仏教と宗教はどう違うのですか? 宜しくお願い致します。
こんにちは。バイオリンを習っている高校2年生の者です。私は親に呆れられるほどのクラシック音楽オタクで、いつもクラシックのことしか考えていないと言っても過言ではないくらいクラシックが大好きです。 しかし、私にはどうしても分からないことがあります。音楽に命はあるのでしょうか?人の奏でる音、楽譜、楽器、それら全てに魂が篭っているのでしょうか? ご回答お待ちしております。
こちらで質問していい内容ではないかもしれませんが、相談できる人が周囲におらずこちらに書かせて頂きました。 神道式で葬儀をあげた母の50日祭が迫っていまいす。 母が亡くなり、良く考えもせず母の親が神道式で葬儀をあげていたため同じように神道式で葬儀を行いました。 しかし生前の母のことを思い出すと、特に信仰していたわけではありませんが、仏教の教えやお寺の雰囲気に母は惹かれているところがありました。 このことは生前母と一番会話をしていた私だから知っていたことですが、母が亡くなった直後は呆然としてしまい葬儀のことを他の家族に任せっきりにしてしまいました。 今となっては母はお釈迦様のもとに行きたかったのではないかと思い、これで本当に良かったのかと思い悩んでいます。 また、神道では故人は家神になると言われていることを知り、それも母を家に縛り付けてしまうようで抵抗を感じています。 神道を悪く思っているわけでは決してありません。 ただ、母は本当は成仏したかったのではないかと思うと心が苦しいです。 母はお釈迦様のもとには行けないのでしょうか?
こちらで相談させて頂きながらではありますが、私はカトリックの教会に通っていて毎週ミサに参加しお祈りをしています。いつか洗礼を受けたいとも思っています。 しかし日本では宗教に「怖い」「気持ちが悪い」というイメージを抱いている人が多いように感じ、自分の信仰を後ろめたいもののように感じてしまいます。 親が宗教家だったから子が不幸になったというような話もよく聞くので尚更です。 私はキリスト教の教えを信じたいと思っていますが、仏教はもちろんその他の宗教も、信じるその人の心が救われるのであればそれで良いのではないかと思っています。 宗教が心の拠り所となり言動が善いものとなるきっかけになるのなら、宗教は怖くて悪いものなんかではなく、温かいものではないかと思うのです。 そして私自身は家族をはじめ、誰にも、私の信じる教えを押し付ける気はありません。 別の考え方を否定する気も全くありません。 でも、日常生活の中で、宗教を信じている人間は頭がおかしいというような言葉・記事・投稿を聞いたり見かけたりすると私は悪いことをしているのではないかという気になる時があります。 宗教を信じること、そして宗教そのものは悪いものなのでしょうか。
私は、今の苦しみから輪廻からの苦しみの解放をどうやったら出来るのか?私なりに調べてみました。 そしたら、福音書というものに、人の命、生き物の命を愛しみ世の中のためになる事をして生きていけば、死後は栄光の身体を与えられて幸せに満たされると書いてありました。 つまり、もう生まれ変わる事もなく苦しむ必要のない世界に召されると言うことです。 ここで、質問ですが、人はこういった価値を見出し世のために善行を働いたら死後はもう苦しみから解放されているのでしょうか? 現世でどんなに世の為になる事をしても幸せを心から感じることが出来なくなった人間でも死後は幸せいっぱいの世界に召される事はありますか? お坊さん的観点からのご意見お待ちしてます。
人への悪口や批判的な事が自分の中に浮かぶとき、自分の事は棚に上げて、とか何様なんだ、などと自問自答が起きることがあります。 悪口を言いたい瞬間というのはありますが、言う事や言っている自分にやや抵抗を覚えます。 なんだか醜い事をしているような、後ろめたい感情を含んでしまいます。 出来るならばあまり悪口を言わないように、と一応心がけています。 とはいえ、世の中は悪口、愚痴を平気でいう人が多くいるように感じます。 その人達は多少なりともそういった後ろめたさのようなものは感じないのか、と不思議に思います。 そこでお聞きしてみたいのですが お坊さんも他人への悪口を言いますか? また、仏教やお坊さんの立場から見て、悪口、他人を悪く言う事はするべきでないことなのでしょうか?
私が結婚する時、お祝いする気になれないと言ってきた友人が、もうすぐ結婚します。私の式の時はプロポーズから式までが短く、直接会う時間がなかったのでメールで報告することになってしまったのですが(そのことについて始めにお詫びしています)、その時に自慢された気分、祝う気になれないと散々責められました。自慢のつもりはなかったけどごめんね、と謝り友人も言い過ぎてごめんと謝ってくれて式には来てもらえましたが、その後の妊娠の時も妬ましいと言われてしまいました。最近その友人が結婚することになり、ぜひ式に来て欲しいと言われました。 全て水に流して祝福する気でいたのですが、かつて友人が嫌がっていた「幸せアピール」ともとれるSNS投稿、何人かで会おうとその子が誘ってくれていたのに何故か実際は私に声をかけてくれなかった、子どもができて妬ましい等、本当に私はこの子の友だちなんだろうかと不信感ばかりがつのってしまい、結婚式の日が憂鬱です。 私自身友人の一挙一動に囚われすぎていると分かっているし、それが嫌なので式の後は疎遠にしようと思っています。(式の時はできるだけ笑顔でお祝いしたいです) 友人を心から祝福できない私は間違っているのでしょうか。
お寺の住職が近所の神社まで宮司の仕事もしてます 掛け持ちしてもいいのですか
私の実家は歴史ある大寺でした。父親はカリスマ的な僧侶で尊崇を集め、寺門興隆に努め、諸堂を立派にし、大きな位牌堂を新築し、宗内でも二つある部門のトップをしてるほどの実力者でした。母親もまた名刹の出身で、親は両親とも何でもできる人でした。 その親も父が80歳、母が78歳になりました。いわゆる8050問題に直面しています。 私は長男なので後を継がなくてはならないと無理に宗門大学に行って、心を病み、 父が浄土宗のある部門のトップになった時点で、31歳で完全におかしくなって入院して、33歳の時寺を離れました。 以来年金・手帳を受けて、一人暮らしをしながら病院に通ってリハビリに努め、 寺を出たのが33歳の時でしたから、今年53歳なのでもう20年になります。 40過ぎから働くことを考えて、障害者職業訓練に通ったり、B型就労継続支援事業所に通ったりして、働く準備をして、単発派遣から始めて、職を転々としましたが、短時間のパートが精いっぱいです。 昔は親に死なれたら困るんだとケースワーカーにこぼしていたような気がしますが、最近は、年金とパートで生計を立てるしかないと思っています。 叔父も二人いて、二人ともお坊さんですが、何かと助けてくれるようではありますが、いとことは縁が薄いので、助けてはくれないでしょう。 本当に困窮したら生活保護しかないでしょうが、今のところ働けるし、親族も助けてくれるので無理だと思います。 死にたいとは思いません。が、以前は80まで生きるんだと思ってましたけれども、何か生きがいがないです。 仕事は短時間のパートながら、非常にいいところにつけて、やりがいがありますが、精神状態で休みがちです。なので収入は不安定です。 趣味はありましたが、以前ほど熱は入りません。 最近、物欲も性欲もないです。 50過ぎてから、初老というか、衰えを感じています。 糸の切れた凧のようにふらふらと生きている自分が嫌になります。
自分の家庭はキリスト教家庭です。(実父(父だけ元仏教徒)や継父は菩提寺あるようですがどこかは母の圧で言っ手くれませんでした 現在音信不通) 自分自身も11歳で信じていましたが、うちの家庭が信じやすい家庭だからって牧師達がやりたい放題にめちゃくちゃな制限や指導(学校関係などにも口出し)をしてきたり、周りと違う事をしなければならない事が嫌になり、だんだんとストレスが溜まって11歳の時にキリスト教信仰しなくなりました。 その後、テレビで見たアニメの「一休さん」や京都奈良の修学旅行を通して仏教に興味を持ちました。 ただ、大人になるまでは母が監視していた為遠くて動けず、家を追い出されてから自由に信仰できるようになったので、この機会に僕が本当に信仰できる仏教の宗派を見つけたいと考えています。 そこで質問です。 1 .色々な宗派の講座を受講したいと考えてるのですがそれは良くない事なのでしょうか? 2.キリスト教の洗礼を7歳の時に受けてしまったのですが、本気で仏教を信仰したいと思っています。 そんな方でも仏教の神様方は歓迎してくださるのでしょうか? 3.もし宗派が決まった場合は仏壇とか設置した方が良いのでしょうか?(独身で1R6畳の木造アパートに住んでます 一人暮らしの為故人はいません) 回答よろしくお願いします
この世で生きていくのは修行だと聞きましたが、天国へ行くには、どのような生き方をすれば良いのでしょうか。 人にはそれぞれ、良い部分や悪い部分があって、完璧な人など存在しないと思います。 考え方も様々で、気の合う人や合わない人がいて、人間関係は決して簡単ではないです。 でも最終的に自分のためになるなら、あらゆる努力をしたいと思います。 そもそも、この考え方からして、いけない事かもしれませんが… 人間関係だけでなく、生活の仕方、心の持ち方など、アドバイスをいただけると有り難いたいです。 どうぞよろしくお願い致します。 幼稚な質問で申し訳ありません。
「地獄の裁き」の「地獄」とは、仏教の考え方における最下層の世界のことで、罪を犯した者が死後に生まれ変わる場所です。人間は死ぬと、この世とあの世を 分ける三途の川を渡り、そこで閻魔と呼ばれる大王の裁きを受けます。裁きによる罪の重さによって、落とされる地獄が決定します。地獄には罪の重さに応じて 段階があります。 地獄の思想は、浄土思想や平安時代の末法思想の広まりとともに人々に定着し、民間信仰となりました。お経の功徳によって地獄に落ちることを防げることから、当時の人々は熱心にお経をとなえるなどの信仰活動を行っていました。 こちらの文章はとあるサイトの一文をコピーさせていただいてます。 https://biz.trans-suite.jp/20492 ←こちらのサイト様です と書かれていますが、人間が死んだら行くべき所は、もうすでに固定されているという事でいいんでしょうか? 天国地獄どちらかに行くというものは、そもそもなかったんでしょうか。 不安です。 というか、どれだけいいことをしても無意味ってことですかね。 人に優しくしたり、色々あると思いますが・・。 自分の行くべき場所はもう決まってる訳ですから・・・ 生きてるのもしんどくなりますね。
大乗経典はあたかもお釈迦様が直接に説いたかのように書かれた物語的なものが多くあるといわれています。お釈迦様以降に悟られた方が、仏教のすばらしさを広く一般の人まで広げることを目的にしたのでしょうか。 大乗経典には、きらびやかな極楽浄土や荘厳な仏国土、功徳のすばらしさなどなど珠玉の言葉で埋め尽くされているように感じます。 先輩が口をすっぱくしていうことには、「経典に書いてあるからといって、そのまま信じてはいけない。そもそも信じるとは「知らない」ということだ。20メートルの崖から「信じて」飛び降りる人はいない。飛び降りて死ぬということは判り切っているから「信じる」必要がない。「信じる」というのは「知らない・体験がない」ということに他ならない。仏道は「体験」してなんぼのものだ。言葉はすべて方便であり、言葉では表現できない実体験で確認するものだ。坐禅和讃の最後にある「当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり」を体験しなさいということでした。死んでから極楽浄土へ行くのではなく「今ここ」で体験する。因縁によって生まれてきた意味は、体験することだ。」ということでした。 「自灯明・法灯明」の真意は、修行を先行させ法によって確認せよということでしょうか? 体験できるかどうかもあやふやな修行よりも、お念仏によって西方浄土で修行したほうが効率的ではないでしょうか?
苦しんでいます。 助けてください。 離れて暮らしている息子にできた彼女がどうやら有名な新興宗教を信じているようです。たまたまご本尊をみる機会がありネットで調べてその宗教であることに気がつきました。まだ勧誘は受けていないようです。 信者としか結婚できない宗教とききますので、そのうち勧誘されるのではないでしょうか。 私たち両親はその宗教をよくは思っていません。息子自身はまだ新興宗教であることに気が付いていないようです。ただのお位牌だとおもっています。 私たちは今後どのように対応すればいいのでしょうか。 ナーバスな問題だけに心をいためています。 よきご指導をおねがいします。
いつもお世話になっております、相談させてください。 恋人が新興宗教の信者をしています。 本人の祖母が信者で3世のようですが、家族やコミュニティの影響が強く「宗教に入ってくれとは言わないけど、宗教の関係も大切にしたい」と付き合ってから言われて知りました。 私はお寺も神社も機会があるときにお参りをするような人間ですが、普段から宗教を意識したことがないのでびっくりしました。しかし本人が自分の宗教を押し付けてこないのであれば「宗教が付き合う付き合わないの理由にはならないから」と言いました。 しかし先日初詣に行こうと誘ったときに、一緒に出掛けはしたものの「私はお参りしないから」と言われ、周りで楽しくお参りをしている人たちを眺めながら、やっぱり宗教が違うと一緒に楽しめることが減るのだろうか、というのと何となくこれからも頭の中で宗教のことを考えながら付き合うことになるのかなと思ってしまいました。 恋人のことは好きなのですが、デートに行くときも話をする時もなんとなく「これはタブーじゃないか」などと考えてしまうなど、宗教のことが頭をよぎるたびにもやもやします。 恋人とはこれからも付き合っていきたいと考えていますが、どのようにすればこのもやもやを乗り越えられるでしょうか。また、このもやもやはどこから来ているのでしょうか。 ご相談させていただけますと幸いです。 よろしくお願いいたします。
初めて質問させて頂きます。 私はどうしても自分を好きになれず 自分に自信が無いです。 中学1年生の時に両親が離婚し 私自身の意思で父のところに残りました。 家族構成は父、父の両親、弟2人です。 私はおばあちゃん子で育ちました。 離婚してから経済的に厳しくなり 父と祖母が喧嘩ばかりするようになりました。 私はそんな2人の喧嘩を見たくなくて いい子でいるように、勉強も頑張りました。 嫌われたくなくて捨てられたくなくて 一生懸命明るく頑張り続けました。 しかし、喧嘩は激しさを増すばかりでした。 祖母は高齢なのにまた、私達を 子供として育てて行くことにストレスを感じてました。 父は全く父親らしくなく 両親に甘えて生きてきていたので 私達を育てることを 重荷に感じていたと思います。 段々と私がうまれてこなければ みんな幸せだっただろうな。 と思うようになりました。 ある日、左腕を剃刀で切りました。 とてもとても痛くて血が流れ落ちました。 こんな自分消えてしまえ。と どんどん自分が嫌いになっていきました。 剃刀で切る傷も増え、切る深さも 深くなっていきました。 気付いたら左手首から二の腕まで 切った痕が線のように並んでいました。 汚い腕です。醜い腕です。 夏でも長袖で過ごしました。 時が経ち成人して仕事を始め 恋人ができ自分のことを ちょっとずつ好きになってきた時 恋人に振られました。 自己評価が低い。ネガティブな発言ばかり。 一緒にいて疲れる。と 私自身、知らず知らずのうちに そんな風に彼に思われていたんだと思い すごく衝撃を受けました。 自傷行為の傷痕も見られてしまい ため息をつかれました。 変わるから別れたくないと言いましたが わがまま言わないで、 人は簡単に変われないから、 君は変われない。 君と付合った事で恋愛がトラウマになった。 と言われ泣く泣く別れました。 今でもふとした瞬間 胸がズキズキと痛みます。 あの日から自分が大嫌いになり、 左腕の傷痕が汚くてたまりません。 こんな自分を好きになるには、 愛してあげるにはどうしたらよいのでしょうか?
人生は苦しいのに生きる理由って何ですか? 生きることは苦しいです。たまにちょっとだけいいことがあるぐらいです。 なのに何で頑張ってまで苦しい人生を生きる理由がありますか? 偉業を成すため?金持ちになるため? 頑張って偉くなって歴史に名を残したり、大金を集めて贅沢したからってそれが何なんでしょう? 死を避ける本能から? ただ死にたくないからって理由で苦しみに満ちた一生を続けるのも下らないと思います。 いつか幸せになるため? 感情が満たされたからって何でしょう?それに死ぬまで幸せになれず苦しみに満ちた何十年の人生が残るだけかもしれません。 考えても苦しんでまでも生きるに足る理由が生きることからは見いだせません。 子供っぽい質問かもしれませんがなんでこんなに頑張ってまで苦しみしか与えてくれない人生というゲームをプレイしてるのか分からなくなっています。
10代の頃に家族を亡くして、それから10年、1人で生きてきました。 もう楽をして生きたいです。 自分で言うのもなんですが、生い立ちも環境も過酷だった割には道をそれずに真っ直ぐ生きてきたと思います。 でもこの先何十年も頑張らないとダメなのかと思うと、嫌で嫌で泣けてきます。 疲れたからちょっと休憩、と頼れる人もおらず、どうしたら楽になるのか分からなくて、ただもがく日々です。 漠然と死ぬことを考えたこともありますが、家族を自殺で亡くしているのでそれだけは嫌で。 死にたいというより、生きていたくない、という感覚です。 生きることがしんどいです。 どうしたら楽に生きられますか。
仏教では詭弁にひっかからないためにどういう方法を教えていますか? 昔から詭弁を使って間違ったことを真実だと思わせようとしている人はいたと思うので、お釈迦さんは詭弁を見抜く方法を弟子に教えていたと思うのですが
親しい方が勤める職場で死亡事故がおきました。 その方は何年も前にその会社を立ち上げていて現在は引退されていますが非常に責任を感じておられます。もしあのときにこうしていれば、、、事故の原因に立ち返ると自分の責任になる、、、などと苦しんでおられます。 やりきれない気持ちは察することしかできないのですが、心をしっかり持っていただきたいので何か言葉をかけてあげたいのですがなにをいっても空虚な言葉しか出てきません。普段明るい方なので落ち込んでいる姿を見ているのが辛いです。なにか救いになれるためにはどうすればよいでしょうか