私は毎日、大切な人たちの死を考えてしまい、悲しくて苦しくてこの先の人生に希望が持てなくなるような瞬間があります。 大切な人たちというのは主に家族で、特に両親や姉妹のことです。 昨年、結婚し初めて実家を出ました。 元々結婚願望がなかった私でしたが、婚約してからはあっという間に家を出ることになってしまい、当時29歳でしたが、なんだか現実に起こっていることと自分の心がついてこないような感覚でした。 あぁ、私も結婚する歳なんだなぁ…大人になってたんだよなぁ…というような感じです。 結婚生活はとても楽しく、実家にもよく顔を見せに帰っていますし、姉妹とも連絡は頻繁に取っています。 しかし、いつも楽しく幸せだと感じる裏側で、いつかこの幸せも終わってしまう、いつまでも幸せではいられない。そう思ってしまうのです。 もしかしたらあと10年後には両親がいないかもしれない。もう少し前の私であれば、そんな考えが浮かんでも「まだまだ若いし元気だから大丈夫」と自分を励ますことができたのですが、最近ではもう親の死も他人事ではないというか、あり得ないことではないと落ち込んでしまいます。 いつだって人は死と隣り合わせで生きているし、親がいくつだろうと、自分が大人でも子どもでも関係ないことだったのに。 この先私が親や姉妹よりも長生きするとすれば、私の未来にはとても悲しくて辛い出来事が必ず当たり前のように訪れます。 「大切な人の死」という、想像しただけでも胸をえぐられるような悲しみ以上に、楽しいことや幸せだと思えることが今後あるのでしょうか。 もちろん私の両親も自分の親とのお別れを経験しているわけですし、人はそうやって生きていくものだと思いますが、こんなことを夜な夜な考えてはこの先の未来に影を落としてしまいます。 少しでも前向きに考えていけるようになりたくて、ここでお話しさせて頂きました。 わかりにくい文章で申し訳ございませんが、何かお言葉を頂けたらと思います。
弟が23歳の若さで突然亡くなりました。 私たち家族は信じられなくて夢のように感じています。でも現実は残酷で受け入れて行くしかなく、弟が安らかに眠れるようにお通夜やお葬式を行い全て終えました。 母は憔悴していて私も寂しいし悲しいけれどしないといけないことは山ほどあり、母の代わりに色んな手続きを行っています。でも何もせずに悲しむだけの母に疲れもありイライラしてしまい度々喧嘩になってしまいます。生活していかないといけないので来週からは仕事に行かないといけないし正直しんどいです。このままだと家族がバラバラになってしまうように思います。いつか時間が経てば乗り越えれるのでしょうか?
はじめまして。 私は寂しいという感情がわかりません。原因が生まれつきなのか、育った環境に問題があったのかわかりません。 会社の人間関係は良好ですが、それ以上に友達になるほどではありません。 友達や同僚とワイワイ遊ぶより1人で時間を使うほうが快適です。 そんな性格で40年ほど生きてきましたが何の問題もありませんでした。 こんな私でも結婚して夫婦仲良く暮らしています。 周りの人達は寂しいとつぶやいたり、寂しさが原因で泣いたり心が病んだりするのを見ると可哀想だなと感じますが。自分は理解できません。こんな感情が自分にはなくて良かったぁ〜って思うほどです。 ある日、同僚にその感情がない自分のことを聞いてみたら、冗談まじりで『サイコパスちゃうか?』と言われました。 こんな私は薄情で異常ですか?個性として受け入れて良いですか?
何度もhasunohaにお世話になっております。 1月に最愛の妻を亡くし、ご相談させて頂いています。ですが、なかなか立ち直れず、死を受け入れられない状態で、ポッカリ空いた心の穴は塞がらず、何もしたくなく、何をしても楽しくありません。買い物に行けば妻と一緒に行ってた頃をを思い出し、他夫婦の買い物している姿を見ると悲しく、羨ましく見えます。 今日、4月28日は私の誕生日ですが、最悪な誕生日を迎えています。妻が亡くなったのも負担をかけすぎた自分のせいです。生きているのが嫌になり、後追いも頭から離れません。自分でもどうすればいいのかわかりません。
北朝鮮情勢が緊迫し、アメリカが日本海に空母を送り込んだあたりから「自分は近いうち死んでしまうのではないか?」と思うようになってしまいました。 戦争に対する恐怖感は、ここで他の方の質問の回答を見てだいぶ無くなりましたが、(といっても北朝鮮に加え中国や韓国も怖いですが) 最近、調べ物をしてたら「死海文書によると2018年に人類滅亡」とか、今年とそれ以降の人類滅亡に関する予言とか、そういった予言の記事を偶然発見し見てしまい、最近はそっちの方に恐怖感を抱いています。 ノストラダムスの予言の後に生まれたので、ノストラダムスに関してはあまり知りませんが、2012年のマヤ文明の予言にはすごくビビっていた記憶があります。 そういった記事を見てしまったおかげで、頭の中で終末の時の感じとかを想像してしまったりして怯えたり、「今すぐ世界の終わりが来たらどうしよう」などといったことを四六時中考えてしまったりするようになって体調がさらに悪化し、この間主治医に相談して精神安定剤もまた飲み始めましたが、それでもこの胸の気持ち悪さは治りません。主治医の先生には環境が変わって気が張ってるのかな?って言われましたが、そうでもない気もします。 「まだ見たい景色や、やりたい事も沢山あるのに、若いうちに死にたくない!そういった予言怖いわ!そんな全人類が一斉に死ぬなら戦争で死んだ方がまだマシ!だけど戦争も怖い!」って思うのと、今までの人生ろくなことがなかった自分の母親の人生についに光が射し始めているというのに、こんな予言に振り回されたり恐怖感を持ち体調を思いっきり崩したりして母親を振り回している自分が恥ずかしいです。 一日でも長く生き延びるために、この負のスパイラルから抜け出したいです。 長文乱文失礼しました。
先日、母の自殺の件で相談した者です。その節は、アドバイスをありがとうございました。 母に対する後悔、そして感謝の気持ちを忘れることなく、前を向いて生きたいと思います。 ただ、どうしたら前を向けるのかわかりません。 わたしは精神疾患です。そのため、希死念慮に襲われたり、人が怖くて外に出られなかったり、抑うつ状態になったり...もう2年近く、日常生活に支障をきたしています。 もちろん、自分にできる最善は尽くしています。でも、精神疾患の症状が和らぐ兆しが見えません。いつまでこの状況が続くのか、生きている意味はあるのか…と不安ばかりが募ります。「前を向く」とはほど遠い状況です。 母は生前、こんなわたしに対して「どんな状況も受け入れて、最善を尽くせるあなたのことを尊敬する」と言ってくれました。「元気になって、またお出かけできるようになるといいね」と常に願ってくれました。 それなのに、不安が大きすぎて母の想いや願いを忘れてしまいそうです。 母が突然いなくなった現実に向き合うだけで精一杯。朝起きるだけでも精一杯。”今”に必死で、趣味や好きなことを「たのしい」と思う精神的な余裕すらない状態です。 また、心に余裕がないせいか、ちょっとしたことでイライラしてしまいます。 このままだと父(今は父と2人暮らしです)に八つ当たりをしてしまいそうです。母に八つ当たりしたことを後悔しているのに、同じことを繰り返しそうな自分が怖くて仕方がありません。 家族に気を配ることができず、「ああ、今日も冷たい言い方をしてしまった」と反省ばかりしています。 亡き母のため、一緒に暮らす父のため、そして自分のために前を向きたいのに、それができません。 病院にも通い相談していますが、お医者さんやカウンセラーとは違う観点からも智慧をお借りしたいと思い、再び投稿いたしました。 アドバイスをいただけたら幸いです。よろしくお願いいたします。
初めて悩みを書きます。 わたくしは、中学生の時から死恐怖症(タナトフォビア)に悩まされています。 簡単に説明しますと、自分の意志とは無関係に「自分が無になる」という恐怖が脳に入ってきます。医療用語で強迫性障害に分類されます。 一年くらいしっかり働けても、季節や体調の変化でタナトフォビアが重症化し、奇声をあげる、怖くて動機がする、それを落ち着かせるために自傷行為をして生きてる事を確かめる事が続き、それに合併して鬱になり、外に出る事も誰かと話すこともできない日々が続きます。 この繰り返しを何年もしてきたため、会社に就くこともできず、終いには今、無職です。 ただ、死が怖い=生きてればいつか死ぬという恐怖も同時に兼ね揃えています。 つまり、生きてることも怖いんです。 そして今、私は薬で症状を抑えています。 薬で抑えることが出来ると、死ぬことが、酷い時よりは怖くなくなります。 そこで、私は「今なら死ねる」と思ってしまうんです。 生きてる意味も分かりませんし、 死ぬ意味も分かりません、 この世は修行だとか、死んだあとは天国だとか、そんな人間が作り出したエゴや、綺麗事は私には意味がないんです。 「死んだら生まれる前に戻る」という考えがどうしても抜けません。 私は約一ヶ月後、死のうと考えてます でも本当は生きていたいんです 生きてる素晴らしさや奇跡は痛いほど知ってます。 心の矛盾に日々悩まされてます。 どうか助けてください。
ここにくるまで時間がかかりました。 以前から希死念慮はあります。仕事をやめて二ヶ月経ちました。些細なことすぎるかもしれませんが人間関係で悩んだことがきっかけです。 労働そのものが嫌なのではなく 働かなければならないと思っても また同じような目にあうかと思うと前に進めていません。 半月ほど前に 初めて娘に話しました。希死念慮という言葉は使いませんでしたが そういう思いがあることは言えました。仕事に就かず家にいることに不信感はあったと思うので打ち明けましたが 娘は責めるでもなく静かに聞いてくれました。娘に負担を与えてしまったかもしれません。 今の状態を抜け出したい気持ちが起こると焦りや死ねたらいいのにと思います。 死ぬ気でやれ や 死ぬ気になれば何でもできる とは 本当に確実に死ねるのならできると思います。でもできないので苦しいのです。 傷つかない今のままでいたいけれどどうにかしなければいけないのだろうと思いながら生活しています。こう思うことが甘えなのでしょうか。わかりません。
私は2年前に結婚をしました。 結婚してから、私の家族の葬式が立て続けにあり、2年間で3回以上ありました。 大切な人が亡くなった悲しみから立ち直れないまま、次のお葬式という感じで心がついていきません。 次は誰がいなくなるのか考えるだけで涙が出ます。 残っている家族を大切にしようと心がけていますが、いずれ来るお別れが怖くて怖くて仕方がないです。 考えないようにしようとしても考えてしまい苦しいです。
こんにちは。私が恐れていることを聞いて下さい。 私は、自分が迎える最期は孤独死なのではないかと思い、恐怖しています。 自分が孤独死すると思う理由は、2つあります。 1つ目は、これまで誰も、私に恋愛関係になろうと言い寄ってこなかったからです。 私が学生でいられるのは、今年が最後です。 しかし、私には恋人ができたことが1度もありません。 世の中の学生同士のカップルの話を耳にする度、 自分はもうずっと恋人を作れないのではないかと不安になります。 社会人には恋愛に割く時間などないのではないか、 自分には魅力がないのではないかと思ってしまうのです。 2つ目は、私が一人でいるのが好きだと自覚したからです。 私は、昔から人見知りをする子でした。 大学進学を機に地元を出てからは、久しぶりに地元の友達と会っても、 以前のように心から楽しむことができなくなりました。 また、大学で新しく友達をつくることにも苦労しています。 ふとした瞬間に一人でいる気楽さを優先したい自分を認めてしまいます。 以上の2つの理由から、自分に伴侶ができる未来を想像できなくなってしまいました。 生涯独身を貫き、果ては独居老人となるのではないか。 死後しばらく気づいてもらえず、体が腐り、虫が湧いて初めて片付けてもらえるのではないか。 そういった不安が常に頭に浮かんできます。 これを読んで下さった方、どうかご意見をお聞かせ下さい。 お願い申し上げます。
物心ついた時から私は人を呪う気持ちとか地獄とかそんな事ばかり考えてました。日々発達障害で怒られることが多くて誰にも認めて貰えず苦しかったのをそういうテーマのアニメで気分を晴らしてました。 だけど次第に見なくなりました。 その一方で希死念慮がどんどん強くなっていきました。 自分でもどうしていいかわからないです。 病院に通院してますが、主治医もどうする事も出来ない状態で泣いてどうにかしてください。と頼んでももうわからないのか処置を施してくれません。 (病院は二件目です)私の父方の家が精神疾患者が多いらしく、遺伝なのかとも疑ってしまいます。 私はまだ19歳なのでみんなと同じように毎日目標を持って学校に通い友達と話し自分の目標の資格のために勉強し取得する。という普通の人なら当たり前かもしれない事が目標です。 でも言い訳に聞こえるかもしれませんが、常に死にたいという気持ちが重荷になりうまくいきません。私の悩みは友達も理解すらできないので珍しいんだろうなと思います。自分の感覚だと八方塞がりだと感じます。(物事を進めようにも重たい気持ちと人間不信で心がボロボロになってしまったタメ。)まず、わたしは第1は何をしたらいいのでしょうか?どうしたらいい方に方向転換できますか??
先日、最愛の母を癌で亡くしました。 癌だと判明してからたった二ヵ月足らずで逝ってしまいました。 本人には事実を告げられないまま… 本人も治ると…必ず治す!というつもりで頑張っていました。 人は誰しも自分の『死期』は分かりません。 自死の方は別かも知れませんが、皆さん『納得のいく死』 が出来るわけも無いし、そもそも死にゆく事に本人も家族も 『納得』や『覚悟』なんてそう簡単には出来ません。 殆どの人が『無念』な思いで逝くのではないでしょうか? やり残した事、言いそびれた事、気になっている事… 色んな思いを抱え、それらが『後悔』や『恐怖』となって 本当に『辛く』『悲しく』時には『怒り』となって たった一人で心細く無念に旅立っていくのではないでしょうか? そんな『無念』な思いで旅立った魂は、本当に 心安らかに『成仏』が出来るのでしょうか? 残された家族が一番心を痛める事… それは どんなに辛かっただろう どんなに無念だっただろう どんなに怖かっただろう… 話が出来たら、どれだけ辛かったか聞きたい… 今、どう思っているのか聞きたい… でもそれが出来ないから苦しいのです…。 教えてください。 自分が『死んでしまう』とは思ってもいないのに 治そうと、治ると思って頑張っていたのに 何の心構えも準備も出来ていないまま 人生を終わりにしなくてはいけなくなった時 人はどんな事を思うのでしょうか? 四十九日までは、魂はこの世に居ると聞きますが どんな気持ちで、どこでどのように 過ごしているのでしょうか? そんな事ばかり考えて、辛くてたまりません…。
私は数年前に母を突然亡くしてしまいました。亡くなったとわかった時は信じられない、受け入れられないという気持ちで、それから時間が経つにつれて少しずつその気持ちや寂しさ、悲しさを自分なりに克服出来たつもりでした。 でも、今も時々思い出して寂しくなったり、家族と意見が合わず喧嘩した時に「お母さんがいてくれたら私の気持ちをわかってくれたのかな…」と考えて悲しくなったりします。 また母の死が本当に突然だったこともあり「人はいつ死ぬかわからない」という事実を改めて突きつけられたようで、それ以来家族や友達、恋人が死んでしまったらどうしようとふとした時に不安で仕方なくなります。例えば恋人が仕事で遠くに行くと聞いたら「行った先で事故や事件に巻き込まれたら…」とか、家族に車でどこかへ送ってもらう時に「私を送りに外出して、帰りに事故に遭ったら…」とか。 こういった不安やふとした時の寂しさ、悲しさがあるのは仕方ないことなのでしょうか?それとも、気持ちの持ちようで少しは軽減されると思われますか?
最近ずっとモヤモヤしています インターネットとか見てると、自分の世代は将来良くない事ばっかりだと書かれていたり、学校に行けばずっと受験の話で息つく間も無い。 友達に嫌な事をされて親に相談すれば、最終的にはちょっとわかってくれるけど、まず自分を疑って怒られる。 自分の悩みを相談すれば他の人も同じだからと言われ解決出来ずにいる。 わかってもらうのは諦め、強制的に頭からそういう物事を無くそうとしてもやっぱり無理です。 まず、自分が悪いのか良いのかもわからなくてどうすればいいのかわからない。 曖昧な悩みでごめんなさい。どうかお坊さん方、何でもいいので助言やアドバイスをよろしくお願いします。
去年の夏、母が病気で亡くなりました。 最近、母が苦しんで倒れる夢や看取る瞬間の夢をよく見ます。 母の死の瞬間を鮮明に思い出してしまい、「人の呼吸が止まって死ぬ」という状況への恐怖や、「もっと早く病気に気付いてあげられたらよかった」「もっと話したかった」という後悔の気持ちなどが溢れてきて、起きた後は長時間泣いてしまいます。 自分の心がまだ混乱している感じがして、どう落ち着かせたら良いのかわかりません。 死とどのように向き合い受け入れていけば良いか、教えてください。
お世話になっております。 以前、「自業自得の孤独を乗り切る方法」という内容でご相談した者です。 あれから丸一年、就業先を自分なりに探してみましたがやはり現実は厳しく、現在も無職かつ貯蓄も底を尽きそうな日々を過ごしております。 本日お伺いしたいのは 「孤独死」が確定した中で「今生での生活」を営む事すら金銭的に厳しくなる中どうしたら、せめて心穏やかに旅立てるのか、です。 行政、各所支援団体含め当たった上でも 「生(活)」する為の資金は得られず、かと言って自死する勇気もなく、だらだらと毎日息をする日々。待っているのは老いと病→いつかどこかで物理的に腐敗し、発見されて、最上の弔いがあった所で無縁仏です。 死ぬ瞬間はいつ、どこで来るかわかりませんし、死後の世界も未知の中、 【質問】 ・どう思って生きれば、死の瞬間を穏やかに迎えられるのか(物理的苦痛少なくの意味) ・今生で「ただ息をして今日を生きる(現実的にそうするしかない状況)」に意味はあるのか、あるならば何が出来るのか ・死に方により、死後の世界?は変わるのか ※各宗派により見解異なるかと思いますが、少しでも苦痛少なく、今生を終えられたら、と思います。
幼い頃から希死念慮のようなものがあり漠然とそれと隣り合わせで生きてきました。 理想の生き方も特になく、どうせ死ぬしな、と思いながら生き、色々人生に詰まり出したこの頃、そろそろなのではないかという気配があります。 ニュースや情報で亡くなり方を知るたびにこの手があるのかと考えたり、危険な場所や出来事を知るたび逝けるかどうかをナチュラルに想像します。先に旅立った方々を羨ましいとも思います。その辺りの考えが凄く穏やかに自然に湧いてくるのです。 母は私の将来や生活を心配しますが、そのような生き方なのもいずれ死ぬ想定であるためなのですが、悲しませたくないためそんな素振りは見せないように振る舞います。しかしそろそろつ辻褄が合わなくなってきて今後の生き方を問われるたびに憂鬱になります。 母にその考え(悩み?)を打ち明けるべきではないとは思いますが、辻褄が合わないのです。 波がある感情です。しかし幸福な瞬間があればあるほどここで終わらせるべきではと思います。 家族を悲しませないためにいっそ縁を切るか、考えを打ち明けるか、それらから逃れるために断つか、葛藤があります。 突発的なものではなく、昔からあるものが成熟してきた、という感覚に近いです。 親に希死念慮があることはやはり伝えるべきではないのでしょうか?
心からの激励ありがとうございました。 身体が思う通り動かず、今こうしてPCで入力しているのも やっとです。 私はうつ病など発症していませんが、 今の身体の苦しみから解放されたいだけです。 日に日に進行し、身体がうごかなくなり 医者へも行けない状況となってしまいました。 冷静になればなるほど、この現状に耐えられません。 今、私が置かれている状況が何かしらの意味があることなのかも ということも理解できますが、この状況に耐える事に万策つきました 周りの人にかける迷惑が最低限になるよう 自死の方法を検討します。 色々アドバイスを頂いたみなさま、 本当にもうしわけありません。 そしてありがとうございました。
現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。
現在実家の母が末期がん、余命はあと数日と言われています。 私は遠方に住んでいますが母のがんが発覚して、できるだけ顔を見せるようにしてきました。先日母から「自分の家庭があるのに頻繁に来るな、まだ母親が必要な子供が家で待ってるだろう。来られるとその事を考えて心配で神経が高ぶる。やめてほしい。」と強く叱られました。 母の心配する気持ちを受け止めましたが、自分が辛い時にも娘の事を思ってくれる母を思うと胸が張り裂けそうでした。 それからも実家には行きますが母の部屋には入らず(母はベッドから動けません)、介護は姉が、私は家事を手伝う位です。 母は私が来ていることを知りません。 宣告はしていませんが、あまりにも身体が辛いので母は自分の命の期限に気がついていると思います。 ただ私が行く事でもっと母を辛くさせてしまうけれど、もういつ逝ってしまうかわからない母に会っておきたい気持ちと、とはいえ、日々衰弱していく母を見るのは辛いのも確かです。 あと、未婚で実家に同居している姉が心の病があり、思い通りに行かないと家族に暴言を吐く、などしてきました。その拠り所であった母の死を恐れながら、懺悔するかのように今は献身的に介護しています。 その姉から、とにかく夜一人で母の死を想像するのが怖いから、実家にいてと言われています。姉がいっぱいいっぱいになり爆発するのも私は恐れています。自分の家に中々帰れません。でも母の顔は見れません。 今私がやるべき事は、一体何なのか。 自分の考えだけでは行動できず、私自身も意思を貫く事ができない弱い人間である事を目の当たりにするだけの毎日です。