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hasunoha 問答検索結果 : 「幸福」
検索結果: 787件

目指すは次の世界、だけど・・・・・

知的障害者福祉に従事しています。現在の職場にまだ勤務していますが、最近転職活動を始めました。プロフィールで触れたことが理由です。ただ福祉への情熱は失っていません。 私は、新聞の折り込み求人紙の営業職から転職しました。当初は戸惑いましたが、利用者と一緒に生活し、受け入れられていくなかで、彼らが幸福になれる社会が実現したらいいと思うようになりました。 それはいわゆる健常者にとっても住みやすい世の中だからです。多様性が認められる社会だからです。 本日、大きな会場で福祉の就職フェアが開催されました。たくさんの法人が出展していました。私は開催時間いっぱいを使って複数の法人を回りました。 ある社会福祉法人のブースでのことです。「5年以上勤めたのにどうして移ろうと思ったの?」と尋ねられました。できるだけ前向きな理由を言ったつもりですが、食い下がられて本音を言ってしまいました。私は嘘がつけない性分のようです。 適応障害になったこと、正職員からアルバイトにされたこと、現場での人間関係は悪くないが、*法人上層部からはよく思われていないようであることなどを伝えました。 *以前世話人を務めていたとき、1人で月に18回程度も泊まらなければならない体制を、改善できないかと上層部に訴えたことがあります。そのことが、上層部からの悪印象になった気がします。その後実際に、世話人による利用者への不利益行為も起きました。 かなりのベテランの方のようで、最初から見透かされていたようです。今は病気は回復しているともアピールしましたが、精神を病んだ過去もマイナスに取られた節があります。でも本当に今は毎日勤務できているんです。 来月から面接予定の法人がたくさんあります。その際に同様のことが起きたらと考えると、不安でたまりません。また、知人から労基に頼ると情報が出回り、転職先がなくなるとも聞きました。私は労基に相談したことがあります。 それでもこの仕事を続け、ソーシャルインクルージョンの実現に寄与したいんです。一隅を照らす者になりたいんです。転職できるかどうか、とても不安です。

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僕の名前について。

僕は高校1年生の時に読んだ白石一文様の「僕のなかの壊れていない部分」に孤高な自尊心を見出し、その自尊心と対峙してきました。それこそ、父親と向き合えなかった起きている時間分、16×365×5≒30000時間分ずっと。 僕はその自尊心を、他の何よりも重要な価値基準と置きました。その価値基準は一般に考えられる道徳的価値観をも完全に超越してしまいます。僕は2億円を出してでも良縁を買うべきだと思うし、文字通り、命を賭してでも殺意に愛そうとしました。それが前回の質問の真意であり真理です。「僕」は「ユング分析家」の「才能」を持つ、他の大人の誰よりも幸福な「天才」で、それが「運命」、「事象」だと信じております。 僕は名前を変えようと思います。そう僕が思うことが「僕」の「主体性」は完全に否定され、「僕」が「事象」として「現れている」だけの「運命」ではあるのですが。 僕は名前を両親から戴いた文字を取り、「晨」としますが、いささか苗字に悩みます。僕は「蓮水」という苗字がよろしいかと思います。 聖章様はどうお感じになられるでしょうか。「蓮水晨」という名前は「僕」という「事象」の体を為すと思われますでしょうか? 僕は聖章様との良縁を他の何よりも大切なものだと感じます。恐らくいつになるかは分かりませんが、聖章様の下で仏道を歩み、己の為すべき使命を全うしたい、そう考え、岡山に出向くと思います。聖章様と仏教について議論を重ねることが、何よりも「仏教」という「事象」を「肯定」できる「使命」があるのだと信じるからです。僕は岡山大学で心理学を学び、京都大学で「ユング心理学」を大成し、善人と寄り添えることとなりましょう。それが僕の運命です。 宗教は何かと敷居が高いです。僕はそのユング心理学と仏教を同じ「事象」だと考え、それを同列に語られるようにすることが、僕の「使命」で「運命」なのだと心から思いました。「思い」の力は「現実」とする力になり得るのです。 差し支えなければ聖章様の個人的な連絡を教えていただきたいと存じます。 合掌

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実家の継承と信教・婚姻の自由

私は福岡県の日蓮宗の寺の次女で、今は実家から企業に勤務に行っています。実家の寺は長女の姉が婿養子を貰う予定でしたが、うちの正干与の寺の住職が持ってきた見合いの話を受け、東京の寺に嫁がせることになりました。 よって私に実家の寺の継承の話が回ってきたわけですが、私は継ぐ気もなく、会社員の方と恋愛しているので、僧侶と結婚する気もなく、そろそろ実家を出ていくつもりです。しかし父は3年間したら戻ってこいと言います。そこで思ったのですが、日本国憲法では職業の自由も婚姻の自由も保障されているのに、人々の幸福のために働いている僧侶たるもの(父)が、そのように実娘の意にそぐわない婚姻をさせようとするのは、僧侶としていかがなものだと思われますか?姉も結婚などしたくなく泣いておりました。前時代的にもほどがあるし、うちの寺も檀家が減っており今後経済の保証があるかどうかもわかりません。寺の継承のための親のエゴでしかないように私は思います。実際姉の嫁入りの話も私には秘密裏に行われており話し合いもなにもなく決まりました。反発をすると感謝の意が足りないと言ってきますが、それと継承の話は話が別だと思います。 また、父母は私に「信仰しろ、拝みなさい」と言ってきますが、信仰とはそのように強制されるものではないと思っております。また生まれた家がたまたま寺であったというだけでその寺の宗派の信仰をしなければなりません。これは寺に産まれた場合、信教の自由はないのでしょうか?"改宗は良くない、バチが当たる、絶対に良いことがない"、などとよく言われてきましたが、改宗は本当に良くないことでしょうか。 現在の日本では宗教より法律が上です。私の人権、私の法の下の平等は宗教により制限されている気がします。 他のお正人方のご意見をお伺いすることができればと思います。

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2025/02/01

生きることに疲れました

私は生まれたときから、親に「お前は生む予定になかった」と言われて育ち、幼少期も自殺を考えるいじめに遭い、幸福な子供時代がありませんでした。 高校を卒業してすぐ就職しましたが、仕事は自分で言うのもなんですがなんでもできたため、妬んだ連中からパワハラに遭いました。 その後は国家試験に受かり、その仕事をしていましたが、色々と無理がたたり体を壊して廃業、以後、専業主婦になりました。 結婚して子供もいますが、時々、自分の人生がひどく虚しく、悲しく、私の存在価値はなんなのかと疲れ、生きるのも死ぬのもどちらでもいいと思うことがあります。 私はいつも誰かしらに利用され、裏切られ、嘲笑われるかのどれかしかなく、人に褒められたり、認められたり、労らわれたりしたことが一度もありませんでした。(あったかも知れませんが、それ以上に傷つけられたことの方が多いので、印象は嫌なことの方が強いです) 頑張っても認められず、この人のために何かしたい、尽くしたい、力になりたいと思っても、全て裏切られてきたので、きっと私の存在価値とは、人に利用され、踏みつけられ、笑われて悦に入れられることなのだと最近は思い、新しく友達をつくることも嫌になり、働きに出るのも嫌になり、みんな嫌い、人間不信と思うようになりました。 誰も、私が悔しく、悲しく、虚しく、泣きたくても最近は全く涙が出なくなり、そういう私の気持ちを汲んでくれません。おおかた、私の人生はそういうもので、そういう人生を死ぬまで歩んでいくのがお誂えなのだと思います。 そういう人生を生きてきたので、精神を患い、たまに落ち込み、最近は胃潰瘍もやりました。 最近では不当解雇にも遭い、誰も私の意思など関係なしにものごとを進め、やはり利用し、私の不幸でご飯がみんな美味しいのでしょう。それだけで私の存在価値はあるのかなと思うようになりました。 でも今も、生きているだけで本当につらく苦しいです。病気もたくさん抱え、皆に利用され、これからもずっとだと思うと、つらくてたまらないです。 この質問で、やはり僧の皆さまも、ご飯が美味しくお幸せでしたら、私も嬉しく思います。 どうせ私の存在価値とはそんなものでしょうし。 ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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2024/01/25

変わってしまった友人との付き合い方

変わってしまった友人とはどう付き合っていくのがよいでしょうか? 私には大学時代からの友人(仮名A)がいます。Aはもともと良くも悪くも感情的な人間であり、悪態をついたり、毒舌を言うこともありながら、友人思いな優しい一面もあり、とても人間味のある友人と思って接してきました。 しかし、大学卒業後からしばらく経った後、Aは大学の先輩(仮名Bさん)と接し始めてから徐々に変わっていきました。 Bさんは大学時代から非常にアクティブで将来に向けて様々な努力をしている人でした。いわゆる「意識の高い人」と呼ばれる、自分の人生をどのように豊かにしていくか考え、それに必要なものを理論的に考え、必要な行動していく人でした。 Bさんの影響を受けたAは自分の人生について真剣に考えるようになり、副業や起業等のお金について、健康維持のためのダイエットなど様々なことを取り組みはじめました。 Bさんやその周囲の人の影響を受けたからか「人は変わろうとすれば変われる」「何歳になって熱さを持って生きていきたい」等のポジティブな発言が増え、毒舌や悪態を言うことはほとんどなくなりました。 ある時、私が仕事についての愚痴について話したときAから「なぜ苦しい環境にいるのにそれを変えようとしない?」「自分から苦しい環境に身をおいて不幸になっている」と言われました。 確かに、現在の職場を選んだのは自分の選択ではあるのでAの発言について理解できる部分はあるのですが、もう少し言い方を考えてほしいと思ってしまいます。「そうなんだけどすぐには変わるのは難しい」「環境に変えるにもエネルギーが必要だし、運や機会にも影響を受ける」とこちらが話すと「理論的に考えてこう考えて動けばいいのでは?」とすべて正論で返されてしまいます。 私もAと接する中で、客観的に見ても人としてAは成長しており「いい人」になっているはずなのに私の中では寂しさのような苛立のような違和感が心のなかに残っています。 仕事の愚痴についての反応を見て、Aは人として成長してしたが故に、人としての弱さに対する理解がなくなってしまったのかと思います。 最近は会っても理論的な人生の幸福論等のポジティブな話題ばかりであり、正直疲れてしまいます。 違和感を感じるのは私が人間として未熟が故なのでしょうか?今後のAとの付き合いは土のう用にしていくのがよいのでしょうか?

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過去の過ち、後悔と罪悪感

電話で「もう会わない」と言い放ってしまっとき、本当に会えなくなるとは思ってませんでした。大馬鹿者ですね。「え〜もう会ってくれないの〜?」悲しそうな声が、私の聞いた彼女の最後の声になってしまいました。 結婚さえ考えていた相手からこんな扱いを受けて、さぞかし辛い思いをしたでしょう。私は彼女の人生を、心身ともに傷つけてまいました。取り返しのつかない事をしてしまったのです。 本当に無責任で自分勝手な人間でした。 その後すぐに私の方から連絡をとって謝るべきだったのに、その年は他の女性と旅行したり、ちょうど面白くなってきた仕事に没頭したりで、しばらく放置してしまったのです。 会えなくなってから初めて焦り出しました。バースデーカードを送ってみたり、フェイスブックで彼女の名前を探してみたり、いろいろ再会しようと試みましたが果たせず、ジリジリと月日がたって行きました。 時は解決してくれませんでした。後悔と罪悪感は、月日とともに大きくなっていく一方でした。 3年前、仕事を辞めたとき、フタをして抑えていたものが一気に吹き出してきました。 彼女の実家の前を通りました。毎週末、泊まりに来ていた彼女を日曜の夜遅くに車で実家に送っていました。暗がりの中、彼女はいつまでも手を振って私を見送っていたのです。その姿が目に浮かんだ瞬間、涙がどっと溢れて止まらなくなりました。あんな優しいいい娘に、なんて取り返しのつかない事をしてしまったんだろう。結婚まで考えて私を大切にしてくれた彼女に、何という仕打ちをしてしまったのだろう。 それからは、彼女の事を考えない日はありません。あまりに遅すぎて自分に腹が立ちますが、毎日後悔と罪悪感ばかりの日々です。 もちろん、20年前に戻って人生をやり直すなど不可能だと、頭では分かっています。新しい人生を切り開く事が重要だとも、理解しています。 でももはや朝から晩まで、彼女はいつも私の生活の中に存在しています。夢にも出てきます。夢の中では必ず彼女に再会して、結婚する事になっています。その時の幸福感は、人生で味わったことのない様な ものです。目が覚めると、もう頭から離れません。 毎日毎日、ごめんなさい、自分は本当に愚かだったとそればかり繰り返しています。自分がちょっとでもまともだったら、彼女を幸せにする事だって出来たのに! 自業自得とはまさにこの事ですね。

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瞋恚を克服したい

2年ほど前に「カタツムリの外見が苦手なのだが見た目でモノを判断するのはどうなんだ」という相談をして、「恨むほどでもないなら別に嫌いでもいいじゃない」といった旨の助言などを頂いたのですが、そのお陰なのか今では手で触れられる(寄生虫がたまについてるらしいので手は洗いますが)ほど克服してしまい、当時を思い返しては内心で驚いています。 ただ、自分の価値判断を省みる中で一つ気がかりな事を見つけて、その事が少々悩みの種になっています。 というのも、これまで蛇蝎の如く嫌っていたカタツムリを克服した事で心持ちに相当の余裕は出来たのですが、自身が本来したかったことはいわゆる瞋恚の克服であり、しかもカタツムリに関しては貝類の図鑑を眺めたりしてどうしたら克服できるか考えあぐねていたはずがいつのまにか慣れてしまったこともあり、実は本当の問題が解決していないのではないか…と思い悩んでいるのです。 浅学の身で大変僭越ではありますが、私の知る限り悟りというのは本来その実利を全く求めずに明鏡止水の心持ちで行を繰り返す事であると聞きます。 ですが、自分はたまにカタツムリの画像を見ては「どうすれば好きになれるかなぁ」と欲望まみれでひとりごちていただけで具体的なことは殆ど何もやってなかったと思うのです。 今は不便こそしていないものの、もし克服したと思った心持ちが来年変わったら…もし再び嫌いはじめたら…と思ってしまうとゾッとします。 それ故、この心持ちが偶然で終わる前に揺るがなくなるような方法を教えて頂きたいのです。 これは、嫌いなものを増やさない為だけではありません。 自身の身に合わないと思ったものを排斥することに執着しない為でもあります。 これは拙い持論ではありますが、人は好きな物事を愛で続けるより、嫌いな物事を憎み、気がすむまで叩きのめすことにより快感を感じる傾向にあると思っています。 しかし、排斥することに味を占めると終わらない闘争の火種になりますし、何より自身の不満不幸に執着し続け、目の前の満足や幸福を取りこぼす事が自分には一番の災厄だと思います。 物事の全てを愛でるには自分はちっぽけではありますが、せめて恨むなら「恨む」という事そのものだけに留めておきたいと思うのです。

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生きる為だけに生きなければならないのか。救いはあるのか。

自己嫌悪の延長なのか、精神的に未熟なのか、その本質を 見定めるほどの熟慮には至っていませんが、体裁良く言葉で 表すなら以下の通りです。 人生に置いて自己満足を得ることが叶いませんでした。 自身で選択肢を定める場面で良し悪し或いは甲乙を判断していますが それにより満足したとは少し遠いほどに心に僅かな洞がございました。 ある程度の決定権を自由に行えるのは幸福な環境ではありますが、 その決定とは私個人が現在までに形成された思考に基づいた工程に よって導き出された当然の恒常的な反応であると言えます。 あらゆる判断は例えどの様な物でも私が私によって 私に下す物である限り、驚きも感動も内包しえない。 乱暴な表現ですが、現象としては風が吹けば木の葉が揺れるのと 同程度に分類出来るとも言えます。 解決策として、自分で自分を満足させる事が出来ないのでならば 他者の手を借りるという考えもありはしましたが、そういった 外界からの干渉は「自分は他者が気に掛ける程の有用な者なのか」 と懐疑的な自虐の考えによって素直に受け止め切れないでいます。 自身の行動によって(例として対話や交友など)引き起こした 外界の反応が不和、好感、失敗、成功を招こうとも、それも 世界の正常な反応であり、自身の成果は能力に見合った当然の結果で 達成感が薄く、失敗が起これば不出来な己に猛省するのです。 また自分の環境や素養が気に食わないだけではとも考え及びました。 しかし、物事への執着心が薄いのか、裕福である事も、対人関係が 良好である事も、社会的な成功も特別望んではいません。 周囲に害を及ぼす事を好まないので逆の事を率先して行いませんが。 即ち私は出自や才覚に不満を感じるでなく、己が生物として生き 「個」として人格をもって思考行動する事に魅力を感じられない でいるのではと考えています。 現状は己を満たす条件に乏しく、それを意欲的に取り組めない程に自身への関心が薄く、肉体を生かす徒労に終わる生活となっています。 このまま残りの時間、転機の訪れを何の予兆も無いまま待てるか疑問です。 周囲に迷惑の掛からない方法は少なく動機も絶望に至らないほど 希薄ですが、自決を視野に入れるも誰かを困らせる選択は辛いです。 無は楽土でなく踏み入る一歩は苦渋の決断とも理解しています。 落とし所は未だ模索中です。

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人間未満の生き方

私は社会で生きていくのに向いていないのだと思います。目標も目的もなにもありません。楽しいと感じることがありません。あったとしても思い出せません。やりたくないことをやってまで成し遂げたい何かが無い中で、どうして生きているのかわからないのです。 死ぬために生きているなんて言えたら格好がつくのかもしれませんが、そんな大それたものでもなくただ惰性で生き続けています。 これまで、特に悲しいことや辛いことがあったわけではないと思います。人によって何が楽しくて悲しいことかは異なりますから、それを他人と比べて順位をつけることは難しいものです。でもきっと、私にとってこれからもそれは同じで、私やその周りに影響を与えるような大きな幸福も不幸もないのだと思います。身内の不幸ですら、私にとっては他人事のように思えて仕方がありませんでした。 私には、外で行動する友人のような人たちが少しだけいます。皆気持ちの優しいいい子たちばかりです。でも私は別に、そこにいなくてもいい人間なのです。これに限らず、大体のことはそうです。私はどこにもいなくて大丈夫なのです。それに気がついてからしばらくは、そのことがとても悲しくて何度も夢に見ました。でも最近では、そんなことはもう何とも思わなくなりました。初めからそのことを理解していれば、辛くなんて感じないものです。夢に見ることもなくなりました。それがいいことなのか悪いことなのか、私には判断することができません。 つい最近、ある人に私は「無」だというふうに言われました。きっと相手は半分冗談で言ったのだと思いますが、まさにその通りで、自分のどうしようもない心の内を見透かされたようで、何と言えば良いかわかりませんでした。 毎日少しずつ透明になって自分が自分ではなくなっていくような感覚がします。できることなら、このまますっと消えてなくなってしまいたい。 最近、毎日死ぬ方法を考えています。 でも自殺というのはどうやっても誰かに迷惑がかかってしまうものですね。 死ぬことすらできないこんな人間未満の人間はどうすればいいのでしょうか。

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2023/11/29

婚活が上手くいきません

初めまして。 今年の初めから婚活をしたのですが上手く行きませんでした。気持ちの整理として長文になってしまうと思いますが今年の活動をまとめたので、何かアドバイスを頂けますと幸いです。 ・求めていたお相手の条件 太っておらず、働いていれば誰でもいい。 ・活動内容 恋愛経験は去年までなく、今年の初めに何故か突然婚活をしたいモチベーションになったので始めました。その後、初めて彼女ができ、4か月程度お付き合いしたのですが自分が恋愛の仕方がわからないためにお別れしてしまいました(関係の進展が見られないと言われております)。 マッチングアプリや街コン、結婚相談所とあらゆるツールを試した1年でしたが、結婚相手を見つけることができず、現在結婚や恋愛は向いていないのだと思いつつも、どこか諦めきれていない状況です。 全てのツールである程度人と会ったり、同じ人と3回くらいデートは出来ていました。 しかし、その後のお付き合いまではいかず、よく言われるのは「友達としてはいいんだけど...」でした。 今年の婚活の総括として、以下のことを考えました。 ・お相手のことを好きになれていなかったのではないか →結婚後は家族のために嫌なことは自分が引き受けて、お相手に喜んで欲しいというのをモチベーションに婚活を始めたので、自分の求めるものは「自分の行動を受け取ってくれて、自分を好きになってくれる相手」でした。 そこで、ネットで色々調べた理想の男性を演じながら活動していました。 ただ自分の中で今改めて考えると、間違えた考えだということは理解できます。ですが、人を本気で好きになるってどういうことなのでしょうか。私には現状理解できておりません。 色々な方に相談したのですが、私がお相手を愛しておらず、それなのに結婚したいのかとよく指摘されました。これまでは結婚とは誰かを幸福にすることだと思っていたので、「結婚=ボランティア活動」みたいな感覚でした。 自分の幸せは相手を喜ばせることだからそれでいいと思っていましたが、恐らくこれは一方的な幸せの押し売りなのだと思います。 結婚とは何なのでしょうか?愛とは何なのでしょうか? 演者になってしまった自分の本心に気づく方法はありますでしょうか? つたない文章で恐縮ですがアドバイスを頂ければ幸いです。 よろしくお願いいたします。

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年明けを待たずに死にます

現在、貯金を切り崩して生きています。 このまま稼ぐ手段が見つからなければ死にますが、自分が野垂れ死ぬことには納得がいくというか、客観的な視点で「こんな奴死んだ方がいい」と自分にずっと思いながら生きてきました。 問題のある人格に対して「そんなんじゃ生きていけない」と家族から「厳しくも厳しくもありがたいお言葉」をいただきながら育ちました。結果、その通りになりました。 この世界がうまく回っていて、私だけに問題があるのならばまだ生きる希望がありました。しかし、現実はそうではない。私が生きていてもいなくても、この世界はどんどんと悪くなっていく。そもそも、生きることそのものが欠陥だとしか思えません。 人生は「他人にどう見られるか」が全てです。完全な自給自足ができない以上、何かの手を借りなければなりません。そのためには他人に好ましい印象を与えなければなりません。私はそれができませんでした。 この世界は私が生きようが死のうがどうでもいいものです。生きていられる人間は、「自分を大事にしたい」という動物的本能を疑わないでいられるから生きられるのです。しかし私はその本能こそが全ての苦しみの元凶と憎み、「全ての生命は存在しないほうがいい」という強固な思想に囚われています。これを打ち破る根拠をこの世界に見出せれば良いのですが、その機能が私に備わっている気がしません。何を論じられても、申し訳ないことに、「わざわざ生きる根拠」にはなり得ません。この世界には私よりもずっと有能で賢い人間が沢山いるのに、全生命を安楽に絶滅させる方向に行かないのは、私が決して感じることのできない「それでも生きる意味」があるからなのでしょう。 私の人格や感性が望まれたことなどありませんでした。それとも、関わる人間の誰からも死を望まれながら、殴られながら生きるのが修行でしょうか? 未来を捨て、この世界や他の人間に「生きさせてください」と頭を下げ、心身を削る「労働」を辞めた今が人生で一番安楽です。つまり、私の幸福は死の直前にしかありませんでした。 私の望みは、「物質世界から解放される」「五感、痛覚、あらゆるものを感じる機能を失う」「誰からも観測されない状態になる」こと、つまり、「永遠の死」「存在しないこと」です。そして、これこそがあらゆる生命が目指すべき地点だと思っています。こんなことを考える人間だから生きられないのです。

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2023/08/30

諦めること

発達障害から依存に走りやすく、アルコール、浪費、スマホ、ポルノなど各種中毒などドーパミンなどの脳内物質に踊らされ生きているようにさえ思えてきます。 寝ることが嫌いでそれら依存に頼りながら刺激の強いかつ役立たずな情報、映像ばかり見て睡眠不足になっておりメンタルにも良からな影響はあると思います。 これはまずいと思いつつも切り上げることができないで苦しんでいます。 仕事の間は自分を殺しているからパートタイムの服役囚みたいで、なけなしの成果があっても建前では社会に意義あると言える仕事も組織自体の達成にも子供の積み木遊びくらいにしか思えてない、だからあとは寝るだけとなると虚しくなるのです。とはいえ、それで意義ある時間を過ごすどころか依存症で浪費して、寝るのが死ぬことを暗示するからなのか忌避しているのか、なかなか横にならずだらだらと過ごしてます。 もっと足るを知るべきだと長く思いましたがここにきて、足るを知るという言葉は違うなと思い始めて、満たされることなどというのはあり得ない幻想なのだから足るを諦める、とした方がいいのかなと割り切り、満たされない思いがあったら、そんなものなんだと突き放して無理に満たそうとしないように心がけたいです。 ここまでの話と区別した方がいいかどうかなのですが婚活にしても目標達成を諦めるというか突き放した態度で満たされずとも受け入れた方がいいのかとも考えつつ、その反面やっぱりそんなメンタリティではいよいよさらに縁遠くなるからそんな諦観はかえって生涯通じて寂しい結果になるんじゃないかとも思う次第です。 万人が目指すべき幸福の形みたいに家庭を持つことが素晴らしいと刷り込まれていた部分は洗脳を解きつつあったかに思うこともありましたがどうにもうまくいかないです。 恋愛や結婚を割り切れたかなと思った時期もありましたが上手くいかない叶わない相手に対する思いを募らせ苦しむことになってよくわからない自分の心を持て余しています。 結婚や恋愛をしてパートナーや、あるいは子供や、大切な人を得て虚しさという心の穴を埋めようとしているわけではないとは思います。というよりそうしてはいけないと心に誓っています。

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老化、病、安楽死、尊厳死

啖呵切ってハスノハとはお別れ宣言したのに出戻りですみません 結局私はここでしか辛い苦しみと悲しみを吐き出せません どうして死んではいけないのですか。 自殺率世界一位、幸福指数世界最低のこの国で、どうして死は許されないのですか 生きたかった筈の生命の中絶ですら許されているのに 命に別状がない程度の、だけど治りやしない病を永遠に抱えていく人生で、辛くて辛くて死にたいです もう体は勿論心も痛くて辛くて死にたいのです。生きてきた間、こんなにも辛い思いをしているのですから、せめて最後は安らかに死にたいです。もうあらゆる事から許されたいです 私は医者が大嫌いです それでも今日、耐え難い痛みに苛まれて病んだので、嫌な気持ちを我慢して、病院にいきました 医者は、貴方程度の患者は星の数ほどいると言い、多少の嘲笑も交えて。ろくな内診も診察もせず 医者にすら病の苦しみを理解して貰えず、私は心底悲しみ、生まれてきたことすら後悔しました。介護してくれている親にも申し訳ないです もう何もかもが嫌です。死にたいです。死にたいです 本人は辛くて生きていたくないのに 社会は自殺者に対して非常に厳しく 安楽死に否定的です 自分で命の決着を決める尊厳死の制度の何がいけないんですか 死にたいです。辛いです。毎晩生き恥をさらし心身の苦痛に泣いてます どうしたら良いのかわかりません 死にたいです 大好きな親にそっと息の根を止めてほしいと思ってしまいます もう限界です 答えにくかったら回答は不要です 辛い気持ちを吐き出させて頂きありがとうございました

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人生への絶望

お世話になっております。僕はもう人生に絶望しました。とにかく今は死にたい気持ちです。人間関係にも疲れました。僕は昔から人間不信でした。その影響か友達を信じられません。いや、本音を言うと友達とは思えていないでしょう。しかし、間違いなくいい人達なんです。けど信じられません。本当に愚かです。僕ももうじき嫌われ、おそらく孤立することでしょう。コミュニケーション能力もなく、もはや会話ができません。自分のあまりの無能さも含めて絶望です。さらに僕はhsp(ハイリーセンシティブルパーソン)です。おそらく、母親が精神病なので、遺伝だと思います。アトピー性皮膚炎もあり、他人の目が気になります。ただでさえhspが辛いのに、重度のアトピーで他人からは引かれる目をされてきました。すれ違いざまに鼻で笑われたり、もうまるで他者からバカにされるために生まれてきたとしか思えません。他者の醜さも分かり、絶望しかありません。恋愛だって一生涯できないでしょう。本当に理不尽な世の中ですね。いい人生にしようと勉強もしました。阿弥陀仏の教えを知り、とても成長できたと思ったのですが、ただただ真実の自分に絶望するばかりです。念仏を唱えたところで浄土に行けるのか分かりませんし、そもそも死後どうなるかなんて人間の知恵では分かるはずもないのに、浄土の存在なんて信じられません。他にも禅やアドラーの教えについても触れてみましたが、「人間関係によって幸福を得られる」と説く。これは最悪でした。僕は人間関係なんて築きたいとさえ思いません。事務的に仕方なく作ってるんです。俺、最低ですね。本当に。でも今まで人間の醜さを見てきたので仕方ないのです。 禅の教えやテーラワーダ仏教では自我を無くせと説く。どう考えても不可能ですよね。もはやそれは「死」しか思い浮かびません。 1,生きる 2,死ぬ この二つの道で迷っています。 いろいろ書きましたが、これが僕の本心です。不愉快になられたら、申し訳ないです。 全てに絶望した僕は、これからどうすれば良いのでしょうか?どうかアドバイスをお願いします。

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2023/02/06

人間の器とは?

昔から他に優しくするためにはまず自分が幸せになってから自分の器を満たしその溢れだした分を他に分け与えることで本当の意味で世のため人のためという流れになると言われ続けていますが、最近この事に関して疑問を持つようになりました。 私の経験で申し訳ないのですが私自身、障害を抱えて生きてきて数多くのイジメ、虐待、差別等様々な困難な経験をしてきました。これらの事から今も自殺企図やフラッシュバックは消えませんが、その事は置いといて、この様な人生から客観的に見たときに私の人生の幸福度の質や量は他の方の人生と比べたら低いのではないかと思っております。然しながら私はこの様な経験をしてきたからこそ同じ様な障害や苦しみを持っている人の為に何か出来ないかと考え、時には行動するようにもなっています。 この事から器を満たし溢れた分を利他心に回すのではなく、出来ていない私が言うのもおかしなことですがそもそも自己を満たす器と他をおもいやる器は別物であり双方をバランスよく満たしていく事が重要であるのではと考えています。 もし、この仮説が正しいとするのならば上記の様な考え方が広まってしまうとそもそも自分の器を満たすことしか考えない人が出てきてしまったり増えてしまったりするのではないでしょうか? 長文申し訳ございません汗 本当にふらっと思いついただけなので時間があるときに気軽にお答え頂ければと思います。 自分の質問は緊急性の低い質問だと思われますので他の方で緊急性の高い方の質問が御座いましたら其方の方の質問の回答をお願いいたします。 あと、もし不快な書き方や文章が御座いましたら申し訳ございません。

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2025/05/27

涅槃や成仏など本当にあるのでしょうか

今はまだ、世界規模で見れば幸福な環境の中に居ることがわかります。しかし、いつかは死ななければならないし、死んだ後はどんな残酷な世界に産まれるかもわかりません。この世界で起こっているあらゆる残酷なことが、いつかどこかの自分が体験する可能性がある。それが恐ろしくてたまりません。 この人生は、これから繰り返す過酷な自我の前の休憩地点でしかない、と最近感じるようになりました。自我を作っているのは脳味噌と感覚器官なのですから、自分が死んだ後はまた別の生き物の感覚器官が「自分」になってしまいます。だから、できるならばこの命が終わった後はもう存在していたくない、もう二度と物質的世界に生まれたくありません。 けれど、この「生まれたくない」「存在していたくない」「他者から加害されたくない」「とにかく自分の安全がほしい、安心したい」といった煩悩が強い中で成仏などできるのでしょうか。南無阿弥陀仏と唱えればお浄土に導かれるとも言われていますが、信じるのが難しいです。物質的世界とは違った世界があるという確固たる証拠があれば安心して生きられるのですが、そうではないから毎日を不安と絶望の中で過ごしています。 科学によって生き物の在り方が判明し、政治によって私達の未来はどうしたって暗いことが判明してしまいました。故に死を意識するようになり、死んだ後の残酷さに気づいてしまい、繰り返される死へと至る苦痛に怯えるようになりました。これは「死にたかった」私への罰なのでしょうか。 物質的世界の残酷さが強すぎて、精神的世界の温かさや理想論を信じられなくなっています。人間も動物なのですから、自分を守るためならどんな残酷なことだってします。こんな世界なのに、どうすれば「死んだ後は極楽浄土に導かれる」と信じることができるでしょうか。希望を持つことも何かをすることも怖いです。何をしようとしても、「途中で自分の人生が終わらされる」と感じてしまいます。家畜や戦争地帯に生まれる覚悟、できていますか? 私にはできる気がしないのですが、今の世界の仕組みを変えることもできないと諦めている時点で、この世界の残酷さに加担しているという罪を背負っています。いつかは世界のために自分を犠牲にしなければならない時がくるのでしょうか。 この世界の残酷さからは逃れられないという事実に狂いそうになります。どうしたってたどり着く先は絶望。

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2025/05/14

今の平和は嘘。だから何もかも虚しい

例え何かを為そうとしても、何か努力をしようとしても、自分の人生を生きようとしても、いずれ戦争ですべて奪われます。だから、何を感じるのも苦しい。ずっと泣きながら生きています。 そして、死んでもまたこの世界に生まれてしまいます。自我とは物質的肉体に付随するものでしかありませんし、極楽浄土なんてフィクションの産物にしかすぎません。確かなものは死と絶望と残酷な営みだけです。もしも極楽浄土が本当に存在するならば、この世界中で起こっているありとあらゆる残酷な環境の中に生み出される命に説明がつきません。どうして、戦地や過酷な独裁国家の中に、まだ人は生まれ続けるのでしょう。いつかの自分がファーストペンギンとしてシャチに食い殺される可能性は、この世界が終わるまで永遠に付きまとい続けます。 だから、この人生も、今の平和も、「人類」という営みも、何もかも束の間の嘘でしかありません。この世界の本質は、破壊と暴力と残酷な営みだけです。私達は死んだ後、更に過酷な環境の中に産み落とされる覚悟をしなければなりません。そして、強制的にもたらされる死はもう目前にまで迫っています。 存在しているのが辛い。物質的存在から逃れられない自我が辛い。脳科学的に言えば極楽浄土なんて信じるのも難しい。なぜなら、超常的上位存在なんて本当は居ないからです。あるのは残酷な物質的営みだけ。 ・物質的世界や自我や人類の営みなどといったものは、全てが偶然の産物でしかない ・必然性や何かの意図が介入していないということは、どこまでも無秩序で残酷になるということ ・それでいながら、結局は物質世界から逃れることなどできない。死んでもまた他の生き物の感覚器官が「自分」になるだけ だから、ありとあらゆる平和や慈悲やぬくもりが嘘のように感じられ、「どうしてこんな世界じゃないんだ」と苦しくなります。愚かにも、嘘っぱちな温かいものを望み、「これらが尊ばれる世界であるべき」などと思ってしまいます。その度に、残酷な真実との落差に苦しくなります。何を為すのも、希望を持つのも苦しい。死ぬことで物質的世界から「本当に」解放されるなら、安心して生きられるのに。 どうして極楽浄土を信じられるのですか。こんな残酷な世界で。私は悪くない。世界が悪い。だってこの世界は本当に残酷だから。慈悲や幸福よりも破壊や暴力や不幸の方がずっと大きくて強い世界。

有り難し有り難し 19
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