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初めてお世話になります。 私は動物(虫や貝、ミジンコなども)が好きで、彼らの命は例外なく尊く、人間と同様に重いものだと考えています。 しかし、子供の頃はその重さを分かっていませんでした。 小学校2〜3年生くらいの頃、同級生と一緒に通学路の途中にあったアリの巣を潰そうとしたり、アリに残酷なことをして命を奪ってしまいました。 自分のした事を考えると胸がズキリと痛み、とても後悔しています。 一時は「自分は幸せになってはいけないのではないか」、「地獄に落ちるのではないか」という考えが頭を巡り、何をしていても心が苦しい状態でした。 ある時ネットで、 「幼少期に虫を死なせてしまうことは、命や死についての理解につながる」 という記事を見つけました。 確かに自分が命を尊く思えるようになったのは、過去のそうした経験が影響していることは否定できません。 人間が罪深い生き物であることを受け入れることは出来ましたが、それでもやはり虫達への罪悪感があり、本当に申し訳ない気持ちです…。 今は無益な殺生は当然として、蚊やゴキブリといった虫達も殺めずに、可能なら外に逃してあげるようにしています(害虫の駆除はやむを得ないのかもしれせんが、出来る限り殺生を避けたいので…)。 食事も間接的な殺生と聞きますので、いつも感謝を忘れないようにと自分に言い聞かせています。 長くなってしまいましたが、私が相談させていただきたいことは罪の懺悔についてです。 最近になって「懺悔文」というお経を知り、これを唱えたり、命を奪ってしまった全ての生き物達へ謝罪を込めて、ご冥福をお祈りをしているのですが、 年月が経過した今でも、この気持ちは神様を通じて虫達の御霊へと届いているでしょうか? そのことがどうにも心につかえています。 何卒、お言葉をいただけましたら幸いです。
先月母が亡くなりました。 父から葬儀の事に関して、丸投げされていたので、私が葬儀屋さんに電話し、喪主を勤めました。 葬儀屋さんと打ち合わせ中に、お寺のお坊さんがいつ葬儀に来てくれるか電話するように言われました。 お坊さんに電話したら、“枕行に行きたい“と言われました。 今朝母が亡くなった事で気持ちが動転していて、葬儀屋さんとプランの話し中だったことで、また後で電話すると言って電話を切りましたが、私は電話をするのをすっかり忘れていました。 それから2〜3時間後にお坊さんから連絡があり、お坊さんを怒らせてしまいました。 母の戒名を考えるために明日、寺に来るのかと言われましたが、私は逆ギレしてしまい、上から目線だとお坊さんに言ってしまいました。 うちにはお金も無いと伝えました。 私のほうからお坊さんに用事があって電話したのに、逆ギレしてしまうほど、まともでは無く、冷静ではありませんした。 葬儀の日に待合室で、“待てど暮らせど電話がなかった。自分から連絡してきて、あの態度は何だ。枕行をやらなかったのは初めてだ。“ともっともな事を言っていました。 今日は母の49日でした。 お経を詠んでもらい、お話しを聞いていましたが、お坊さんは私とは目を合わせませんでした。 お話が終わると、お坊さんさんは烈火の如く怒り始めました。 “何故遺骨を持ってこない?こんな事は初めてだ。“ “何故49日の打ち合わせに来ない?今日は来ないかと思っていた“ “枕行をやらなかったのは初めてだ“ “お父さんは萎縮してしまって、あなたに何も言えない“ “自分のやりたい事だけをやって、周りに迷惑をかけている“ “枕行しに行きましょうかと言った日は、もっと若い女性が悩んでいるのかと思ったら、36歳だったなんて!“ “あなたがした事で、お父さんは謝っているのを知っているか?“ “葬儀の時にお布施5万、御膳料5千円、御車代5千円の6万だったけど、0が一個足りねぇよ“ と親族の目の前で言われました。 お坊さんの大きな声で何故何故といわれて私は何も言い返すことができませんでした。 私の実家はこの先墓じまいになります。 母の遺骨はそこには入れたくありません。 お骨は私の家にあります。 来年の一周忌、3回忌、七回忌…毎回このお坊さんに会うと考えると気が重くなります。
いつもお世話になっています。 相談なのですが、私の実家の敷地にはお稲荷様のお宮があり、 家には江戸時代から伝わると言う木札も保管されています。 木札には「天保○○年 正一位稲荷 松本○○(字がかすれているが、 人名らしい文字)」が書かれており、どこの神社から分祀されたものか わからないし、松本ナニガシ氏がどこの誰かもわからないので、 今となっては出所は不明です。 しかし父親や祖母は熱心に拝んでおり、氏神様の縁日には 明らかにわが家以外の人からと思われる一円玉や五円玉も置かれます。 手を合わせて拝んでくれる人が居る限り、神様もそこにいるのかな、 と最近考えており、せっかくのご縁でもあり、わが家の守り神として 大切にしたいなと考えている所です。 私も休日、散歩やジョギングの際にはお宮に立ち寄るのですが、 お稲荷様は神道、仏教、どちらの流儀で拝めばいいのでしょうか? 神道式にニ礼二拍手一礼すべきか、仏教式にご真言を唱え 「南無稲荷大明神」と唱えるべきか、いつも迷ってしまいます。 また私は日常的に般若心経、観音経偈文、光明真言、 ご宝号(南無大師遍照金剛)等をお唱えしているのですが、 個人的にご縁のある尊格(如意輪観音様や十一面観音様等)の 縁日には、それぞれのご真言もお唱えしています。 お稲荷様で言えば午の日に真言「おんきりかくそわか」なのですが、 土地神様と言う性質上、お宮やお札の前で手を合わせた方が 良いのでしょうか?いや、そもそもご真言がある時点で仏教の尊格だし・・・ うーん、考えてもよく解りません。 お寺にも神仏習交の名残で敷地内にお稲荷様のお宮があったり しますよね。どのように拝むものなのでしょうか? アドバイス頂ければ幸いです。
はじめまして。いつも参考にさせていただいております。 去年大好きな主人が急に35歳の若さで他界しました。かなしくてつらい一年でした。12月で一周忌です。 そんな主人と義両親と折り合いは結婚当初から悪かったです。そんななかコロナになりそして急にいなくなってしまった。しばらく会ってもなくきっと連絡もしていなかった元気だから連絡がないと思っていた息子がいなくなるという状況をかんがえるときっと私には想像できない悲しみなのだとおもいます お葬儀など協力してとかお互いに悲しみを訳あってというかんじでもなくただただよくわからないまま過ぎしてしまいました。四十九日までの間に義実家に心が少しでも落ち着くなら分骨やお手元供養はいかがでしょうか?と提案したところうちが息子をおきたくないとおもっているのか?と怒られました。 私のいい方も悪かったんだろうと反省はしておりますが気持ちが伝わらずとてもかなしかったです。 四十九日の法要の後その場で子供たちのまえで「息子がかわいそうだからもぅ返して欲しい」とそこは子供たちがこの四十九日までにパパのお骨やお仏壇に声をかけそこにパパがいるかのように生活をしてきているので全部はあげられないと申し上げました。そしたら過去の怨み辛みをというか私の悪口を永遠といわれ修羅場でした。みるにみかねた私の兄が一度冷静にと後日改めて話し合いましょうということになりましたが双方の体調やきもちちが不安定だったりとなかなか話し合いの日をもうけられずで今日にいたります。 新盆もお寺の合同供養会に私と子供たちで参加させていただきました。 これからの法要を義実家とともにすみ意味はあるのでしょうか? 顔をあわせても必要な要件しか話をしません。楽しく故人のはなしをするわけでもなくただただ別々にお経をきいているだけです。 お骨のはなしももちろんしなければなりません。 義実家の気持ちがわかりませんし一緒に法要をしたくありません。 それでも主人は一緒にしてほしいと願っているのでしょうか? 生前主人はもし俺が先立ったら義実家とは離縁していいからねといってましたがどうなんでしょうか
「仏教の目的」とは「輪廻転生からの解脱」ですが、阿含経によれば、それだけと言う大変厳しい教えです。 従って、この説教は釈尊の予言通り、没後500年で滅亡したようです。 自己否定の説教では誰も就いていけなかったのでしょう。 現代の仏教は四苦ではなく多くは「老病死」の三苦となっていますが、滅亡した仏教では「生」が最大の問題です。 以下順を追って経典を眺めて見ます。 阿含経典 縁 (南伝 相応部経典 12.20. 縁 ) 前略 「比丘たちよ、縁起とはなんであろうか。生によって老死がある、という。このことは如来が世に出ようとも、また出まいとも、定まっているものである。」(以下略) (私見) ここで「縁起」とは「生老病死」の四苦を言い、しかもそれは仏教とは関係のない、自然の摂理であると断定しています。 自然の摂理ですから、仏教はそれを救うことは出来ないと言う意味に取れます。 生まれたら苦しみを逃れるにはひたすら死を待つだけです。死ねば四苦から解放されます。 死後が無ければ、それですべて解決しますが、身体(色)は死んでも心(受想行識)は同時には死なないようです。身体は構造が複雑ですから故障しがちですが、心はその構造もわからず、臨死体験から想像すると多分空気のように軽いでしょうから、死ぬ要素が無いのでしょう。だから仏教では「死」を死と言わず「往生」と言っています。 従って仏教の救いは死後にあると言いうことになりますが、四苦が無いですから、仏教の出番は無い筈です。 多分前世に残った欲の記憶が、再び生へのあこがれになるのでないかと思います。 これは人間に限らずすべての動物に共通の営みでしょう。 これ等を生前に理解して実践し、再び出生しないよう救うのが滅亡した仏教です。
いつもお世話になっております。動画サイトで私の好きな、 リテラシーの啓発にも取り組んでいる、少しだけ破天荒な 科学者さんのチャンネルの動画を観ていたら、宗派名こそ 出しませんでしたが、 「この世はクソだから、自分たちは神様的な存在に祈って、天国 的な場所に生まれ変われる特別な存在だと思い込んでいる、 選民思想的な陰謀論者。つまり、異世界転生を本気で信じている んですよね」 と出演者さんが言っていました。遠回しに浄土宗のことを言って いるとすぐにわかりました。ショックでしたが、頷かざるを 得ませんでした。 前後編に分かれた、陰謀論に対する注意喚起の動画の、前編の セリフです。後編では、 「誰からも認められない人が陰謀論者になるのです。認めてくれる 人を見つけましょう。極論、人間ではなく、天の神様でもいい」 とフォローしてくださっていました。 なぜ浄土宗だと分かったのかというと、実際に、浄土宗の 寺院でたくさんそのような考えの人を見、浄土宗公式の チャンネルの法話でも、 「この世は苦しいことしかない、だから阿弥陀様に祈って、 極楽浄土に行きましょう」 ということしか言っていないからです。 お寺は本山でした。そこでお説教をしている布教師と、聴聞に 来ている信者は皆、 「他の宗派はろくでなし」 「他の仏や経、真言には利益がない」 「この世は汚いから、念仏だけして、お迎えを待つ」 などという考え方でした。怠惰な人たちだなあという印象でした。 これでは、誤解されても仕方がないよな、とも思います。 しかし、hasunohaでたくさんの(浄土宗含む)お坊様と 出会ううち、 「本山の人たちの言う事は、間違った暴論では?」 と思うようになりました。 確かに、この世は思うようにならないことだらけ…「苦」 だらけだと私も思います。 しかし、「死」や「苦」を意識し、世のため人のため、 「利他」行や「布施」行に、あらゆる形で全力で励み生きるのが、 仏教ではないか。そう考えるようになりました。 だとすると、「厭離穢土、欣求浄土」という考えは?先ほどの、 「この世はクソだから…」という思想になってしまうのでしょうか? それとも、「この世を浄土にする勢いで」努め励もう、という ことでしょうか? 浄土宗は、選民的な厭世主義なのですか?ご高見を賜りたく 存じます。
見つけてくださってありがとうございます。 うちは臨済宗妙心寺派です。 6月に父が仏様に召されました。毎朝,般若心経を読んで仏壇に手を合わせます。(時々寝坊します。寝坊した時は「ごめん!行く!」とお線香とおりんを鳴らしてお経はカットしてます。色々申し訳ないです) 悲しみも後悔もいっぱいありますが,自分にできる範囲のことをして,少しずつ心を静かになるようにしています。 問題はここからです。 「@@(父の名前)だけずるい」 と子どもから大人まで,各種時代の人(Max古くて江戸後期?だと思います)がどうも父を羨んでいるようです。 父を羨んでいる人たちはどんな生き方をしたか,死に方をしたかなど頭の中にふわぁっと流して,私に教えてくれます。 その人たちに,「僕たち,私たちは忘れられたの?」と言われました。 恥ずかしながら父方の家の方は,法事はショートカットするようで,御墓参りもしないようです。父の兄も新興宗教に入ってしまい,仏壇がオブジェ状態です。そのため,亡くなった人に「私こういう人!」と教えてもらわないと誰が誰だかわからないし,その人が私たちどんな繋がり方かわからないのです。祖父母もあんまり先祖については聞いても教えてくれないので,聞くに聞けない状態です。たまに自称先祖の人もいるので,教えてくれる人の話を全部が全部鵜呑みにできない状態です。(なんとなく「あ,この人人間違いしてるかも?」と思う時があります) 正直,私も父方の祖父母の家には怖くて行けず先祖に手を合わせるのができません。また,お墓はもっと怖い(荒れ果てすぎててお地蔵様にも申し訳ないです)ので,家の仏様に手を合わせるのが精一杯です。 私が直接そんなひどい状態にしてしまったわけではないですが,ご先祖様とお墓のお地蔵様に申し訳なくて・・・。 ただ,「ごめんなさい」としか言えない自分に無力感を覚えます。 たくさんの人がどんな生き方をしたか教えてくれるたびに,人間ってすごいな,と思ったり,生き方に尊敬するところもあります。時々私を見ていてくれるようで,「見てるよ」と言われるたびに照れくさく,少しありがたいな,と思います。 どのようにしたら,父を羨むことなく心安らかにご先祖様がたはいられるでしょうか。また,お墓のお地蔵様に申し訳ない旨をお伝えしたいのですが,どのようにすればよいでしょうか。お墓に行く勇気がないです。
12年間連れ添った猫が病気で亡くなり、もうすぐ四十九日を迎えます。 今年の初めに結石で開腹手術をして、せっかく助かった命が夏に体調を崩し、リンパ腫と診断されました。できる限りのことをしてやるつもりでしたが気性の荒い子で医者から抗がん剤治療はこの子には負担が凄く逆効果と言われ、苦しい延命より食べるのが大好きなので食べれるうちにおいしいものを沢山食べさせてやらないかと言われ納得しました。言われていることが理解できたし、本当にこの子が亡くなるのかと信じれない気持ちも大きく実感できなかったので抗がん剤治療はやめてステロイドのみの生活にしました。 大した治療もできなく、判明してから約1か月半でこの世を去りました。呼吸ができなく最後はかなり苦しみながら亡くなりました。 亡くなる前はいわゆる最後のお別れをしに来てくれたのですがそれが挨拶とも気付いてやることもできずに、油断した時に苦しみもがいて亡くなりました。 こんなに早くなくなるとも思わなかったし、美味しいものもまだそんなに食べさせてやれてないのに、もっと食べさせたいものあったのに後悔しています。 しんどくて食欲が落ちた時に、無理やり食べさせたり、少しでも食べてほしくて頑張ったけど食べてくれなかったのが悔しくて思わずイライラして軽くだけど叩いてしまったこともあり後悔しています。 先生の言うことを無視して抗がん剤治療をお願いしたり、ほかの病院に行っていたらまだ生きてくれてたかもと後悔しています。 たぶん何をどうしたところで全て後悔するのも分かっていますが猫が亡くなったのがとても悲しくて悔しいです。 あの日から毎日一人になると悲しくて悔しくてずっと泣いています。亡くなった時間には御骨の前でグジグジと毎日の報告や生かしてやれなかったことを謝っています。こんなにグジグジしてこの子は成仏できますか?私の悲しみはまだ収まりそうもありませんし泣かない自信もありません。 この子の代わりにとクリスタルの位牌も作りましたが田舎なので猫にお経をあげてくれるところもたぶんないです。位牌に猫の魂を入れたいのですが私の気持ちの思いで入ってくれますか? 長々すみませんでした。
初めて相談させていただきます。 誰にも相談できないことで、お話させてください。 3日前に、お迎えして3年になるペットの小動物を亡くしました。 前日の深夜は元気な様子で変わりなく、私におやつの催促をしていましたが 朝ぐったりした様子ですぐに病院に行くと、お腹全体にガスがたまって痛みを伴う「鬱滞」だと診断されました。 入院の準備をしたその日の夕方に息を引き取りました。 鬱滞は極度のストレスからなってしまうもので、私には心当たりがありました。 毎日だいたい同じ時間にケージから出して1時間ほど遊ばせるのですが、亡くなる2週間前から私は仕事で疲れてるとか面倒臭い気持ちで自分の都合で餌と水だけ交換して1日、2日続けてケージから出して遊ばせないということを繰り返してしまいました。 朝には出してあげるから、別の日に遊ばせてあげるから大丈夫、と不規則な生活をさせてしまい、ケージから私を何度も呼ぶ声を無視して寝てしまいました。 病気がちな子でもなく、年齢もまだ若い子だったのでそれが直接の原因だと思います。 そんなに強いストレスを伴うほどあの子にとって日々の楽しみだったと今になって気づいて、相手をしてあげなかった自分に対して強い怒りを覚えます。 ストレスに弱い動物だと言うこともわかっていたのに私の勝手な行いで死なせてしまったことに強い後悔と悲しみが残ります。 10年以上一緒に生きるはずでした。こんなに早いお別れになってしまうなんて思っていませんでした。 昨日葬儀をしてお経を唱えていただき、自宅供養を選びました。 つい部屋の中で空に向かって合図をして名前を呼んだり、ずっとごめんなさいと謝り続けていて涙が止まりません。 こんな自分勝手な私は、今後楽しいことをしたり幸せになってはいけないと思います。 私のところには、あの子は嫌がって戻ってきてくれないだろうなとも思います。 後追いも考えましたが、もう1匹飼ってる子はまだ生きているので、その子のことを考えると実行できません。 食欲も気力もなく、ただただ苦しくて悲しくて、後悔しています。
お世話になっております。以前、「実家の過去帳に載っていない方がいました」という内容の相談をさせて頂きました、千美と申します。その節は本当にありがとうございました。 前回も少し触れましたが、私の実父は所謂モラハラ気質の強い父でした。児童虐待に厳しい現代ならば、確実に通報されていたと思います。 しかし、今年の初め、その父と口論になりました。今現在跡取りがおらずに事実上放置されている父の実家の御仏壇やお墓(菩提寺様にお金だけは振込で支払っているようです。)の事で大喧嘩しました。そのまま御仏壇と代々のお墓を守るにせよ、永代供養をお願いするにせよ、立場上父以外にできる者がいないにも関わらず、何もしてきませんでした。 幼い私なら、父が怖いので見て見ぬふりをしたでしょう。 しかし、あの御仏壇やお墓にはたくさんの御先祖様、無論その中には私を可愛がってくれた祖父母や伯父もいます。 見過ごせず、やんわりとどうするつもりなのか訊ねたところ、「○○(実家)家の先祖をバカにするのか!お前は黙っていろ!」と、仏壇は埃だらけ、墓参りすらしていない父に言い返され口論となりました。 しかし、「先祖先祖と言うわりには、先祖がどんな人か教えてくれなかったじゃないか」と気が付き、一念発起。 戸籍謄本を遡り、事情を知る菩提寺様のお力添えもあり、今度こそ、御先祖様が誰一人抜けていない過去帳を作る事ができました。全て私が書き上げ、菩提寺様にお願いして過去帳から抜けていた方々を含め、実家の御先祖様の追善供養のお経をあげて頂きました。 その後、この件に賛同してくれた母経由で、空き家かつゴミ屋敷同然の父の実家では無く、両親の住む私の実家に預けました。元々、実家には御仏壇こそありませんが、亡き祖父母などにお参りするスペースがありましたので、そこに安置されています。 以前、回答をしてくださったご住職様の仰っていた通り、確かに父はかなりムスッとした態度でした。 しかし、私も後に知りましたが、実は父の実家の過去帳原本が、約20年間所在不明で、最近父も探したそうですが見つからず、諦めていたようです。 そのような経緯があったからか、今や父も母や私へのモラハラが徐々に減り、今では随分丸くなりました。 あまりの変わりように、いつも通り対応しつつも内心戸惑っております。どのように受け止めたら良いのでしょうか。
初めまして。先日母が亡くなりました。母の弟は創価 学会で、母は学会に入ってませんが、小さな手のひらサイズのご本尊をお借りしていつも南無妙法蓮華経と手をあわせていました。ご本尊は母の弟に返しました。 今回葬式をするのに、私の父も弟も私も、無宗派なので母の弟に色々お願いしました。学会の葬式を初めて見たので、お坊様がいないこと、学会の方が普通にスーツでお経を唱えられたこと、戒名がもらえないこと、等を知りました。母の死に私達家族3人は余裕がなく、任せてしまったのですが、 私達が勉強不足だったと反省です。 しかし四十九日にもまた母の弟にお願いするのか、父は位牌に俗名でなく戒名がいいからどこかお寺を決めてお坊様にお願いしたいと言ってます。学会に入っていないけど、母は南無妙法蓮華経といつも唱えていたのであれば、日蓮のお寺にお願いしても間違いではないでしょうか?学会との関係がよくわからないのですが、さすがに母の弟には聞けず悩むところです。仏壇も家が狭いので小さいのを置きたいのですが、仏壇屋さんに、本尊を選ぶ為に宗派を決めて来て下さいと言われました。 それと私と弟は結婚してますが子供はいません。なので私達の代で終わってしまう為に、永代供養墓を考えています。しかし親が10年以上前に墓の土地だけ買ってます。父は土地手放してもいいし、好きにしていいと言ってますが、母はきっとそこにお墓を建ててもらうつもりでいただろうなーと思うと悩みます。 初めての事ばかりだし、周りに相談する人もいなくて、こちらに相談させて頂きました。色々無知で申し訳ありません。母は色々知ってて頼りになる人だったのに、その母がいなくなり私達家族は無知ばかり残って情けないです。母にはきちんとした供養をしたいので何卒アドバイスお願い致します。
主人は新興宗教でした。私は浄土真宗です。 両親は、離婚し、私の姉も離婚しています。 主人は私の苗字になっていますが、墓は、主人の父のところに入っています。(○○家、とは入ってません) 葬式?は新興宗教のやり方でして、その後の供養は私はその会には行きたくないので行かず、特にお経もあげていません。毎日の線香、お水、毎月の墓参りはしてます。仏壇は返して新しく買ったけど、本尊?はその宗教のものです。夫の一家は(おそらくかなり前から)新興宗教であり、その会?には行っているとの事。 先日、和尚さんのお悩み相談会(モールのイベント)で、『新興宗教で主人方が続いているなら、主人の家の先祖供養が出来ていない。元の宗派を探して、先祖供養をしてもらうほうがいい。ご主人の思いを大切にしたのだろうが、新興宗教では供養できない。墓も名前が変わっているのに、その墓に入るのはおかしい。両親の両親からのいざこざや離婚のこともあり、因縁がある。このままでは、子供で家が断絶してしまう。仏壇も変えて(私の名前に変わっているのだから)浄土真宗のご本尊様をまつるべきで、浄土真宗で供養してもらうべき。』 というような事を言われました。 私は主人に対して懺悔の気持ちが強くあり、主人が信じたことを大切にしたいと思います。が、私は新興宗教を信じる気にはなれません。 形ある、供養をしたい気持ちもありますが、新興宗教では、できません。私は信者ではないので。(母方父方共に、しっかりと色々としていたのを見てたのもある) お墓は、義母が亡くなったら、その2人は新興宗教のお墓に入れるつもりです。 法要、墓、仏壇、日々の供養、私はどうしたらいいのでしょうか。 主人が、一番望む事をできる範囲でしたつもりでしたがどうしたら、一番いいのでしょうか。子どもに何かあるのは困ります。 どうぞよきアドバイスをお願い致します。
はじめまして。 何処へ相談してよいのか分からず色々調べている中こちらに辿り着きました。 先日父が亡くなりました。 父とは幼い頃両親が離婚をして以来子供の頃は数える程しか会っていなく、また父は実の両親からも絶縁されていました。 私と姉は唯一父が連絡を取れる相手であったと思いますが、私達も結婚をし家庭を持つ中で色々複雑な心境もあり自ら連絡を取ることはせずにこの約10年きていましたが去年福祉の方から突然父が危篤状態にあると連絡を受けました。そして父が癌を患い独りで闘病生活をずっとしてきた事も知りました。 危篤状態から1年以上も生きていてくれましたがとうとう先日なくなってしまいました。父の両親のお墓には入れてもらえず、私が姉と出来るのは火葬を見守り骨を拾ってあげる事です。その後姉が一度骨を自宅保管するのですが、本当にそれでよいのか不安です。 ①直葬後、お墓もないので家に保管する事 ②49日過ぎてもその状態で大丈夫か。 ③お坊さんにお経を一度も唱えてもらえず成仏できるのか。 ④父に出来ることがあるとすれば何? 長々とすみません。 父が亡くなってしまった事は悲しいです。でもそれ以上に父が父の両親にさえ愛されず1人で生きてきた人生が可愛そうで仕方ありません。 生前決して行いのよい人生を送ってきた父ではありませんが私は父が痛み、寂しさから解放されて安らかに眠り成仏しまた生まれ変わって今度はたくさんの愛に恵まれる人生を送ってほしいと願います。どうかアドバイスを下さい。
2/4に実父が亡くなりました。35年前に母と離婚をしており私もその際、母方に。 今現在、父の血の繋がりでは、娘の私のほか、父の妹2人(76.78才)と、異母兄妹が3人います。父は、2年前脳梗塞で倒れてからは寝たきりとなり、生活保護を受給しながら施設におりました。 私は海外在住ですが、実父が亡くなる時ちょうど名古屋におり、お見送りができました。葬儀は市が設けて下さりましたが、宗派を問われ、あわてて父方の静岡にあるお墓の菩提寺を調べ、名古屋の曹洞宗のお坊さんを呼んでいただきお経をあげていただきました。遺骨はしばらく葬儀所に預かっていただき、納骨は私がまた日本に帰国した際に、静岡の菩提寺へと思っていましたが。。 確認のために、菩提寺に葬儀後にご連絡をしましたら、もう一度葬儀(戒名式)をしないと納骨はできないと言われてしまいました。ただ、もう一度お葬式をあげ、納骨をしても、父方ご先祖様のお墓をこれから引き継ぎお守りする人がいなく、どうしたらよいものか悩んでます。 しかも、菩提寺でもう一度葬儀(戒名式)をして、納骨するにしても100万、先祖代々を永代供養するとしたら、もう何百万とか言われてしまい、あまりの金額に途方にくれています。 ただ、葬儀に来ていただいた、名古屋の曹洞宗のお寺さんでは、合同墓地ですが、永代供養に10-15万と、こちらは私でも出費できる金額でした。 代々続くご先祖様のお墓に納骨するには莫大なお金がかかりますが、やはり菩提寺へ納骨してあげるべきでしょうか。お墓を引きつぎ見守りする人もいないので、それを放置するのも心配ですが、、先行くお金もなく、どうしたら父を供養できるのか、混乱してます。 よきアドバイスいただけたら幸いです。
今月流産しました。 供養に行くまでは哀しみや苦しみで眠れず つらくて人に会いたくなかったです。 供養の日、お経の中で表白があり、 朝に生まれ夕に死するは〜とかつぼみで 散った命とか父の慈しみ母の哀しみなどの 聞き取れる文がありそこにすごく励まされました。それから、悲しむだけの出来事にしては いけないと感じました。人には寿命があり あの子は数週間の命でした。私たちも自分が いつ死ぬかはわかりません。 ただ私たちと同じようにあの子は自分の命を 最後まで全力で生きてくれたから妊娠した という事実があり、希望や願いがあったから 今の悲しみがあるのかなと思いました。 あの子が存在したから悲しさがあると思うと それすらも愛おしく悲しみよりも頑張ったな! だからこそ会いたかったなと愛しさや切なさが 込み上げてきます。場所は違うけどこれからも 私たちのなかで共に生きるのです。でも 術後1週間で私はどこか晴れやかな気分で 泣くこともなく私は綺麗事を並べているだけで流産した悲しみを感じていないのかなとどこかで思います。私がこうしていられるのはあの子も それを望んでいて背中を押してくれていると 思っていましたが本当は悲しいのでしょうか? 立ち直ったり忘れたのではなくあの子が 精一杯生きてくれた事実を必死で受け入れようと しているつもりですが、他のお母さんはもっと 悲しんでゆっくり前を向こうとされてて。 私はどこか冷たいのかなと思ってしまいます。 今年主人は25歳で本厄です。 でも流産のことは厄のせいでなく、私の中 では悪いことでお祓いするようなことでも ないのです。心配性なので本厄など怖くて 前の私なら不幸が起こると騒いでいたと 思いますが流産して命の儚さを学び、 命の大切さや感謝を心から感じました。 毎日当たり前のように過ぎていた日常も ありがたくもっと幸せに感じられるように なったのもあの子のおかげです。 想像できることは気をつけたり、日々の生活も 注意したり、当たり前を見つめ直して感謝 したり、厄年じゃなくても普段からするべき ことなのかなと。1番身近に感じた命を失って 私の中で全てが変わり当たり前がなくなり、 衝撃的な出来事でした。 性格が変わってしまったような感覚で 今の考え方は冷たいのか綺麗事なのか。 変わり過ぎた自分に戸惑っています。 回答できるだけ多くお待ちしています。
先日5人兄弟の三番目の兄が自殺しました。 生前兄弟と長年の借金トラブルの末の自殺でした。 私は5人兄弟の末で女一人、現在は結婚し家をでております。現在田舎の実家には四男が残り家の墓守りをしてますが、墓は長男が建てました。 亡くなった兄には前妻との間に男女二人の子供がいる為、私たち兄弟は子供たちに全てを委任する事にした結果、子供たちは、遠方の為葬儀に来ない!無縁仏にすると言う選択をしました。 それにはいろんな背景があります。 当初子供たちは田舎の墓に入れて欲しいでしたが、兄たちが難色を示し、特に田舎の兄(四男)子供たちで引き取るべき!と言い、その交渉と段取りは全て私を通じての話でした。 その際に私も子供へいろんな背景のあった事や、長男の墓である事、兄が拒否してる事等言ってしまい、それで来ないでお願いしますは都合がよすぎる!と取られても仕方ない!というような事まで言いました。 極めつけは葬儀屋さんとの交渉で、いい死に方をしてない、皆から疎まれる負の遺骨ですよ!こういうのは後々、障りがあったり良いことはないから、ここできっぱりと切った方がいいのでは?と言われたそうです。 私は値段の交渉も全て子供たちにさせましたので、私たちに遠慮したのと、何よりお墓にいれた事で親族に何かあると思うと耐えられないと思ったようです。 子供は私に感謝してるといいますが、葬儀にくるだけでもさせてあげれば良かったと後悔してます。兄達もなんだかんだ言いながら、最終的には遺骨を田舎にお供するのがいいだろう!と考えてました。あんなに反対していた四男も今では後悔しているようです。 でも長男は子供たちの意思を尊重し、自分は納得した!といいます。本当は皆ちゃんと弔いたかったと思いますが、結果は受け入れて先に進むとの事。しかし私は全てのやり取りをした経緯で自責の念にとらわれております。無縁仏とはなりましたが、長男と私は葬儀屋さんにお願いして、火葬に立ち会い、お骨拾いまでさせて頂きました。そして私はその前に近くのお寺で事情を話し、追悼のお経をあげてもらいました。今後お骨は葬儀屋さんで四十九日まで預り、散骨となるそうです。今ならまだ間に合いますが、長男と子供たちの決意は変わりません。私の家には旦那側の仏壇があり、実家のみならず、子供のいないおじおばの位牌もまとめて見てます。今後兄の供養はどうしたらいいでしょうか?
愛猫が亡くなり、もうすぐ4カ月が経とうとしています。 私が離れがたいのと、納骨について迷っていたために、四十九日も百カ日も納骨せぬまま今に至ります。 まず、以前何かで「いつまでも死んだ猫の骨を手元に置いたり、寂しいとか思っていると成仏できずに化け猫になってしまう」という文章を見たことがあるのですが、本当でしょうか。 今でもつい「もっとこうしていれば、今も生きてくれていたかも」と後悔したり、「●●ちゃんがいなくなって寂しいね。天国から会いに来てくれるかな」と息子と話したりしてしまいます。 離れがたくて納骨していないと言っておきながら、死後しばらく経ってからはお参りもお供えも毎日はしておらず、たまにお線香をあげて手を合わせたり、食べ物や花をお供えしたりするだけです。 供養という面では、人間が仏壇にご飯やお茶をお供えするのと同じようにするほうがよいのでしょうか。 缶詰をお皿に盛って置くこともありますが「仏さんに肉や魚というのもどうなんだろう」と考えたり、もう死んでしまったのにあげても仕方ないなと虚しく感じたりしてしまいます。 私の願いは、愛猫が次生まれ変わる時まで天国でのびのびと幸せに過ごしてほしいということ。そしてもし望んでくれるならば、生まれ変わったらまた私たちとともに、今度はもっと長く幸せに暮らしてほしいということです。 ペット供養をなさっているお寺は、近くに3軒ほどあります。合同のお墓に毎日お経をあげてくださったりはしないのかもしれませんが、それでも民間業者の霊園よりはよい気がしています。 ただ、最初から合祀のみだったり、数年間個別で納骨した後に合祀だったりで、結局合祀されることに抵抗があります。 最近は人間も樹木葬などがあり、自分自身が選択するのは全然よいと思うのですが、いざ愛猫のこととなると、他の動物たちの骨とごちゃ混ぜにされるというのが受け入れがたいのです。 また、うちには幼な子がいるのですが、合祀の場合、家族でお墓参りに行った時に、元の飼い主さんにお参りしてもらえず寂しい思いをしている動物の霊たちが、子どもたちについてこないか心配です。 どのように供養するのが、愛猫にとってベストなのでしょうか。 個別でも合祀でも死んだ側には関係ないのでしょうか。 ちなみに我が家はマンションですので、埋められません。実家は庭がありますがとても離れています。
先日、舅が他界しました。 舅には大変申し訳ないですが、覚悟は出来ていたので主人と葬儀等のことを話し合っていました。 私は今、普段でも普通の40代の生活は送れておらず、休み休み生活しています。 だから応対とか無理なので最小限にさせて頂こうと決めていました。 近い親戚にも伝えてありました。 しかし舅他界→隣に住む親戚に伝える→親戚が組の人に連絡→組の人が家に集まる→(舅はあまり人づきあいがないのに)町全体に知らせる→私は家で応対 そして遺族の意思はそっちのけで通夜・葬儀は決まりました。 そしてキャパを超える人に来て頂き、食事・お菓子が足らなくなり、なぜか主人が親戚から叱られ、私は通夜の晩、一睡も出来ませんでした。こんなこと怖くて主治医の先生に言えません。 火葬場ではめまいがして倒れそうになりました。 なにより悼む暇もなく舅は骨になってしまいました(涙) 少し話はそれますが、菩提寺のご住職様に枕経に来て頂いたとき、枕経が終わって、ほぼ間もなくご住職様から「お布施は」「脇導師は4人で」とか言われたことも驚きました。 私は葬儀が不要と言っているのではありません。 むしろ大切で難病と言われた私は自分の葬儀を自分で決めて死にたいなと思っているぐらいです。 実は3月に猫を亡くした時、お経をあげて頂いたお坊さんは優しく「大丈夫ですか?良かったら(猫)ちゃんに家でも手を合わせて下さいね。きっと喜ぶから」と悲しみに寄り添って頂いたとき、人間と一緒にしてはいけないだろうけど悼み、供養していくのは遺された者のためなんだなぁとしみじみ思いました。 ただ遺族に見合った形で故人を見送ることがそんなに許されないことかと主人に言ったら、普段は温厚な主人が「葬儀はな、所詮世間体でするもんなんや!」と怒ってきました。 だから冷静に伝えておきました。「私の葬儀を世間体でしたら必ず化けて出ますから」と…。 世間体で出した葬儀で私は死にかけたんですけど…。 まっ、難病=怠け病って言う人もいるぐらいで理解され辛いので仕方ないなと思うこともありますが。 完全アウェーの状態だったので第三者の方のご意見が聞いてみたかったのです。やっぱり私が変なのでしょうか? 体だけじゃなく頭もおかしくなったのか不安なのです。 後回しで構わないのでお時間があるときに回答下さい。お願いします。
昨日は祖母の世話のことで取り乱し、母や祖母にイライラされて責められて 大変でした。 私は高野山の宝亀院で13年前得度しました。 自分で密教の勉強はしましたが観音経などをとなえることが出来る程度です。書いてあるのを見てですが。それに霊感と霊聴もさずかり将来悩める人を助ける仕事をしたいと勉強しておりますがいつのことかわかりません。 祖母から3代続く血の為か喧嘩してもまたずぐなかなおりしております。 父は私の作る糖尿料理がおいしくないと怒り自分の分だけ作れと言ってきます。小松菜にシーチキンを入れて野菜いっぱいの優しい味にしても おしたしがいいからとご飯中に「俺におくな」と言います。 母のご飯が硬いと祖母と話しただけで「お前は感謝の気持ちがない」と母に 言われます。 今に始まったことではなく物心ついた頃からほめたことがない両親に教育されて、自分の好きな勉強は出来ずにいた年頃を過ごしました。 赤ちゃんのときから祖母に子守をしてもらい祖母に愛情をもらって生きてこられました。 線維筋痛症という激しいいたみのときも、父は毎日暴言を吐くだけで 正月には酒飲んで足蹴りで、「ぶたぶたお前の顔なんかみたくない自分の部屋いけという具合です。」 母と父は一緒に仕事をしていて、私も一緒にしましたが男性の仕事でしたが 「お前は働いたうちにはいらん」と言うだけで助けてもらってありがたいと言ったことはありません。 ほぼ毎日ブログに祖母のこと両親のこと自分の闘病記などを乗せております。心の病気でコメントなどはもらってないのですが読んでくれて応援してくれる人が数人でもいるだけでありがたいなと思っております。 心穏やかに過ごせる日がありません。 外面はいいのですが、全部私に両親ははいてくるので 私はブログにしかはくことができません。 病気のためか死にたくなることがよくあります。
私は阿弥陀如来様が大好きです。 毎日救っていただくことへの感謝として念仏を唱えています。ハスノハでもたくさんの問答を見るのが楽しみです。 ところが、先日、ハスノハで真宗のお坊様が「極楽浄土があると信じていない」人への解答で、「阿弥陀如来様や浄土というのは働きのことで、実際亡くなった人が浄土という場所で生まれ変わるということではないのだろう。だから浄土とはこの世での働きのことで、死後の世界としてあるわけではないと思う」「仏様というおとぎ話を使って今生での安寧を得るのだ。だから阿弥陀如来様が実在するか否かはどうでもよい」「自分も科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」 という旨のことを仰っているのを拝見しました。一人ではなく何人かのお坊様がそういったことを仰っているのを見ました。 誤解していただきたくないのですが私はハスノハのお坊様方のことを尊敬しております。ですが少なからずショックでした。私は今生で死んだら、阿弥陀さまに迎えに来ていただいて極楽浄土に生まれ、そこで仏となる修行をできることを嬉しく思っていたからです。 また、何があっても阿弥陀如来さまがいつも一緒にいてくださることが喜びであり、心の支えです。 法話を聞いたりしていると、「阿弥陀如来様という素晴らしい仏様がいらっしゃる(=阿弥陀如来は実在する)」「死んだら極楽浄土にいき仏になる(=極楽浄土は実在する)」とお経も親鸞様もハッキリ仰っているように思います。 阿弥陀如来様や極楽浄土の存在を確信するのが、浄土真宗ではないのですか? 私が、元はキリスト教を学んでいたこともあって、阿弥陀如来様や極楽浄土への解釈が違うのではないかと不安です。 (極楽浄土と天国は、極楽浄土は阿弥陀如来様の国(他の仏様もそれぞれ浄土をもっていらっしゃる)。という違いだと理解しています) 私はこれからも阿弥陀様といつも一緒だと思っていても良いですか?