おはようございます。先日、父の仏壇の部屋と居間での供養について教えていただいた者です。あれから、亡くなった人が成仏することについて考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。お暇な時に教えてくださると助かります。 私は今まで、亡くなった父は天国に行ったと思っていました。時々仏壇やお墓のような祈りの場に降りて来るのかな....とも思っていました。 ハスノハに入ったのがきっかけで、成仏という字の意味を考えてそれは仏に成ることだと考えるようになりました。そうか、父は仏さまになるんだ....と思ったけれど、いざ祈ると自分の心の中に生前の人柄のままの父がいて仏さまになった父は想像がつかなくて、今まで仏壇の前で「ねえお父さん」と普通に呼んでいました。もしかしてとても失礼なことをしていたかもしれないですが、仏壇には仏像の絵があり、神様が祀られているんだろうと思いながらもよくわからなくて父にだけお祈りしていました。 本当は、深く考えないで父が安らかでいてくれれば仏でも何でもなっていていいのですが(不謹慎だったらごめんなさい)、亡くなった人の成仏とはどういうことか考え始めたからには知りたいです。でも私にとってはとても難しい部分なので、仏教初心者向けに教えてください。お願いします。
昨年に義父(主人の父)が亡くなり、今年が初盆になります。 菩提寺の住職さんと義父は、個人的にも親しい間柄だったそうです。 5~6年前から御住職の体調が悪いとの理由から、お寺の本堂以外での法要はすべてお断りしているとの事で、義父の通夜葬式も別のお寺の連絡先を言われてこちらから連絡し、急遽、来ていただき葬儀をすませました。 初盆となる今年だけでも、仏壇の前で拝んで頂きたいとお願いに行ったのですが断られ、代理の方をよこしてもらうことはできないか訊ねると「そちらでお好きなお寺さんに連絡してみてください。」との事。 義母は、事を荒立てたくないので自分たちで集まればいいと言うのですが、主人は亡き父の為に初盆はきっちりしたいと言います。 義母の気持ちも主人の気持ちもわかるので、何か良い方法はないかと悩んでおります。このような場合、どうしたらいいのでしょうか?
僧侶の皆様に御尋ね致します。仏教の教えでは「親を大切にしたければいけません」「育ててもらったご恩に報いることが大切」といわれて いますが、昨今多発しています「児童虐待」「養育放棄」にあっている子供も、その親を大切にし、恩に報いなければならないのでしょう か?僕は幼少の頃から感情の起伏の激しい母親 に振り回され、悪化している夫婦関係のストレス解消に精神的暴力肉体的暴力にさらされ、逃げ場なく、過ごして来ました。19歳で家を飛び 出し、やっと呪縛から解放され32年が過ぎました。数年前から仏縁を頂き、仏教に帰依致しましたが、その中に冒頭の教えがありましたこれ については、僕は素直に受け止めることが出 来ないのです。どうぞ僧侶の先生方のご指導ご回答の程、よろしくお願いいたします。
今月、長年 疎遠になっていた義父が病院で亡くなりました。ホームに入居して10年…人付き合いを全く寄せ付けず ひねくれてしまい、殻にこもっただけの人生でした。 結核菌保有者の為 特殊マスクを付け ガード服を身に付けて 遺体に面会しました。 献体は 生前から本人の希望でした。 ただ 私達は 突然の死に戸惑うばかりでしたので その時は、『ガードエプロンやマスクを装着して お焼香して頂くわけにもいかないので 御骨が戻ったら、お別れ会をしよう』と 病院からそのまま大学病院に 運ばれました。 私の親族には 献体のため 御骨が戻り次第 (お別れ会)という形を取りますので その時は 宜しくお願いします…と 伝えました。 でも お通夜や葬儀などを行ってから献体…という方法を取らなかったのを後悔しています。 お墓は20年前に霊園を買いましたが お坊さんに知り合いはおりません。 お式などは 納骨の時で よろしいのでしょうか?戒名やその他諸々は どうしたら良いのか これからの段取りが まったくわかりません。アドバイスいただけないでしょうか…
私は子供の時に小児癌を患い顔半分に障害が残りました。孫も小児癌になりました。私の母は結婚せずに私を産み、私は2度結婚し子供を産み、その娘も2度結婚し、その娘の子供が小児癌になりました。私は最初の夫の両親を看取りませんでした。今の夫の両親は介護し看取りましたが心から介護はしていません。早く亡くなってほしいと望みました。そんな私だから私もまた娘から疎まれています。もう誰とも関わらず一人で生きていきたいのですが、そういうわけにもいきません。亡くなった姑、舅。80になる実母。今まで私に関わった人にどう償えば、この悪循環を断てるのでしょうか。
人間以外の生き物(特に虫など)の命も大切にする考えを教えてください。 私は虫が目につくと大抵すぐ殺してしまいます。今まではそれで何とも思わなかったけど、ハスノハでちょこちょこ過去の相談を参考に勉強させてもらううちに害虫駆除にも気が咎める人もいて、自分の感覚を考え直そうと思いました。 でも、かわいそうだと思う気持ちがわからないっていうか….人間以外の虫とか小さな生き物の命も大切に思う気持ちがわからないんです。動物をいじめたりはしないし犬とかは好きだけど、それでも人間と同じには思えない感じです。 昔お坊様は肉を召し上がらなかったと聞いたことがあるので、基本的に生き物を殺さない考えがあるんだと思います。どうやったらそう考えられるのか教えてください。 精進料理について思い出したこと(こっちの質問はメインでないので気にしないでください) 私の親戚が仏教系の中学校に通っていた頃、修学旅行で自分達はまずい精進料理(失礼)を食べたのにお坊さん達はカツカレーを食べていたとぶうぶう言っていました。責める気がしなくて笑ってしまったけど、本当のとこ今は肉料理大丈夫なのかなってちょっとだけ知りたくなりました。
おはようございます。質問に戻ってきてしまいました。余裕のある時に、よかったら教えてください。 智慧の意味を人に訊かれてとっさに自分なりに理解している範囲で説明してしまったのですが、あれでよかったのか気になって、ここで確認させていただきたいと思いました。 「智慧とは、自分の主観を介さずに物事をありのままに見ること。事実をそのまま捉える心の目を持つことであって、頭が良いという意味で知恵があると呼ばれるのとは違う」。 これでいいでしょうか。違っていたら人にごめんねと言って直せばいいだけのことなのですが、本を読んだりしてきてもう全くの「初心者」という程ではないので間違えていたら私は少し恥ずかしいです。
初めまして。答えにくい微妙な質問だとは思いますが、どうか読んでいただけたらと思います。 私は10年ほど心の病で通院しております。基本的には安定していますが、時々今日みたいにとても気分が落ち込み、何もする気が起きない日があります。本当はベッドから起きたくもありません。 もちろん、そんな訳には行きませんし、起きないと余計に気分が悪化するのは分かっているので、なんとか出勤します。 そこでふと、お坊さんも人間ですし、心の病を持っている方や、そうでなくても「とにかく今日は辛い、落ち込んでいて何もしたくない」という日があるのでは?と思いました。(見当違いで失礼な事を言ってたら申し訳ありません...) もしよろしければ、差し支えない程度で、「自分の周りにはこういうお坊さんがいる」とか、「(具体的な解決方法がない理由で)落ち込んでいる時、こういう風な心の持ち方を心がけるようにしている」等といったご意見、その他どのようなものでも、よろしければ教えていただければと思います。 よろしくお願いします。
初めて相談いたします。よろしくおねがいします。誰に聞いてよいかわからず、悩んでおります。 私の母のことなのですが、心の持ち方についてご教授願いたいと思っております。 両親は私が15歳の時に離婚し、それから母親だけで育てられてきました。ちなみに私は一人っ子です。 大学、大学院はバイトと奨学金でなるべく母には迷惑をかけずに勉強し、就職後は毎月母の収入以上の仕送りをしています。 母は私が就職をしたころから、依存するような発言をしており、それが不快です。 また私の生活に色々とアドバイスをくれるのですが、その発言が耳障りでつい辛く当たってしまいます。 母の面倒は生涯に渡って見るつもりでいますが、何か納得してないような気がしています。 心のどこかで、両親のせいで貧しい思いや嫌な事があった上に、就職してからも仕送りをし続けている私は何のためにこんなことしているんだろう?と考えています。 見返りが欲しい訳ではないのですが、私が苦労する(労力を使う)意義が母親のためだけなのか?と思うとやりきれないです。 自活してちゃんと働いて生活しているのに、どうして色々言われないといけないのか。と思ってしまいます。 最近私が結婚して、母がより一層私に依存してきます。 今は別々に暮らしていますが、いずれ一緒に住むと思うと不安です。 どのような心の持ち方をすれば、母に優しく接することができるようになるか教えて欲しいと思います。 よろしくお願いします。
いつもご回答ありがとうございます。 スッタニパータの中の理解できない箇所の一つに 以下の箇所があります。 お坊さんの御教示お願いいたします。 873で「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。」とあります。 次の874で「①ありのままに想う者でもなく、②誤って想う者でもなく、③想いなき者でもなく、④想いを消滅した者でもない。──⑤このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」 註では、①を凡人②を狂人③を滅尽定④を四無色定とありますが、873で修行した者について問うているのに①、②は修行者の範疇ではないようです。また、③が四無色定で④が滅尽定のように思われます。 勝手な考察ではありますが、 ①ありのままに想う者は、 ・概念で構築された言葉と一体となっている形態(個々の対象)をそのままに想う者 ・名称と形態は、妄想の元であると理解に至っていない修行者 ②誤って想う者 ・形態によって迷うのではないと想っている者 ・諸行無常を理解していない者 ③想いなき者 ・形態に対して想いをめぐらさない者。 ・想わないようにしている者 想わないようにしただけでは形態は消滅しない。形態には実体が無く、妄想(=苦)の元凶であると理解していない者。 ④想いを消滅した者 ・形態に対しての想いを想いで消滅させている者 ・想いを想いで取り扱っているかぎり想いはなくならない。 ⑤理解した者の形態は消滅する。 ・消滅させる(人為的)ではなく消滅する(自動的に消滅されている) ・想いなく形態が消滅する者でなくてはならない。 名称と形態が分離されたものと理解しなくてはならないのではないでしょうか。 名称は社会生活のために便宜的に付けられたものでしかありません。 例:お金(お金という名称)の本質は印刷されたただの紙。為替交換のできない国に持ち込んでも交換価値はありません。使用価値としては火をつけるときに使える程度のただの紙でしかない。 「私」というのも「私」という概念に付けられた名前だけであって、想いが続くことによって「私」が存在していると勘違いしているのではないでしょうか。 よろしくお願いいたします。
お坊さんは本気で、死んだら仏になると信じているんですか?
仏教の本質とはどのような教えですか? 宜しくお願い致します❗
まず、煩悩を極力減らしていくこと、苦を滅することが仏教のお教えですか? だとすると、「人」である限り煩悩や苦しみを完全に滅することは不可能であります。 何故なら、自分と他人、自分と世界は分かれたものであるという分離感こそが個人の正体だからです。 個人=分離した存在、なので苦しみは必ず存在します。 (本当は分離していないので、見かけ上の苦しみですが) では仏教のお教えのゴールとしては「人でなくなること」なんでしょうか。。
社会人になってから3社目、転職してきて半年ですが、仕事が出来ない上に、みんなに嫌われているように感じてます。相談出来る相手もいません。会社で居場所がなくて、本当に辛いです。 今の職場は、世に言うホワイト企業で、働いている人はみんな優秀で、環境はとても恵まれています。着いていけないのは私の実力不足と、コミュニケーション能力の欠如が原因だと感じてます。 嫌われた原因は、私が仕事出来ないのに出しゃばって仕切ろうとしたことがあったことが原因だと思ってます。 そのときは本当に私は口だけの人間でした。 上司にマネジメント能力を求められていて、意味を履き違えたんだと思います。今はバイトさんにさえ、指示を出されるような状況です。 仕事については、私なりに努力しているつもりなのですが、空回りなのか、努力が足りないのか、本当に何も結果がでません。結果を出そうと思えない…というか、本当に何も出来ないんです。何を求められているのかが、理解できないです。 私自身は半年前よりは私なりの成長を感じてはいるのですが、そんなの微々たるもの過ぎて、周りからみたら本当にお粗末なものだと感じてます。 今、チーム全体で取り組んでいる仕事があるのですが、私が使えない人間なので、みんな余計に呆れているような気がします。なので、今はよりツラい思いでいっぱいです。 努力で補えばいいのですが、机に向かっても全く頭が回らず、逃げ出したい!ということばかり考えてしまいます。 会社を辞めることを検討するべきか、でも、この歳で逃げてばかりいるのもよくないですし…、でも、このままいても私は何も身動きがとれなくなってしまうような気もしています。 お恥ずかしいかつまとまりのない相談ですが、何かアドバイスをいただければと幸いです。
先日祖母が亡くなってから「仏様」という言葉をよく聞きます。 よく聞きすぎて仏様の意味が分からなくなってしまいました。 お寺では「阿弥陀如来様が仏様にしてくれる」と言われましたが、 それでは阿弥陀如来様は仏様ではないのでしょうか? 家の仏壇の真ん中には阿弥陀如来様の絵がかかっていて、祖母はこの絵を「仏様」と言っていました。 でも、前述のお寺で言われた通りなら、祖母が毎日手を合わせていたのは、阿弥陀如来様ではなく、先に亡くなった祖父ではないでしょうか? また、祖母が亡くなってから二・七日、六・七日に、夢で祖母に会いました。 そのことを叔父に話したら「あなたに仏様がついてしまっている」と言われました。 仏様がつくと夢に出てくるのでしょうか?(そもそも「つく」ってなんでしょう?) 毎日正信偈を読むように言われたのでやっているのですが、何も理解していないのに続けることに意味があるのでしょうか。。。 あまりに初歩的なことで申し訳ありませんが、ご回答よろしくお願い致します。
随分前から好きな教師がいます。 もちろん付き合ってるなどとんでもなく、たまにお悩み相談をしてくれるような関係です。この前その人が仏教徒であることを知りました。元々少し仏教の考え方には興味があったので、色々とその話をしてもらったり、自分から本を読んでみたりしました。そうやっていくうちに段々仏教の考え方が好きになってきました。私がその先生が好きだったのは先生が仏教の人だったからなのか、とも思っていました。しかし冷静に考えていくと、私と仏教との縁がその先生ではなく違う人からもたらされたものだったらここまで仏教に熱中しなかったはずで、全ての始まりが恋愛という煩悩から始まっていると思うのです。 このような状況をお寺の方々はどう思われますか? 私は自分が間違っているような気がします。
報いきれるほどの恩ではない。この世でどのようなことをしても、お坊さんの大恩に及ばないのです。私の参じたお方に報いきれないのです。 大概の僧侶志望の方は、僧侶という型枠に収まり、呆けた顔をしたいだけでしょう。(違う人も当然、いるでしょうけど) このhasunohaに南伝仏教の本を勧めるお坊さんがいました。 なぜ浄土宗門徒ならば一心に念仏を唱えよ。と言われないのか? そうでないなら、この宗派は貴方の要求に応対できないと、 宣伝して回っているようなものである。師の恥だ。 煩悩を滅するのが道であるなら、すぐに南伝へ飛び出して出家すべきでしょう。 命はいつ果てるとも知れず、呑気に書き込む時間などないはずである。 一宗派の門徒ならば、師から伝えられた安心を絞り出し、絞り出して、 与えるべきである。南伝なんぞの教えは不要でしょう。 青白い顔をして訪ねてきた人に、この本を読んでみろと言うのか? 崖に捕まって、落ちそうな人間にこの本を読めと言うのか? 本を勧めるのが悪いのではなくて、相手の心に真に向き合うべきでしょう。 頑張る気力が湧かないと嘆いて苦しんでいる人間に、 「努力にこそ価値がある」と答えを返した僧侶はいないだろうか? 砂漠のど真ん中にいて、飢えて苦しんでいる人間に、 雑巾を絞って、絞って、ひねり出した一滴を捧げるが如く、 求むる者に注ぐべきである。 真に苦しむものは雑巾の水でも礼拝して飲む。 例え地球に宇宙人が攻め込んで、インデペンデンスデイの如く、 飛行機で宇宙船に突っ込み、地球の危機を救っても、 お坊様の恩に報いきれるものではない。 未来永劫に輪廻して善行善業を積み続けても、報いきれるものではない。 hasunohaで答える程に頑張っているお坊様がこの程度(すみません、ごめんなさい)なので、現状の日本仏教界の内実を察するに十分ですよ…すいません。 意識の低いものが跋扈し、仏を貶めるだろう。 正法は、ロウソクの火のように弱ってこのまま絶えるのではないかと、 心配するばかりです。 門徒の恥は師僧の恥であり、師僧の恥は宗祖の恥だと思います。 碌な返答も出来ず惑わすようであるならば、黙していた方がマシです。 偉そうに説教みたくなってごめんなさい。 ただ反省はいくらしても、一円も掛からないので損はしないと思うのです。 私も道の途中ですので、頑張ります!合掌
お彼岸などでお墓参りをするとき線香をたてますが、そういえばなぜ線香をたてるのか考えたこともなく、何気なく行っていました。なぜお線香をたてるのでしょうか? また我が家には仏壇はありませんが、親の実家には仏壇があります。 遺骨はお墓に眠っているのに、なぜ仏壇があるのでしょうか?
現在、ChatGPTなどのAIの発展には目覚ましいものがあります。 知識や論理的思考力では、既にAIが人間を上回っていると言っても過言ではありません。(実際、人に質問や相談するよりもChatGPTに質問・相談した方が的確な答えが返ってきます。) こうした現状の中、今後、人間の仕事はどんどんAIに置き換えられると予測されています。 それは、お坊さんにとっても例外ではなく、法話や読経などの業務はAIに置き換え可能なものだと思います。 また、芸術などの分野もAIの発展により、人間が作るよりもより美しい作品が誕生すると思われます。 ロボット工学との接続によって、身体性も持つと考えられます。 今後、AIがどのように発展するかは分かりませんが、もしAIが意識や身体性を持った場合、人間に残された分野とはどのようなものがあるでしょうか。 【意識とは何か】 なお、私にとって「AIが意識を持つ」ということの定義は「AIが私たちから見て意識があるように見える」ということです。 「意識と何か」という問いは、哲学や脳科学の分野などで長年論じられてきましたが、未だに答えは出ていません。 それは、客観的に観察可能なデータと、「クオリア」 のような主観的な感覚・経験が全く違う質を持ち、両者の間には架橋し難い断絶が存在するからです。 私の主観的な感覚や経験は、私だけが体験できるものでそれを他者が同じように体験することはできません。 あくまでも、言語を通して不完全な状態で確認、伝達することができるだけです。 ですから、私にとっては他者も「意識を持っているように見える」存在で、本当に私と同じような意識を持っているかどうかは決して分からない。 (そもそも、「私の意識とは何か」を理解していないのに、他者の意識の有無を判断できるわけがない) 同じように、AIについてもそれが「意識を持っているように見える」ならば、一般的な共通認識としては、それで「意識がある」と判断するのに十分だと考えます。 異論があれば、是非教えて下さい。 (なお、ここでは意識の私秘性と独在性の違いについては扱いません。)
仏の教えを感じさせる日本の歌(JPopでも童謡でも演歌でも構いません)ってありますでしょうか? 歌のタイトル、アーティスト名、できればその歌を象徴する仏語を教えていただけますと聴く際の参考になります。