お世話になっております。 以前より、死の恐怖が強い事について相談している者です。 今回は、坐禅会に行く事以外の方法で、無意識下の死の恐怖と生きていることの気持ち悪さを抑制できる方法があれば教えて頂きたく質問致しました。以下、詳細です。 自分の不安一つ一つに暖かなご回答を頂き、今は「頭でっかちになりすぎず、坐禅会などを通して身体で仏道を学ぶ」ことを教えて頂き、実践したいと思っていました。 しかし、多忙のあまり、一度も坐禅会に行くことができていません。また今後も、先1〜2ヶ月ほど予定が詰まっています。 にもかかわらず、死の恐怖がまた、日に日に強くなっています。特に睡眠後一時間程度で、本当に急に「私は私の身体から逃げられないのだ、いつか死ぬ、死んだらどうなるか分からな、死ぬ現実から逃れられない」と思い出し、自分の叫び声で目が覚めます。夢現のせいで、意識的に考えないようにすることができないため、本当に毎日起こり、それが怖くて眠れなくなり…の悪循環です。これが2〜3ヶ月続いていて、心身ともに参っています。 空き時間に、お薦めしていただいた本を読んだりyoutubeを見たりはしていますが、それを観ている時は少しだけ心が落ち着くのですが、夢現の時の恐怖は抑制できません。お念仏も同様です。また、お念仏の動画を流しながら寝れていた時期もあったのですが、最近はお念仏が切れるとむしろ起きてしまうようになったため、こちらも上手くいきません。 毎日死の恐怖を嫌でも思い出すので、昼間も、自分の手が一人称視点でしか見れない事にふと気がついて、いつか消滅する身体や、死そのもの、それに伴う記憶の消失を強く自覚し、生きているのが気持ち悪く、恐怖で叫ぶ…といった具合に、「生きている事」も肯定できないのです。だから、生きているだけでつらいです。 前置きが長くなり申し訳ございません。 上記したような状況から、少なくともあと1〜2ヶ月ほど、適切な坐禅会などに参加できない中で、「睡眠時の無意識下の恐怖」と「昼間の生きている事の気持ち悪さと恐怖」を少なくする方法について、アドバイスを頂きたいです。 お時間ある時で構いませんので、ご回答頂けますと幸いです。よろしくお願い致します。
生きることを諦めそうになります。 頑張っても頑張っても先が見えず不安になり、焦り…その繰り返しになってしまっています。 そこからなんとか抜け出そうと、勉強したり頑張り方を変えてみたり自分なりに行動しているつもりです…また負の連鎖を断ち切るため、考え方を変える努力もしています… しかし、頑張っても頑張ってもその頑張りが報われている気がせず、諦めそうになってきてしまいました… 高校卒業時から、死にたい。死のうか。という思いがあり、徐々にその気持ちは薄れてきてはいますが、しかし未だに頭をよぎります。 病で余命幾ばくもない方や、不慮の事故や事件で亡くなってしまう方々がいる中で、このような考えに陥るのは甘えだと思っています。 その方々に比べれば、私の不幸など大したことはない、と頭では思うのですが、感情面では生きることを諦めたいという気持ちが出てきます。 私を大事に育ててくれ、大切にしてくれる家族、そして私を愛してくれる彼、友達…。周りにたくさんの人がいる中で、死ぬことを諦めたい、と思ってはいけないと思っています。 このような気持ちを吹き飛ばすにはどうしたら良いのでしょうか。
初めまして。中学3年生、受験生です。 勉強、入学、就職と進んで行っても、 結局「死」にたどり着くと思うと脱力感がぬけません。 動物たちを見ていても 別の魂に生まれ変わるのだと信じられないのです。 日々どんなふうに過ごしてゆけばいいのでしょうか。
私は死ぬべき人間ではないかと考えてしまいます。 常に罪悪感に駆られ、私の精神を蝕む。 他人と接するときは別の自分に偽り、恰も他人を騙しているような感覚を覚える。 出来損ないの自分に腹が立つ。 このままならいっそ綺麗に消え去りたい。 こんな精神状態では駄目だ、なにか見つかるかもしれないと自分では理解・模索しているつもりですが、どこか蓋をしている自分がいる。 私は一体何処に向かってしまうのか。 私は死ぬことが出来たら白紙に戻るのか。 また私は黒く塗りつぶされてしまうのか。 私は生きるに値する価値があるのか分からなくなってきました。 こんな愚鈍な私ではございますが、なにかご助言を頂きたいと存じます。 宜しくお願いします。
周囲から善人と言われている人も、殺される人は殺されるべき因縁があるんですか? [不慮の死]は殺された人に落ち度はないのですか? 恐怖と痛み、苦しみの中で殺されていった人は永遠に苦しみますか?
毎日びくびくしてます。テロに遭遇するのが怖いのです。 良寛のような心境になるには、 修行をしなければいけないのでしょうか? 災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。 死ぬる時節には死ぬがよく候。 これはこれ災難をのがるる妙法にて候。
人は死んだ後、その人生において大切であった人達に再会できるのでしょうか。 数年前に祖父を亡くしました。 身近な人の死は初めてで、すぐには現実味がなく何も感じず、今更になって悲しいです。 うちは浄土真宗らしいので、仏様になっている筈なんですが…。 後からいった人は会えるのでしょうか。 仏様になる、というのがいまいちピンときません。 また、宗派が違うと(例えばキリスト教など)、別々の世界?に行ってしまい会えなくなるのでしょうか。。 実際はどうあれ、意見を聞いてみたいです。
この間も相談させていただきました。 恩師の末期ガンについてです。 どんどん悪くなり見るからに弱っています。 痛みに耐える日々、私にも痛みに耐えるくらいなら死にたいと訴えることもあります。 以前相談させていただいたときに、私の気持ちを 伝えるのがいいとお答えいただいたので、 プレゼントに手紙を添えて渡しました。 出会えたことは人生の宝物であり、 感謝しかなくて、大切な存在ですと。 大好きですと。後日、メールが届いて、 プレゼントありがとう、1番嬉しかったのは 手紙ですと返事がきました。 そして、その手紙をもし私が死んだときに棺の 中に入れるように息子に頼みたいのですが、 いいですか?と。私は胸がいっぱいになり 涙が止まりませんでした。私の大切な、 大好きな人が、余命宣告をされてから 弱っていく姿、苦しむ姿、自分の死を受け入れて遺言などを作成している姿を見ていると、 なぜかこの人がと思ってしまいます。 あの人と変ればいいのにとか、嫌いな人が ますます嫌いになってしまうというか。 間違っていますし、誰にでも死は訪れます。 こんな風に思う自分がいやです。 でも思ってしまうんです。 そしてやっぱり私にはまだ受け止める覚悟ができません。怖いんです。 来週、改めて残された時間や今の状態を 先生と話すそうです。結果は私にも教えてくれます。とにかく怖いです。 恩師がいなくなった世界がこわいです。 失うなんて考えられません。 でも私だっていつ死ぬかわかりません。 そんなこともわかっています。 ここで相談して回答をいただいてから 何度も何度も読み返し、気持ちを落ち着かせて きましたが、本当に死が迫っているんだなと 実感させられるとまた怖くなってしまいました。 アドバイスください。お願いします。
母子家庭の高校生です。 母方の家系は霊感?というものがあるらしく 曽祖母も祖母も母も霊と呼ばれるものが見えるそうです。 私は幼い頃は見えていたようですが今はあまり信じていません。 とりわけ母は見る力?が強いらしく今でもよく何かが見えるそうです。何かによって今まで良くない目にあったこともあるそうです。 ここから本題に入ります。 私の母は幼い頃からほぼ毎日悪夢を見ています。 化け物が出てきて、夢の中で殺されたら 実際に死んでしまうと言われて襲いかかられる夢だそうです。その夢の中でまだ幼い母は自分がいつ死ぬかを告げられたそうなのです。 その「自分の死ぬ日」というのは 母の誕生日でもある10月6日なのです。 今年のです。 先ほど母から「自分は近々死ぬ、あなたを幸せにできたかな?」 といったようなメールが来ました。 母は夢で告げられた死を信じきっています。 そんなことあるわけないと私は母に何度か言ってみましたが 幼い頃からほぼ毎日のように刷り込まれてきた死の印象には太刀打ちできません。 夢で言われた通りに死ぬ、なんてことあるはずが ないと言いながら、私も多少信じてしまっている部分もあります。 本当にその日に母が死んでしまうかもしれないと考えると怖いのです。 せめてその日は母の側にいたいのですが、部活の大会があり遠くに行ってしまいます。 何かあっても私にはどうすることも出来ません。 こういった事もあって「何かが母を守るものを引き離しているんじゃないか」と非現実的なことを考えてしまいます。 私1人じゃどうすることも出来ません。 母は正直生きることを諦めているような感じがします。 それに先ほども述べましたが母は今までにそういった霊や不思議な力?でひどい目にあったこともあるそうなので今回も抗う気が無さそうです。 私はこんなことで母が死ぬと思いたくありません。でも例えばその日にもし母が事故にでも遭ったとしたら生きようと救急車を呼んだりせずに死を受け入れてしまったりしそうで怖いのです。 母を失いたくありません。 私はどうしたら良いのでしょう。 助けてください。
愛する人を亡くしました。 進行の早い病気で、でも希望を捨てたくなかったので、治療がうまくいく前提でしか話をしていませんでしたが、結局は…。 こんなことになるなら、もっと彼に対する感謝の気持ちを伝えたかったという後悔の思いばかりです。 私は、魂とか輪廻転生というようなことを信じています。 人は亡くなった後、49日までは魂がこの世にいるのですよね。だとしたら彼の魂は家族のところにいるのでしょうか? 私は彼の家族ではありません。 彼は天国に行けるでしょうか。 家族を大切にしている人でしたが裏切っていたことには変わりないので、それは“悪いこと”であり、天国には行けないのでしょうか…。 また、愛する人の死を“乗り越える”とはどういうことなのでしょうか。 彼が亡くなって以来、頭ではわかっているものの、気持ちがついていけません。それでも私は普通の生活を送るしかなく、自分は何をしているのだろうという気持ちになったりして、どうしたらいいのかわかりません。
いつもお世話になっております。 以前から死の恐怖について相談させていただいておりました。 最近は仕事もプライベートもそれなりに忙しく充実しております。体力的にも時間的にも死の恐怖に囚われている時間は少なくなり、心安らかに過ごしていました。 ですがふと、 やっぱりこの世は諸行無常で、今の幸せや充実もいつか無になり、私は私を自覚できなくなり、死んだあとは未知でしかなく、「死」という未来が待っている以上この先の人生のエンディングは絶対的な絶望なのだ、と 以前と同じ恐怖が強くよみがえりました。 日々の幸せに夢中で死を考えなくなり、「まあでも、これが今の私なりの死への向き合い方なのだろう」と甘く捉えていましたが、 結局、恐怖は忘れていただけで、死ぬ事実も絶望感も変わらずに私の中に存在します。 たくさんのお坊さんにご回答をいただき積極的に「心安らかに死んでいける心持ち」を探し求めても、知識だけが増え頭でっかちなまま、結局は恐怖も絶望感も拭えぬまま、不安な心のままです。 お坊さん方の視点から、私は今後、どのように死と向き合ってゆくのが良いと思われますか。 積極的に怖さに向き合い死を学ぶショック療法のような形か(ただ、もう死の恐怖に面と向かって辛い思いはしたくないという甘えも自分の中に今はあります)、 それとも自然の流れに身を任せて死を忘れたような日々を過ごすのか(そのうち死を自然と受け入れられると信じて)、 はたまた仏様に全てを任せ不安な心持ちのまま生きてゆくならば、まだ心の底から仏様を信じられない愚かな私の、実在する「不安な気持ち」をその都度「大丈夫」と躱していけばそのうち信心が得られるのか、など。 もちろん最終的に何を選択するのかは私が決めるべき問題と思っておりますが、 なんだかもう、自分でもどうしたら良いのか分からなくなってしまったため、アドバイスをいただけたらと思います。 お忙しいところ大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。
昔国語の授業で死生観の話になり、先生が「死ぬのがいけないと言うことに対しての絶対的な否定はできない。」という話をしました。 その時の話に妙に納得し、胸にすっぽりとはまってしまった考えはなかなか抜けず、今でもその問題に悩み続けています。 今の私の生活は、特に何が悪いと言うわけでも、何が楽しいと言うわけでもありません。悲観するべき人生でないのは恵まれていると思います。 ですが、このまま自分は生きている今なんてあるのかな、と思ってしまいます。 自殺する人たちに向かって、「これから生きていれば良いことがあるよ。」と説く人がよくいますが、別にこれからの楽しみに期待はしていません。これでは生きていく意味になりません。 「周りの人のために死んではいけない。」と言う言葉は確かにその通りだと思います。ですが、家族や友人、私の死後の事を考えると、それらはただの今の私の重荷でしかないと思います。 人生は先行きがわからなくて、その時その一瞬や1日によって状況が全く変わったりしますよね。辛いことも苦しいこともたくさんあって、日々の暮らしや将来にあまり期待もしていなくて、こんな状態で生きていく意味はありますか? 生きていくのに必要な「欲」がなければ、生きていく意味はないのでしょうか なぜ人は死んだらいけないのでしょうか。 生きていかなければならないのでしょうか。 生きるって何がゴールですか? 先の見えないゴールなら自分で素早く終わらせても一緒じゃないですか? 死ぬってなんですか? 結局皆終わりには死ぬのに、生きる意味はありますか?
お世話になります。 先日、職場で健康診断があり その結果を受け取りました。 驚くほど健康でした(笑) 昨年の健康診断では、悪い所が多く私は、 この分だと以外と早く娘の元へいけそうだと、ちょっと安心していました。 なので、まだまだ長生きしてしまいそうな、自分の身体に驚いています。 暴食も相変わらずなんですけどね…。 この世で生きるのは辛い。 だからといって、自死を推奨するなど、絶対にできない。 お坊様は、極楽浄土を信じておられますよね。 うちの娘も穏やかに過ごせていると。 お坊様は、早く極楽浄土に行きたいですか? それとも、どれだけ生きにくい世の中であっても、この世で長く生きたいと思われますか? 長く生きたい理由、ありますか? 私もどうやら長生きしそうです。 せっかくなので、生きてるうちに 何かしておくことがないか 長生き希望の理由をお聞きしたいです。
自分の考え方や生き方をそうしろと言われたからと言って、なかなか変えられるものではありません。 お答えを聞いて、じゃあやってみようと思ってそれを実行しても自分には何の実りにもなりませんでした。 私の家の近くに、ちょうど念仏を唱えて下さるお坊様がいたので、お話を聞きに行きました。 11時に予約をとって行ったのですが、お話されていることがどう聴いてもご自身がやってきたこと、やっていることの話ばかりで、こちらの話を聞いていただけませんでした。何のためにここまで来たのかよくわからなくなりました。 自分はこれだけのことを知っている、これだけのことを今やっていること、私も昔はこんな人間だったと、苦労話、説法とはなんだろうと、何だったのだろうと考えさせられましたが、答えは出ませんでした。ちなみに15時に解放されました。 結局は誰かに救いを求めても誰も助けてはくれないということ、死にたいと思う心は変えられないということはよくわかりました。 死にたいと思ったらその場で刃物で心臓を突き刺す勇気をください。 走行中の車から飛び降りようとしたことも何度もあります。 私はもう人間ではないんでしょうか・・・ 死しか考えられない。、早く死にたいです。
私は5年ほど前に躁鬱病と診断され、今年の夏には乳ガンと告知をされました。 早期の発見だったため、抗がん剤治療と手術で完治する予定です。しかし、私は完治したくなかった。出来れば転移してくれれば自死を選ばなくても若くで死ぬことが出来たのに、と思うのです。 乳ガンを、見つけた時にはまずお医者さんと思いましたが、これが人間の生への執着なのだなと思いました。 でも、親に心配をかけ、辛い抗がん剤治療をうけながら働き、高額な医療費を払い、こんな事転移してたらやっていられません。 治療拒否も自死と同じ扱いになるのでしょうか?
自殺はいけない。 以前はそう考えていました。 実際目の前で自分の命を絶とうとしている者がいたら全力で止めたと思います。 実際には止めてるつもりでも言葉の使い方によっては最後の一押しになるかもしれず、こういう時は中国人のように無関心で居た方が安全なのかもしれません。まぁそれでも「止めよう」とはしたと思います。全力で。 止めるのが正しいのか悩んでいる今でも実際にその場に居合わせたら止めるかもしれません。でもその理由は「目の前で死のうとしている人を放置して実際に死なれたら寝覚めが悪いから」という利己的な理由からであって。以前のように「それが正しいことだから止める」という風には考えられなくなっているのです。 先日「刑務所に入りたいから」という動機で漫喫に立てこもったバカがいました。去年も同様の事件があったと記憶しています。というかもはやそんなに珍しい事件ではないのかもしれません。 もっと悲惨な事件もあります。今年二月に起きた大坂の心療内科クリニック放火事件。動機も空かさないまま犯人は死んでしまいましたが生前「生きづらさ」を訴えていたとと聞きます。生活困窮者で将来の希望もなかったのでしょう。 自分の嫁との関係を疑って相手の家族を殺した挙げ句(相手本人は不在のため殺害を免れる)犯人が自殺、というケースもあります。遺族には恨みをぶつける相手もいません。 そして今回安倍氏を銃撃した山上某。 彼の境遇も悲惨、凄惨です。事情だけ聞けば春原も同情しています。同情せずにはいられません。 これはこれで本心なのですがその上で「こんなことするくらいなら死ねよ」と考えている自分が居ます。 そんなにタヒにたいのなら他人を巻き込まず自分だけでどうぞ、ってことです。 自殺がいけないことだということはよくわかっています。生きるための努力をすべき、ということも。 でも精神やられちゃってそういうことができない人も居るでしょう。そういう人が死のうとしている時に果たしてそれでも止めるべきなのか。 どうお考えでしょうか。
最近一回相談させてもらったのですが、また怖くなってしょうがないです。 ニュースを見ていると、人がどんどん死んでいき、自分もいつか殺されるんじゃないかと恐怖を感じます。現在アフガニスタンなど、荒れている地域の報道を見ただけで泣きそうです。 死ぬ時って、苦しむのでしょうか、身近な人も無くなっていくのが、怖くなってきます。人は死から避けられないのは、なんとなく理解しているのですが、自分がいつ死ぬのかもわからないのが怖いです。意識が急になくなり、次はどこへ行くのか。非常に怖いです。 ふと思いつくと、寝れません。まだ高校生なのですが、これから先が怖いです。
過去の歴史を振り返っても世界は常に様々な事がある。 争いや災害などなくなる事など決して無い世界で、その時代時代で、人は悩んで、苦しんで、喜んで、楽しんで、悲しんで、嘆いて、様々な感情を抱えながら、それでも人は今を生きている。生かされている。生きていけない。生きるのをやめる。生かしてくれない。様々な状況がある。 生きる事が怖いです。 死ぬのはもっと怖いです。 大切なものを無くす不安、恐怖、悲しみを味わいたくないです。 自分は死にたい訳でもありません。 大切な人に悲しみを与えたくないから。 だけど、いつも、、、。わからないです。 他人を羨んだり、自分を自慢したりもしません。 何かを望んでいる訳でもなく、いつも自分の心は真ん中にあってほしい。 なぜなら様々な出来事に自分の感情が揺れるのが怖いから日々を精一杯生きてるだけです。 それでも年齢を重ねて感動が薄れていく気がします。 けどいつか必ず来る悲しみを味わうのはもう嫌です。 今の世の中は物が溢れているところもあれば、その日その日を食い凌ぐので精一杯のところもあります。 あればあるほどいいとは思いません。 無ければ無いでこした事はないけれど、全く無いのは虚しいです。 モノや感情も同じ事で、自分にとってちょうどいいを見つけて、探して、見失ってその繰り返しです。 豊かとは何か?頭で考え、心で感じ、身体で実感する。 人生はそれの繰り返しで、過去の思い出をふと振り返り愛され、悩み葛藤し、肩を寄せ合って生きてたあの頃が懐かしく愛おしく思います。 今が不幸せという事ではありません。 十分に幸せだと思っています。 救いの言葉を下さい。 自分はどうやって生きていけばいいでしょうか? よろしくお願いします。
無病息災で生きてきた人は、生きたいと思って生きているのでしょうか? 最近、普通は死にたいと思わないらしいと知りました。私は小学生くらいから希死念慮があったのでちょっと驚きました。 事故にあったり、大切な人が亡くなったりといった、生き死にが関わる悩み無く生きている人もいると思います。 そのような人は、生きたいと思う機会がなかなかないのでは? それとも、正常に死にたいと思わず生きている人は、生きたがりながら生きているのでしょうか。 こんな疑問を身近な人に聞くわけにもいかないので(笑)、こちらに投稿いたしました。 私の場合、死にたいとか死にたくないと思っても、生きたいと思った事があるかは曖昧です。
生きるとは何なんでしょうか。いつかは僕も死んでいきます。 そう考えると頑張ったり、努力しようという気が失せてきてしまいました。 つい最近祖母が息が苦しいということで入院しました。 家族、親族でお見舞いに行くと鼻にチューブを入れて息苦しそうにしていました。 「もう、こんな状態で…チューブ刺して生きとうない。もう年を取り過ぎた。楽に死にたい」と言いました。 でも家族や親族は「何言ってるんですか。生きてくれないと私たち悲しいですよ」とか「頑張って乗り越えていきましょう」とか言っているわけです。 でも僕は「もうこんなに息苦しそうにしてて、老衰でこれから改善していく可能性はほぼ0。楽にしてあげたらいいんじゃないか」って思ってしまいました。 祖父もチューブを鼻に刺して最後は本当に苦しそうにして死んでいったそうです。 僕も立ち会っていましたがあまりにも息苦しそうにしていたのでたまらず部屋を出てしまいました。 そういうことを考えると苦しまず楽に死なせてあげてはって思ってしまいます。 またそういうのを目の当たりにしていると先に述べた結局死が来て無になるんだし、頑張ったり努力したりしてもなって…なんかこう生きる活力的なのが一気に失せてしまいました。 こんなこと思うと虚無感がここ最近ひどい感じになってしまって…。 何かこう生きる意味だったりを教えて頂けないでしょうか。何をするにも虚しく感じているんです。 それと苦しくても生き続ける意味とかもあるのでしょうか。何か周りの気持ちだけで楽にしてあげるのを阻害している気がして祖母を可哀そうに思っています。 宜しくお願いします。