いつも御世話になっております。 ありがたいお言葉いつも拝見しております。 働くという事について質問があります。 私は昔から劣等感が強く、自分の才能ややりたい事はどこにあるんだろうと考え続けて今や30代も半ばになってしまいました。 (いろいろな事に挑戦してきましたが) 一般的に働くという事に対して2つの考え方があると思います。 ①自分に合った環境を探し続ける(青い鳥を探す的な考え方) ⓶今の環境で頑張る(おかれた場所で咲きなさい的な考え方) ①に対して、周りの人は、バカな事を言ってないで今いる環境に満足しろという事が多いですが、⓶に対しては、その通りだという意見が多いように思います。 経済的な成功がすべてではないと思いますが、成功するには努力×才能と考えています。努力だけしてもダメで、才能がある分野を探すという事が絶対的に必要だと思います。 もちろん我慢するという事はどんな成功にも必要な要素だと 思いますが、そもそもとして自分が何の興味ない、または失って しまった事を人生のほとんどを費やして行う仕事という事に対し てやり続ける事は正解なのでしょうか? 最近仕事に熱意を失っており、お坊さん方の意見をお伺いしたく 質問致しました。 ご回答いただけますと幸いです。 宜しくお願い致します
私の父方の家系は浄土宗を菩提寺としております。 一方、母方の家系は臨済宗の檀家です。 私自身は長男ということもあり、父方の家系である浄土宗との縁を続けていくことになります(それ自体に不満はありません。むしろ積極的に阿弥陀経を覚えようとしております)。 以上を踏まえまして、お伺いしたいのは以下の点です。 先日母方の家の法事に参加した折、いらっしゃったお坊様は当然ながら臨済宗の方であり、法事も臨済宗のやり方に則って行われました。 このように、自家の宗派と異なる法事や葬儀に参加した場合においては、自家の宗派のやりなれた作方で良いのでしょうか、それとも先方の家の宗派の作法を聞いて合わせるほうが良いのでしょうか。 例えばお念珠一つ取っても、形も違えば手を合わせるときに指にかける場所も違う。焼香を火の上に乗せる作法も違う。称名も、浄土宗は南無阿弥陀仏ですが、臨済宗では南無釈迦牟尼仏です。 お経はお坊さんがお唱えなさっているものを一緒にお勤めすればよいと思うのですが、それ以外のお作法は進行をスムーズに行うために慣れた方法を用いるので良いのか、それとも親族一同で作法を合わせることで統一感のある供養をするほうがよいのか、ふと疑問に思いましたのでお伺いしたい次第です。 なんともつまらぬ悩みではありますが、よろしくお願いします。
数か月前、姉がリサイクルショップで購入した数珠を使っていると相談し、気にする事はないとお言葉を頂きました。有難うございました。 一週間前に姪の次女が9か月の命を閉じました。原因不明で、朝すでに硬直が始まった状態だったそうです。姪から連絡をもらい火葬に立ち会ったのですが眠っているかのような安らかで可愛い表情をしていました。姪は4歳の長女とお腹に6か月の子供がいます。あまりにも深い悲しみから少しでも早い立ち直りを祈るしかありません。子供たちのためにも。 父の時と同じく、葬儀もお経もない火葬だけの送りでした。初七日やその他の儀式も一切する気はないようです。 父が亡くなった時、姉夫婦に「葬儀屋やお坊さんにぼったくられるだけのものだからいらないよ」と猛反対されて反論できませんでした。 でも、納骨の際はお坊さんに来てもらいましたし、月命日前後には母と二人で墓参りには行っていました。ところが、一周忌が過ぎても父の気配がすると(父が使っていたベッドをひっかく音など)母が気持ち悪がるので、姉に内緒で知り合いのお坊さんにお経をあげてもらいました。一か月程読経を続けてくださったそうです。それから、空気が軽くなったと言っていました。(一周忌にはお経はありませんでした) 幼児は穢れがないので、成仏が早いと聞きますが、このような見送りで父のように迷うことはないのでしょうか? 今私が姪のために陰ながらできることは有りますか? 小林正観さんの「ありがとうの神様」という本に{幼くして亡くなった子どもは、「神様」に近い存在。だから、悲しまなくていい}という文章を見つけ、姪に本をあげました。
以前、代々ご家族の血縁でお寺をされている長男のお坊さんとお付き合いさせて頂いておりました。 私は、小さい頃からずっと日本の文化が 好きです。行動や意味、全てに想いが詰まっていると思うからです。禅もそうだと思います。宗派や教えは違いますが、修行する意味、教えの意味、そこにある想いは一緒だと思うのです。 彼は継ぐ決心が出来ず、実家のお寺を離れて大学生をしている時に出会いました。彼のお父様にお会いした時、すごく違和感を覚えました。言葉では表しにくいのですが、冷たい…ドライな感覚です。彼もお坊さんになる決心をして、修行に行くまでの期間、その違和感に似たものが私の中でどんどん大きくなっていきました。偏見の言葉や、権力には敵わないなどの発言も多くなっていきました。お父様そっくりでした。 お別れした後、周りの方からは「私達には分からない世界だからそれは仕方ない」「私達には分からない重圧があるのだろう」と。 それが私には納得がいきません。生きていくだけで辛い事、苦しい事が沢山あります。それはお坊さん一般人関係なく平等にあるものだと思います。 お寺の世界とは、一般の世界とは違うものなのですか?今まで自分が信じてきたものが分からなくなる時があります。
母が他界しお墓を探しています。 私が未婚ですので、両親と私で3人入れる永代供養のお墓を数ヶ所見学しました。 家から無理なく通える環境の良い霊園がありましたが、曹洞宗のお寺が管理してくださっている霊園です。 父は日蓮宗てす。 その霊園は宗派問わずに受け入れ可能で、法要の際は信仰のある宗派のお坊さんを呼んでも良く、また霊園で契約している日蓮宗のお坊さんにお願いすることも出来ます。 私が生きている間は日蓮宗で法要が出来ますが、私が亡くなったら曹洞宗のお坊さんの年に一度の合同法要のみになってしまいます。 生前の母と私の考えは、特に宗派関係無く、お経を唱えてくだされば、それだけで有難い気持ですが、父のことを考えると契約に踏みきれません。 また、日蓮宗でずっと法要をしているのに、最後は違う宗派のお経の供養を受ける事は、問題ないことなのでしょうか? 自宅から近い日蓮宗のお寺にある永代供養墓も見学したのですが、周りに何も無く殺風景で寂しく感じてしまい、母を先に納骨するのに後ろ髪を引かれる思いになってしまいました。 父の意見は、霊園の方が母らしいし、自分も寂しいのはイヤだ。ここで良いとは言ってくれましたが、本心は日蓮宗のお寺が良いのに、私達のことを想って無理してるのでは...とも考えてしまいます。 このような場合、もう一度最初からお墓探しを考えた方が良いのか、父が良いと言ってくれているのだから、問題無いのかご意見いただきたく、質問させていただきました。 よろしくお願い致します。
今回もお坊さんの意見を聴きたく、再度質問させて頂きます。 悪人だった人が更生したり、他人に優しさを見せたとしても、元々普通に生きていた人や優しい人がいるから、更生や他人に優しくする事自体が普通であり、褒められることではないという意見がSNSやインターネットでよく見られます。 ただ、私はこの意見に少し疑問があります。 確かに、元々優しい人がいるのは事実であり、その人は褒められ、賞賛されるべきであると思いますが、それが悪人であったとしても同様であると自分は思うのです。そもそも、その人が悪人になってしまったのは相応の理由があるかもしれませんし、周囲の環境が悪く、他人のことを考える暇がなかった可能性があると思います。また、これは自分の考えになりますが、周囲に優しさを見せる事によって、褒められる、賞賛される事実を見せて、他人に優しくする事へのメリットを見せた方が、その人にとっても、周囲の人にとってもそちらの方が平和であると思っています(見返りが返ってくる前提の優しさはどうかと自分でも思ってしまいますが) ただ、自分と同じような意見が少なく、これは自分が間違ってしまっている可能性があると考え、また再度、お坊さんの意見を聴きたいと考えました。 お坊さんは悪人の優しさについて、どのように考えますか?ぜひお聞かせ願いたいです。よろしくお願いします。
今、祖母の7日参りでお坊さんに来ていただいてるのですが、先日単刀直入に「7日参りってなんか意味あるんですか?」って聞いてみたら、色々お話をしてくださいました。 7日ごとにいろんな仏様に会って、この経本はこう言う意味ですよとか、色々お話をしてるんだと。 んで今週35日の法事なんですが、この日は地蔵菩薩=閻魔大王の裁判?が行われる日で、6つの世界があり人間界とかに行ってくださいとか言われる日。 そして、その人間界に連れて行って下さいとお願いするのが葬儀だとお坊さんは言ってました。 地獄には絶対に行くなと、行くとすごく苦しいと言ってました。 その日からネットで地獄について調べるといくつかに分かれていてすごく怖くなりました。 嘘もついたり蚊とか蜘蛛とか動物も殺してしまったり、色々してきました。必ずしも人間界には行ける気がしません。 今はおばあちゃんの為に、般若心経と十三佛真言と光明真言と大師号?を読み、全てではないですけど夜に読んでます。 お経本の中に懺悔文と言うのがあり、説明を読むと「悪い行いを、みなすべて悔い改めます」と書いてあります。 悪い行いを反省する思いも含めて、お経本は一部ではなく全て読むのが良いのでしょうか? お坊さんにわからない事は何でも聞いて下さいねっ!って言われたんですけど、1人でお経読んでるの言うのも恥ずかしいので、ここで聞いてみようと思いました。 よろしくお願いします。 宗派は、高野山真言宗です。
全ての相談に丁寧に返答されている全てのお坊さんたちを尊敬します。 たくさんの相談があるなか私の相談なんて恐縮ですが、お坊さんの有難いお言葉をいただけたらと思います。 短大を卒業して3年、アルバイト生活を続けております。 2年間雑貨屋で働いていましたが嫌になり辛くなり、親友に相談したところ保育園のお手伝いさんとして入れてもらいました。 もうすぐ1年になりますが、楽しく働けていて安定しています。 ただ、正社員になった方がお金も良いので3年間たくさん悩んできました。 しかし上司、責任や残業を見ているとアルバイトの方が気が楽で精神も安定してます。ただ祝日は仕事がないので収入が不安定です。 私は就職の面接も通ったことがなく、ストレスにも弱いので、正社員になることは自信がないです。正社員になるなら他の仕事もいろいろ興味があります。 精神は安定、収入は不安定、この生活のままでいいのでしょうか。 お坊さんでしたらどう思いますか? お金はないのであまり冒険はしたくないんですね…。 ちなみに彼氏は四大を卒業し正社員になり二ヶ月で辞め、転職してまた正社員になりましたがまだ半年経ちません。 しかし夜勤など辛いようで仕事が嫌だ働きたくないと言いながら働いています。 嫌なら無理に働いて欲しくないのですが去年12月から二人暮らしを始めたばかりなので実際働き続けてもらわないと生活できません。 お粗末な文章失礼致しました。
今までの職場でも、家でも、今日行った面接でも、どこに行っても笑顔で「○○致します」「かしこまりました」、さして申し訳なく思っていなくても「大変、申し訳ございません」と本気で申し訳なさそうに演技、演技、演技。それが社会人必須項目でしょうが、 あぁ~、やってられない! ハスノハも卒業しなきゃいけないのに、お坊さんは盆と正月は目が回るほど忙しいのでしょ? 私の質問にお応え頂くなら、そのぶん少しお休みになってください。そう思うんです。 だけど、今までの仕事で時間に追われ、上流工程エンジニアに「バカ」「こんな図面を描けんかったら死ね」「女だてらにエンジニアだと?」時には階段から突き落とされ。そんなこんなを繰り返すうちに女優のように演じる事で自分を守っていた気がします。 私を含め俗の世界のひと⁉は、どうしても損得勘定をしてしまいがちです。その中で、お坊さんなら中立公平と言いましょうか、弱い自分をそっと差し出せ、一緒に考えて頂けるんです。 ただ、思いついたまま話すワガママ極まりない自分を許せない。 ハンドルネームが私は「ぴょんこ」です。だけど、もうひとりの自分が「いや、お前は、タヌキだろ? 腹黒ダヌキさん、が似合っとるよ~」そんな声が聞こえてきそうです。 私が描いた図面から飛び出したモノが世界で活躍しているのに、私という下流工程エンジニアは取り残されました。 まとまりがない文章で申し訳ございません。(これは本心です) お坊さんからの御言葉が光とするなら、井戸の中に落ち、光が差しあたたかいけど地上に出られない。そんな感じです。 今、私がすべき事は何でしょうか?
兄がなくなり、13回忌の時期が迫っています。 兄は長患いの末、なくなりとても私の悲しみが深く、まさか亡くなるとは思っていませんでしたので、両親も未だに悲嘆にくれております。 今、段取りを組んでいるのですが、今までのようには、わけあって自宅でできず、法要する場所とお坊さんを探しています。 お坊さん探しもさることながら、段取りも場所が自宅でないのならどうして良いかわからす、困っております。 永年供養出来るよう、兄の死後、父の一家とは別に、自宅近くで急遽お寺さんに墓地、墓碑をつくり、3回忌、7回忌早く自宅でおこなっていました。 しかし、そのお寺の住職さんは3回忌では、従姉妹にアルバイトを持ちかけ、7回忌に至っては日にちを忘れてしまい、慌ててくるという始末で、その方にはもう二度と頼みたくないというのが私たち家族の本音です。 悲しみを理解してくれ、きちんと心を込めたお経をあげていただきたいのですが、法要だけを行う葬儀社は少なく、ましてお坊さんをどう探せば良いかわからず、非常に困っています。 具体的な提案と共に、どう考えれば良いでしょうか。兄の知り合い、親戚もの方も、少人数ながら来ていただきたいのです。 長々失礼いたしました🙇
10代の頃から悩みの多い人生で、未熟なまま大人になりました。 家庭を持ち30代になっても周囲に対して愚かな言動をしてしまい、人を気付けたり迷惑を掛けたりしてトラブルになってしまった事が複数ありました。 反省と後悔で苦しみながらこちらにもお世話になっています。 様々な問題を抱えており、これから先の人生に希望をなかなか持てずにいます。 ハスノハでもいろいろな回答を読み、特定の宗派と言うよりは、お坊さんのお話で自分にしっくりきたものを取り入れさせてもらっています。 ある宗教評論家の方が出されている本で、とても気になる事が書いてありました。 それは、「この世の中には善人も悪人も必要」 そして「人間は皆それぞれに役割が決まっていて、それぞれ精一杯にその役を演じれば良い」 更には、「お浄土へ行った時、仏様に労われるのは悪人・罪人の方」との事。 極端な物言いを売りにしているので、この抜粋だけでは著者の本意が伝わらないかも知れないのは恐縮ですが、お坊さん方はこの考えについて、どのようにお感じになりますか。 (ちなみに、誤解を恐れずに言うと、私は少し救われた気持ちになりました。 だからと言って、罪を犯していいとか人を傷付けていいとは決して思いませんし、著者もそういう意味では言っておられないと思います。) お坊さん方の見解をお聞かせ頂ければ幸いです。
いつもお世話になっております。先日は、私の男友達と距離を置く方法について質問いたしました。私と彼は、入学当初は仲良くしていましたが、彼は段々と女性蔑視発言、差別発言を嬉々と話し始めました。嫌気が差し、どう関係をフェードアウトさせようか悩んでいるところに、お坊さんからは第三者を通して相談し、彼の気付きを促すといった貴重なご意見をいただきました。 けれども、お坊さんのアドバイス通りにしようと思っても、怖くて結局連絡を無視しています。 いざ外部に相談するなりしても、第三者を挟んで話し合ったとしても、彼は私の言いたい事が全くわからないと思うのです。彼は自分の言動を省みていませんし、それが悪いとも思っていません。 私はそんな彼ときちんと向き合うことが怖くて、逃げました。 彼はまだメッセージを私に送ります。昨日の誕生日には、アプリの都合上文面は見えないけれど、いくつもメッセージを送ってきました。今ならまだ返事ができます。 私はここで返事をするべきでしょうか、それともこのまま無視を続けるべきでしょうか。 私は彼の人生にもう関わりたくありません。それでも良心を持って、きちんと向き合うべきなのでしょうか。 お坊さんのご意見をお聞かせください。
春から大学院へ進学する予定で、今卒論の執筆にヒーコラ言っている大学4年生です。 最近禅の教えに興味があり、ここで何度か質問したこともあります。いつもありがとうございます。 今回は、心が折れそうな出来事の乗り越え方について質問させていただきます、よろしくお願いします。 と言いますのも、実は卒論の出来が悪く(そも構想段階でしくじっていたのですが、もう後戻りはできません汗)、先生や先輩に指導の度ボコボコにされ、1ヶ月前ほどに情けない話ですが完全にメンタルを病みました。学問に対する知識も情熱も不足しているし、あぁなんでこんな悲惨な状況なのに大学院なんて志したのだろう、なんて思ってしまい、自己肯定感が著しく下がってしまっていました。今は優しい家族や友人のお陰で半分ほど回復しましたが、まだ卒論は懸案として残っていて、明日もゼミでボコボコに指導される予定です。以前の指導が少しトラウマになっていることも否定できません。もうそれは過去のことだというのに、こればかりはずっと頭から離れてくれません。それに、指導は決して私の人格を否定しているものではなく、私の為だとわかっているのにジリジリと心を焼いてきます。 こういった、心が折れそうになる出来事に対し、お坊さんはどのようにして乗り越えられてきたのか、お知恵をお貸しいただきたいです。お坊さんの修行は大変厳しく辛いものと聞きますし、とある禅寺では一切の自己が否定されるところから始まり自我が完全に消し飛ぶほどの修行を積むと伺いました。それでもお坊さんは修行中、心を病まずに(もしくは病んだ方もいらっしゃるとは思いますが、それでも)、成し遂げるのかと思うと只々尊敬します。
こんにちは。再びこちらで質問させていただきます。 以前読んだ呉智英著「つぎはぎ仏教入門」という書物の中では、私の従来のイメージとはかけ離れた仏教観が述べられており衝撃を受けました。お釈迦様の物語では、お釈迦様は家族を捨てて出家しており、出家者に対しても①家族を捨てること・②生涯独身でいること・③労働をしないことを要求しています。また梵天勧請のお話では、お釈迦様が悟った後に「私が悟った法は、その内容はあまりにも高度なものであるから、一般の人に説いてもわかるまい。」とそのまま涅槃に入られようとしていたようです。 これらの物語を読むと、仏教とは決してヒューマニズムのような耳障りの良い教えではなく、むしろ社会の常識を揺るがす危険な思想なのではないかと思いました。また、仏教の一番の目標は、やはり「悟りを開くこと」ですが、「悟り」とは私が今まで考えていた「あるがままの世界を観じる」というような単純なものではなく、もっと峻烈で幽玄なものではないかと思いました。 これらを踏まえると、日本の仏教ではお坊さんは妻帯をして、労働されている方もいらっしゃるのが普通の光景です。社会に歩み寄るという点では、ある程度の妥協も必要であるとは思いますが、釈尊の本来の教えから見ると、修行や悟りを軽視している面があるのではないでしょうか? また、その教義が初期仏教とは異なる宗派もいくつかありますが、ある教えが仏教であると言える条件は何なのでしょうか? 日本で悟りを開かれているお坊さんはどれくらいいらっしゃるのでしょうか? その辺りを、お坊さんはどのように考えられているのか伺いたく、質問させていただきました。どうぞよろしくお願いします。
詳しい内容はお坊さんにだけプロフィールに公開しております。 過去の自分のした事での罪悪感と反省でいっぱいです。二度と致しません。 夫や家族にまず話すべきなのか、自分の責任なのに言ったところで傷つけるだけかとも思いどうすれば良いのか分かりません。
私は人生に目標がありません。アメリカに半年くらい、留学していましたが、ホームシックで帰国しました。それからは精神を患ってしまい、今も通院しています。私にはやりたいことがありません。でも、これからどうしていけばいいのかわかりません。お坊さんはどう解釈しますか?
祖父が3歳ぐらいに無くなってから、お坊さんになった祖父が頭の中にずっと居ます。背景は真っ白で椅子が並んでいて、自分と祖父しかいません。祖父が見守ってくれているんでしょうか? 教えてください。
前回、祖父が亡くなったことで質問したんですが、もう1つ聞きたいことがあります。 亡くなった人は亡くなってから四十九日経つまでこの世にいるといいますが、その間どういったことをしながら過ごしているんでしょうか。 色々ネットで調べたりしてみたんですが、ぜひお坊さんに聞いてみたいです!
私は小学校の教員をしています。 大半の子供は「勉強」と聞くと「嫌い」と答えるものです。 勉強が嫌いでもそれが「必要である」と感じさせるために、わかりやすい例えやお坊さんならではの説法のようなものがあれば御教授頂けますでしょうか?
プラス思考になろうとしても すぐにマイナスになります こんな私が嫌いだしだから光明真言を唱えたりしますが 信心がたりないのでしょうか?私はなぜ苦しむんかなと 悩みます どうしたら いいですか お坊さん T^T