姉弟で差がある家庭で、姉だ・女だと事ある毎に理不尽で我慢し、甘えられず頼れず、羨んで憎んでヤケクソな強がりでその場を強く切り抜けましたが、更に憎たらしく思われた日々。 時は過ぎ結婚・出産し、相変わらず差別や罵倒はあったものの初孫はとても可愛がり愛情を見せ、子育てで助けてもらう内に、親に対するマイナスな気持ちも薄らぎ感謝し、私も親の苦労が理解出来る立場になった事でお互い穏やかになりつつあったのですが…親は突然倒れました、救命措置で命は助かったが脳挫傷で意識不明・寝たきり、気管切開で喋れず・食べられずです。そこからは少しは意識はあったけれど病院の診立ては違いリハビリは出来ず、本人も私達も辛い入院が続き、何とか復活を願ったのですが自分たち素人に出来る事は少なく、お見舞いで明るく振る舞ってマッサージや手を握り励ますくらいしかできないのが歯痒くて、とても辛く悲しくてショックで心が変になりました。そして寝たきりのままどんどん悪くなり一年後に亡くなりました。 辛い。残酷だ。恩返しも感謝もこれからだったのに、1人親なのに、孫ともお互い唯一の存在でとても仲良くて子供の心の支えでもあったのに、どうしてこんな酷さで持っていない所から奪っていくの?と受け入れられないで居ましたが 主人は、それは神様が決める事、そして皆んなに訪れる事だから天命だから受け入れよう、と言います。受け入れることは諦めることとどう違うのかわかりません。教えてください。 そして将来がとても不安になりました、親の死の後にもお金が動き手続きで忙しくて、親戚やきょうだいが居る事で助けになったのに、一人っ子で親戚の無い我が子の将来が心配でたまりません。不安と心配と後悔と悲しみで気が狂いそうになる時があります。救いの言葉をください。 それど死んだ後は各宗派によっても違うし、浄土やら魂やら輪廻やら何が本当ですか?ずっと見守っているのですか?生まれ変わるのですか?死後のことはわからないはナシでお言葉をください。よろしくお願いいたします。長文失礼しました。
幼少期から両親が離婚し父元で暮らしており 父のDVなどで精神的にやられてしまい 高校中退をし、母元で暮らすようになりました。 (母は再婚しています) 高校中退でも何とかコネで 事務員として3年間働いていたのですが 祖父母に高校卒業という資格は必要と 義父と母の願いもあり私自身視野も広げたいなど 祖母が学費を払ってくれるなど色々言われ通うことにしました。 通うのに色々条件を出され、一つ目は 今の仕事をやめること(辞めた後もアルバイト禁止) これは学業1本で頑張ってほしいという思いでした 2つ目は祖父母宅から通うこと(祖父母宅はお寺です) 3つ目はお小遣い月1万 携帯代込み この条件などで少々息苦しさを感じていたのですが 散々10代好き勝手やったのだから我慢しなきゃ いけないと我慢をしておりました。 長くなりましたが私は祖父が大嫌いです。 やはり住職とはいえ同じ人間ですので怒ったりなど あってもおかしくないと思ってますが モラハラに近いものがありました。 平気でお前は社会に出ても役に立たないなど。 それは私だけではなく祖母、若院にも 結構あり、祖母と若院は辛抱強く我慢が出来るタイプだったのですが 私は言われてしまうと言い返して反抗してしまうので 何かと祖父と衝突していました。 学校が休日な日はなるべくゆっくりしたいのですが お寺は年中無休、誰が来るか分かりません 自分ひとりの時間が全く作れず、学校ではやはり歳が離れた友人が多く 気を使うことも多く、家では祖父が気分屋で いきなり怒り出すなど休まることもなくでした 話が長くなりましたが、私は祖父を通してお寺が嫌いになりました。 高校卒業を取るために来ていますが 何故か私が卒業したらお寺に嫁げなど。 わざわざ蛇を殺して私の寝床に置くなど 散々嫌がらせを受けました。 住職って皆こうだと思いたくないけど 正直死だったり宗派の教え?など 散々偉そうに話しているのにやることが 汚すぎてお寺関係の人は嫌いになりました。 ですが私自身毎朝のお勤めで 仏様の前で手を合わせることは苦ではなく このまま行けばお寺まで嫌いになってしまうんではないかと 悩んでおります。 祖父とは卒業までの辛抱だと思ってます。
浄土宗を信仰していますが、先日ショックな文献に出会ってしまいました。 二祖・聖光房弁長上人の念仏名義集に 「臨終行儀と申すは一期の大事是に過たる無きたり。世の中の人の往生したるぞ、悪道に堕たるぞと申す事は、此の臨終にて知るなり。臨終の吉き人は往生したると知る、臨終の悪しきをば悪道に落ちたりと知るなり。」 とあります。 これはどうしても納得できません。日頃念仏をしているのにろくでもない死に方をした人が一人でもいたら、「念仏すれば阿弥陀仏は救ってくださる」という教えが崩れてしまいますし、現実的にそういう人が今までに一人もいないとは思えません。 念仏していたって死ぬ時に正念を保てるとは限らないし、保てていたとしてもこの目に来迎を見ることができるかはさらに自信がありません。来迎を見れなければ浄土に往けないと思うと、物凄い恐怖の中、死んでいかなければならないのではないでしょうか。 弁長さんなんでこんな暴言吐いちゃったの!?って気持ちです。 そんな疑問を抱えたまま時宗を勉強していたら、時宗では臨終とは死ぬ時だけを指すのではなく一瞬一瞬を臨終と心得、今この時に唱える平生の念仏がすなわち臨終の念仏である。 来迎が見えなくても三界虚妄のこと、惑障が邪魔をして見えないことだってあるが気にしなくていい。必ず往生できる。という教えに出会い、これだ!と思いました。 じゃあ時宗に改宗したらいいじゃんと言われそうですが、この弁長さんの発言以外は浄土宗が好きで、敬愛する徳川家康公と同じ宗派ということに魅力を感じています。時宗総本山清浄光寺より知恩院の方がずっと近くて行きやすいですし、何より近くに時宗の寺院がありません。 そこで、浄土宗檀信徒のまま、都合のいい所だけ弁長上人の言うことを無視して一遍上人の思想を取り入れるということをしてもいいでしょうか? それでも浄土宗檀信徒を名乗る資格があるでしょうか?
いつもお世話になっております。昨日、キリスト教の教えを騙る、 危険な宗教団体の構成員が近所をうろついて勧誘活動をしていた のを、追い払いました。近所には友人知人が住んでおり、友人に 関しては、最近になり、宗教に興味を持ち始めました。 私は、今回の安倍元首相射殺事件を受け、改めて、「宗教とは なんだろう」と思うようになり、また、昨日の一件(連中は 私の住んでいる地区を縄張りにして、昔から勧誘活動をやって いたので、今今始まったことではないのですが)を受け、恐ろしい まやかしを語って人々を貶める輩から、自分や身近な人を守り たい、そのためには、正しい教えを身に着ける必要があると 思い立ち、教会のお説教を聞きに行ってみました。 お忙しい中、お説教の後、牧師さんが時間を取ってくださり、 私の疑問に答えてくださいました。 そこで、キリスト教と、私の宗派、浄土宗の共通点を見つけ ました。 キリスト教では、 「私たちは、常に罪を作りながら生きている。本来なら処される べきは私たちなのだが、キリスト様が、私たちの罪を肩代わりして 磔になってくれ、神となって私たちを許し、救ってくれる。私たちは、 罪を重ねつつも、そのみ恵みに報い、許してくださるからこそ、 誠実に生きねばならない」 浄土宗でも、 「我々は、罪深き暗愚の凡夫である。戒律も守れない。しかし、 阿弥陀様が戒律や修行を代わりにこなしてくださっていて、 お念仏をすれば、許して救ってくれる。許してくれるからこそ、 誠実に生きねばならない」 と教わりました。 しかし、私は気になりました。 「似たようなありがたい教えを説いているのに、信者さんの 質が全然違う」 クリスチャンの皆様は、とても謙虚です。しかし、以前通って いた浄土宗の大寺の説教会に来ていた人たち(お坊さんまでも…) は、とても傲慢でした。 「念仏しない奴は、地獄に落ちる」 「念仏してても、他の仏や神を拝んだら、阿弥陀様に見放される」 と平然と抜かしました。 牧師さんや教会の皆様は、 「実は私は仏教徒なのですが…」 と言っても、嫌な顔をしませんでした。目指す所は違っても、 この世でするべき事は同じ、と言うと、喜んでくださいました。 「通じるところが、ありますものね」 と… この差は、何だと思われますか?先生方のご高見、 拝聴したく存じます。
3年前に亡くなった母は私を生んだときは未婚でした。 一人で育てると一大決心で、誰にも言わず私を生んでくれました。 その後、父の先妻さんとの離婚が成立し、私が6才の時に正式に結婚しました。 父は身勝手で自己中心的で封建的な人です。母は苦労し、死ぬ間際まで別居をしたいと言っていました。 私さえ生まれなければ、母は父と縁が切れ、もっと違う人生を歩めたに違いありませんし、先妻さんのお子さんたちも、片親にならずに済んだはずです。 なのに、生んでくれた母に私は何一つ孝行もできず、優しい言葉の一つもかけられず、旅立たせてしまいました。 せめて供養だけは、母が望んでいた通りにしてあげたいと、父に歯向かって説き伏せて、一周忌で納骨を済ませました。 私の命は生まれなかったほうがいい命ですが、生まれたことを粗末にせずお迎えが来るまで懸命に生きることで、母の選択も私の命も、意味を持つと信じて苦しい人生も前向きに生きております。 遺された父にも毎日電話をし、600km離れて暮らしていますが、何かあればすぐ駆けつけるようにしています。 今は私自身が離婚をし、大切な子供たちと離れて暮らし、自分一人の生活ですから、父にそれだけのことをしてあげられますが、母の生前はまだ婚姻中で4人の子育てをしていたので、毎日電話をするだけで、その電話でさえ優しい言葉の一つも言えず、本当に親孝行はしてあげられませんでした。 父も母の死後2年ほどは落ち込み悲しんでいましたが、今は籍は入れていませんが新しい女性とお付き合いをしています。体こそ全くの健康とは言えなくとも楽しく暮らしています。 新しい女性とのお付き合いは、それで楽しいならとても良いことだと思います。 ところが、先月、父は実家に私に相談もなく新しい仏壇を買い、母の位牌もなくなり、父の両親と同じ過去帳に記してしまいました。 宗派のやり方に沿ってはいるのですが母は生前、仏壇などはしないで欲しいと、父の先祖や親族と同じところには祀られたくないと言っていました。 だから、納骨は母の親族がみんな眠る合同墓に入りたいと言う遺言を叶えてあげたのに…。 実家には新しい女性の物がどんどん増え、母の物はどんどんなくなっていきます。 私は母孝行もせず、母の遺志を叶えてもあげられず、謝ることもできず…。 母に会いたいです。 母のところへ行きたいです。
いつもありがとうございます。 長年、実家の宗教について悩んできて、思い切ってこちらでご相談させていただきます。 父母、そして母方の一族(母方の祖父母や伯父、叔母たち)は、ある仏教の熱心な信者として生きてきて、私も幼い頃から信仰するのが当たり前という環境でした。真面目な宗派だとは思いますし、基本的に一族は情が深い方なのではないかと思います。親や親戚からは、祖先や親を大事にしなさい、信仰すればご利益がある、信仰心が薄かったり感謝の気持ちがないとバチが当たる、本物の宗教はこれだけである、などと毎日のように言われて育ちました。しかしながら、周囲の大人たちは、私にとってはあまり信頼感の持てる人たちではありませんでした。なぜなら、当時同居していた母の妹が機嫌を損ねると手が付けられないほどの暴言をはいて暴れる人で、それを目の当たりにしながらも、父母や親戚は何も改善しようとしなかったからです。あの人は変わっているから仕方がない、静かになるまで我慢しているのが一番だ、ご信仰をしていれば徐々に状況は良くなる、と言っていましたが、小さかった私や兄弟には苦しい時間でした。信仰しているのに何でこんな目に合うのかと時々母に文句を言っても、「感謝の気持ちが足りない」と言って怒られるだけでした。祖先だけでなく、子どもももっと大事にしてほしかった。 結局叔母は変わることはなく、私は結婚して実家を出てからも、ずっと父母や親戚に対しては複雑な思いがありました。でも、皆にかわいがってもらったという記憶もたくさんあるので、父母には尽くしてきた方だと思うし、叔母の老後のケアもしています。 自分も60代になった今、若い頃には考えられなかった悩みや不安をかかえ、何かにすがりたいという思いが強くなってきました。でも、小さい頃の心の傷から、母の一族と同じ信仰は持ちたくないという気持ちになってしまいます。その一方で、母の一族を批判したり、他の宗教を心の支えにしたいなどと言ったら、バチが当たるのではないかという恐怖感もあります。これからどのような心構えで生きて行けばいいのか、お坊様にご指南をいただけたらと思います。
初めて選ぶカテゴリーになります 私のカウンセラーさんは浄土真宗本願寺派の僧侶です 私はそのカウンセラーさんをとても尊敬しています 人見知りで言葉も詰まりがちな性格 何だか身体も弱いのでこちらが心配してしまう程なのですが 自分に正直で弱味を隠さないその素の姿にとても好感を持っています 医療の現場ではよく起こることなのですが 患者さんが医者など医療関係者に恋心を抱くケースは多く 片想いや失恋を経験したことのある人もここhasunohaに訪れた人の中にもいるかも知れません 互いに患信頼関係が築かれてたからこそ生まれる感情だったりもします 私も今のカウンセラーさんを信頼出来るようになってからカウンセリングが単なる苦しみを吐き出す場ではなくなりました 時には「なんのこっちゃ」と言うような他愛のない話になることも多くなりました 私の家系は父方が浄土真宗大谷派で母方が本願寺派です ここからが妄想の世界になります もし私がこのカウンセラーさんのお寺さんに嫁ぐとなったら… 私は母方の宗派になるのか…??? そんなことをカウンセリングを受けている時に思ったのです それこそ「なんじゃこりゃ!?」なんですけども でも患者さんが医者関係者に恋をする気持ちが少し分かったような気がします 辛いとき困ったときに助けてくれる人のことを好きになるのは自然と湧き出る感情ですよね 止められませんよね 私はカウンセリングを受ける立場になってカウンセラーさんを尊敬し信頼するようになって初めて「患者→医者関係者」の恋心も理解出来るようになってきました でももしもですが もしも私がそのカウンセラーさんのことが「好きだ!」と想うことがあるとしたら それは… 「患者→お坊さま」「私→お坊さま」ってことにもなりますよね 一目惚れする可能性だってあります。 お寺にお参りに行ってお坊さまに出逢う度に私が「わ~お坊さまだ!」「わ~ステキ!」とキラキラとときめいたりしたら?!なんて想像したものですから そんな些細なことから人生何が起こるか分からないなと思ったのです いつも堅苦しい感じの私が話すには珍しい内容になりましたが 質問です 私ぐらい老いてから結婚されたというお坊さまはhasunohaの中にいらっしゃいますか? 年齢なんてフツーに関係ないものなのでしょうか?
京都市内に下宿出来るお寺はありますか?
長年一緒にいてくれてとてもかわいい猫がいます。 3匹のうち今日兄弟猫がなくなってから、ずっと2匹と一緒にいました。 ただ、年齢もあるのでしょうが病気もあり、入院をするようになりました。 生き物だということはとてもよくわかります。 でも、これから歳を重ねるに連れて、たくさん悲しいこともあるのかと思うと、これからの人生は辛いことしかないように思います。 年をとってできないことも増え、若い人を見て羨ましくなり、自分が情けなくなり、そんな中で別れを経験するのかと思うと生きているのがとても怖いです。 修行のために生きていて、生きることは苦しみなのだと聞きますが、耐えきれなくて精神的な病になるのはそれほど罪深い存在だからなのでしょうか? 早く終わりたいと思ってしまうのは、いけないことでしょうか?
菩提寺の住職がやめそうです。 借金があるようです。そして住職はお寺に隣接する自宅にお住まいです。 やめて宗門から代わりの僧侶が派遣されるのか、末寺なので近くの 大きなお寺の兼任寺になるのか分かりませんが、どういうパターンが 考えられるでしょうか?また檀家はどうなるのでしょうか?
いつもお世話になっております。 死への恐怖が強く、以前よりご相談させて頂いております。 私は、本当に死ぬのが怖いです。 なぜなら、死んだ後どうなるか分からないからです。 仏教の中には、死後について細かく書かれている本や考えもあるとご教示頂き、いくつか拝読致しました。しかし、大変申し訳ないのですが、信じることができませんでした。 死んだ後帰ってきた人は居ません。ということは、少なくとも私の今生きている世界では、死んだあと私の意識がどうなるかについて明確な根拠と理論を持って説明できる人は、いらっしゃらないのではないかと考えてしまい、信じられませんでした。 次に発想を変えて、恐怖心を消すことを考えました。死ぬことは変えられなくても、死の恐怖さえどうにかなればいいと思い、怖くなったらお念仏を唱えるように致しました。仏様にすべておまかせするという考えです。しかし、これは一時凌ぎで、恐怖が何度もぶり返すようになってしまいました。死が「自分ごと」だと認識すると怖いのです。お念仏を唱えている間は、死が「他人事」のように感じられて、死が遠くにあるような感じになり、一時的に怖くなくなります。きっと、私のお念仏のやり方に、何か間違いがあるのだと思います。 私は今、なぜか、ここに生きてしまっています。生きているから、いつか死ななければなりません。 どうしようもなく恐ろしいです。 いつかくる死に怯えて、気が狂う程の恐怖に、毎晩叫んで、ジタバタしてしまいます。もう、本当に、生きているのがつらいのです。矛盾していますが、この恐怖が本当に本当に耐え難く、こんなに恐ろしいなら死んでしまいたいと思う毎日です。 今回の質問が、仏教に対して失礼でしたら、本当に申し訳ありません。私は仏教が好きです。出会えて良かったと思っています。また、今までご回答頂いたお坊様方、本当に感謝しております。ご回答頂いたのに、前進できない愚かな私で申し訳ありません。 支離滅裂な文章ですみません。ここまで読んで頂き、ありがとうございます。 私はこれから、どうしたらいいでしょうか。 毎日「この世界に生きている」と実感するたびに、「いつか死ぬ」と恐怖で発狂するこの状況を解決する方法を、どうか教えてください。ここから私は、次に、何をしたらいいのでしょうか。
この前親戚の子から連絡きてお寺に入って修行してお坊さんになりたいと連絡きました。なんで私がお坊さんになりたいのって聞いたら自分を鍛えたいからと答えました。 私もお坊さんの修行は過酷だけど本当にお坊さんになりたいのって聞いたらなりたいと言い切りました。近いうちに返事しないといけないんですが、ハスノハのお坊さまに聞いてからじゃないと返事が出来ないと思い質問しました。 後平日お昼のバイキングに毎週木曜日にお坊さま出てましたが今は出てないんですね。ハスノハのお坊さまも出られてた事がありました。 お坊さんになるために私から親戚の子にアドバイスした方がいいのでしょうか❓それともお坊さまからの返事をそのまま伝えたい方がいいのでしょうか❓よろしくお願いします
私はいつか、お坊さんのように、困っている人の相談を聞いたり、助けてあげられる人になりたいと思っています。皆さんはどのような経緯でお坊さんになられたのでしょうか。 また、そう言う人になるには、どのようなことを心がけて生きていけば良いのでしょうか。 他にも、お坊さんといえば男性のイメージが強いですが、女性でもお坊さんになることができるのでしょうか。 教えていただけると嬉しいです。
はじめまして。 何年か前に結婚したのですが、私の実家は浄土真宗だったのですが、嫁いだ先は曹洞宗でした。 私の地元が浄土真宗と縁のある場所だったこともあり、個人的には浄土真宗に親しみを感じていました。 ここで質問なのですが、結婚したらやはり、改宗するのが一般的なのですかね。 義祖母のお葬式の際にお経も全く違い、もし私のお葬式で曹洞宗のお坊さんだったら違和感があるな。と思ってしまいました。 年齢的にも考えるにはまだ早い気もするのですが、義父義母の手前、私だけ浄土真宗で。というのも申し訳ないし普通はどうなんだろうと思っております。 ご回答のほどお願いします。
先日は、大変お世話になりました。 今日は、私の煩悩の1つでもあると思うのですが… 一歩を踏み出す前によく調べるとか、失敗しないための努力をするとか、あまり考えることができないままに答えや結果を出して、はじめてそこでやっと、これじゃいけないんだと思ったり、気付いたり。もうこのときには遅すぎるんですよね…。こんな私が前もって変われる方法はありますか?ありましたら、お教えして頂けたら幸いです。宜しくお願い致します。
40代独身で、500件ほどの檀家がいる田舎の寺の住職をしております。 近所の住職死亡後、やり手のない寺を数件、兼務しており、合わせると500件ほどになります。 もともと別の自宅住まいでサラリーマンをしてましたが、途中親が病気にかかり、長男で跡取りだった私に、やってくれと親から頼まれて継いだのがきっかけで、仕事を辞めて継いだのですが、もともと私は他人とコミュニケーションを取るのが苦手なので、現在寺の檀家との関りが大変で、葬式が入る都度、寺の仕事が嫌でたまりません。 そのような状態で、精神科に通院しながら、精神安定薬と睡眠薬を処方してもらいながらなんとか寺の仕事をしてます。独身の姉にも協力してもらい、私が檀家の対応全般、姉は裏で火事全般しながらどうしてもの時だけ檀家の対応・・・みたいな感じでやってます。 近所に檀家100件にも満たない兼業住職がおり、結婚してますが子供に恵まれなかったようで、私はその寺のほうるいという立場になってます。 その寺の行事を手伝っているのは私だけで、ほかにもほうるい住職が数名いますが、書類の名前だけで、何かあっても一切かかわりたくないような状態になってます。 その住職が近々危なく、後もいない状態で、その住職の兄弟などの身内はいても、皆仕事をしており、寺なんかやりたくないと皆いっております。 今後その住職はなくなった際は、ほうるいの私がその寺を兼務として引き受けないといけないのでしょうか? 今現在500件ほどの檀家の対応を私と姉で行っており、相当きつく、これ以上ほかの住職がやってる寺の檀家のめんどうまで見れません。 正直な話、もう今なんとかやってる自分の寺の檀家の対応だけでも相当大変なので、これ以上ほかの寺の檀家まで兼務で押し付けられたくなく、関わり合いになりたくありません。 こういった場合、今後その住職がなくなった際、その寺の兼務を断ることは可能でしょうか? 本山に事情を説明し、頼めばだれか代わりの住職を派遣してもらい、後を継いでやってもらうことはできるのでしょうか?
うちには、小さいお地蔵様が置いてあります。父の兄が約80年前に、4歳で亡くなった時のもののようです。 父は亡くなりましたので、お地蔵さんをお焚き上げ出来るところがないか調べていますが、お寺との縁がない為、どこで頼めば良いのかわかりません。 魂が入っていると思うので、簡単には捨てられないと思います。どうすればよいですか?
一昨年 父が亡くなり、父の希望で献体しました。 先週大学病院から連絡があり来年の2月頃に火葬式をやる旨の連絡をいただきました。 父は病院で亡くなり、そのまま大学病院へ行ってしまったので葬儀をしていません。 東京から沖縄に移住してきているので近くに身内がいないため葬儀をするにも参列者がいません。なので可能であればお寺でお経をあげていただくというような供養ができないかと思っています。参加者が3名くらいでも、そのような事はやっていただけるのでしょうか。 葬儀会社に相談したら自宅にお坊さんを呼んでお経をあげていただいたらと提案されたのですが、そのようなスペースを設けることが出来ないので悩んでいます。
お付き合いしている方がいます。彼の家庭はキリスト教徒で特に母親が敬虔な方です。一方、私の家庭は仏教徒。同じく母親が熱心に信仰しています。 彼自身は、「子どもの頃は信じていた」「子どもの頃みたいには信じていないけど、神社やお寺には手を合わせたくはないかな」と言っています。 私は、父を幼少期になくしており、私達家族にとっては、仏壇に手を合わせることは父を想うことに直結しています。特に母はその思いが強く感じます。このことは、彼にもシェアしています。 彼とは幼馴染で、家族のこともある程度知っていて、交際前からフランクに何でも聞き合える関係です。しかし、宗教については、センシティブなことなので、どこまで聞いてもいいのか、怖くてこれ以上踏み込んで聞けない自分がいます。 年齢的にも、結婚も考える歳です。お互い信仰心の強い家庭で育ったことは、お互いの信仰心を理解できることに繋がるのではないかと思っています。 一方で、これから、どこまで宗教が違うことが障害になるのか不安です。年を取って旅立った時、同じお墓に入れないのかな、空の上では会えないのかなと思うと悲しい気持ちになります。 異宗教間の結婚は、どんな問題が待ち受けているのでしょうか。解決の糸口はあるのでしょうか。愛していても離れる決断をするほうが幸せなこともあるのでしょうか。。
私は仏教系の学校に通っておりまして学校でいただいたブレスレットのように常につけておける数珠を常につけているのですがその一つが欠けていました そういうものがかけるというのは何かの予兆とかいろいろ聞いたことがありますがどうなんでしょうか? また、高校時代も同じ数珠をもらっていたのでそれを最近引き出しから見つけ2つ数珠をつけていたのですが数珠は1つにしておくべきでしょうか