死んだらどうなるのでしょう? 最近そんなことを考えて怖くなる時があります。 私は仏教が好きなのですが、実際自分が死んだらどうなるのか不安になって怖くなる時があります。 何もしないと死後はどうなるのか? 修行をしたら死後は変わるのか? 死後にお坊さんにお経をよんでもらったらどうなるのか? とても不安です。
近年、量子力学等の学問での研究に目覚しい進歩が見られます。 量子力学や精神系分野で輪廻転生の研究の話題が盛り上がっています。 量子力学では遂に死後の世界について【量子もつれ】と呼ばれる現象で論文を発表したり輪廻転生の研究をしていらっしゃる学者さんもいますし少し前ですが精神系分野では著名なアメリカのジム・タッカー博士は輪廻転生をしたと思われる2500人の子供達に関して発表しました。 この子供達の実例を見る限り明らかに例えばAという死んだ人物とは関係ないBの少年又は少女がAの生前の記憶を持って生まれてきている事があるようです。 それでも脳の錯覚だとして懐疑的な学者さんが多い中、現在進行形でこの分野の研究は着実に前へと前進しています。 ちなみに、私は死後の世界も輪廻転生も存在すると考えています。 そこで、今回は輪廻転生についてお聞きしたいです。 お坊さんは輪廻転生とはどのようなものだとお考えなのでしょうか? 輪廻転生の仏教的解釈やお坊さん個人のお考えをお聞かせください。
お坊さんは修業をする時に欲を捨てようというイメージがあります。 例えば精進料理なんかがそんな感じですね。 そこでふと思ったんですが修行の時に「欲を捨てたい」という気持ちになることもあるかと思います。 でもよくよく考えてみたら矛盾した変な言い方になりますけど「欲を捨てたい」という気持ち(言い換えるなら欲を捨てたい欲)は欲になるんでしょうか?
先日 墓前に手を合わせてきたのですが いつもなら ただ心のままに手を合わせ小さい時から耳馴染んできた南無阿弥陀仏と声に出さずとも…なのに 今は亡き父が闘病生活で今まで仏壇すらなかった家に見たこともない位に大きなそれに手を合わせ南無妙法蓮華経と一心不乱に題目してた記憶が頭の中を駆け巡り自然と南無妙法蓮華経と呟いていた自分が居ました。横で手を合わせていた子ども達が不思議そうに私を見て ふ と我に戻ったような気持ちで家についてからも悶々とした状態でした。数ヶ月前から、何度となくハスノハに質問し、有難い回答を宗派問わず色々な角度から聴かせて頂き、座禅会や供養で敷居が高いと遠慮していたお寺にも足を運び 随分と穏やかに過ごせるようになった今 菩提樹もなく仏壇もない自分ですが 一つの宗派にとことん向き合い毎日を丁寧に生きたいと強く思うようになりました。 ただ一つに決める事が出来ず身近な信頼してる人の話しを聞いたり足を運んだりしながらも本を読んでみたり…良いとこどりのズルイ信心だねと 、からかわれたり… しばらく、こんな状態が続きそうで ごめんなさい、コチラで愚痴らせていただきました。 ハスノハは、こんな中途半端な私の拠り所となり有難い居場所です。
この世は迷い苦しみの世界であり、私たちはこの世界を生まれ変わり死に変わり、終わること無く繰り返しています。 仏教の目標は、この六道からの解脱だと伺っております。 しかし苦しみから開放された不変の世界があるとする事は諸行無常や空説に反していないでしょうか。 仏陀は「愛は苦しみの原因」と仰られました。 他にも、様々な欲求は苦しみの原因だと仰りました。 仏陀の仰る通りだと思います。 人は手に入らなければ悩み、手に入るともっと欲しくなりまた悩みます。 そして手に入れた物はいつか失います。 失うと悲しみます。 しかし何も求めず、何も持たないのが苦しみからの開放に繋がると言うのは 極端なニヒリズムに感じます。 仏陀の目指した解脱とは何だったのでしょうか。
観音経に出てくる無尽意という方に方について以前よりどういう方か気になっています。 それで、真言宗のお坊様に質問したら80種類位の法門を説く方だと教えて貰いました。 そして、禅宗のお坊さんなら詳しく分かるかもしれないともお聞きしました。 観音経の本や訳を読んでももさっぱり分かりませんでした。
悩みは妻が葬儀の時に、霊前で焼香の時安らかにお眠り下さいと願ったあと、地獄に落ちろと思ったようです。とてもお父さんが好きだったようでなんでそんなの事思ったのか、ずっと反省と後悔をして不眠症で病院に通っているのですが良くなる気配がないです。本人は生き地獄の末、死んでからも地獄に落ちると仏教の教えにあると、言っています。どうすれば抜け出せるでしょうか?一度、お坊さんと話をしようと連れて行ったのですが、怖くて行かないと言うので。回答をお願いします
はじめまして。とうこといいます。 お寺で参拝するととても落ち着くので、よく行っています。 知識も得ようと本を読んだりしたのですが、そこには「様々な仏は架空の存在である」と書かれていました。 お釈迦様はおられましたが、阿弥陀さまとか薬師如来さまはフィクションだと初めて知りました。 私は深く考えたことがなく、てっきり実在されているのだと思っていたのでその時はショックを受けました。 お坊さんはこのことを知っておられるのだと思いますが、どう受け止められましたか? 仏はいないと思いながら学問としてされているのか、存在されて人々を助けて下さると信じているのか、お坊さんのとらえ方を教えて下さい。
悩み相談というより、学問的な質問になってしまいますが、ふと気になったのでお坊さんにお聞きしたいなと思いました。 深刻なお悩みをお持ちの方が他にたくさんいらっしゃると思いますので、この質問には息抜きのような気持ちで教えていただければと思います。 ーーー タイトルの通り、付喪神は六道のうちどれにあてはまるのだろうと疑問に思いました。 そもそも仏教と神道(?)のようなタイプの違う思想を混ぜてしまっているので、おかしな質問かもしれません... 付喪神という100年たって魂が宿るようなものは、衆生に入るのか。 そもそも輪廻もなにもないので、六道から外れているものなのか。 お坊さんはどう思っていらっしゃるのか、教えていただければなと思います。
私は小学生の頃、大阪のUSJ近くのホテルで恐らく心霊体験をしました。 それ以来、私は今でも霊の存在を信じているのですが私個人としては、どちらも科学で証明できると考えています。 よく霊や死後の世界は非科学的と世間でも科学の世界でも言われていますが、その多くはしっかりと調べもしないで根拠も無いものばかりです。 そもそも非科学という言葉が非科学的ではないのかと私は思ってしまいます。 死後の世界や転生に関しては近年、量子物理学の学者が科学的に存在する可能性を真剣に研究しています。 私は霊や死後の世界などが今まで立証できなかったのは科学が未熟だったからではないかと考えているのです。 ですので、将来、立証できる日が来るのではないかと私的には思います。 そこで質問です。 お坊さんは、霊や死後の世界をどの様な存在だとお考えなのでしょうか? また、もし、今後この分野に科学のメスが入る場合、お坊さんとしては、どの様に思われますか?
私は動物が好き過ぎるあまり、動物を虐待をする人間に対し、なぜこんなゴミみたいな奴が生きているのだろうと憤ってしまいます。情報メディアが発達し、今まで知り得なかった他の国や国内などのいろいろなことが知れるようになったのもあり、人間に虐待されている可哀想な犬や猫、動物たちのことがたくさん報道されるようになりました。その子達をみるとひどいことをされすぎていて心がビリビリにちぎらるようで本当に辛いです。 なぜ自分より小さいものや弱いものに当たり散らしてのうのうと生きているのでしょうか。そんな人間は正直生きていて欲しくないです。 本当にモヤモヤしてしまい、嫌な気分です。お坊さんのご意見を聞かせて欲しいです。宜しくお願い致します。
お盆やお葬式でお坊さんがお経をあげますが、そこで読まれるものは全部同じものだと思っていました。 この前ある仏教の本を読んでいて、宗派によって読むお経が違うことを知りました。 それぞれどういうお経がメジャーなのですか?お盆のときはこのお経とか使い分けとかあるのでしょうか?
各宗派の違いはあれど 仏教は釈迦の教えから発していると思いますが 端的にいってその教えの心髄、核心、エッセンスとは何でしょうか? 多くの宗派のお坊さんからご回答を頂けるとありがたく存じます。 なお恐れ入りますが、 仏教学的な、学べば分かるようなものは期待しません。
日本の仏教と中国の仏教は深い絆があります。 長い時間を経て、両国の僧侶の生活習慣はどんな違いがありますか? お坊さんはどう思いますか? どうぞよろしくお願いいたします!
生きる意味を見失っいます。 私は虐待を受け育ってきました。父親からの暴力、暴言、包丁で刺されたこともあります。父親はアル中で母親にも暴力をふるい入院したことも何度かあります。 最近まではこの状態が普通じゃないと理解すること難しかったように思います。 中学時代は父親に復讐を誓いました。どれだけ否定されようとこいつより社会的位置も収入も超えてやる、それだけで勉強を頑張りました。もちろん勉強の参考書に水をかけるような邪魔、学年で1位取ろうが褒められることもなく馬鹿にされ続けました。らが、その結果大学に行き、希望の業界に入社3年目になる時には会社での成績も上位、父親の収入2倍以上、社会的地位も超えたと、目標を達成出来たと自身の中で満足してしまったように思います。 その時から人生全ての目標を失い、自分は何のために生きてるのか分からなくなり鬱病が発病しました。薬で抑えても外に出ることも出来なくなり、自分の役目が終わったと希死念慮も出ました。会社も自主退職しました。 とにかく認められたかったという思い、そして今にして思えばずっと精神的に支配されてると思います、進行形で。 それから虐待を受け同じような経験を持つ女性と出会い付き合うことになり一緒に治療していきませんかという提案を受けそれに乗りました。治療に関しては過去の記憶を一つ一つ思い出して書き換えるというもので半年かけてやり切りました。 その間、トラウマを思い出して感情のコントロールも出来なくなったり父親から包丁で突きつけられ彼女が警察に通報し父親が殺人未遂で捕まり接見禁止になりました。 その後彼女からは鬱を原因に別れを切り出され私は拒絶されたように感じ周りに味方がいないように感じどんどん落ちていきました。 今はそれから数年が経ち業界大手に転職も果たしました。ですが生きる目標が分からない。ただただ死なないように生きているだけ。人は死という絶対的未来に進んでいくのに対しそこに意味を見出そうとする事で生きているように思います。意味を見出せなくなった時点で魂的には死んでるのだと。 生きることは修行であり魂を磨く為に輪廻転生を繰り返す等、宗教によって様々な捉え方はあると思います。 ほとんどの宗教でも大前提で自殺する事は悪である。しかし人によればこれは救済ではないのか?とにかく生きるとは何か本質を知りたいです。
日本には多くの宗派がありますよね。いままで私はお坊さんに対して、「おしょうさん」と呼んでいたのですが、全宗派の全部のお坊さん・・には使えないことを最近になり知りました。 和尚-Wikipediaによりますと・・・ 1.和上(わじょう) 律宗・浄土真宗(儀式指導者に対してのみ) 2.和尚(わじょう) 法相宗・真言宗など 3.和尚(かしょう) 華厳宗・天台宗など 4.和尚(おしょう) 禅宗・浄土宗・天台宗など 5.和闍(わじゃ) さらにさらに、 6.上人 7.聖人 8.そのた 調べれば調べるほどゴチャゴチャしてきました。 みなさんの宗派では、上記1~8のどれをお使いになりますか?祖師にだけ、宗祖にだけ、始祖にだけ、ふつうの僧侶に対して・・などお教えねがえればと思います。
人への悪口や批判的な事が自分の中に浮かぶとき、自分の事は棚に上げて、とか何様なんだ、などと自問自答が起きることがあります。 悪口を言いたい瞬間というのはありますが、言う事や言っている自分にやや抵抗を覚えます。 なんだか醜い事をしているような、後ろめたい感情を含んでしまいます。 出来るならばあまり悪口を言わないように、と一応心がけています。 とはいえ、世の中は悪口、愚痴を平気でいう人が多くいるように感じます。 その人達は多少なりともそういった後ろめたさのようなものは感じないのか、と不思議に思います。 そこでお聞きしてみたいのですが お坊さんも他人への悪口を言いますか? また、仏教やお坊さんの立場から見て、悪口、他人を悪く言う事はするべきでないことなのでしょうか?
一休さんはとんちが得意なのですが、お坊さんはみんなとんちが得意なのですか? どうやって磨くのですか?とんちが得意になりたいです。
お坊さんは本気で、死んだら仏になると信じているんですか?
菩提寺が浄土宗です。 菩提寺では南無阿弥陀仏を唱えますが、日蓮宗のお寺などを御参拝の時はどちらを唱えればよいのでしょうか。