬を処方してもらいながらなんとか寺の仕事をしてます。独身の姉にも協力してもらい、私が檀家の対応全般、姉は裏で火事全般しながらどうしてもの時だけ檀家の対応・・・みたいな感じでやってます。 近所に檀家100件にも満たない兼業住職がおり、結婚してますが子供に恵まれなかったようで、私はその寺のほうるいという立場になってます。 その寺の行事を手伝っているのは私だけで、ほかにもほうるい住職が数名いますが、書類の名前だけで、何かあっても一切かかわりたくないような状態になってます。 その住職が近々危なく、後もいない状態で、その住職の兄弟などの身内はいても、皆仕事をしており、寺なんかやりたくないと皆いっております。 今後その住職はなくなった際は、ほうるいの私がその寺を兼務として引き受けないといけないのでしょうか? 今現在500件ほどの檀家の対応を私と姉で行っており、相当きつく、これ以上ほかの住職がやってる寺の檀家のめんどうまで見れません。 正直な話、もう今なんとかやってる自分の寺の檀家の対応だけでも相当大変なので、これ以上ほかの寺の檀家まで兼務で押し付けられたくなく、関わり合いになりたくありません。 こういった場合、今後その住職がなくなった際、その寺の兼務を断ることは可能でしょうか? 本山に事情を説明し、頼めばだれか代わりの住職を派遣してもらい、後を継いでやってもらうことはできるのでしょうか?
うちには、小さいお地蔵様が置いてあります。父の兄が約80年前に、4歳で亡くなった時のもののようです。 父は亡くなりましたので、お地蔵さんをお焚き上げ出来るところがないか調べていますが、お寺との縁がない為、どこで頼めば良いのかわかりません。 魂が入っていると思うので、簡単には捨てられないと思います。どうすればよいですか?
一昨年 父が亡くなり、父の希望で献体しました。 先週大学病院から連絡があり来年の2月頃に火葬式をやる旨の連絡をいただきました。 父は病院で亡くなり、そのまま大学病院へ行ってしまったので葬儀をしていません。 東京から沖縄に移住してきているので近くに身内がいないため葬儀をするにも参列者がいません。なので可能であればお寺でお経をあげていただくというような供養ができないかと思っています。参加者が3名くらいでも、そのような事はやっていただけるのでしょうか。 葬儀会社に相談したら自宅にお坊さんを呼んでお経をあげていただいたらと提案されたのですが、そのようなスペースを設けることが出来ないので悩んでいます。
お付き合いしている方がいます。彼の家庭はキリスト教徒で特に母親が敬虔な方です。一方、私の家庭は仏教徒。同じく母親が熱心に信仰しています。 彼自身は、「子どもの頃は信じていた」「子どもの頃みたいには信じていないけど、神社やお寺には手を合わせたくはないかな」と言っています。 私は、父を幼少期になくしており、私達家族にとっては、仏壇に手を合わせることは父を想うことに直結しています。特に母はその思いが強く感じます。このことは、彼にもシェアしています。 彼とは幼馴染で、家族のこともある程度知っていて、交際前からフランクに何でも聞き合える関係です。しかし、宗教については、センシティブなことなので、どこまで聞いてもいいのか、怖くてこれ以上踏み込んで聞けない自分がいます。 年齢的にも、結婚も考える歳です。お互い信仰心の強い家庭で育ったことは、お互いの信仰心を理解できることに繋がるのではないかと思っています。 一方で、これから、どこまで宗教が違うことが障害になるのか不安です。年を取って旅立った時、同じお墓に入れないのかな、空の上では会えないのかなと思うと悲しい気持ちになります。 異宗教間の結婚は、どんな問題が待ち受けているのでしょうか。解決の糸口はあるのでしょうか。愛していても離れる決断をするほうが幸せなこともあるのでしょうか。。
私は仏教系の学校に通っておりまして学校でいただいたブレスレットのように常につけておける数珠を常につけているのですがその一つが欠けていました そういうものがかけるというのは何かの予兆とかいろいろ聞いたことがありますがどうなんでしょうか? また、高校時代も同じ数珠をもらっていたのでそれを最近引き出しから見つけ2つ数珠をつけていたのですが数珠は1つにしておくべきでしょうか
真言に関する質問です。 光明真言や大日如来の真言など様々あるかと思いますが、スローテンポのもの・アップテンポなもの…音楽の楽譜のようなものが存在するのでしょうか?それとも師からの口伝なのでしょうか? もし宜しければ、どのように学んでおられるのかを教えて下さい。 宜しくお願い申し上げます。
はじめまして。ご縁があり私は気づいた時から仏教に関わりながら過ごしてきました。お寺が好きで友達とよく巡ったりしています。高校生の時にお坊さんに憧れを持ち、その時から将来はお坊さんと結婚したいなと考えるようになりました。将来の夢が、仏教関連でないと資格が取れないので仏教学校に通っていますが、出会いもなく日々が過ぎていきます。 どうしたらお坊さんと出会えますか? またお坊さんはお寺に来た方とはお話しする機会などないのでしょうか。
来る4月18日は、母の十三回忌なのですが、年忌法要はとりやめとなりました。 外出自粛要請が出されている折でもあり、今年の母の命日の墓参りは、控えようかと考えています。(墓参りに行くのに、片道約2時間かかります) 7月7日の父の三回忌までに、状況が好転してくれることを、祈っていますが…。そうならなければ、父の年忌法要もとりやめです。 新型コロナウイルスの悪影響が、各方面に及んでいますね。私だけでなく、皆様も不安を感じているのでしょうが…。 仏壇と位牌は兄のところにありますが、遺影は私のところにあります。 遺影に向かって十念を唱えるだけでも、年忌供養の代わりになりますか?
位牌を作る時、文字の色はどういう基準で決めたら良いでしょうか?
天台宗のお寺で授与品としていただいた数珠なのですが。 2つご質問があります。 普通の数珠は玉状なのに、どうして天台宗の数珠はソロバン玉のような形をしているのでしょうか? 運慶の作の仏像にも、ソロバン状の数珠をお持ちの仏像もあることから、古くからの伝統と思われるのですが・・・ 2つ目は、数珠の歴史を解説した本に、「経典によっては、玉状ではない数珠は異端である。そのような数珠を用いるのは地獄に堕ちる原因となる」と厳しく批判しているものもあります。 私はこれは、その経典が書かれた時代にたまたまそうした数珠を使う異端派がいたか、あるいは奇をてらうことを戒めた方便と解釈し、気にせず用いていますが、お坊様の見解もお聞かせいただけましたら、幸いです。