私はきっと周りから普通に見えると思います。 でも精神がおかしいのです。 生きたい、けど死にたい。 その感情が尋常じゃなく波のように押し寄せる。 死にたいのか、逃げたいだけなのか、ただ弱い人間だからこういう思考になるのか。 お坊様方の色々な体験談を聞きたいです。 人生の参考に。 私は今、煩悩を勉強しています。 出家も調べました。 でもまだまだ私には覚悟が足りません。 うまく説明できません。苦しいです。助けてください
初めまして。様々なお悩み、そしてご回答をいつも有り難く拝読しております。 単刀直入に質問いたしますが、皆様方はどのような場面で悟りを得られたのでしょうか(例えば坐禅を組んでいる時など)。また、修行しなければ得られないものでしょうか。 私自身は出家するという決意もなく、悟りを得ずとも心の安寧を失わずに過ごせれば良いと思う一方、自分には理解できない「悟り」がどんなものであるのか(伝えられないのも承知しておりますが)、あるいはどうすれば得られるのか、について知りたいと感じています。昔京都のお寺で止観体験をさせて頂き、坐禅の仕方を教わって「5分でも10分でも日常に取り入れると良いですよ」とアドバイスを頂いたので実行しておりますが、こうした日常の中で悟りを得る事もあるのでしょうか。 不躾な質問、申し訳ございません。
もうすぐ50歳になりますが、昔恋人の死をきっかけに日蓮宗にご縁を頂きました。もともと強い霊媒体質で数年前に霊障で苦しんだ時、一心に祈り法華経に感銘を受けご住職に従事し出家を志していましたが、仕事や家庭の事情で断念しました。 それから数年が経ち子供も手を離れやはり法華経、お祖師様、お題目に惹かれ、読誦すると感涙して有難い、ご縁を頂けたことに感謝の念がこみ上げてきて尼僧になりたい思いが諦めきれません。 もし女僧になる事が出来たら、少しでも人の役に立って苦しんでいる人に寄り添って法華経の素晴らしさを伝えていきたいです。 ですが、年齢的にも、仕事もしているし難しいでしょうか。今は正社員ですが、来年以降はパート勤務になれるかもしれません。 ですが、現在師僧になって頂ける方もありません。 お忙しいところ申し訳ありませんがよろしくお願いします。
こんにちは。再びこちらで質問させていただきます。 以前読んだ呉智英著「つぎはぎ仏教入門」という書物の中では、私の従来のイメージとはかけ離れた仏教観が述べられており衝撃を受けました。お釈迦様の物語では、お釈迦様は家族を捨てて出家しており、出家者に対しても①家族を捨てること・②生涯独身でいること・③労働をしないことを要求しています。また梵天勧請のお話では、お釈迦様が悟った後に「私が悟った法は、その内容はあまりにも高度なものであるから、一般の人に説いてもわかるまい。」とそのまま涅槃に入られようとしていたようです。 これらの物語を読むと、仏教とは決してヒューマニズムのような耳障りの良い教えではなく、むしろ社会の常識を揺るがす危険な思想なのではないかと思いました。また、仏教の一番の目標は、やはり「悟りを開くこと」ですが、「悟り」とは私が今まで考えていた「あるがままの世界を観じる」というような単純なものではなく、もっと峻烈で幽玄なものではないかと思いました。 これらを踏まえると、日本の仏教ではお坊さんは妻帯をして、労働されている方もいらっしゃるのが普通の光景です。社会に歩み寄るという点では、ある程度の妥協も必要であるとは思いますが、釈尊の本来の教えから見ると、修行や悟りを軽視している面があるのではないでしょうか? また、その教義が初期仏教とは異なる宗派もいくつかありますが、ある教えが仏教であると言える条件は何なのでしょうか? 日本で悟りを開かれているお坊さんはどれくらいいらっしゃるのでしょうか? その辺りを、お坊さんはどのように考えられているのか伺いたく、質問させていただきました。どうぞよろしくお願いします。
親や家族、または親族に限らず他人から、「あなたのためを思って言っているんだよ」というようなニュアンスの言葉を言われた場合、仏法的にはどのように対処するのでしょうか。 例えば、美大を目指す学生さんが母親に「お願いだから一般の大学に行って」などといわれたりしたとき。 もしくはお坊さまが、お母様に「出家するなんて言わないで」と言われたら、仏法的にはどのように対処なさるのでしょうか。
歴史に登場する人物のwikiなどを読んでますと「仏教に帰依した」みたいな記述をたまに見かけますが、そこで質問です。 「帰依する」とはどの段階からを言うのでしょうか。 出家とか特別な修行を経る事で「帰依する」になるのでしょうか。 それとも、普通の人でも仏教の教えに従い生きていれば「帰依する」になるのでしょうか。 このへんを教えていただけたらと思います。 よろしくお願いします。
44歳、女性、独身です。 尼僧になりたいです。 しかし、難しい持病をいくつも かかえて、通院してます。 高野山などの修行道場に入る、 体力は難しいです。 何処かのお寺に通って尼僧に なる場合はありますか? 神奈川県在住です。 大きな悩みをかかえ、本気で 出家をしたいです。 よろしくお願いします。
世界中の僧侶の中で、日本の僧侶だけ「僧侶」ではないと言われてるのはご存知ですよね? それは結婚=性行為、殺生=生き物を食べる、酒を飲むからです。 出家してから一度も性行為したことなく、蚊や虫を殺したこともなく、肉を食べたこともなく、酒を飲んだこともないというお坊さんがいましたら、そのお方だけの説法を伺いたいです。 肉欲に溺れているのに坊主の説法だなんて自分が恥ずかしくなりませんか? 説法代は懐が痛いくらいがちょうどいいと言います。 とんでもない! そのお金をどんな思いして稼いでると思っているんですか!? 何でたった一度の葬儀に十万も取るんですか? 初七日、49日は3万ずつ。 少ないとなぜ機嫌悪くなるんですか? 葬儀も供養も全てお坊さんの生活のためにある霊感商法なんですか? 真面目に聞いていますので逃げずにお答え下さい。 釈尊が金払えない貧乏人はほっとけと説いたんですね?
こんにちは。お読み頂き有り難うございますm(__)m私はまだ知らされた訳では無いですけど、国に貢献した功績で成功したと思われる状況に有ります。私の悩みは何も知らされずに成功したと思しきことにより父と姉が国から贈られたと思われる私の成功の褒美を奪ってしまったことに有ります。具体的に父は私への褒美をきっかけに約30人以上の婚外子を儲けてしまったと思われます。この間私が受け取った褒美はゼロでした。私は現在独身なのですけど、父と姉は褒美を奪っただけでは飽き足らず私に結婚させないことで子孫に亘る利権についても妨害をして来て私の成功を乗っ取ろうと企図しております。私としては自分の輪廻の輪が金輪と表現出来るような立派な物に育ったことは嬉しいですけど、同時にこの金輪が私に制御できない状態に陥りつつあることも事実だと思います。後は、父が80才に近いので私より先に鬼籍に入ることに希望を抱くほかない状況にあります。こう言った状況を踏まえて私にどう言った選択肢が残されてるか智恵をお借りしたいです。私としては家族と縁を切ることも止むを得ないと考えております。どうかご教授の程宜しくお願い申し上げますm(__)m
お忙しい所恐れ入ります。 仏教では自分の両親を敬い大切にしなさい、と教えられております。 しかし、今の世は「気に入らない」とか「言う事を聞かない」といった理由で、教育や躾という大義名分の名の下に我が子を虐待し、場合によっては殺してしまう事もあります。 その様な幼少期を過ごした子供が両親を快く思わない事は、想像に難くないでしょう。 それでも子は、両親に感謝し敬い、大切にしなければいけないのでしょうか?
物心ついた時から執着がありません。 田舎暮らしで店もなく物があまりない環境で育っていて、物やお金に溢れた暮らしを経験したことがないからかもしれません。 別に愛情に飢えたことも溺愛されたこともないし、無理やり恋人が欲しいともあまり思ったこともないのですが何となく彼女はいることが多いです。 恋愛は相手がいる話なので多少は思い悩みますが。 それとお金や性欲の強さゆえに色々問題を起こして堕落してしまった人が周りに数人いるので、ああはなりたくないな、と思って我欲を出すのは良くないな、とも何となく感じているからでしょうか? お金にも執着がないし、権力なんか持ってもめんどくさいとか思えてしまいます。特にスマホを手に入れてから、物を持つのがますますめんどくさくなっています。 あまりにも執着が無さすぎて、相手を束縛しなさ過ぎて元カノは他人に寝取られたのですが、彼女を責める気持ちにもなれません。彼女に執着しなかったから新しい今の彼女にも出会えたし。 同世代の人間とは経済的な話とかが合わず、話が合うのは物欲が薄いさとり世代の若者ばかりです。 釈迦が全てを捨てて悟りの道へ進んだのは物心両方とも満たされてその状況に満足しなかったからだと聞いております。 出家前の釈迦ほど恵まれた境遇ではないのですが、足るを知っているから今の境遇に不満はありません。 もちろん今から向上心を持ってお金や権力を取りに行けば自分のキャパシティを広げでいくという生き方もあるのかもしれませんが、何かそれは虚しいなぁ...とも思えます。 やはりこの考えは変なのでしょうか?
子育てを終え、主人、子供達ともに家族の将来に不安要素もなく、家族仲も至って良好な関係の形成を継続する事が出来ています。 だからなのか自分の役割を終えたと思うようになりました。 もう何年も自らの生きる意味、価値を見いだせず趣味を探そうとしても興味を持続出来そうなものもなく、生きる楽しみも意義も見出だせないまま、自己否定の苦悩、己の存在意義との葛藤で苦悩するばかり。気がつけば、そんな思考回路のループが出来上がってしまいました。 その苦しみから逃れるため、依存対象を探し求め生産性0のまま消費するだけの生活…そんな人生から脱却すべく出家への願望もあるけれど、それはただの甘えに過ぎない自覚もあり、ただただ真っ暗な迷宮をさ迷ってる現状です。 さほど信心深くもなく、何の学もありませんが、もしもこんな私に有効な道標があるなら、仏様の教えを請いたいと願います。
よろしければ皆様の意見をお聞かせください。 仏教は向上心を否定するか。 向上心とは現状に満足せず、さらに高い目標を目指す心の有り様を表す言葉です。 向上心は現代社会で広く受け入れられ、むしろ向上心が無いことは悪い事という風潮すらあります。 私は向上心の動機として、欲と執着は不可欠だと感じます。 小欲知足を基本とする仏教において、向上心は否定されるでしょうか。 否定される、と言うのが私の考えです。 現代社会は、キリスト教等の禁欲思想を否定し、 欲望を肯定し、それを達成する事で発展してきたように感じます。 ゆえに、欲望を受け入れ自らを切磋琢磨する向上心は、社会の発展に有意義なために広く受け入れられていると考えます。 人の無限の欲望をエネルギー源としている現代社会は、仏教思想と相容れない部分があると思います。 よって、仏教は向上心を否定すると考えます。 皆様はどのようにお考えでしょうか。また、お弟子さんやお子さん等、身の回りの方に向上心が見られない場合、どのように指導する(あるいは指導しない)か教えていただけると助かります。
私は父に怒られ続け、パニック障害になり、20年が経ちます。 現在、私は外で働けていません。 父は自分が原因だとは知らず、私の病気のことも理解していません。 父は私や弟が大学・大学院に行った費用、子供の頃からかかった費用を返してほしいと言います。 「普通の子供は、みんな親に返している」と言います。 何千万円を返してほしい、働いている弟には月に5万円ほど家に入れてほしい、大学にやったのは、お金を子供からもらうためと、父は言っています。 父・母は年金で生活しており、私は両親の世話になっております。 私は会社員だった時は月に数万円お金を家に入れてきました。 今も、わずかですが、収入があった時は1割を家に入れています。 弟は今まで全く入れたことがありません。 弟はこのことを全く知らず、聞いても払わないでしょう。 父は弟のことを「金に汚い」と言います。 父は私が事故にもし遭ったら、裁判を起こし、何千万円を欲しいと言っています。 それは私が生きていて、家に納めるべきお金だからだそうです。 私は全く価値がありませんし、居なければ、むしろ両親の年金が減らなくていいと思います。 父は、「お前は全く金の苦労をしていないから、何でも買ってもらえるから、そんなことを言うんだ」と言います。 私は両親に食事を出してもらい、医療費も出してもらっています。 でも、欲しいものを買ったり、何もしていません。 私は命がお金だと思えないのです。 父は「父や母が死んだら、医療訴訟を起こして、お金を取るべき」だと言います。 命の重みがお金だと思えない私を、父や母は「変人だ」と言います。 ①父や母が死んだら、医療訴訟を起こしてお金を得たいと思わない私は変なのでしょうか? ②何かにつけて学費や今までかかった費用を返してほしいという父をどうしたら良いのでしょうか?
出家したいです。 わがままですが、曹洞宗か天台宗のどちらかで・・・ 駒澤大学を卒業すれば僧侶になれる、と思っていたのですがそんな甘くないみたいですね。 そこで知恵をお借りしたいのですが どういう手順を踏めばいいのでしょうか? 住職になるつもりはなく、また夜勤でもして食ってく覚悟はあります。 PS 座禅会とか参加したいんですが、僧侶になるため、の下心モロ見えだと思います・・・ 皆様はこういう奴が来たらどう思いますか?
できれば浄土真宗のお寺で、念仏の基本(心構えを含む)や浄土真宗(浄土教)そのものについて徐々に学びたいと思っています。 初めてお寺に訪問するのに突然行くのは失礼だと思いますので、電話で予約すべきだと思うのですが、まず住職にお目にかかれば宜しいのでしょうか? このような順番で宜しいのでしょうか? (ちなみに、私が考えているのは出家ではなく在家のままの学びです。) 初めての場合、お寺というのは敷居が高く感じます。 ご教示頂ければ幸いです。
はじめまして。毎日夜に読経をしています。 すること自体は落ち着きますし、ありがたいのですが、基本的に怠け者なのでやりたくない時も出てきます。 出家された方は朝に夕に祈念されているわけで、この程度の事で音を上げていて申し訳ないのですが、「こんなことをしていて何になるのかなあ」という迷いや、「やらないと良くない事が起きるのでは」というような妙な不安、一日さぼると二日三日とどうでもよくなってくる心が出ます。 どのようにしたら薄くなるのでしょうか?
守護霊・霊言があると言うのは、ブッダの教えに背いていると思いますが、 宗派によって様々な考え方が有るというのが現実なので、仕方ないのかもしれません。 しかし、僧侶が苦しんでいる人を救うことに努めるという事は、 全ての宗派に共通するのではないでしょうか? 最近話題の清水富美加さんが出家した宗教団体、について >その方々のことはよくわかりません。 と言うのは、僧侶の行を果していないと思います。 その教団に苦しんでいる人、苦しめられたと言う人々が沢山いるのですから、 その様な方々の事に思いを巡らした上で回答するのが、僧侶の責務ではないでしょうか?
浄土真宗では仏法僧はどのように解釈されていますか? あるいは採用されていない考え方だったりしますか? 付け焼き刃の知識で申し訳無いですが 仏→お釈迦様 法→御仏の教え、真理そのもの? 僧→サンガの方たちみたいな出家修行僧集団? みたいな理解で良いのでしょうか…? 仏とは阿弥陀如来なども含む?としても浄土真宗では非僧非俗? そもそも浄土真宗では釈迦如来はどういう位置づけ? などの疑問があります。 お教えいただければ幸いです。
先日の身体的弱者と出家の質問を書いていてふと思ったのですが、 重度の知的障害者というのは仏教のなかではどの位置にあるのでしょう。 重度の精神・知的障害者の方たちが僧職にはつけないことは理解できますが、仏教というものを私達の言葉・ものさしでは理解・表現できない、身体的・精神的に障害があるひとたちは、仏教徒にはなりえるのでしょうか。 仏教によって、例えば先ほどの浄土真宗の死後成仏し救われるといったような仏道の道というのは彼らにも開いているのでしょうか。