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hasunoha 問答検索結果 : 「 死 死にたい」
検索結果: 3508件

亡くなった犬への後悔

正直な所、私が殺してしまったようなものです。 幼い頃から犬が欲しくて、小学生の頃にようやく飼うことができました。 犬がシニアになった頃から大きな病気をいくつも患うようになり、この子の為になるように勉強し、動物病院に勤めました。 犬の体調が悪い時は同伴出勤し、入院した時も長く一緒にいられるように8時に出勤・22時過ぎに帰宅したり、特別に医療機器を持ち帰り自宅でも治療をしておりました。 ですが、勤務先でなくかかりつけ病院で大手術を受け見た目が大きく変わった為、職場の方に根掘り葉掘り聞かれるのが嫌で、その後同伴出勤することはなくなりました。 1番苦しいのはこの子なのに、向き合うのが嫌で家に帰るのが辛くなり、夜遅くまで帰らなかった時期もありました。 ある日の朝、犬の食欲が無く体調が悪そうだったのですが、仕事から帰宅後の様子次第でかかりつけ病院へ行こう考えておりました。 深刻さは理解しておりましたが、今までも何度かあったしきっと大丈夫だと思い出勤しました。 この時に職場の人の目を気にせず同伴出勤するべきだったと後悔しています。 まもなく定時になるという頃に、家から職場に連絡が入り、犬が亡くなっていたと知らされました。 家族は仕事や学校でしたので、犬は最後の瞬間もひとりでした。 家には粗相の跡があり、体も汚れ食餌もできていない状態。 孤独で苦痛に耐えていたのかと思うと苦しい気持ちになります。 家族が帰宅し犬を見つけた時、最後の力を振り絞ったのか、一声だけ鳴いたとのことです。 私は連絡を受けた後直ぐに帰宅しましたが、最後の瞬間に立ち会うことはできませんでした。 死後硬直しかけている少し温かい感触を覚えています。 やりたいことを全て楽しんでから後を追おうと考えていましたが、来年も花火を見たいなど欲が出てしまい、後を追うことをやめ数年が経ちました。 ここまて長々と書き連ねましたが、結局は「私はこれだけ頑張った」とアピールしたいだけ。 誰かに「あなたのせいじゃない」と言って欲しいだけなのかと思います。 最愛の愛犬を殺しておいて、自分だけ救われたいだけです。 犬の死にどう向き合い、自分の気持ちにどう折り合いをつけるのが正解なのでしょうか。 いつか、また犬を飼うことは許されるのでしょうか。 貴重な時間を割き、最後までお読み下さいましてありがとうございました。

有り難し有り難し 34
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毎日を明るく過ごすためには

いつもご相談にのっていただきありがとうございます。 自殺のニュースをみて毎回とても悲しい気持ち辛い気持ちになります。ニュース見るたびに、虐められたこと、その相手をやり返してしまったこと、今も地元では誹謗中傷されてることを思い出し深く考えてしまいます。いじめ返したことはとても反省してます。 私も相手もいじめ被害者の時に死ななくてよかった。ですがまだ相手が苦に思ってる可能性もありますよね。。私も未だにやられたことは思い出して辛くなるからです。自分がやられて嫌だったことをやり返した時のことの方が申し訳なく辛くなりますが。。相手は私にやった事忘れてるみたいですがそれもまた辛いのです 私も消えたくなることもありますが、子供の成長を見ていたいですし、夫も好きですし、長年の悩みを解決し前向きに生きたいとも思います。ここで相談させていただいて、だいぶ前向きになれる時間が増えてきたような気がしていた矢先、また落ち込んでしまいました。 死って本当に悲しいです。ですが私も死んだ方がましとか、最悪なことを考えてしまう時がたくさんあります。もう何年も体に染み付いてるように、頭に浮かびます。 どうすれば、死にたいなど思わなくなるんでしょうか。誰にもわからないとは思うのですが、、、死にたいなど思うと言霊になったり、悪運を引き寄せたりすると思うのでほんとに辞めたいのですが、、

有り難し有り難し 17
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生きたい

こんにちは。よくある質問ですみません。 長いこと死にたいという気持ちがなくなりません。 長い間、死にたいと思っているせいか、死ぬことへのハードルが年々下がっています。 死ぬことはいつでもできるから、とりあえず現状維持しようと思っていても、死ぬことへの欲求に負けそうになります。 私の調べですが、気楽に自殺するのに必要な金額は3万円です。 「月3万は自分の好きなことに使う。生きるためにお金を使ったのだから今月は生きよう。」という消極的な生き方をしています。 大抵嫌なことがあるから、しんどいことがあるから、自分が恥ずかしいからなど、死にたい理由は私自身の中に、私自身の弱さによると思います。 今回は、バイト先からもう信用できませんと言われたからです。 もともとしたくない苦手な仕事です。断れない状況だったので仕方なく引き受けました。 正直、最初から信用してくれてない感じがあって辛かったけれども、やれるだけやりました。 でもダメでした。 バイトもうやめればいいじゃんと自分でも思います。 死ぬこと以外の解決方法はいつだってあります。 でも、死ぬことへのハードルの低さが、今後も色んな問題がでてくるんだから死ぬのもいいんじゃない?と囁いてきます。 自分自身が死にたいという気持ちを否定してしまいたいわけじゃありません。これはたぶんどうしようもないからです。 実際に死んでしまおうとするのをなんとか止めたいんです。 私自身、死にたいのと同じくらい本当は生きたいのだと思います。 どうしたら、苦しくても死ぬことへ逃げずに生きられますか。 教えてください。

有り難し有り難し 9
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2022/12/01

自殺以外の選択肢が思い付きません

お世話になります。2年半ほど前にコロナ禍で生きがいを失い、悩み相談させて頂きました。その時に頂いたご助言のおかげもありなんとか生きながらえています。 しかしながら、タイトルにもある通り以下のようなことから希死念慮が絶えず付き纏っています。 まず仕事面については今年色々と行き詰まりがあり数ヶ月の休職をしてしまいました。今は復帰していますがリハビリと言うこともあり給料に見合わない(不当に高く払われすぎだろうと思われるような)単純作業をする日々です。周りの同世代や下の世代がどんどん仕事を覚えてキャリアを進める中で自分1人が無様な状況。転職しようにもこんな奴が箸にも棒にもかかるとは思えず。30になるので第二新卒もない。情けない状況です。 次にプライベート。当方男ですが、周りの同世代は上記の仕事面だけでなく恋人がいたり結婚したり子供を授かったりとプライベートにおいても充実させてます。それに比べて自分は未だ一人で仕事は上記のざまで、趣味も1人でライブやスポーツ観戦をするもコロナ規制や同じ場所にカップルで来てる人を指を咥えて眺め悶々とする日々。 そしてコロナ禍に対する不満。前回質問時もお話ししましたが、日本だけが一向にコロナ規制が終わらず、ライブやスポーツ観戦も思ったように楽しめない日々。まして今はカタールW杯でマスクなしの声出し応援をしてる風景を見て余計に悶々とします。「うちはうちよそはよそ」と言われても現状を正当化したいだけの屁理屈にしか聞こえません。 上記の通り仕事やプライベートで一向に思ったような改善や向上が見られない、そしてその原因は自分にある。 どんなに嘆いても社会や世の中は変わってはくれません。分かってます。どんなにコロナ規制の不満を嘆いても変わらない。だったら自分が良くなるように変わるしかない。でもそれも出来てない。なら自殺以外に選択肢がないですよね。弱者男性という言葉がネットで流行ってますがまさに私のことです。ネット曰く私のような人間は安楽死で淘汰されるべきだそうで是非そうしてもらいたいです(笑) ならさっさと死ねよに対して返す言葉もありません。慰めが欲しくて書いてるのでもないです。死にたいなら死ねも大歓迎です。最後は取り止めもなく気持ちを書かせて頂きました。 要は死ぬ勇気と生きる希望のどちらかが欲しいと言う悩みです。申し訳ありません。

有り難し有り難し 15
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2023/09/22

今を生きる=悩む暇がないこと?

以前より、死の恐怖についてご相談させていただいております。いつもありがとうございます。 今年から仕事をはじめ、毎日必死に慣れない仕事をこなしています。以前と違って少なくなった休日は、友人との交友や趣味を詰め込んでいます。 そのような生活をしばらく続けていましたら、以前悩んでいた「死の恐怖」について悩む物理的な時間が殆どなくなっている事に気が付きました。 しかし、死の恐怖がなくなった訳ではなく、今でも偶に恐怖で叫び出してしまう事はありますし、将来のこと(今後のキャリアやライフプラン)について考える時にも、「死ぬ時、恐怖に震えながら死ぬのだろう」ととても悲しく、またとても恐ろしくなります。 これは、「今を生きている」のでしょうか?確かに、目の前のことに必死で、死について考える時間がないので精神は健全です。以前より充実していると思います。 ですが、人生の本質のようなものを蔑ろにしている気もします。今の生活はなんとなく、さまざまな問題から逃げている現実逃避のように感じます。人生は死からの逃避、という言葉をどこかでみました。私の人生は今、逃避なのでしょうか。 そこで、「今を生きること」と「現実逃避」の違い、「今を生きること」と「何かに夢中になり、悩む余裕がない」ことの違いが知りたいです。 また私の今の様な生活は、仏教やお坊さんのお考えからはどのように思われますか? 死に怯えるだけだった過去から、今の生活になったことは進歩でしょうか?これは、私の望む「死は悪くない、怖くないと安心して死ぬこと」に近付いていますでしょうか? お忙しいところ恐れ入りますが、知恵をお貸しいただけますと幸いです。よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 3
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命に対するジレンマ、疑問

看護師をしています。 私は病院で働く中で多くの患者様を見てきました。軽症から重症まで。若い人から超高齢者まで。 その中で、看護師として働くことを諦めるような悩みを抱えました。 ご高齢の方や終末期の方は、死への恐怖というより現在ある痛みや苦しみ、排泄など恥ずかしい部分を他人に見られる羞恥心などから、もう楽にしてくれという方が多くいました。殺してくれとも。 命を救う側の私たちは、目の前の命を救うという責任があります。見捨てることはできません。 しかし、それでも何度も何度も楽になりたい、あちらの世界に生きたい、今自分の意思で生きているのではなく他者に生かされてるだけだと、涙ながらに、そして時には怒りながら訴えられました。 そんな方々を多くみる中で、私は看護師として生きることを諦めないようにお話をする機会もありました。 その中で私は、ここが生き地獄だと思っている人たちを救うことが本当に人のためになるのだろうかと疑問を持ちました。 本人の意思ではないのに、多くの管で繋がれ、ベッドに縛り付けられてまで命を守ることが本当に正しいのだろうかと疑問に思いはじめました。 私はこの疑問に対する自分の中での答えが出ず、看護師を一度完全に辞めました。このような疑問を持つことは、命を救う立場の者としてあってはならないと思ったからです。 世の中には尊厳死や安楽死などの言葉が存在します。尊厳死は、延命治療を無理にせず苦痛を取り除きながら、自然に死を迎えられるようにというものですが、日本の医療の現状としてなかなか行われていないのも事実です。苦痛は痛みだけではありませんし。安楽死などもっての外です。 以上の過程があった上で相談したいことは以下の通りです。 ・生命は大切にしようとよく言われるが、そもそもその考え方はどこから生まれたのでしょうか?生き地獄だったとしても必ず守らなければならないのでしょうか? ・安楽死などの考え方について、仏教の視点からはどのような考えがあるのでしょうか? ・命の大切さという根本的なところが分からなくなっている私は医療従事者として失格でしょうか? 長文で申し訳ありません。 お時間のある際にご回答いただけると幸いです。

有り難し有り難し 30
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おそらく一番古い記憶です。幼稚園に入園する前の話です。 近所の公園に巣から落ちた雀のヒナがいて、父が拾って手当をしてしばらく家の鳥籠で飼っていました。ヒナは元気になり、時々かごから出して家の中で飛ぶ練習をしていました。私もその鳥のことが好きでよく話しかけていたと思います。ある日、両親が見ていない隙に、籠から出してぬいぐるみを抱きしめるようにしたら、死んでしまいました。その時は寝てしまったのだと思いました。 小学校のころの実験で、メダカを顕微鏡で見るということがありました。先生の話を聞いていなかった私は水槽に戻すときに失敗しメダカを死なせてしまいました。ほかのメダカに共食いされる様子を今も思い出します。 他にもセミの虫かごを自転車に入れてあちこち走り回っていたら、気づいたら死んでいたこともあります。 私のせいで意味のない死を遂げた生き物たちに罪の意識を感じます。 それなのに私は看護師を目指しています。もし人の命を自分の無知や不注意で奪ってしまえば許されることではありません。 失敗したらと考えると怖いです。 看護師になりたいのは、死なせない方法を学びたいからです。おそらく生き物の殺してしまったことへの罪の意識からきていると思います。死に最も近いところで、自分の生き物を殺してしまいやすいという不注意な弱点を克服したい気持ちがあります。 能力がないならしてはいけないことは世の中にたくさんあります。もう運転をすることはできないと感じた高齢者が免許を返納するなどです。 私は、自分が生き物を殺してしまいやすいという性質を持っているのに看護師になろうとしています。克服したいと願ってしまいます。 のんびりした性格なので焦ったときが本当に危ないです。どうすれば、ヒューマンエラーを確実に起こさないで済むでしょうか。ミスが許されない現場で働く覚悟がもてません。 自分だったらこんな看護師に面倒を見てもらいたいとおもいません。信用できないからです。 不注意を直したいです。 家を出るときなど、戸締りをして3度確認しても、外出中に不安になります。 また自分の思っていないところでミスが起きることもあり、不安が増しています 最悪の状況を常に想像できるようになるために知識も身に着けていきたいですがそれでも足りない気がします 不安です

有り難し有り難し 9
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生きていることが幸せとは限らない。

お世話になります。 17歳の娘を自死で亡くした母親です。四九日も無事にすみ、仕事も見つけて外に出て働くようになりました。 誰かに会っても普通に娘の話ができるようになりました。 私には息子もいますし、これからは娘の供養をしながら寿命がくるまで生きて、 娘に会った時に「お母さん、あれからこんな人生を送ったよ」そう話せるように頑張ろうと思いました。 きっと私はこのまま立ち直れると自分でも思っていたんです。 先週末、学校に娘の私物を取りにいきました。教科書や、亡くなる前日に娘が書いた授業のノートや、最後に受けた模擬テストの結果。 模擬テストは今までで一番いい成績でした。娘が見たらさぞかし喜んだでしょう。 「どうよ、頑張ったやろ~」嬉しそうな顔で自慢したと思います。 せっかくだから見てから逝けばよかったのに・・・。 そうしたら急に、娘のところにいかないと、早くいってあげなければと。 そんな思いに取りつかれてしまいました。今までも、朝になったら死んでるといいのにって思うことはありましたが、自分で死ぬことは考えなかった。 息子でさえストッパーにならないような衝動が押し寄せてくる感じです。 娘のことで、「生きてることが幸せとはかぎらない、死んだほうが楽になる人もいるんだよ。」そんな言葉をかけられました。 なんだか今の私にあてはまります。死んだほうが楽でも生きなければいけない。 残された家族にこれ以上の苦しみをあたえてはいけない。 そのほかになにか理由はありますか。死にたくなった時のストッパーになるようなことがあれば教えてください。 もうひとつ、娘のノートに 「神様に手をあわせるのか? その教えに手をあわせるのか? どっちなんだかわからん」とありました。 それも教えてやってもらえませんか。どうぞお願いします。

有り難し有り難し 170
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