先日 お寺で法話を書かせて頂いた時に(お寺は浄土真宗本願寺派です) 阿弥陀経のお話で、極楽浄土はどこにあるという内容でした。 阿弥陀経のなかに「從是西方 過十万億佛土」とあるように、「これより西方に、十方億の仏土を過ぎて」と略されます。 しかし、親鸞様は「西方を安心出来る場所、帰る所」「過十万億仏土を他の十万億仏土より優れている」と略されたと聞かせて頂ました。(「過」は「超勝」という意味で、現代語だと越え優れている) この極楽浄土を「他の十万億の仏土より超え優れた安心出来る場所」というのは、親鸞様のどの書物に書かれているのでしょうか? ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授頂ければ幸いです。 すいません、その御法話の時に講師の方に質問すればよかったのですが、家に帰ってお話を思い出していたら気になってきました。 私の記憶違いで間違いがあるかも知れません。申し訳ありませんが、宜しくお願いいたします。
聞きかじりの知識なので正確さを大きく欠いている可能性が御座いますがご了承下さい。 仏教においては輪廻転生が唱えられてはおり、目指すべきは解脱であるため、本来仏教に天国や地獄といったあの世観は存在せず、日本内での布教の際に付随したという話を以前聞きました。 しかしいざ調べてみると、仏教にもあの世観(前世、来世での意味でなく、天国や地獄の意味で)は存在しているという記述を見つけました。 実際に仏教ではどのように考えられているのでしょうか? また、仏教の成り立ちや変遷について学べる読み物が御座いましたらお教えください。
先日もここで相談させて頂いたんですが、母親が亡くなり1週間程です。 来月の中旬に会社で私ともう一人入ってきた方の歓迎会を開いてもらいます。 49日までは、飲み会等を控えといたた方がいいと聞いた事もあります。 欠席はさすがにできないのですが、曜日の変更→10月に入ってからにしてほしいと幹事に言うか迷ってます。 時間が遅くなるので日程は皆さんの空いている金曜日に決定してました。 プライベートの飲み会なら勿論断りますが、会社の関係で私の事で日程変更少し言いづらいのもあります。 でも常識的に49日までは控えるべきと言われたら変更してもらう予定です。 肉とかも控えるときいた事がありましたが、大好物なので、家族父親も兄も普通に今食べています。 私が楽しく過ごしている事が供養とも思いますが、仏様になるまではやはりやめといた方がいいのでしょうか? ちなみに私はアルコール全く飲めないので烏龍茶で飲み会参加します。
はじめまして。今まで正社員として仕事をしてきたのですが、自分はもともとあまりお金をつかう人間ではなく、加えて祖父母の遺産の一部を相続した事で、今後切り詰めれば30年程は仕事をしなくても生活できる貯蓄ができました。 30年も好きに生きれれば十分かなと考える一方、現金収入が完全に途絶えるのは不安なのと自身の引きこもり防止を兼ねてバイトを探し、実家でセミリタイア生活をしようと思っています。こんなことを言い出すくらいですから妻子はもちろんいません。 両親も自分の面倒をみるだけの蓄えはあり、私の上記の希望(+ある程度の金を毎月家に入れること)を伝えたところ、了承を得ています。 ……とここまでは良いのですが、それから結局一年以上、退職に踏みきれず、会社で仕事を続けています。 踏み切れない理由はおそらく二つあると思っています。一つはやはり何か大量の出費があった時の事が怖いこと。 もちろんそれは正社員という立場でも起こり得るし、その立場も今の御時世、決して安心できないのは承知しているつもりですが、比較的不安定な身分になることにやはり不安を感じています。 もう一つは職場に大きな不満が無いことです。全く不満がないと言えば嘘になりますが、いわゆるブラック企業的な心身に障害が出るようなレベルではないし、どの道、苦労の全くない職場など無いでしょう。むしろ報道や周囲の人間の話を聞く限り、私の職場は恵まれている部類だと思います。 一度は「次にちょっとでも嫌な事が起こったら辞めよう!」と決意もしたのですが、いざ実際に起こってみると「こんな些細な事で辞めちゃうのはさすがにちょっと……」と結局退職に踏み切れないでいます。 ……と状況としてはこの様な具合で、贅沢な悩みだといわれるかもしれませんが、なんとか勇気を出して踏み切る方法などあれば教えて頂きたいと思っています。
潰れても自己責任だ!収入減も自己責任だ!学習の遅れは自己責任だ! コロナウイルスによって、日本における自己責任論の蔓延が露呈したと感じています。 私が困っているあの人で、困っているあの人が私だったかもしれない。 それなのに!困っている人達を自己責任だと言って切り捨てようとする人達を見ると、本当に悲しくなります。 つい最近まで自己責任論など成功した大人だけの理屈だと思っていました。 しかし思った以上に自己責任論を展開する人が多く、またそう言った主張に多くの賛同が集まっています。 こんな冷たい世の中を生きていけるのかと不安になります。 自己責任論自体を否定する事は、恐らく出来ません。 自分だって自己責任論振り回していた可能性は十分にあるので、彼らを否定する事も出来ません。 やり場のない憤りと不安で苦しいです。 どの様に向き合って行けば良いでしょうか?ご教示下さい。
腹立ちや腹黒い気持ちが出た時の対処法(即効性のあるものから長期的にすべきこと)を知りたいです。
人間が絶滅したら図書館の本もインターネットの情報も残らないらしいです。文明作るのになんで人類は必死に頑張ってバカじゃね?と思うのです。 1生物学でわかるように子孫を残す意味はないようです。遺伝子の乗り物だ!というドーキンス。子孫繁栄に目的もなくゴールのない遺伝子競争が行われていて。そして死ぬ。肉体すら骨すらも最終的に残らない。まさに俺たちは死刑囚と同じ。明日死ぬかもしれない。けどなんの意味もない。 物理、数学でも真理はなくノイマンもアインシュタインも世界の答えはわからなかった。結局クソ天才でさえ意味不明なこの世界で答えもわからず死んだ。ips細胞より凄い細胞ができても人類は滅ぶし太陽系は無くなり、星間ガスがなくなれば宇宙自体が存在しなくなるらしいです。つまり生物が永続することは100%ないです。苦しみながら老いて孤独にゴミのように死んでいきます。 2また今みんなが必死に頑張ってるこの文明や人間社会も茶番で必死にみんな頑張ってるのに貴方のお寺も誰かの会社や学校も無くなるし100年後にはみんなが努力して頑張った物もなんの意味も無くなる、社会は必死にバカ真面目に理不尽な思いをしながら勉強して仕事して搾取されて資本主義を実践しても未来には何も残らない。バカらしくなりますよね。現代に残るのは格差と理不尽だけ。 3私が必死に優秀な人になるために頑張ってもなんの意味もなく、すごい天才がいて、その天才の上に天才がいてその天才の生きる意味すらなくてその人が何かを生み出してもどうせ死にます。 ニーチェ的に相対論で人は死ぬけど人生は自己満足だ!楽しめ!と思いこむとします。 でもそれらは満足できる人の為のものでしょ?やはり何にでも序列がつけられてるし、その序列のトップになれない人が大半です。それで面白くないなあと思う人がいて、またそのトップもどうせ死ぬのです。好きな仕事もできる人、できない人がいるし。元スポーツ選手で下半身不随の人は自己満足できるのでしょうか? 意味がなくても生きてるよ!とか言う人がいますが、そんな人も大半が真面目に社会参加してます。私のように大学を休学したりしてない。みんな社会に価値があると思ってる。人に会おうとするし何かやろうとする。毎日壁を見つめるなんてことはしない。 生きる意味は放棄して自己満足できらばいいんだよ!という思考にどうやったらなるのですか?
以前の質問とはうって変わった内容で失礼いたします。 禅宗のお坊様方の中で、ご存知の方がおられましたらお教えください。 Wikipediaの「応量器」の項目に、こんな記述があります。 材質は鉄または土が本則とされ木製は禁じられているが、漆をかけたものは鉄製とみなすとして一般には黒塗りの漆器である ここで疑問に思ったのですが、なぜ木製が禁じられているのでしょうか? 器の腐敗を防ぐため、あるいは木片(ささくれ)がのどに刺さることを防ぐためなのかとも思いましたが、鉄製であれば錆もでましょうし、それがのどに悪影響を与えることもありましょう。 にもかかわらず、なぜあえて木製の器のみを指定して禁じたのか、その経緯をご存知であれば、お教えください。 また、昨今はプラスチックの器が増えておりますが、漆器ではなくプラスチック製を応量器(持鉢)に用いているということは無いのでしょうか?こちらも、お教えいただけましたら幸いです。
死にたいです。助けてください。大好きな漫画が終わるまでは死んでも死にきれないので自殺はしませんが死にたいです。 今日母親に進路について言われました。私は諸事情により行ける高校が少ないのですが、その中に行きたい高校がありません。模索していこうと言われましたが、私はもう十分調べてそれでないと言ったんです。高校に行かなかったら後悔するのは私が一番分かっていますが、妥協しても後悔する。八方塞がりで辛いです。親は人生の先輩かもしれませんが 、自分のことは自分が一番分かっているのに、色々言われるのも苦しい。 人生をやり直したい。この間そう言ったら母親にその年ならやり直せると言われましたがそんなことあるわけない。過ぎた時間は戻ってこないんです。もうやり直せません。 その母親も最近好きではなくなってきました。嫌い、というわけではありませんが、産んでくれなくてよかったと。もしも私が親を選んで生まれてきたのならその選択は失敗だったなと思うようになりました。 支離滅裂に、ぐだぐだと書いてしまって申し訳ありません。とにかく、苦しくて、辛いです。胸が締め付けられて涙が出ます。助けてください。
真実を知る!ということと、幸せになれる!は必ずしも一致しないと思います。 何故なら幸せとは不幸せと裏表のような関係であり、どちらか一方のみでは成り立たないからです。毎日が幸せだとしたら、それは幸せではなく当たり前に。^_^ 真実とはなにか、と言ったときに、それはあまりにも平凡で何も高尚なことはない、そのままの剥き出しのままのこと。。幸せとか不幸とかの判断もそこには介入しません。介入したとしても、それもまたよしですが。 真実を知ること=幸せになることだったら素晴らしいとは思いますが、イコールではないと私は思います。 これを綺麗すぎる言葉であたかもイコールしているかのように言ってしまうとスピリチュアルな探求へ陥ります。 (真実を知ることが愛であり究極の幸せだ、、みたいな) そして別に衆生はそれ(真理)を求めていないと思います。 もっと、単純に、幸せになりたい。ただこれ一点かと。 そこのところ皆様はどのような視点をお持ちですか? 楽になりたいのなら沢山の手段があります。セラピーでもカウンセリングでもヒーリングでも。 思い込みを外すワークや、思考を客観視するワークなどなど。。 仏教はそういったアプローチも含んでいるように感じているのですが違いますか? 癒しと真理探求は逆のベクトルを指しているように感じたので疑問が湧きました。 どうぞよろしくお願いいたします(*^_^*)
死というイベントが良くわかりません。 死は所詮他人のイベントだと思うのです。 ご遺族が『後を追いたい』と言っても実行する方より生きている人の方が多いのでは無いでしょうか。楽しい思い出と時折思い出す悲しみはあるかとは思いますが、死に際の辛さは風化されていくように見える気がします。 また、亡くなられた際について周囲の方(ご遺族も含めて)の反応は 大往生された方には『立派』と褒め称えるように、 病気で亡くなられた方には『最期まで闘病して...』と勲章のように、 でも自死については世間に知られたく無い雰囲気が漂いますよね。 死にもランクがあるのでしょうか。私はランク付けされたくないです。 結局いくら周囲が『生きて、死なないで』と言ったところで、他人のイベントでしかない以上説得力がないと思っています。 このような考えの私はどこかおかしいのでしょうか?
今年1月に緊急帝王切開で子供を早産で産みました。予定より二ヶ月早い未熟児だったため、約一ヶ月半、子供は病院に入院して約10日前に退院しました。入院中は毎日病院に通い母乳を届け数時間面会していましたが、退院して一緒に暮らすようになり、昼夜問わずの頻回ミルク、オムツ交換、理由なく泣いていることに疲れてしまいました。実家に帰省する予定でしたが、妹との仲悪いため 実家には数日しか頼らず今はアパートで夫と三人で暮らしています。夫は、毎日仕事の帰りがおそく、週末も出かけてしまうことが多いんです。子供は可愛がってくれていますが、面倒見てくれず子供を抱っこしてあやすだけ。わたしばっかり犠牲になってと思ってしまいます。母乳の出も悪いため、ミルクで育てようと思ってます。周りからは、出なくても吸わせれば出るよ、母乳の方がいいんじゃないの、吐いちゃうのはミルクあげすぎじゃないの、、など言われてすごくストレスです。両親へ相談したら、ストレスは誰でもあるんだからと言われ、それ以上言えませんでした。旦那からも、ミルクはお金かかるから、母乳でれば母乳の方がいいんだから、吸わせてみれば?と言われます。母乳の方がいいのはわかってます。おっぱいをくわえさせても出ないため、子供は大泣きしてしまいます。私自身は母乳をあきらめミルクでいいと思っています。それでも周りから母乳って言われるストレス。みんなは可愛いって言ってくれますが、24時間一緒にいる私は、子供をかわいいと思えません。妊娠した時は、嬉しかったけど、いざ子供が産まれたら理想と現実の違いで子供と一緒にいるのも苦痛になってしまっています。同年代の子供を持つママ達を見ると、余裕があるように見えて、自分には母性もないのかなとショックです。あんなに望んでた子供だけど、いざ目の前にいる子供を世話していると産まなきゃ良かったのかなって感じてしまいます。子供には望まれないで産まれたと思って欲しくないけど、そう思ってしまう私がいます。母親失格です。毎日辛くて、子供に関わりたくないと思ってしまいます。
いつもお世話になっております。 最近、人間はどう生きていけば良いものか、 悩んでいます。 まず私は、肉を食べることに罪悪感を覚え、 ヴィーガンになろうかと悩んでいるのですが ヴィーガンになって何になるんだろうというのが分かりません。 ヴィーガンになっても、生きている限りは どこかで間接的にでも他の生物の命を奪わなくては まともに生きていけないでしょう。 そこで、もういっそ死んでしまいたいと 思ってしまいます。 また、先日私たち家族は、話し合ってペットショップから猫を飼いました。 でも後々になって、ひどく恐ろしいことをしてしまったような気分になって… 人生なにが起こるかわかりません。 ある日突然、家族みんな死んでしまうかも… ある日突然貧乏になって、猫を養えなくなってしまうかも… そういうことを考え出したら、 あの時しっかり猫を飼うことに反対していれば、という後悔が止まらなくなりました。 また似たような話で、子供をつくることについてなのですが、 世の中には、「子作りは親のエゴで、子供の同意なく、なにが起こるか分からないこの世に産み出すことは道徳的に良くない」 という主張があります。 子作りが親のエゴだというのは、 私も同意します。 でも、欲しい。…そうなったときに、子供を産んでしまった親は、彼らの言うように、最低な人間なのでしょうか。 許されないのでしょうか。 私は自分のエゴとどうやって付き合っていけば良いのか、もう分かりません。 いっそ死ぬしかないのではと、思ってしまいます。 責任を持つことが大事なのですか? 感謝をすることが大事なのですか? 責任を持つ、なんて、人生なにが起こるか分からないのに、簡単に言えることでは無いような気がしますし 感謝をするのは、私たちに食べられるために殺された動物や植物たちに、許された気分になるためにするだけなのではと、思ってしまって 私は、私が生きていることが、感謝しても済まされないような残酷なことのように思えて仕方ありません。 人間のエゴは、許されませんか。 そもそも、許す許さないの話では無いのですか。
おはようございます。 先程、子供の頃の夢を見ました。「人生で一番大切なものは?」という、非常に面白い言い合いをしていました。夢でなく、実際にそういった会話をしたのを覚えています。 「命!」と答えると「じゃあ、お金いらないね」 「金!」と答えると「じゃあ、命いらないね」 子供らしい、何とも言えない惨たらしい言葉遊びです。 そこで私は考えました。考えた結果、「『どちらが』と選べるのは、命あっての物種だ。問いかける対象が考える以上、命ありきの物だ」となり、「では二番目はお金か?」と自問しました。 しかしながら、お金は三番目に落とすことにしたのです。 私は今、友人にお金を借りています。また、別の友人にお金を貸しています。それぞれ、結構な額です。なぜ貸借金したか、と問われれば、信頼だとか未来だとか、キレイ事が浮かんでは消えています。 そこで。こう結論付けました。「二番目は『人との繋がり』だ」と。 例えば私を頼って「10万貸してくれ」と言われれば、その理由によっては3万程度、場合によっては50万まで出せる気持ちがあります。また、内臓疾患を友人が患ったら、適合すれば喜んで肺の1つでも差し出します。 人との繋がりが強ければ強いほど、お金の問題も命の問題も軽減されると考えました。 私は音楽の好きな人のコミュニティに入っています。同時に、少々マニアックなコミュニティにも入っています。コミュニティ同士に繋がりはありません。 そこで、私は友人の輪を広げ、構築したいと考えました。私と出会った人々全員にお礼が言いたい。こんなどうしようもない奴と、僅かでも付き合ってくれてありがとう、と伝えたい。 実に多くの新興宗教家が理想とする世界観を、私も考えてしまいました。が、多神教であり信仰の自由もある日本であるが故に、新興宗教と言うだけで怪しいと感じてしまう人が多いようです。 そこで、既存の宗教に頼ることにしました。知り合い同士も、知らない者同士も、まとめて皆仲良くなってもらいたいし、お礼を言いたい。それには、生前葬が一番だと。 面白そう、やってる人少なそう、という考えも、もちろんありますが、それ以上に望むものがあります。 生前葬は、このようなきっかけで行って大丈夫なのでしょうか?また、自分の葬儀に参列することについてのお考えをいただきたいと思います。
先日主人の母方の法事があり結婚後初めて出席しました。 主人からみて ひいお爺様のお父様、ひいお爺様、ひいお婆様の法事でした。 お経を読んでくださったお坊様は私の子どもたちに走り回ってても良いととても優しくしてくださいました。しかし、袈裟を着ず、お経を読み始めると中盤は、なむなむだ、なむなむだ、なむなむなむなむなむだと聞こえるような(発音はお経の読み方のように一字一句伸びのあるような)お経が続きました。お経が書かれた本のようなものを決まった間隔でめくっていたのですがペラペラと2ページめくることもありました。 親戚のおばあちゃん達はこんなお経聞いたことない、人を馬鹿にしてるのかと言ってる人もいました。 いろいろな宗派があり、お経もそれぞれだとは思いますが、上記のようなお経はきちんとした読み方なのでしょうか?それとも適当に読まれたのでしょうか?
はじめまして。 何年か前に結婚したのですが、私の実家は浄土真宗だったのですが、嫁いだ先は曹洞宗でした。 私の地元が浄土真宗と縁のある場所だったこともあり、個人的には浄土真宗に親しみを感じていました。 ここで質問なのですが、結婚したらやはり、改宗するのが一般的なのですかね。 義祖母のお葬式の際にお経も全く違い、もし私のお葬式で曹洞宗のお坊さんだったら違和感があるな。と思ってしまいました。 年齢的にも考えるにはまだ早い気もするのですが、義父義母の手前、私だけ浄土真宗で。というのも申し訳ないし普通はどうなんだろうと思っております。 ご回答のほどお願いします。
彼がなくなりました。 仕事のノイローゼからきたうつ病による自死でした。 恐らく衝動的なもので、だから、自殺だとは思ってません。 病死だと思っています。 ですが、亡くなる直前に電話したのは私で、もしかしてそれが彼の自死に最後の一押しをしてしまったのではないか、私と電話しなければ今も生きていてくれたのではないかと後悔ばかりです。 後追い自殺も正直考えましたが、色々な仏教のお話を読んで何とか踏みとどまっている途中です。 また彼が亡くなったのが受け止めきれず、仕事が手につかなくなり辞めて実家に帰ってしまいました。 遠く離れているのですが、彼の為にできることはありますか? 宗派で何か違うのでしょうか? 彼の家は高野山真言宗でした。 彼の供養のために、彼が早く楽になれるように私にできることを知りたいです。
数年前に旦那の母親の母が亡くなりました その時に義母と義母の妹の話が聞こえてきました 妹が『旦那の母親が死んだんだけど、葬式出たくなかった。嫌いだし嫌がらせされたから』 それを聞いた義母が『そんなの出なくていいだよ。嫌いな人の葬式なん行かなくていい』 と言っていました。 私は衝撃を受けました。 旦那の親なら出るのが当たり前だと思ってたのですが、嫌いだからという理由で出なくてもいいのですか? 出なくていいのなら 私も義母に 『なんであの子と息子は結婚しなかったのかなぁ』と受け入れられてないので 出たくないです。
例えば、彼氏といつかここに行ってみたいね、という話があった時、「いつ行くか」という事を今決めておかないと不安になったり。 今バンド活動をしているのですが、メンバーの怪我や個人的な事情などで活動できない期間が1か月でもあいてしまったりすると不安になります。 その他にも様々なことがいつも頭の中でせわしなく動いていて、気持ちの休まる暇がありません。 やるべきことが滞っている状態や、トラブルが起きて思い通りに進まないという状態に耐えられないのです。そうしている間に、そのもの自体が消えてどこかに行ってしまう、失ってしまうんじゃないかという不安が襲ってくるんです。 彼氏には、あまり物事を急ぎすぎると周りも疲れてしまうよ、と言われます。私も、もっとゆったりとした気持ちで日々過ごしたいと思ってはいるのですが、どうしたらそうなれるのかがわかりません。アドバイスを戴きたいです。
自分はこのままじゃ駄目だと一昨年の年末以来ずっと悩み続けてきました。年齢相応にしっかりした人間にならなくちゃ、と思い続けてきました。hasunohaでも二回程相談に乗って貰いました。 今の私は何も前進していません。人の話や本の内容が頭を素通りしていきます。自分に自信が無いから行動を起こす事ができないんです。変わった事といえば自分の部屋が以前より片付いたくらいです。 相談に乗ってくれたお坊さま達には申し訳ない気持ちで一杯です。私のような人間はギリギリまで追い込まれないと変わることも自分を褒めてやることもできないのでしょうか?