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検索結果: 335件

不謹慎な事を思ってしまう

私は、死後の世界(地獄)に行く事が怖くなり、仏教に巡り合いました。 しかし、私は、昔から疑心暗鬼に なってしまう性格なので、仏教の教えにも疑いを示すことが、度々ありました。 そこからなのか、私は、神仏の皆様に、大変心無い言葉を思い浮かべたり、素晴らしい「南無阿弥陀仏」を罵倒するような事をおもったり、神社などに行くと、爆発が起こるような不謹慎極まりない、 残酷な妄想をしてしまいます。 もちろん、失礼な事をしてしまった自覚はあるので、思い浮かべたら、仏壇や、神棚に向かって懺悔をして、前を向こうとするのですが、その懺悔をした後でも、思い浮かべてしまったりして抑え込めないようになりました。 もちろん辞めたくて、自分にこれ以上したら地獄に落ちるぞと、言い聞かせているのですが、ふとした時に思い浮かべてしまいます。 毎日毎日同じような罪を犯してしまう自分は、愚かで、自分に甘すぎるといつも思います。 もうこうなってしまったので、 確実に地獄に落ちてしまうことを 考えると、日常生活どころでは、 なくなりました。 いつもこんな自分の心に落胆し、 絶望しています。 こんな私は、助かるのでしょうか? どうすれば、こんな心を制御できるのでしょうか? 大変烏滸がましいですが、こんな私に助言を頂けないでしょうか?

有り難し有り難し 24
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極楽浄土に往生し、成仏した後は?

死後の世界については生まれ変わるとか、天国に行くとか地獄に落ちるとか、さまざまな考え方がありますが、私は死んだ後の世界は死ぬまで分からないので、その時に考えようと思っていました。 ですが、今年に入って長年共に過ごしてきた愛猫を亡くし、その子に天国から見守っていてほしい、自分が逝った時は天国で待っていて欲しい、迎えに来て欲しいと思うようになりました。とても自分勝手な理由ではありますが、天国(亡くなった生き物が行く世界)が存在していて欲しいと今は思っています。 数日前に縁あってこちらのサイトに辿り着き、死後についてのさまざまな質問・回答を興味深く読ませていただきました。 私なりの解釈ですが、仏教で言う天国とは極楽浄土のことだと認識しております。 極楽浄土へ行きたいと願い、念仏を唱える事で、阿弥陀様が極楽浄土へ往生させてくださる。そこで成仏するための修行を行う。 成仏するとは、「煩悩を手放して真理を悟り、仏になる事」という認識でよいでしょうか。 それでは、仏になった後は?という疑問が生まれました。 極楽浄土から、娑婆世界を生きる自分の家族や親しい者を見守るのでしょうか。それとも先に成仏した親しい者たちと、共に極楽浄土で穏やかに過ごすのでしょうか。自分より後に極楽浄土へ来た者たちが成仏するお手伝いをするのでしょうか。 極楽浄土で永遠に過ごすのではなく、娑婆世界を生きる者を救うため、気付きを与えるために、姿を変えてまた娑婆世界に生まれるのでしょうか。 私は極楽浄土で穏やかに愛猫と過ごしたいと願いますが、それも執着、煩悩になりますよね。この煩悩は生きている間は手放せそうにないのですが、極楽浄土で修業し成仏できたら、また愛猫との関係も変わってくるのかもしれません。 成仏したその後の事までは考えず、阿弥陀様におまかせすれば良いようにしてくださるのかもしれませんが、ふと疑問に思ったので質問させていただきました。 過去の質問から、「お釈迦様は死後の世界については、説かれなかった」という回答もありましたので、確かな答えはないと思いますが、どのような解釈をされているか、教えていただけると幸いです。

有り難し有り難し 47
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「蜘蛛の糸」について

私は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という作品が、昔からいろいろに解釈できて、ずっと不思議に思っていました。 最初に読んだとき(子どものとき)は、 ①カンダタは莫迦だなあ、自分ならきっと、みんなと力を合わせて、みんなで極楽にたどり着くのに と思った ちょっと時間がたって(思春期) ②どうせ私もカンダタと同じだろう、きっと誰でもエゴが勝ってチャンスをだめにしてしまうに違いない と思った またしばらくして(反抗期) ③お釈迦様って何様なんだ!(お釈迦様だけど。)教養もなく悪人として生きてきたカンダタを、カンダタが成功しそうにない極限状況で試すなんて。助ける気なんかもともとないじゃないか、この話に正解も救いもないじゃないか と思った また少しして(青年期) ④カンダタが蜘蛛の糸を見ても登ろうと思わないくらい達観していたら、もしくは落語の江戸っ子のように、「一度地獄に落ちた身分の自分が、いまさら蜘蛛の糸などにすがってたまるか」と居直っていたら、お釈迦様は確実にカンダタを助けていたのかも と思った そして今(中年期) ⑤芥川が絵本として子供向けに書いた以上、一周回って、①の子どもらしい慢心(カンダタを通した戒め)が作者の意図した一番素直な読ませ方なのでは とも思う そこで質問です。 カンダタが確実に極楽に上がるためには、どうすればよかったのでしょう。 回答者陣のお坊様方は、自分の仏教に関するすべての見識や体験をふまえたならば、助かりたいカンダタに何とアドバイスしますか? それともこれは、カンダタはどうやっても助からないというお話なのでしょうか? その他、この作品に対してどう解釈しますか?

有り難し有り難し 115
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2024/01/16

行き着くところは皆同じ

ある時、生きる意味を教えてくれた人がいました。 生きることは愛である。と教えてもらいました。 その時から私も生きることは愛だと考えるようになりました。 話を聞いている中で疑問ができたので、恩師に質問をしました。 この世に生まれてきて、愛に触れて愛を学び、それが一番大切なものだと気づいたとして、そのあと行き着くのは何処ですか?と質問しました。 行き着くところは皆同じ、源だ。と教わりました。 たくさん宗教があるが最後行き着く場所は皆、源である。と教えて頂きまさした。 まだうまく理解はできていないのですが、 生命あるもの皆等しくいずれ天に還る。ということかと仮定しました。 そう考えた時に、死後この世界ではない別の世界があり、そこに源があるなら、本当の世界とは死後の世界ではないかと考えました。 天に還るという事は、元は私たちは天からやってきたのか?とふと思いました。 でもやっぱり死んでみないとわからないなぁ、に行きつきました。 恩師の言葉で印象に残っているのは、 この時代、この家族、この友達、この恋人、全部この人生だけの組み合わせである。楽しみ尽くさないと勿体無いよ。ということでした。 人によって考え方は違いますし、 今の生活を修行と言う人もいるし、地獄と言う人もいました。 皆に源って何?と聞いてみましたが、わからないと言っていました。 源とは何でしょうか。 よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1
2024/01/19

自分を変える力が欲しいです。

はじめまして。 文章をまとめることや伝えたいことを相手にお伝えすることが苦手なのですが、頭のなかで考えていること、普段の苦しみを変えたいという気持ちで文章にしてみました。 お忙しいところ恐縮ですが、読んでいただけるだけでも嬉しいです。 毎日なにげなく過ごしているなかで良いことも悪いことも感じ、学んでいます。そのようなことをこれからの人生に取り入れたい、そのように変わりたいと思う気持ちはいくらでも考えることや人には指摘できるのに自分ではこのようにやってみようと思い試してみますがなぜか不安になります。不安を感じやすく、イライラしてしまい、ときには攻撃的になってしまい後悔の毎日です。 私自身に余裕を作る方法も見つからないです。誰かに話すことも嫌われていると常に不安なので悩みを聞いて貰うことにも勇気がでないです。いじめにあっていたことや私の性格、精神疾患のことなどで前向きに考えることができないです。 誰かの訃報を知り、その方の人生から感じることや学ぶことがたくさんあり取り入れたい、旅立つときに私自身は後悔が少ないような、残された方々にも涙を流すよりは笑って貰えるような人生にしたいと考えることはできますが、どのようにしたらそのような過ごし方ができるのか見つけることを諦めそうなときがあります。 生きている今も地獄のように苦しですが、亡くなったあとのことを考えることが増え生きている今も死後も地獄と考えてしまいます。 毎日が暗いので自分の人生に過ごし方に光が差すような過ごし方ができるようアドバイスをいただきたいです。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1
2022/07/19

許しを得て極楽浄土に行くことは可能ですか

自分の今までの人生を振り返ると間違いなく死後は地獄行きだなと思う生き方をしてきました。動物を興味本位で飼い始め管理不足で殺してしまったり粗相をしたペットに暴言を吐いたりまた人付き合いで振り返るとなんであの時あんな態度をとってしまったんだろう、あんなことを言ってしまったんだろうと思うことばかり相手に対して口に出さずとも心の中で嫌なことを思ったり嘘をついたり傷つけることばかりでした。食べ物を粗末にもしてしまいました…私ほど嫌なダメな人間は他にいないと思う程酷い生き方をしてきました。私自身がこんなにダメな人間なのにも関わらず親身になって助けてくれる人が沢山いてくれてそのことを思うと感謝でいっぱいの反面こんなダメな奴助ける価値もないのにとか助けられる資格もないのにとか周りの人の神様のような優しさと自分のギャップで更に落ち込みます。きっとこんな素敵な人達は極楽浄土まっしぐらなんだろうなと思うし私みたいなダメ人間は地獄まっしぐらだなと思います。私自身今まで犯してきた罪はそう簡単に許されてはいけないものだと思うのですが自己中なのでできるなら極楽浄土に向かいたいと思ってしまいます。こんな救いようのない最低な人間でも極楽浄土に向かうことは出来るのでしょうか?罪を現世で償う方法はあるのでしょうか?

有り難し有り難し 16
回答数回答 1

死ぬのが怖いです

高校生です 私は中学生の頃からずっと死ぬのが怖いです 私はこれまでの短い人生の中でも色々と悪いことをしてきました。嘘もつきましたし、人を傷つけたこともあります また、幼い頃(幼稚園生頃)にお店で量り売りとして売っていたチョコレートを一粒こっそり食べてしまったことがあります。あの事をずっと後悔しています 沢山悪いことをしてきたと思います 私はきっと、死んだら地獄に落ちてしまうことでしょう。祖母は「絶対天国に行けるからね」と言ってくれますが、それでも確証がありません いえ、地獄に落ちるかもしれない、それ以上に怖いことがあります それは、死んだら“私”が無くなってしまうのではないかということです 私は、私がこれまで積み上げてきた物を失うことが、自我が無くなってしまうことが怖いです 今、こうして悩み、悲しみ、笑い、怒り。そんな感情を抱いている私が消滅するかもしれないということが、本当に怖くてたまりません この恐怖は一年に五回程度湧き上がってきては私を悩ませます。怖くて怖くて、死後のことを思うと私は涙が止まらなくなります ですが、周りの大人は私のこの悩みを「くだらない」「大人になればそんな悩み薄れる」と言ってまともに取り合ってくれません。私は“今”の対策が知りたいのです。大人になってから、なんて待てません 死ぬのが怖いと言いながら、不老不死になりたいかと聞かれると困ります。永遠の命なんて寂しいですから この悩みの解決策がわからないままです 今も苦しみを堪えながらこの文をうっています 誰か、私を助けてください カテゴリー等、間違えていたら申し訳ありません

有り難し有り難し 30
回答数回答 2
2023/06/08

思い描く生き方とかけ離れている

人に優しくても私自身が期待通りしているようにはならない、期待する分だけ自分が悲しくなるのは分かっているのですが、どうしても家族や友人、周りの方に優しくすれば私も同じようにしてもらえると思ってしまいます。 友人に連絡をして既読スルーや返事がないとイライラしたり、連絡を送った相手の身になにかあったのではないか、嫌われているのではないかなど不安にもなりやすく、自分のことしか考えられません… なにかをしたら返ってくると求め過ぎてなにもされないと相手ばかりが得をしているように思ってしまい、どんどん汚い心になっています。期待を求めるのでなくて、素直に思いやりのある心、優しい心、親切な心など慈悲の心を持ちたいです。「ありがとう」と言ってくれたらそれ以上求めない気持ちを持ちたいです。私は死後のことをとても気にしているので、亡くなったあとのことばかりを気にしています。神様や仏様のように心の中でどのように思っているのか分からない現世の方になにかをするときには、相手に対して悪いことを考えてしまい、行動をするときも私は周りの人達とは違う。私はえらいこれで死後は報われるなど考えてしまいます。ですが地獄をモチーフにしたアニメを見ると今のままではいけないと感じています。 今までたくさんの嘘をついて自分が寂しい、心配してほ欲しい、構って欲しいという理由だけで人に嘘をつくこともあります。自宅に天国と地獄の絵図が飾られており、以前その前で手を合わせて心境や状況をお話しして「つらいけれど頑張って生きたいと思っております。どうかこんな私でもお力をお貸しください」とお伝えしたら、はっきりとは覚えていないのですが、その晩の夢に菩薩様のような方が「慈悲の心」と教えてくださった気がしています。 現在は生きる意味や私は悪いことしかできていない人間だと思っていますが、「私らしく生きたい」と頑張りたい気持ちもあります。神様や仏様に頼りたい、助けていただきたいという気持ちは山々です。ですが、神様や仏様は自分で頑張ってみて、周りからアドバイスをいただいても変わらない、自分の力ではどうにもならなくなり辛くなったときには力を貸して下さる存在だと信じていますので、まずは自分でできることを行いたいです。なので、まずはハスノハの皆様にお力添えしていただきたいです。どのようにしたら、期待を求め過ぎず慈悲の心を持てるようになりますか。

有り難し有り難し 7
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2021/05/03

兄が自死したことについてです

5月2日に兄が自死しました。 何年間も連絡をとってなく、特別仲が良かったというのもないのですんなり自分の中で受け入れていたつもりですが、 死後の世界や自死だとどうなるのかが気になってしまい、ずっと調べてしまいます。 ただでさえ自死してしまうほど悩んで苦しんでいたのに、自死は地獄に堕ちるだの現世にとどまるだの救いのない事ばかりでてきて悔しいです。 もちろん、良いことではないですし親不孝者だというのもわかります。 ですが『生きていればいいことがある』『生きてさえいてくれればそれでいい』なんて綺麗事だと思ってしまいます。 兄の人生を歩むのは兄自身です。 その兄が一生懸命たたかって、考えて、悩んで苦しんでだした答えが自死なのに、そんなに間違っていることなんでしょうか? 自死してしまった人にこれ以上、苦しんで欲しくないと願ってしまうのは贅沢ですか? 話は変わってしまいますが、夜や鏡が怖くなってしまい、眠るのが難しくなってしまいました。 兄がみえてしまうんじゃないか、なにか心霊現象なるものが起きるんじゃないかと思ってしまいます。 きちんと心からお祈りして成仏してほしい気持ちと、兄が怖くて怖くてたまらない気持ちが入り交じってしまいます… 火葬場が空いていないため、お経も火葬もまだですが、兄はいまどういった状況にあるのでしょうか? 何が聞きたいのか、なにが言いたいのかまとまってなくてすみません。 とにかく、兄には成仏してもらい、楽になってほしいと願っていますが実際はどうなんでしょうか? また、なぜこんなにも怖いと思ってしまうのかなにかご存知であれば教えていただきたいです。

有り難し有り難し 18
回答数回答 2

私の信仰について

今回は非常に個人的な悩みとなります。 私は最近、仏教について調べたり、考えたりして、一種の信仰心を持つようになりました。(他人には一切信仰を公言してません)他人が悲惨な目にあったニュースを見聞きしたり、電車の人身事故があった時などは、心の中で南無阿弥陀と唱えるようにしてます。(宗派とかはよくわからないので、とにかく心で唱えるようにしてます)ただ、この教えはどの宗派かはわかりませんが、南無阿弥陀を唱えると、仏様が極楽浄土へ連れて行ってくれるという話を聞いたので、正直、他人のためではなく、唱えることにより自分が死後、安らかな場所に行けるように唱えていると考えてしまいます。 そこで2つ質問があります。 1 心の中で南無阿弥陀と唱えるだけでも良いことですか?また、他人に亡くなった方に対して唱えることは良いことなのでしょうか? 2前述したように、南無阿弥陀と唱えることは、自分が死後安らかに過ごせるようになるためであり、それは他人の為ではないという考えが少なからず自分の中にあります。純粋に他人の為に仏教に信仰心を持つにはどうすれば良いのでしょうか? この先は質問と関係無く、ただhasunohaのお坊さんへの感謝と自身の信仰に関する話です。 いつも悩みを聴いてくださり本当にありがとうございます。1人では考えきれない事を今までお坊さん方は真剣にアドバイスしてくださり、以前あった私の死にたいという気持ちも随分と楽になりました。本当にありがとうございます。また、このサイトがきっかけで、宗教とは非常に遠かった私の中に信仰心が生まれました。正直、極楽浄土や地獄、仏様など、目に見えない世界に関しては半信半疑です。しかし、過去の仏陀やお坊さん、そして現在のお坊さんなどが人々の為に幸せや平穏を願った。そして今も願っているという事実は変わりません。そしてその事実が現実に対して言いようのない不安に駆られていた私にとって光です。誰かの幸せの願う心の存在こそ私の救いです。皆さんの考える仏教への信仰とは全く違う形かもしれませんが、私は仏教をこのように信仰してます。 そしてこれからも、お坊さんのように誰かの幸せを願う人でありたいです。質問とは関係はありませんが、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。

有り難し有り難し 21
回答数回答 2

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