過去の大きな過ちと愚かな行為の数々、それらに押しつぶされそうです。 特に家族へ対する罪悪感で。 私は1年半前、自責の念から死を選ぼうとしていた時、お釈迦様の言葉に救われました。 それからは心を入れ替え拙いながらも少しずつ仏の道を歩んでいます。 ですが、今とても苦しいです。 私が別人のように生まれ変わったことは家族にも十分伝わっています。 数年前よりぐっと家の中は明るく穏やかになりました。 しかし、私はまだ罪を告白し謝罪していません。 昨夜、妻から何がきっかけで仏教徒になったのかと問われました。 まともに答えられませんでした。 肝心なところはぼかして答えてしまいました。 すべてを打ち明け謝罪すれば、私は自責の念から解放されるかもしれません。 しかし妻は絶望するでしょう。夫が悔い改めているとは分かってはいても。 この先ずっと隠し通して生きていくとなると、嘘をつかなくてならない場面もあると思います。 家族の安寧のためなら嘘も方便なのか、それとも正直に生きるべきなのか。 お坊さんならどうしますか。
僕は,双極性障害で二度の医療保護入院歴があります. 入院中など,障害に振り回されてるときは,「自分はロボットじゃないか?」等障害による極端な妄想で心が一杯になり,かなりしんどい思いをしました. また,今は病状が安定してるのですが,「いつ,あの状態になるかわからない.」という不安は常につきまといます. 僕の障害は薬で寛解(完治ではないが症状を抑えきっている状態)に持っていけるそうですが,各種パーソナリティ障害,発達障害など,薬が未開発で,寛解すら難しい障害(障害の程度によっては,手の施しようがなく自死に至る)も多々あります. 重ねて言うなら,僕は高学歴なのですがそれでも障害のため,就職が厳しく,社会から必要とされてない気すらします. 乙武洋匡さんの有名な言葉に「障害は不便だけど不幸じゃない」という言葉があります.でも,それは身体障害者に限った話ではないでしょうか? 僕は,「身体障害は不便だけど不幸じゃない,精神障害は不幸だけど不便じゃない」と感じます. お坊さん方は如何お考えでしょうか?
いつもお坊様のご回答を拝読し、感銘を受けています。 私自身もこちらの回答で救われた一人です。 実は昨日より「適応障害」との診断を受け休職中です。 薬が合うのか、希死念慮は今はなく、穏やかな気持ちです。(薬のせいでちょっとぼーっとしていますが) そこで、社会復帰を踏まえた休職中の過ごし方について自分なりに考えてみました。 ・規則正しい生活を送ること ・何かを毎日すること ・体を動かすこと ・出来るならば、人の役に立つこと ・社会とのつながりを切らないこと こういった条件を満たしておくことは必要だろうと考えました。 そこでふと考えたのが、「お寺でのボランティア」です。 このサイトを通じて救っていただいたお坊さんへの恩返しにもなりますし、社会とのつながりも出来る。毎日同じ時間にボランティアを行えば、生活のリズム作りになる。 どこかさせていただけるお寺はないでしょうか。 もちろんお礼は一切不要ですし、手弁当で伺います。 仕事も選びません。境内の清掃から、お寺の紹介動画の編集まで対応いたします。 ご検討の程宜しくお願い申し上げます。
何度も相談させていただきありがとうございます。もうすぐ母が病による自死で亡くなって3ヶ月が経ちます。 まだ母のことを思い出してもう会えないのか、会いたいなぁと寂しく感じることはありますが、子育ての忙しさや家族の存在おかげでだいぶ立ち直ることができました。 お坊さんに、手を合わせるのが大事だと言われた通り、毎日朝起きた時、夜寝る前は手を合わせておはよう、おやすみ、出かけるとき、帰ってきたときは声をかけるようにしています。 ですが今日占いで自死した母の気持ちを占ってもらったところ、うずうずなカードばかりで正確なことはわからないけど、いろんなことを心の中に抱えたまま亡くなってしまったことがわかり、亡くなった母は今も苦しんでいるのではないかと心配になりました。 死ぬまでつらい想いをしたぶん、もう悩まないでほしいなぁと思います。 亡くなった母の本当の気持ちを知ることはなかなかできないということはわかってますが、なにか母のために手を合わせること以外にできることはないでしょうか?
最近気づいた事です 生きることそれ即ち失うこと。 それは仏教徒として修行を積んだお坊さんなら当たり前の道理かも知れません。 しかし、親や自分の大切な持ち物、愛する人、遂には自分の命さえも失い、最期は無になる人生に意味はあるのかと考えるとすごく怖くなります。 私は浄土真宗なので般若心経の事は良く分かりませんが、般若心経でも最期は無になる的な事を説いていましたよね? 仏様は無に帰す人生、人間の存在意義についてどう説いておられるのですか? お坊さんはどうお考えなのか教えてください。
駄文・乱文になりますが、ご容赦ください。 妹には昔から俗にいう【霊感】というものがあるらしく、昼夜問わず【幽霊】を見ることがよくあるそうです。(的確な表現がわからないので、以下【霊感】や【幽霊】と表現させてください) くっきりと人間と同じように見えるらしく、また霊を感じると恐怖感から「この場所すごく怖い…「出る」から早く逃げよう!」と突然言い出したりします。 極めつけは、約10年ほど前に祖母が亡くなったのですが、通夜で「お坊さんがお経を唱えている隣にある椅子に座っていた」と言ったり、深夜2時頃に熟睡していたはずの妹が突然起き上がり、棺の前に座り込み突然号泣。「親戚(叔父・叔母)を集めて欲しい」と言い、急いで起こした事がありました。 そして、祖母が思い残して逝った事(子供達が不仲だったことが悲しい、○○が借金を抱えていたのを知っていながら何もしてやれなかったことが悔しい)など、妹が知り得ることが無い事を長時間に渡り話していました。 親戚は「何故そのようなことを知っているのか?」と驚いていましたが【霊感】の事を話すと納得したようで、皆謝って泣いていたという事がありました。 翌朝妹に夜中の事を説明しましたが「全く覚えていないけど、すごく疲れている」と言われました。 それからも「祖母が軒先で日向ぼっこしている」とか「世間話をいくつかした」等と話を聞くことが多々ありました。 前置きが長くなりましたが、本題はここからです。 現在妹は結婚し、二人の娘をもうけています。相変わらず幽霊が見えたり感じたりするらしく、その度にどっと疲れると言っています。 特に亡くなった祖母や弟、最近亡くなった親友の親族から、口を揃えて「お前は3人目の子供を産まないともうすぐ死ぬ」とか「3人目を産んだら【霊感】はなくなる」と言われるそうです。 詳しく聞いてみると、【幽霊】を見るのにもとても体力を使うらしく、見た後はぐったりする日が続くそうです。それは精神(魂)を削って見ているから死に近づいているのではないか・・・と自己分析していました。 「もうすぐ死ぬ」ということはあり得るのでしょうか? 本人はすごく悩んでおり他言無用と言われましたが、本当に死なれたら困りますし、とても心配なので今回質問をさせていただきました。現状を良い方向に持っていくにはどのような事をしたら良いのでしょうか?
大変失礼な質問だと思いますが、何卒ご了承いただけると幸いでございます。 私は、長らくサービス業に従事しております。 ここ5年の間に、2人の祖母、叔父、母親、旦那の親友が亡くなり、その都度お葬儀に参列いたしました。 宗派の違いはありましたが、通夜・火葬・葬儀・法要とそれぞれにおつとめをいただき、『ありがたいお経のおかげで、故人は仏になるために旅立つんだな』と故人の冥福を祈っておりました。 そういった機会も多かったためか、ご縁あって葬祭会館へ転職いたしました。 まだ1ヶ月も就業しておりませんが、すでにたくさんのお葬儀に立ち会わせていただき、さまざまな宗派のご住職様にもお会いしております。 何件ものお葬儀に立ち会うと、知りたくなかった裏の部分も見えてまいります。 『お葬儀をしておつとめを頂くのは、故人が無事に仏になるためではなく、残された遺族が大切な人の死を受け入れるための段階の儀式』なのかな、とも考えてしまいます。 お葬儀をする意味とは、そういった死を受け入れる儀式的な理由も含まれているかと思いますが、住職様から見た『お葬儀の際におつとめをすること』には、どのような意味があるのか、お伺いしたいです。 無知故の不躾な質問で大変申し訳ございません。 よろしくお願い申し上げます。
僧侶様(お坊さん)とは 何だと思いますか? ダライラマの恥ずかしい話があったとしても、日本で受けた義務教育の影響か、仏教に肩入れしている自分がいます。 本心は中立でありたいのですが。 ここに寄せられる沢山の悩み、皆さん真剣ですが、納得出来るかどうかは別としても、俯瞰した返答の場合もあれば、残念ながら、なんとも自分よがりなお粗末な回答も『お坊さん』という名の下に見受けられます。 僧侶様は御自身の為に答えていらっしゃるので仕方がないのでしょうが、それでは相談者には本末転倒。 相談者の何%かは、本気です。 死ぬ気です。 他を傷つける場合も有り得ます。 皆さんとは申しませんが回答を出せば良いとは思えません。 そもそも、他人の悩みに回答できる、という考えが傲慢ではないのでしょうか。 無知な私にご教授頂きたいです。
毎日3歳の娘に怒鳴ってしまいます 定期的ですが、かなり娘を怒ってしまう時期があるんです。 ご飯を食べないでおやつばかり食べる、まだ赤ちゃんの弟を叩く、行儀悪く足で何かをやろうとする など私の中で絶対にやめてほしいことをされると、怒鳴って怒ってしまいます。 いつもならそこで終わりなのですが、嫌なサイクルに入ってしまうと、娘の次の行動もずっと怒りっぱなしになります。 怒らないことが一番なのですが、どうしても大きい声で怒ってしまいます。 お坊さんのように静かで大きな心を持ちたいのですが、どうしたら子供への怒りがおさまりますでしょうか。 カッとなった時にできる方法ありますか? 質問できない期間があったので、今少し嫌なサイクルから抜け出せてるのですが… またその時期が来ると自己嫌悪で娘と一緒に泣いてしまいます。
はじめまして。とうこといいます。 お寺で参拝するととても落ち着くので、よく行っています。 知識も得ようと本を読んだりしたのですが、そこには「様々な仏は架空の存在である」と書かれていました。 お釈迦様はおられましたが、阿弥陀さまとか薬師如来さまはフィクションだと初めて知りました。 私は深く考えたことがなく、てっきり実在されているのだと思っていたのでその時はショックを受けました。 お坊さんはこのことを知っておられるのだと思いますが、どう受け止められましたか? 仏はいないと思いながら学問としてされているのか、存在されて人々を助けて下さると信じているのか、お坊さんのとらえ方を教えて下さい。
訳あって自分の両親と連絡を取っていません。何かあっても頼って行くことはできません。 夫がいますが、夫の親族には会ったことがありません。実家の詳しい場所も知りません。夫の実家には義母と元妻が住んでいます。元妻は幼少期に両親をあいついで亡くし、天涯孤独のために義母を親のように慕っています。義父や義祖母の世話をしてくれたこともあり、元妻にはとても感謝しています。それだけに、私が夫の実家へ顔を出すことはこれからもないと思います。 娘が二人、私の別れた夫の元にいます。年に数回遊びに来ます。実の兄が一人いますが交流はありません。兄が就職で実家を出てから、何となく他人のような感覚でした。 普段からも多少孤独は感じますが、盆正月は非常に強く感じます。夫は一人で実家へ帰り、義母と元妻・幼馴染や兄弟夫婦・甥姪と過ごしています。たった一泊ですが私には会える幼馴染や兄弟・甥姪もないんだという事実が強烈に迫ってきます。アルコールと安定剤の増量で何とか耐えていますが、毎回悩まされています。 夫は私を実家へ連れて行くと、私が辛い思いをすると言います。 田舎の本家の長男なので、付き合いや挨拶がうるさいんだそうです。一度行くと毎回必ず顔を出さなければなるそうです。だからコミュニケーション障害の私には耐えられないだろうと言います。 こういう機会のたびに衝動的に希死念慮が出てしまいます。今回もどうにかやり過ごせましたが、これから年を取るにつれどうなってしまうのかが不安です。最悪、もしも夫が先立ったりしたら、実家へはどうしたらいいのか。思考が停止してしまうぐらい不安です。
私は今23歳です 生まれてから今日に至るまで、生きていて楽しいと思った事はありません 楽しくない人生をこの先何十年も過ごすなら、今死んだ方が楽だ この結論に至るまでに時間はかかりませんでした しかし、自分が思っている程、事は上手く進まず 何だかんだで今も生きています 親に恵まれなかった為に、幼少から耐えがたい苦痛を味わっても尚、私は必死で生きようとしてきました 人がふわふわと何も考えず生きていられる期間は、私の人生に一時も有りませんでした そんな時、ふと「生きる」という執着、固執、の概念が無くなり その瞬間、所謂「ガス欠」になったのだと思います 大人になっても「親」という存在が残した爪痕は残り続け 私の選択肢は限定され、人生の分岐は無に等しいです スタートラインが人より後ろでも、人と同じ位置でスタートする為に、ラインを引き直す努力をする方は沢山居ます しかし、今の私はその気力が無駄に思えてなりません 困難を乗り越えた先に待っているのは その労力に見合った未来である と、誰かが断言したとしても その保証はどこにも有りません 皆、なんとなくで生きているこの世で、そんな保証を求めるのは間違いでしょうか? フィクションの世界なら、悪役ですら大義名分を貫いて「意味のある死」を迎えます そんな信念が有れば、私の人生にも「生きる意味」を見出せるのでしょう しかし、「生きる」為にはその大義名分も曲げなければならないのが現実です そんな現実を生きるくらいなら、私は今死にたいです 自死を止める理由が無い、止めた後の責任を取れない にも関わらず、他人の人生に干渉して、世論で武装した無敵状態の赤の他人が、世の中には溢れています そういう方は何も「生きる意味」を答えられません こういう無責任を良しとする民意が大嫌いです ここにこんな事を書き綴った所で、恐らく 私の自死を止めるだけの回答は得られないのは明白です 自死を止めて欲しい訳じゃない どこかで、こうして口にする事で、生きるだけの目的を、だれかの言葉で偶然見つけられるかもしれない そういう、淡い期待をしているのだと思います 私の人生には生きる意味も、生の実感もありません 今生きている人達は、何故、何の為に生きているのでしょうか?
お疲れ様です。お聞きしたい事がありメールしました。 先日親戚の叔母が亡くなり昨日告別式を無事に済ませました。 喪主の息子さんから聞いといて欲しい事があると言われたのでお聞きしたいのですが 49日は亡くなった日から数えてなのか それとも告別式を終えた後の翌日から数えて49日をするのか分からないので聞いといて欲しいと言われました。 喪主の息子も初めてで全く分からないし、告別式に来てくれたお坊さんに聞いても曖昧な返事しか言わなかったので ハスノハのお坊さん方に聞いてアドバイスをもらいたいと思い投稿しました。 もし良かったら49日の意味を教えてください。私も勉強になるし喪主の息子さんにも伝えます。よろしくお願い申し上げます。
前にも質問にご回答頂けたのに再び質問することが恐縮ですが、質問させていただきます。 死後自分はどうなるのかをずっと考えてしまい、ここしばらく心穏やかではない状態が続いています。 その中でもし死後の世界があるのであれば、出来る限り死後が良いものになるように私は努力をしたいと思いました。ですが、死後を良いものにするために何をすればいいのか、何を信じればいいのか分かりません。 この死後の問題に対して様々な宗教が答えを出していますが、言っていることは宗教によって異なります。(様々な宗教の説く死後の世界の様子を見てますます、死後が怖くなりました。) 仏教の中でも宗派によって死後の考え方は異なることが分かりました。 どの宗教の教えで考えても救われるような生き方をするのは不可能ではないかと思いました。 このような質問をすでに仏教を学ばれているお坊さんの方々にぶつけるのも申し訳なく思いますが、一体私は何を信じて、何をすればいいのでしょう。 正直なところ、もう何かを信じて楽になりたい気持ちもあります...
こんばんは。ずっと前から気になってました、殺処分や科学の為と名目上、動物虐待で酷い殺された方をした動物、冬眠中のカエルを掘り出し生きたまま串刺しにする今でもある残酷な神事、政治に関わり暗殺された人と、例えば石井紘基議員、無念に殺された魂は成仏できてるのか気になります。今は宜保愛子さんがいないので、殺された人や動物、虫は成仏できるのか聞いてみたいですが聞けない。お坊さんはどう思われていますか?
明けましておめでとうございます。 昨年は色々とありがとうございました。 新年になり、ふと思い出したことがあるので二つ質問です。 一つ目はある私の大嫌いなパンクな僧侶が、 『門松は冥土の旅の一里塚めでたくもあり めでたくもなし』 という歌を残して、正月に京の街をシャレコウベを持って『ご用心なさい』と言って練り歩いたという逸話があります。 最初は、死に近づいてるのだから有難がるなよ、髑髏のような死体になるから気を付けなさい、という意味かと思っておりました。 しかし最近は、『寂滅為楽の涅槃に近づいた。めでたいな。でもまだ涅槃への道は遠い、めでたくないな(浮かれてはいられないな)。用心してしっかり行かないと』 と考えるようになりました。皆様の解釈はいかがでしょうか。 (死や死に向かっていく事に対してはめでたいも、めでたくもないのですが) 二つ目は、婆子焼庵という公案です。 内容は以下転載です。 『ある老婆が、一人の修行僧のために草庵を建て、 衣食住の一切を世話をして20年が過ぎた。 そこで「そろそろ いいか」と、娘を世話する ことにした。すると 修行僧は「枯れた木が 寒い岩に立つように、私の心は燃えない」と 言って、娘の誘いをはねのけた。 娘からその報告を聞いた老婆は「20年も世話 してきて、まだ こんな生臭さか!」と怒り、 修行僧を追い出し、庵も焼き払ってしまった。 さて「婆さんの真意はいかに」というもの』 私なら、何故私を気に入ったかを聞いて顔や身体です、とか言われたら返事を翌日まで保留にして、そのまま旅に出ます。 性根や内面が気に入った、とか言われたら、一緒に出家しようと誘います。 片方が顔や身体を気に入って、もう片方の人が内面とか言われたら内面が良いと言ってきた人を出家に誘って、庵を出ていきます。 皆様はどんな解釈や回答になりますか? (作麼生・説破の使い方が違うのはお許しください)
皆様のご意見を頂きたく、ご相談させて下さい。 私は毎日1日中希死念慮と自己嫌悪に苛まれています。生きている事が辛い筈なのに死ぬ勇気がありません。 1度だけ辛すぎて自殺しようとしましたが出来ませんでした。 両親には迷惑ばかりかけて苦しめています。 細やかでも平穏に暮らしたいのですが自己肯定感が全くなく、自分で自分を苦しめているような状態です。 簡単に自殺する方法を調べてばかりですが出来ません。 無駄な命は無いとは言いますが、私は存在価値がない最低な人間です。 どうしたらいいかご教示頂けたら幸いです。何卒お願い致します。
初めて相談します。先日若い俳優さんが亡くなりました。特別なファンではなかったのですが、何気なく彼の作品を見ているうちに、その演技力や人間性、魅力的な容姿や雰囲気に心を動かされ、彼に関する記事なども読むようになりました。 よく大切な人を亡くした方の話を聞いたりすると、もっと何か出来たのではないか、その死を防げたのでは…などと皆さんお話されますが、これまでは自分も果たしてそんな気持ちになるものなのだろうかと考えていました。 今回の俳優さんの死に触れて、身内でも関係者でもなく、見ず知らずの会った事もない自分がそんな気持ちになり悲しくなるのが不思議でなりません。 同じ様な世代の若い俳優さんを見ると、これからまだまだ輝き続けて素敵な未来があり歳を重ねていけたであろう彼を思い悔しく悲しい気持ちになります。 素晴らしい才能だけではなく、たゆまぬ努力を続けて頑張っていた彼の人生はどんな意味があったのか、などと思いを巡らせてしまいます。なかなかそこから抜け出せずにいます。 華々しい活躍の裏にはいろいろな現実があり、一般人には知る由もありませんが芸能人の宿命なのか、ある事ない事の憶測記事を書かれても、もう否定も肯定も出来ません。その死の真相も作りあげられてしまうのかも知れません。 考えると辛くて早く忘れたいと思う反面こんなに思っている自分もいつかは忘れてしまうのかも知れないと思う悲しさと複雑な気持ちになります。 同じ様な気持ちになっている方は沢山いるのでしょう。なかなか受け止めきれません。 彼の魂は今、安らかなのでしょうか。 皆さんの思いは彼に伝わるのでしょうか。巡り巡ってまた会えるのでしょうか。 何だか今まで思いもしなかった不思議な事を考えてしまいますが、お坊さんの観点からの気持ちの持ち方や受け止め方を教えて頂けたらと思います。
何と感謝したらいいか分からないです 言葉になりません。何といえばいいのか! たった今、坐禅会から帰ってきて一分程度です 山は山でなく川は川ではない。山は山であり川は川である 言葉遊びの頭遊びも終わってしまったが、終わらない! 5歳の頃から死が恐ろしくて夜中泣いていました それからスピリチュアルやら他宗教やらあれこれ手を出して クリシュナムルティやらラマナ・マハリシ等の教えを学んで 色々ありました 今と同じように歓喜に包まれて、世界と一体に感じるようなことがあった しかし死んだらどうなるのか?輪廻に対する恐怖は残っていました どんなに感謝したらいいのだろう?どうしよう?涙が止まらない 何と素晴らしいだろう!すごい! それから仏教を学び、原始だの上座部やら大乗などのあれこれの知識を蓄えたり、そんなことやそんなことしてました 僕はこれから怯えて怯えなくてもいいんですね 22歳これから、笑って泣いてでも憂いがなく生きていける 仏教に出会って本当に良かった 何と感謝したらよいのか 輪廻があるのかないのかに怯えなくてよくなった! 歓喜の中を生きている どこに終わりだと線を引けるでしょうか?死であって死でなく、 死ぬでしょう!何のことない! 何と感謝したらいいのか?感謝を書き込まずにはいられなかったのです 悩み只々あり! 悩みは悩みでしょう!ありがたいこともありがたいんでしょう! 聖と凡を超えてただあったのだ。頭遊びは終わったが続くでしょう! 大乗万歳!ひゃっほーう! あらゆる規定から外れて規定を生きていくのだろう 秋の虫が鳴いている。秋の虫が鳴いている! 私は私に非ず。私は私。悟っただの境涯がどうだのもういわないでしょう! どのような教えや大魔神が来ても驚いて怖がって秋の虫が鳴くでしょう! 何の問題もただ在るだけ この社会にあって社会から外れ、社会にあって社会に生きていく! なんと感謝したらいいのか もうあらゆるモノを問題にせず問題の中、生きていくでしょう! 音声が響いております。ただ音声なんの不随も出来ないし作為無し! こういった歓喜を取り上げて特別な体験である!と祭り上げることもない 自惚れる私は私でなくて私です。こんばんわ! こうやって歓喜がさもありがたいように、素晴らしいように書いてすいません。特別なことないですがどうしてもお坊さん方に伝えたかった 推敲無し!
何回もすいません。今回は友人について。 「どうも違うようです。その2」のお礼の項目でお話しした友人(結局一人ぼっちになり、孤独死した父を持つ)に、ハスノハを紹介しました。お坊さんの言葉にふれ、様々な問題に葛藤している人々がいるのだと知ってもらおうと思い、また考え方が堂々巡りになった時の支えとして紹介したつもりでした。ところが、不倫に苦しむ家族の相談が余りに多い事に烈火の如く怒り狂い、今まで聞いたことも無い汚い言葉で喚き始めたのです。 「どいつもこいつも!!不倫オヤジはみんなまとめて孤独死すればいいのよ。何が男の生理だ!裏切り者に変わりねえだろうが!!何がラブストーリーだ!ただの不倫を美しい言葉で飾るんじゃねえ!!こういう奴こそ晒し者にしてえ!!そして何もかも失ってうちのオヤジのように汚いアパートで孤独死してしまえ!うじ虫とダニの餌食になっちまえ!!お前らなんか、ただの汚い精液タンクだ!!この日本の恥さらし!!妻は許しても子供は許さねえからな!!実の子供に刺されちまえ!!」 あまりの凄まじさに、どうしていいのかわかりません。 彼女の父親は、お礼にも書いた通り因果応報な死に様でした。まだ無縁仏で、彼女も、彼女の母親や兄弟も、今だ引き取り弔おうとは思えないとのこと。余程酷い仕打ちを受けたのでしょう。 この酷い荒れようを、彼女の夫や子供には見せたくないので、近所の24時間営業のカフェに連れていき、話を聞いています。 彼女の夫も私の夫同様、家庭を持つ資格のある愛情深い人です。 夫婦仲も良く、唯一の問題が夜の生活です。父親の身勝手は彼女の性生活にも暗い影を落としています。 彼女の夫は、家庭の事情を知っていて、「受け入れて、子供を産んでくれただけでも彼女の精一杯の愛情表現だと思っている。」と言ってくれています。 しかし、見たこともない父親のクソ不倫のせいで、家庭を持つ資格のある男性が割を食うのは理不尽です。 私達が恨みを手放せば済むのは百も承知で、どうか、彼女に、言葉をかけてあげてください。 お願いします。